シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

 人間関係の幅を広げる余地があればあるほど、新しい人とコミュニケーションをとらなければならない確率があがればあがるほど、汎用性の高いコミュニケーションスタイルなり、コミュニケーションデバイス*1が要請されるというのも自然なことだ。任意のコミュニケーションにおいて十分な疎通と満足のいく結果を得る期待値を最大化させるには、なるべく多くの他人に理解され許容され得るスタイルやデバイスや技能をプレゼントすることが要求される。それが不得手な個人は、任意のコミュニケーションにおいて成功する期待値が下がってしまうだろう。少なくとも、最低限の水準がなければ期待値が大幅に下がってしまうのは避けられない。
 
 これが特定の個人に好かれる(一般的な男女交際も含む)とか、特定の文化集団(アニオタ、囲碁仲間、町内会とか)に好かれる為であれば、コミュニケーションスキル/スペックは汎用型よりも特化型のほうが成果をあげやすいかもしれない。だが、幅広い人間関係を構築せざるを得ない場合や、志向している場合(脱オタ中のオタクとか)、特化型の人は、汎用型のスキルやスペックを獲得しなければ特化の枠組みから逃れることができなくなってしまう。例えば、プライベートでは同人オタとして特化し、仕事ではコンピュータプログラミングに特化尽くしたコミュニケーションスキル/スペックの三十代の男性が、何かの機会で女性とコミュニケーションをとろうと思った場合、(余程特殊な個人と付き合いたいとかいった例外を除けば)特化型であるが故に上手く対応できずに終わってしまう可能性が高い。コミュニケーションの期待値はゼロに限りなく等しいことだろう。彼がもし脱オタして女の子と仲良くなろうとか考え始めた場合などは、期待値上昇のためにはコミュニケーションのスタイルやデバイスに汎用性の高さを要求される。同人オタ&コンピュータ技師として特化したやり方のままでは駄目だし、それしか出来ないなら(歯軋りしながらでも構わないので)諦めるしかないだろう。
  
 特化型のコミュニケーションスタイルをとった人というのは、それを選択した理由か、それを選択せざるを得なかった原因が背景にあったのだろうと推測される。だがその由来がどうであれ、汎用性の高い振る舞いを身に着けられなかった個人は、自分の特化したコミュニケーションの対象以外との疎通*2で摩擦や失敗を生じやすくなるという事実は変えようもなく、広汎な対象と円滑なコミュニケーションが要請される状況下では、汎用型のコミュニケーションスキル/スペックを身に着けている人に比べると情報収集力や政治力などをかき集める面で不利になる。特化の仕方次第では、配偶や転勤といったライフイベントにすら影響が及ぶかもしれない*3
 

*1:話題や趣味も含めて

*2:あるいは自分の属している文化圏以外との疎通

*3:影響はおろか、不可能になってしまうこともある。配偶はともかく、転勤や異動や転居が駄目っていうのは大きな適応上の問題になりやすかろう。

要は、男女情報戦におけるパッシブスキルということですよ、ファッションは。

 ファッション、目線、万人を喜ばせそうな諸要素といった汎用性の高いコミュニケーションスキル/スペックは、それらだけでは特定の女性を射抜く金の矢とはなり得ない。だが、あらゆる女性に対する命中確率に何パーセントかのボーナス修正をもたらしてくれる。このボーナス修正の恩恵をどれぐらい欲しているのかや、どれぐらい有効性を認識しているのかによって、その人の対異性ファッションの投資比率(額、ではなく比率)はおおむね決定される。
 
 ※注:ボーナス修正が1%なのか10%なのかといった実際の効能の多寡は、比率決断にはあまり影響しないかも。
 

 
 ああそうだ、同じ人間が相手でも、Aタイプの接し方なら可能だけどBタイプの接し方はNGとかってのも、特化の兆候と言える。これを付け加えておかないといけないなぁ。教師として他人に接するのは上手でも、プライベートでは全然とかってのも汎用性の乏しさを指摘されて然るべきだろうし。
 
 もちろん、付き合う相手だけじゃなくて付き合い方においても特化したスタイルが即不適応というわけではなく、場面場面ではむしろ特化型のほうが高水準の適応が可能になる可能性には注意。ましてや善悪というモノサシで測定するのは大いに間違っているといえる。
 
 ただ、特化型の人達の個人の人生のなかで、様々な局面に対応していくのが大変なんだろうなっていう推測ぐらいは出来るとは思う。まるで天才のような生き方を達成できるのでない限り。