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塗壁

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塗壁(ぬりかべ)は、日本福岡県遠賀郡(旧・筑前国遠賀郡)の海岸地方に伝えられる妖怪の一種。夜道で人間の歩行を阻む、姿の見えないのような妖怪といわれる[1]

概要

夜道を歩いていると、目の前が突如として目に見えない壁となり、前へ進めなくなってしまうというもの。壁の横をすり抜けようとしても、左右にどこまでも壁が続いており、よけて進むこともできない。蹴飛ばしたり、上の方を払ったりしてもどうにもならないが、棒で下の方を払えば壁は消えるという[1][2]

文献における初出は、1938年(昭和13年)に発行された「民間伝承の会」(現・日本民俗学会)の機関誌『民間伝承』第37号に民俗学者・柳田國男が寄稿したものとされ[3]、柳田が著書『妖怪談義』で「ヌリカベ」を記載して以来、塗壁の伝承が世間に知られ始めた[4]

郷土史誌では、1968年(昭和43年)の大分県臼杵市の『臼杵史談』や、1986年(昭和61年)の同県の『大分県史 民俗篇』において、歩行中に突然目の前が見えなくなる怪異が同県内各地に「狸の塗り壁」の名で伝わっており、香々地町(現・豊後高田市)では「イタチの塗り壁」とされる。タヌキ陰嚢をいっぱいに広げて夜道を往く人の視界を塞いでいるので、その場に座り込んで煙草に火をつけて一服するとこの怪異を避けられるという[3]

また、大分県南海部郡(現・大分県佐伯市)に伝わる民話によれば、塗壁は七曲りという坂道に小豆とぎと共に現れる怪物で、夜に歩いている最中に急に目の前が真っ暗になるものだという。正体はタヌキであり、人が着ている着物の後ろの帯の結び目にタヌキが乗り、両手で人の目を塞いで視界を奪うので、帯を前に結ぶとこの怪異を避けられるといわれる[5]

妖怪画

米国・ブリガムヤング大学のハロルド・B・リー図書館が所蔵する妖怪絵巻より、「ぬりかべ」の名が記された妖怪画。
参考:『稲亭物怪録』より、『稲生物怪録』にある壁の怪異[6]

塗壁の姿は、漫画家・水木しげるが妖怪画や漫画『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラクターとして提供する塗壁の、目と手足を持つ巨大な壁のような姿が一般化しているが(#現代的大衆文化と塗壁にある画像を参照)、これはあくまで伝承を元にした創作キャラクターであり、古典の画図に姿を描いたものは近年まで発見されていなかった[3][7]

しかし2007年平成19年)8月、川崎市市民ミュージアムの学芸室長・湯本豪一の所有する妖怪絵巻の妖怪画が、塗壁を描いたものとして発表された。本来この妖怪画は絵のみで名前が記されておらず、何を描いたものか不明であったが、2007年(平成19年)1月、アメリカ合衆国ユタ州にあるブリガムヤング大学のハロルド・B・リー図書館に寄贈されている妖怪画(L・トミー・ペリー・コレクションの一つ。画像参照)と一致し、後者に「ぬりかべ」と名があることから、これが「塗壁」の名の妖怪を描いたものと判明したものである。同画は3つ目の獅子のような姿の妖怪が描かれており、奥書には1802年(享和2年)に絵師・狩野由信が室町時代の絵などを参考に制作したものとあり、学習院大学名誉教授・諏訪春雄も、紙の質や保存状態から江戸時代末期までに制作されたものと推定している[7][8]

文献上での塗壁の名の初出は、前述のように昭和期の柳田國男の採取によるものであり、それ以前に塗壁の名を収めた文献が確認されていなかったことから、塗壁の伝承は昭和以降に生じたものと考えられていたが[8][9][10]、絵巻の発表により、一部のメディアでは江戸時代の絵巻にすでに塗壁の姿があったものとして発表され、水木も貴重な資料として喜びのコメントを寄せた[7][8]。これ以降に発行された妖怪関連の文献でも、この妖怪画の模写画を塗壁の姿として採用している例がある[11]

しかし、妖怪研究家の京極夏彦多田克己村上健司、この絵巻の発見を朝日新聞上で記事として執筆した同社の記者・加藤修らは、妖怪専門誌『』誌上での座談会において、この絵巻の「ぬりかべ」と伝承上の塗壁が同一のものかどうかは不明と意見している。名前が同じでもまったく別の妖怪は他にも例があることから、偶然に名前が一致したにすぎない無関係の妖怪とする説や、塗壁の名を記した絵巻、もしくはその名称のみが九州に流布し、通行人の目の前が塞がれるという怪異にあてはめられ、民俗語彙として採り入れられたとする可能性も示唆されている[9]。絵巻発表の4年後に湯本が『怪』誌上で同絵巻を取り上げた際にも、絵巻とこの妖怪が同一のものかは未だ特定されていない[3]

江戸時代の妖怪譚『稲生物怪録』に、家の壁に目と口が現れて人を睨むという怪異があり、狩野由信の妖怪画の発見前には、この怪異を塗壁の祖形とする仮説もあった[12]

正体

妖怪研究家・山口敏太郎はあくまで自身の推理とした上で、後述の類話「カベヌリ」の発祥地である臼杵市が漆喰壁の技術に長けた町であることに着目し、塗壁の伝承は江戸時代中期の食料事情の変化と、塗壁の伝承地でかつて発明された油漆喰(撥水加工された壁)の普及に関係しているという説を唱えている。それによれば、人々の口にする米が玄米から白米に替わったことでビタミン不足が起き、ビタミンAの欠乏による夜盲症が目に見えない壁があるかのような感覚を、ビタミンB1の欠乏による脚気が足を前に進ませることのできないような感覚をもたらし、そうした行き止まりの怪異のような身体状態に、油漆喰が水を弾くイメージが加えられて「塗壁」という妖怪が誕生した、とされる[13]

類話

カベヌリ
1967年(昭和42年)には、民俗学者・丸山学により「カベヌリ」という妖怪の伝承が報告されている。丸山の報告内容には伝承地の記載が無いが、大分県臼杵市で妖怪による町の振興を行う臼杵ミワリークラブの調査によれば、カベヌリは同市に伝承が残っているものであり、観光用に絵葉書まで売られているほど有名なものとされる。
1978年(昭和53年)の臼杵市教育委員会の民俗資料によれば、前述の『臼杵史談』などにある「塗り壁」と同様、タヌキやキツネが陰嚢で人の視界を阻む怪異を「カベヌリ」としている。大分県内にはカベヌリではなく塗壁の伝承も多いことから、山口敏太郎は、カベヌリは塗壁と似て非なる妖怪なのではなく、単に名前が変化して伝承したのみと述べている[13]
水木しげるの、ラバウルの体験
水木しげるは著書において、第二次世界大戦での従軍中に南方のラバウルで塗壁と同じものに遭遇した体験談を語っている。敵軍に襲われ、仲間とはぐれて深い森をひとりで逃げ惑っているうちに、コールタールを固めたようなものが前方に立ち塞がって行く手を阻まれ、右も左もその壁に囲まれて身動きできない。途方に暮れているうちに、疲労から数十分休んでいると、この壁は消えたという[14][15]
ヌリボウ(塗坊)
壱岐国壱岐島(現・長崎県壱岐市)では、夜の山道で山側から突き出してくるといわれる[16]
柳田國男はこれを塗壁に似たものとしているものの[1]、原典ではどのような形態のものかは述べられておらず、何を根拠として塗壁と同類とされているのかは不明[3][17]。路上に出現する怪異であること、名称が似ていることから塗壁の類話とされたとの説もある[17]。昭和・平成以降の妖怪関連の文献では、灰色の化け物であり、棒で叩くか、路傍の石などに腰をかけて一服しているとじきに消え去るなどとの解釈もある[2]1973年(昭和48年)刊行の『宮城県史』21巻では筑前遠賀郡および壱岐島の妖怪「ヌリカベ(ヌリボウ)」として同一視されている[3]
道塞ぎ(みちふさぎ)[15]
1957年(昭和32年)の夏の日の夕暮れに、新潟県長野県の県境に位置する苗場山で、ある老人が遭遇したという怪異。釣りの帰り道に突如、見たこともない大滝が現れて行く手を阻まれ、後方には見たこともないマツの大樹と、見上げるような大岩が現れ、そのまま滝と岩が自分へ迫ってきて身動きできなくなってしまったという。老人はその場で一夜を過ごす羽目になったが、夜が明けると共にこの怪異は消え去ったという[18][19]
野襖(のぶすま)
高知県幡多郡の妖怪。夜、道を歩いている人の行く手に襖のような壁ができ、上下左右どこまでも際限なく壁が続いており、野襖だと気づいた者は途端に気絶してしまう。これに立ちふさがれたときには、落ち着いて煙草でもふかしていると、自然に消えるという[20]
越前国石徹白村(現・岐阜県郡上市福井県大野市)にも、名称はないものの、タヌキが道にをはって通行人の行く手をふさぐという同様の怪異が伝わっている[21]
シマーブー
鹿児島県奄美群島喜界島に伝わる妖怪。 夜道を歩いていると、目の前に枝を広げたのようなものが急に現れ、道を塞ぐという[22]
青木ヶ原樹海の見えない壁
霊能者宗優子によると、テレビ番組の撮影で青木ヶ原樹海に入った際、制作スタッフたちの前に壁のようなものが立ちはだかったといい、樹海での自殺者たちがこれ以上進まぬようにと壁を作ったのではないかと語っている[23]

このほかにも、路上に出現して通行人の歩行を阻む妖怪に、衝立狸蚊帳吊り狸がある[2]。詳細はそれぞれの内部リンク先を参照。

現代的大衆文化と塗壁

水木しげるロードの塗壁ブロンズ像

水木しげるの漫画ゲゲゲの鬼太郎』(1960年代初出)では、主人公・鬼太郎の仲間として登場する(詳細は別項「ぬりかべ (ゲゲゲの鬼太郎)」を参照)。本来の塗壁の伝承は一部の地方に限定されていることから、かつては比較的無名な妖怪であったが、『ゲゲゲの鬼太郎』シリーズでの活躍を通じて一躍、名が知られることとなり[4][8]。インパクトある巨体と大らかな性格で活躍する同作の効果で人気も向上し、「好きな妖怪ランキング」では常に上位にランキングされている[24]。『ゲゲゲの鬼太郎』でのぬりかべが、相手を自分の胴の中に塗り込める能力を持っていることから、平成以降の妖怪関連の文献でも、塗壁は自分の体の中になんでも塗り込めると解説されていることもある[11]

2004年(平成16年)発表のSF小説およびアニメ作品『ぺとぺとさん』では、塗壁は妖怪の美少女姉妹「ぬりかべ姉妹」として描かれている。平成以降に多くなった、以前のような妖怪退治ではない、人間と妖怪との共存に主点を置いた作品の一例であり、妖怪のような異形がキャラクター文化として成立した一例とも考えられている[25]

忍者戦隊カクレンジャー』『仮面ライダー響鬼』などの特撮ヒーロー作品では、主人公たちの敵キャラクター(怪人)として登場しており、本来の伝承を元にしながらも、外見や性格などに独自の味付けをされ、番組内容を盛り立てることに一役買っている[13]

脚注

  1. ^ a b c 柳田 1956, p. 206
  2. ^ a b c 多田 1990, pp. 104–106
  3. ^ a b c d e f 湯本他 2011, p. 262
  4. ^ a b 山口 2007a, pp. 11–16
  5. ^ 加来宣幸・土屋北彦編 編『日本の民話』 36巻、未來社、1979年、413-414頁。 NCID BN01286946 
  6. ^ 杉本好伸編 編『稲生物怪録絵巻集成』国書刊行会、2004年、266頁。ISBN 978-4-336-04635-2 
  7. ^ a b c “ゲゲゲの「ぬりかべ」、こんな姿? 江戸期の絵巻に登場”. asahi.com(朝日新聞速報ニュースサイト) (朝日新聞社). (2007年8月7日). http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200708040127.html 2008年4月15日閲覧。 
  8. ^ a b c d 京極他 2008, p. 12
  9. ^ a b 京極他 2008, p. 122
  10. ^ 京極夏彦『妖怪の理 妖怪の檻』角川書店〈KWAI BOOKS〉、2007年、472-475頁。ISBN 978-4-04-883984-6 
  11. ^ a b 妖怪ドットコム 2008, p. 94
  12. ^ 中村友紀夫他編 編『妖怪の本 異界の闇に蠢く百鬼夜行の伝説』学習研究社〈New sight mook〉、1999年、105頁。ISBN 978-4-05-602048-9 
  13. ^ a b c 山口 2007b, pp. 182–184
  14. ^ 水木しげる『図説 日本妖怪大全』講談社講談社+α文庫〉、1994年、337頁。ISBN 978-4-06-256049-8 
  15. ^ a b 千葉 1991, pp. 110–111
  16. ^ 山口麻太郎 著「続壱岐島方言集」、和歌森太郎編 編『山口麻太郎著作集』 第2巻、佼成出版社、1975年、232頁。 NCID BN02350916 
  17. ^ a b 化野燐 (2001年6月25日). “「ヌリボー」の増殖と変容”. 妖異博物誌. 妖怪.org(化野燐公式サイト). 2008年7月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年5月29日閲覧。
  18. ^ 大塚安子他 著、山村民俗の会編 編『山の怪奇・百物語』エンタプライズ〈シリーズ山と民俗〉、1989年、129-132頁。ISBN 978-4-7825-2021-5 
  19. ^ 山村民俗の会会員・大塚安子の採録による原典には妖怪の名称はない。「道塞ぎ」の名は後掲『妖怪お化け雑学事典』による。
  20. ^ 中平悦麿「妖怪名彙」『民間伝承』第4巻第2号、民間伝承の会、1938年11月、8頁、NCID AN00236605 
  21. ^ 宮本常一「越前石徹白民俗誌」『宮本常一著作集』 36巻、未來社、1992年、111頁。ISBN 978-4-624-92436-2 
  22. ^ 大藤時彦他 著、民俗学研究所編 編『綜合日本民俗語彙』 第2巻、柳田國男監修、平凡社、1955年、715頁。 NCID BN05729787 
  23. ^ 宗優子 (2005年). “妖怪ぬりかべ やさしい民俗”. 妖怪キッズ. 2012年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年10月4日閲覧。
  24. ^ 宮本幸枝・熊谷あづさ『日本の妖怪の謎と不思議』学習研究社、2007年、17頁。ISBN 978-4-056-04760-8 
  25. ^ 京極夏彦他 著、兵庫県立歴史博物館京都国際マンガミュージアム編 編『図説 妖怪画の系譜』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2009年、134-137頁。ISBN 978-4-309-76125-1 

参考文献

関連項目