大高重成単語

オオタカシゲナリ
1.1千文字の記事
  • 0
  • 0pt
掲示板へ

大高重成(?[1])とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。

概要

高一族の庶流、南氏(高南氏)のさらに庶流・大高重長の子であり、南宗継従兄弟高師直兄弟らは又従兄弟にあたるらしい。

彼もまた他の高一族と同じく、足利高氏鎌倉幕府離反の際に行動を共にしており、『太平記』ではその怪力自慢を紹介されている。建武政権下になると伊予権守を拝領するが、中先代の乱から足利尊氏建武政権からの離反に付き従い、矢作の戦い、西宮合戦、多々良の戦い、糟屋合戦、西坂本の戦いに従軍している。

室町幕府が成立すると足利直義の側近として活動し、文書を発給している。また若狭守護のリレーにも加わり斯波兼、佐々木道誉桃井直常に続いて選ばれ、隣越前対策に頻繁に交替する同守護に南軍への対抗としておかれた。その後あっさり斯波氏頼に交代したものの、斯波高経を経て、二度の若狭守護に任じられ、さらに別人を経て、1344年に三度の就任を経ている。
南北朝という内乱のため守護人事は実義だったこと、また軍事経済的中心地である若狭を任されたことから、彼の実がうかがえなくもない。そして、1348年に山名時氏と交代するまで較的長期にわたって務めることとなった。

一方中央では小所頭人を務めており、1346年ごろに高師幸の子で、高師泰の養子である高師秀に交代するまで、こちらも長期にわたって務めている。

また文化人としても仏教書である『問答集』を刊行しており、疎石に深く帰依し、重成の深い知識や鋭い感性をうかがうことができる。

そして観応の擾乱では当然数少ない高一族の直義となり、失敗したものの高師直高師泰の暗殺実行犯にその怪力で任されている。しかしそれ以降の観応の擾乱での彼の活動をうかがい知れることはなく、側近として直義にそば仕えしていたのではと思われる。

しかし直義の引付方と足利義詮の御前沙汰発足による対立の中で、若狭守護に再任されなかったことをきっかけにしたのか、次第に尊氏へと接近する。そしてその結果尊氏として4度の若狭守護に就任し、以後たびたび南方についた旧直義との戦いに参戦している。中央の行政においても5人の引付頭人の一人となり、また頭人にも任じられている。

こうして文武双方で活動した彼だったが、晩年は出し、どうも寂しい晩年を過ごしたようである。子である大高成氏、大高重直ら彼の子孫は以降関東で活動したため、どうやら東に隠居したようだ。

関連商品

関連項目

脚注

  1. *1362年とされてきたが1375年にまだ存命だった史料が残っている

【スポンサーリンク】

  • 0
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

イグ (単) 記事と一緒に動画もおすすめ!
提供: 66 「Kqam Ttn'nne Ia Kqam Utnn !」
もっと見る

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

大高重成

まだ掲示板に書き込みがありません…以下のようなことを書き込んでもらえると嬉しいでーす!

  • 記事を編集した人の応援(応援されると喜びます)
  • 記事に追加して欲しい動画・商品・記述についての情報提供(具体的だと嬉しいです)
  • 大高重成についての雑談(ダラダラとゆるい感じで)

書き込みを行うには、ニコニコのアカウントが必要です!