大高重成(?~?[1])とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
概要
高一族の庶流、南氏(高南氏)のさらに庶流・大高重長の子であり、南宗継は従兄弟、高師直兄弟らは又従兄弟にあたるらしい。
彼もまた他の高一族と同じく、足利高氏の鎌倉幕府離反の際に行動を共にしており、『太平記』ではその怪力自慢を紹介されている。建武政権下になると伊予権守を拝領するが、中先代の乱から足利尊氏の建武政権からの離反に付き従い、矢作川の戦い、西宮合戦、多々良浜の戦い、糟屋合戦、西坂本の戦いに従軍している。
室町幕府が成立すると足利直義の側近として活動し、文書を発給している。また若狭守護のリレーにも加わり斯波家兼、佐々木道誉、桃井直常に続いて選ばれ、隣国越前対策に頻繁に交替する同国守護に南朝軍への対抗としておかれた。その後あっさり斯波氏頼に交代したものの、斯波高経を経て、二度目の若狭守護に任じられ、さらに別人を経て、1344年に三度目の就任を経ている。
南北朝という内乱のため守護人事は実力主義だったこと、また軍事・経済的中心地である若狭を任されたことから、彼の実力がうかがえなくもない。そして、1348年に山名時氏と交代するまで比較的長期にわたって務めることとなった。
一方中央では小侍所頭人を務めており、1346年ごろに高師幸の子で、高師泰の養子である高師秀に交代するまで、こちらも長期にわたって務めている。
また文化人としても仏教書である『夢中問答集』を刊行しており、夢窓疎石に深く帰依し、重成の深い知識や鋭い感性をうかがうことができる。
そして観応の擾乱では当然数少ない高一族の直義派となり、失敗したものの高師直と高師泰の暗殺実行犯にその怪力で任されている。しかしそれ以降の観応の擾乱での彼の活動をうかがい知れることはなく、側近として直義にそば仕えしていたのではと思われる。
しかし直義派の引付方と足利義詮の御前沙汰発足による対立の中で、若狭守護に再任されなかったことをきっかけにしたのか、次第に尊氏派へと接近する。そしてその結果尊氏派として4度目の若狭守護に就任し、以後たびたび南朝方についた旧直義派との戦いに参戦している。中央の行政においても5人の引付頭人の一人となり、また禅律頭人にも任じられている。
こうして文武双方で活動した彼だったが、晩年は出家し、どうも寂しい晩年を過ごしたようである。子である大高成氏、大高重直ら彼の子孫は以降関東で活動したため、どうやら東国に隠居したようだ。
関連商品
関連項目
脚注
- 0
- 0pt