東芝堀川町サッカー部
東芝堀川町サッカー部 | ||
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原語表記 | 東芝堀川町サッカー部 | |
呼称 | 東芝 | |
クラブカラー | 赤と黒 | |
創設年 | 1935年 | |
解散年 | 1995年 | |
所属リーグ | 日本サッカーリーグ他 | |
ホームタウン | 神奈川県川崎市 | |
ホームスタジアム | 等々力陸上競技場 | |
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■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
東芝堀川町サッカー部(とうしばほりかわちょうサッカーぶ)は、かつて存在した日本のサッカークラブ。東芝のサッカー部として1935年に創部した。神奈川県川崎市幸区堀川町の東芝川崎事業所[1] に本拠地を置いていた。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)所属の北海道コンサドーレ札幌の前身となったクラブである。
概要
1935年創部。1970年代後半以降、本格的な強化が始まった。1977年に全国社会人サッカー選手権大会優勝。翌1978年に日本サッカーリーグ(JSL)2部昇格、1979年には優勝を果たしJSL1部との入替戦に挑戦するが日産自動車サッカー部に敗れ昇格は果たす事は出来なかった。当時の選手には中村道明(永大産業サッカー部等に所属)がいた。
1980年に「東芝サッカー部」と改称。1981年に大西忠生[2] を監督に迎え、同年にJSLカップ優勝、1982年度にはリーグ2位となり再び入替戦に挑戦するが本田技研工業サッカー部に敗れ今回も1部昇格を果たす事は出来なかった[3]。1987年に高橋武夫[4] が監督に就任、1989年に念願の1部昇格を果たした。
1990年代初頭にはウルグアイ代表のウーゴ・デレオン、ペドロ・ペデルッチや実力派日本人選手の向島建、堀孝史らを擁し、昇格2年目の1990-91シーズンとJSL最後のシーズンとなった翌1991-92シーズンに2シーズン連続で4位に入る成績を収めた。
しかし同サッカー部はJリーグ参加へ名乗りを挙げなかった為、1992年からは実質的な下部リーグであるジャパンフットボールリーグ(旧JFL)への参加となった。1993年度にホルヘ・ルイス・デリー・バルデスの活躍もあってJFLで3位となったものの、Jリーグでのプレーを希望する選手の流出もあってJFLでは中堅クラブの位置に留まっていた。
その後、1990年代半ばに北海道でのプロサッカークラブ誘致活動を受けると、これを承諾。1996年に新しく運営会社「株式会社北海道フットボールクラブ」が設立され[5]、「コンサドーレ札幌」と改称された。ただし、コンサドーレ札幌には東芝の社員選手も何人か在籍することになった。
ユニフォームは当初は上下赤の物を着用していたが、当時チームに在籍していた石崎信弘の発案で、1990-91シーズンから石崎が好きなACミランにあやかり、赤と黒のストライプの物を着用する様になった[6][7]。これはコンサドーレ札幌にも受け継がれている。
なお、東芝は現在、サッカー部のお膝元であった川崎市を本拠地とするJ1・川崎フロンターレの協賛スポンサーとして、ピッチ看板を提供している。
札幌移転後
東芝サッカー部がクラブチーム化して移転した後の1996年、東芝社員による実業団サッカーチームは、川崎残留組のチームが東芝本社海外関係のチームである「東芝レッド・イーグルス」との合併により「東芝サッカー部イーグルス」を結成[8]、これが東芝サッカー部として2代目にあたる。そして2017年まで「東芝イーグルス(Toshiba EGS)」として東京都社会人サッカーリーグに参戦していたが、2018年よりサントリーをスポンサーに迎えて「FCサントリーイーグルス(FC.suntory EGS)」に名称を変更した[9]。その後、FCサントリーイーグルスとなったクラブに残ったメンバーと袂を分かち合ったメンバーによって、3代目東芝サッカー部「東芝FCイーグルス」が結成される[10]。3代目サッカー部は活動拠点を初代サッカー部がホームタウンとした川崎市をホームタウンとし、神奈川県社会人サッカーリーグに参戦して現在に至っている。
なお、2代目サッカー部がサントリーをスポンサーに迎えて東芝のサッカー部としてはなくなった経緯については、FCサントリーイーグルスと東芝FCイーグルスの双方から公に明かされてはいない[11]。
略歴
- 1935年 東芝堀川町サッカー部創部
- 1977年 全国社会人サッカー選手権大会優勝
- 1978年 日本サッカーリーグ2部昇格
- 1979年 日本サッカーリーグ2部優勝
- 1980年 東芝サッカー部に改称
- 1981年 JSLカップ優勝
- 1988/89年 日本サッカーリーグ2部優勝(2回目)
- 1989/90年 日本サッカーリーグ1部昇格
- 1992年 第1回ジャパンフットボールリーグ1部参加
- 1995年 東芝サッカー部として最後のシーズン。1996年からは札幌市に移転しコンサドーレ札幌となる。
タイトル
リーグ戦
カップ戦
- 全国社会人サッカー選手権大会:1回
- 1977年
成績
年度 | 所属 | 順位 | 勝点 | 勝 | 分 | 敗 | 得点 | 失点 | 監督 |
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1976 | 神奈川県1部 | 3位 | 清水曙 | ||||||
1977 | 関東 | 優勝 | 29 | 14 | 1 | 1 | 39 | 7 | |
1978 | JSL2部 | 7位 | 34 | 7 | 2PK勝 2PK敗 | 7 | 20 | 20 | |
1979 | 優勝 | 48 | 10 | 3PK勝 2PK敗 | 3 | 36 | 23 | ||
1980 | 3位 | 22 | 8 | 6 | 4 | 30 | 17 | ||
1981 | 3位 | 25 | 12 | 1 | 5 | 46 | 21 | 大西忠生 | |
1982 | 2位 | 26 | 12 | 2 | 4 | 39 | 16 | ||
1983 | 3位 | 20 | 8 | 4 | 6 | 38 | 23 | ||
1984 | 4位 | 22 | 9 | 4 | 5 | 29 | 25 | ||
1985 | JSL2部・東 | - | 13 | 6 | 1 | 3 | 12 | 7 | |
JSL2部・上位 | 3位 | 10 | 4 | 2 | 4 | 12 | 8 | ||
1986 | JSL2部・東 | - | 23 | 10 | 3 | 1 | 24 | 7 | 清水曙 |
JSL2部・上位 | 5位 | 13 | 4 | 5 | 5 | 12 | 11 | ||
1987 | JSL2部・東 | - | 20 | 8 | 4 | 2 | 20 | 5 | 高橋武夫 |
JSL2部・上位 | 3位 | 18 | 8 | 2 | 4 | 15 | 8 | ||
1988-89 | JSL2部・東 | - | 23 | 9 | 5 | 0 | 38 | 7 | |
JSL2部・上位 | 優勝 | 21 | 8 | 5 | 1 | 20 | 10 | ||
1989-90 | JSL1部 | 9位 | 20 | 4 | 8 | 10 | 20 | 28 | |
1990-91 | 4位 | 32 | 8 | 8 | 6 | 26 | 24 | ||
1991-92 | 4位 | 30 | 7 | 9 | 6 | 26 | 24 | ||
1992 | JFL1部 | 5位 | 23 | 6 | 5 | 7 | 30 | 29 | |
1993 | 3位 | - | 11 (0延長 2PK) |
- | 7 (2延長 0PK) |
42 | 30 | ||
1994 | JFL | 11位 | - | 11 (1延長 0PK) |
- | 19 (4延長 1PK) |
56 | 71 | |
1995 | 8位 | 46 | 15 (1延長 0PK) |
- | 15 (1延長 1PK) |
46 | 55 |
歴代監督
東芝堀川町サッカー部に所属した主な選手
脚注
- ^ JR川崎駅西口に置かれた事業所。2000年に閉鎖され、跡地にはラゾーナ川崎プラザが建設された。
- ^ 元三菱重工業サッカー部所属。後にセレッソ大阪やザスパ草津のフロントとして尽力した。
- ^ 当時の選手には川勝良一、石崎信弘、大石和孝らがいる。
- ^ 古河電気工業サッカー部、東芝等に所属。後にコンサドーレ札幌初代監督を務めた。
- ^ この際に東芝は資本参加は行わず、サッカー部だけの移転となった。ただ、このシーズンのJFL公式プログラムや一部のマスコミ(前期のみ)では「東芝サッカー部」と表記される件があった。またこの年のJFLは本来本拠地とする札幌厚別公園競技場が改修と積雪による休館期間であったため、序盤の2試合を平塚競技場と町田市立陸上競技場で開催した
- ^ 日本経済新聞 2007年7月2日夕刊「駆ける魂」
- ^ J'sGOALニュース |【2009シーズン始動!】 J's GOAL
- ^ 東芝FCイーグルス公式サイト - クラブヒストリー より
- ^ FCサントリーイーグルス公式Facebookアカウント - 基本ページ より
- ^ 東芝本社公式サッカー部として認定されている
- ^ 東芝FCイーグルス公式サイトのクラブヒストリーのページではこの部分について触れられていない。