Twitterとは何なのか?(Lingrの死をきっかけにして考える)
あーもう140文字以上の出力が大変になってきた!Aobaです。
さて、最近本当にやっとTwitterが面白くなってきた。それと時を同じくしてLingrが死んだ。この二つの出来事をきっかけに、個人的に考えたことをここに記録しておきたい。
Lingrのリアルタイムと、Twitterのリアルタイム
Lingrの江島氏は、2006年9月(創業の頃)に下記のように語っている。
Lingrは「は?それだけ?」というぐらい、ようするにチャットなのですが、その背景にあるビジョンは「ウェブはリアルタイムへと向かう」という信念です。
他方、Twitter開発者であるWilliams氏も2007年11月に下記のように語っている。
「Twitterとはどんなサービスなのか」という質問に、「Micro brogging(マイクロブロギング)」と回答。なかでもリアルタイム性、「いま何が起きているか」を把握できることが重要と説明する。
どちらもリアルタイムな情報に重きを置いていることがわかる*1。
Lingrは*2ブラウザで使えるリアルタイムなチャットになった。Twitterは、1回の投稿が140文字という制限がある「Micro Blogging」になった。
両者の目指しているものは似てる?いや、全くの別物である。
話題ベースか、人間ベースか
Lingrでは話題ごとにチャットルームを作る。この構造が、彼らが考えるリアルタイムを表している。
つまり、Lingrのリアルタイムは話題ありきなのだ。
チャットルームは日常(無意識の活動の連続)に近いものではなく、限りなく意識的な、取捨選択された表現を出力する空間になる。目的別に分割されたリアルタイム。言い方を変えると、合目的的なリアルタイム。これがLingrが考えるリアルタイムの姿だ(システムの制約から想像した勝手な解釈ですけどね)。
他方、Twitterは個人ごとに自分固有のTimeLine(BLOGのように時系列に情報を溜めておく場所)が存在する。自分の投稿(つぶやき、POST)は自身のTimeLineに集約されるため、誰からも制限を受けないし、何を投稿しても良い*3。そしてそれを誰かが読むのも自由。読まないのも自由。
Twitterのリアルタイムは人間ありきなのだ。
その証拠(?)に、TwitterにはTag付けやCommunity的な機能は一切無い*4。Twitterにあるのは、その時々でTimeLineを流れてくる断片的な情報によって繋がる緩やかなクラスタだけだ。クラスタといっても、そういうグループ分けが論理的にあるわけではなく、単に複数の人が似た話題について投稿しているだけである。
個人のリアルタイムとは何なのか?
リアルタイムというのは、今の自分の日常のすべてだ。それは、
- 今の場所
- 今の行動
- なんらかの思考
主にこの3種類で構成されている。
思考にだけ「なんらかの」という表現が付いているのは何故か?
頭の中では、瞬間ごとに種種雑多な思考が無意識に浮かんでは消えているから。思考の移り変わりには多少の関連があるものの、全く関連のない物事へ飛び火することも少なくない。(それは意識的な活動ではないので、思考が飛び火する感覚ついてあまり考えたことがない人も多いかもしれない。)
よって、もしリアルタイムな情報を集めたいなら、今の場所や今の行動を出力し易いツールや場を提供すること。さらに、この種種雑多で断片的な思考、つまり無意識に近い活動を外部に吐き出し易いツールや場を提供することが肝要だろう。
で、その点Twitterはどうかというと、投稿欄の上部に「いまなにしてる?」という記述がある通り、
- 今の場所
- 今の行動
これらをオープンに発信する場としてサービスを開始している。
だが、その利用され方は開発者たちの思惑を超えて広がった(と私は見ている)。ユーザー達はTwitterにある『小さな文章を出力する敷居の低さ』に慣れてくると、今度はTwitterの上で断片的な思考を吐き出し始めた。それはまあ大袈裟かもしれないが、
- なんらかの思考(無意識の活動に近いもの)
を集約し始めていると言えそうだ。
Twitterは、各個人のリアルタイムの傍らに寄り添うことに成功したのだ。…ということを、今日もTwitterで実感している。
各個人のリアルタイムを集めて起こったこと
Twitterの上では一体何が起こっているか?
今から書くことは、実際に自分でTwitterを使って、その楽しさに気づかないとイメージできないことばかりだと思う。なぜかと言うと、
- 自分がそうだったから
いやー恥ずかしながら、私も最初はTwitterの面白さが全然判らなかったんだよね。使い始めてもまだ判らなかった。しばらーく使ってみて、だんだん楽しく思えてきた頃に、ようやくTwitterの凄さが見えてきた。そういう具合なもんで。(新しい概念を受け入れるのが難しくなってきたのかもしれない。歳かもな。)
私見だが、大きく分けて3つある。
- リアルタイムの発信と観測により生身の個人の交流が広がった
- 情報だけでなく、感情まで伝播する媒体になった
- 生身の人間版のGoogleになった
長くなるが、それぞれ解説してみたい。
1.リアルタイムの発信と観測により生身の個人の交流が広がった
今どこにいて、今何をして、今何を考えているか。
この情報をオープンにすることによって、発信された「場所」や「行動」や「思考」と関係のある人が自然と繋がるようになった。
ただし、その繋がりは何らかのグループに所属することを意味しない。あくまでも各個人のリアルタイムが別々に存在するだけだ。そして、Twitterでは、自分が興味を惹かれた人のリアルタイムを勝手に集めて*6、自分専用のリアルタイム情報ストリーム(TimeLine、自分が眺める専用の川の流れのようなもの)を作ることができる。
自分のリアルタイムを発信すること。加えて、自分が興味のある(他人の)リアルタイムを集めること。Twitterの人間同士の繋がりは、このようにして緩やかに広がっていく。SNSのように両思いであることを前提とせず、Chatのように話題を限定せず、またオープンだからこそ自然と広がっていく情報の交流、いや、個人の交流がそこに生まれている。
2.情報だけでなく、感情まで伝播する媒体になった
ある日TimeLineを眺めていると、他人の感情が伝わってくることに気づいた。
1つの投稿(POST)はどれもかなりの短文である*7。それなのにハッキリと伝わってくる。うわあ、この人今日はイライラしてるなーとか、今日はご機嫌だなーというのがTimeLineから感じ取れるのだ。
で、判った。リアルタイムに寄り添うというのはそういうことなんだと。
もし人間の無意識の活動をすべて出力したとすれば、それは「誰かの何かに役立つ情報」よりも「今の気分や感情」の方が色濃く出るはずである。140文字という制約によって、そしてAPIの提供と各種Clientの充実によって、情報を頭の外に出力する困難さを取り払うことに成功したTwitterは、今や人間の無意識の活動により近い感情を伝播する媒体になりつつあるのだと推測する。
こんな心温まるエピソードがある。
UCバークレーの学生がエジプトでのデモ抗議をカメラで撮影する活動をしていて、エジプトの警察に逮捕された。「タイホされた!」という彼のつぶやき(引用者注:Twitter上のPOST)に反応し、フォロワーが、学部長を呼び、学部長が弁護士を呼んだり、とサポート活動が自然に起こったおかげで、「逮捕された!」のつぶやきの2時間後には「自由の身だ」のつぶやきが!
Twitterは人のリアルタイム、つまり情報と感情を伝播する場になっている。そして、感情が伝わるようになると、リアルタイムを通して見るその人を、自分と関係のある存在と見なすことができるようになる。結果的にTwitter上にはHumanityが発生することになるだろう。
余談だけど、私がFollowしてる女性が深夜に「親と喧嘩した!家出する!」って言ったときは、そりゃもうすごい騒動だったな。いまどこだとか、家を貸すぞとか、お金はあるかとか、車出すぞとか。まあ狼さんたちのPOSTも多かっただろうけど、なんかもう皆して「助けるぞ!」という具合なのであった。すごいねTwitter。
3.生身の人間版のGoogleになった
浅いレベルでは「○○がわからん」とPOSTすると、そのPOSTを見た人から「こーすればできるよ」という回答っぽいつぶやきを貰えることがある、という話。
もう少し深いレベルでは、Twitterに参加する生身の人間全員が、現実世界のCrawlerとして活動してるんだよな、という概念のようなこと。具体的には、都心の電車の人身事故はすぐに分かるし、どこかで大きな地震があってもすぐに分かる。どこで何が流行ってるのかも推測できる。それは既存の報道より、Googleのエントリー補足より断然早いね、という話。
さらに深いレベルでは、Googleのやり方では評価できなかった「自分個人にとって価値のある情報」を発見できるようになったこと。Twitter上では誰かの断片的なつぶやきが、私に影響を与えることがある。それは一般の人にとって価値のある情報ではないが、今の自分にとっては非常に価値のある情報と見なせる。そういうものを自分の意思によって掬い上げることができるようになった、という話。