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一進会

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一進会(いっしんかい、イルチンフェ)は、1904年から1910年まで大韓帝国で活動した政治結社

1904年に李容九宋秉畯らの開化派によって創設された。日清戦争日露戦争の勝利により世界的に影響力を強めつつあった大日本帝国(日本)に注目・接近し、日本政府日本軍の特別の庇護を受けた。日本と大韓帝国の対等な連邦である「韓日合邦(日韓併合とは異なる概念)」実現のために活動した。

当時、大韓帝国では最大の政治結社であり、会員数は公称80万人から100万人[1]。一説には実数は4,000人未満にすぎなかったとの見解もある[2]日韓合邦声明を主謀した内田良平は1905年12月から韓国統監府嘱託、1906年10月から一進会顧問を務めていた[3]が、その内田の1907年4月15日付報告書[4]によると、「一進会支部長等」は「二十三郡十万余名の会員は今や減退して三万余名に過ぎず」と述べたという。また大韓協会の方が優勢だったという資料[5][6][7][8][9]が複数ある。日露戦争をロシア帝国(ロシア)に代表される西欧侵略勢力との決戦とみなし、日韓軍事同盟でロシアの侵略を阻止しようと考えた李容九は、日本に協力し、日本が武器弾薬を北方へ輸送するために鉄道(後の京義線)を建設した際、その工事に無償で参加した一進会員は全部で15万人であったとされ、また北鮮から満州国(満州)へ軍需品を運搬する業務動員された会員は11万5000人で、あわせて約27万人が日露戦争時に一進会として活動したという話も残っている[10][要ページ番号]

日韓併合の目的を達成した一進会は、その後、韓国統監府が朝鮮内の政治的混乱を収拾するために朝鮮の政治結社を全面的に禁止したため、解散費用として十五万円を与えられて他の政治結社と同様に解散したが[11]、一進会を率いた宋秉畯らは朝鮮総督府中枢院顧問となり、合併後の朝鮮の政治にも大きく影響を与え続けた。合邦善後策として桂太郎首相に資金百五十万円を懇請したところ、千万円でも差し支えなしと答えられ、活動に猛進した。

背景

李氏朝鮮(朝鮮)では、日清戦争で大日本帝国(日本)がに勝利すると、王妃である閔妃が朝鮮で一層強化する日本の支配力を警戒した。三国干渉によってロシア帝国(ロシア)の東アジアへの影響力が強まったことで、日本への牽制を含めて親露政策を強めるようになる。その後、乙未事変で閔妃が暗殺され(殺害現場にいた純宗の言で『乙未事件ニ際シ、現ニ朕ガ目撃セシ国母ノ仇、禹範善』となっているだけでなく、この禹範善は『禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ』と自ら犯人であることを漏らしている。(アジア歴史資料センター『在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』))、1896年2月11日、親露派の李範晋や李完用らによってクーデターが行われ、国王の高宗がロシア公使館に移り、執務(露館播遷)を行うようになった。日本の後押しを受けていた開化派政権は崩壊し、ロシアの影響力が強まった。1896年7月、開化派の流れを汲む者たちが朝鮮の自主独立法治主義の確立、新教育の振興、農業の改良、工業の育成、愛国心君主への忠誠心の培養を訴え、李完用らが独立協会を設立した。

1897年以降、ロシアの影響力が顕著になると、独立協会は反露闘争を展開、国王の高宗に王宮に戻ることを要請した。高宗は王宮に戻り、大韓帝国の独立を宣言した。これによりロシアの勢力は朝鮮半島から後退したが、独立協会の主張は次第に守旧派官僚との対立を招き、最終的に高宗の勅令により独立協会は解散させられた。

ロシアの勢力が朝鮮半島から後退したことによって再び日本の勢力が増大し、大韓帝国の経済的支配を進めた。ロシアと日本は朝鮮半島や満州の利権を巡り対立を深めた。こうした背景のもと、日露戦争中に日本軍通訳をつとめた宋秉畯が日本の影響下に政治改革のための組織を計画したが、この計画は元独立協会系の者たちに受け入れられた。

一進会の設立

宋秉畯は、日露戦争のさなか、日韓議定書が締結された約半年後の1904年8月8日に独立協会系の尹始炳らと共に、政治結社一進会を設立する(当初、名称は「維新会」。8月20日に「一進会」に改名)。

その後、韓廷が進歩会に対し「法令に背いて集会し詔勅無くして断髪するのは乱民だから解散せよ、しなければ砲刑に処す」と訓令を発したため、一進会は進歩会に対し「怨みがあれば訴え、訴えるのに会するのは自然の理である。また、乙未削髪詔勅(断髪令)は未だ取り消されておらず、軍人警察官外交官の断髪は詔勅によるものではない。現在の惨状を座視するのは忍びないから、現政府に従うな」と助言を発した[12]。進歩会は一進会に対し主義目的が同じだとして合併を依頼し、中央の一進会は十三道の進歩会を吸収した[12]。ちなみに同年8月22日には第一次日韓協約が締結されている。

当初、尹始炳が会長であったが、尹の要請によって李容九が会長に就任した。

他にも、初代統監であった伊藤博文が、黒龍会主幹を務めていた内田良平共謀し、「韓国から日本との合邦を提議させるために」、一進会を設立させたという見方もある[13]。しかし、陸軍側の資料である「魚潭少将回顧録」によれば、一進会は、帝国陸軍韓国駐剳軍と統監府の対立の中で、韓国駐剳軍が統監府及び伊藤博文統監を間接的に攻撃するために設立させたものであり、その後、一進会が内田良平を通じて統監側に近づいたとしている[14]

会員・役員

1905年時点で会員は全国28万4千人あまりに達し、特に平安道咸鏡道の二道に多かったとされる[15][要ページ番号]。初期の役員は以下の通り[15]

目的

一進会では、独立協会に見られる民主主義、独立国家主義の思想を継承し、「政治改革と民主の自由」を掲げた[16]。また、日露戦争時に設立され、日韓軍事同盟においてロシアの侵攻を阻止することが、大韓帝国に対するロシアの影響力を弱め、さらには欧米列強のアジア進出を防ぎ、朝鮮の復興になるとも考えていた。

会則

1904年12月22日、尹始炳は以下の五ヶ条の会則を発布した[17]

一、本会員は一切断髪する事
二、帽子は外国の様子を傚行し、務めて本国品にて製造する事
三、平常服は現行せる本国俗制を変ぜざる事
四、平常服表衣は窄袖の周衣を以て施行し染色する事、但し公私服はこの限に非ず
五、洋服の一款は或自由に属するも極めて簡略を旨とし財産を乱費するなき事

活動

日露戦争における日本軍への協力

一進会の設立当初、日本側の一進会への評価は低かった[16]が、一進会の設立後、宋秉畯は当時の日本の大佐、松石安治に対し書簡を送り、現状の高宗およびその官僚主導では大韓帝国の独立・維持は困難であると説明し、また京義線敷設の協力をも申し出ている[18]。当時の日露戦争においては、日本軍が物資輸送のため京義線の敷設を計画するが、日本軍の人員不足で計画が暗礁に乗り上げており、この際、一進会がこの敷設工事に無償支援し、会員14万人以上を動員した。さらに一進会は、日本軍の軍事物資輸送の支援にも乗り出し、10万人以上の会員が自費で日本軍の武器、食料を戦地まで運んでいる。また、この日露戦争当時、一進会会員は、当時の伝統であった長髪をやめ、自主独立運動の象徴としている。朝鮮では露館播遷断髪令を廃止しており、このような断髪は一般市民からは考えられないものであった。

演説

独立門の西側にある独立館が一進会の演説会場であった[15]。しかし、独立館は600 - 700人以上の聴衆を入れることはできず手狭になったため、独立館の北側に新たに1,600 - 1,700人の聴衆を入れることのできる八角堂を建設した[15][要ページ番号]

第二次日韓協約への賛同

1905年明治38年)10月、日本政府は韓国保護権の確立の方針を閣議決定し、翌11月には伊藤博文特使として派遣し、11月28日第二次日韓協約の締結が強行された。これに先立ち、一進会は同年11月5日に会の顧問であった佐瀬熊鉄の起草[19]で「外交権を日本政府に委任し日本の指導保護を受け、朝鮮の独立、安定を維持せよ」という宣言書を発表した[20]が、それにより「世上の攻撃を受け」「勢力を失墜」し、さらにその後「国賊」「売国奴」扱いされることとなり、殺された会員も多かった[4][21][22]

日本軍の義兵討伐への協力

当時の韓国では排日目的の義兵が起こり(→義兵#後期義兵)日本軍が鎮圧していた。その際一進会が日本軍に協力したことを当時韓国統監府嘱託・一進会顧問だった内田良平は1907年12月8日付で報告している[23]

韓国民衆に対する非行

1907年12月8日付で韓国副統監曾禰荒助が内田良平に宛てた私信[24]では、一進会が韓国民衆に非行を行い「容易ならざる形勢」にあると報告が来ているので善処せよ、と指示している。

韓日合邦の要請

韓国統治の総責任者だった伊藤は早期の韓国併合に反対していた。しかし、1909年(明治42年)4月、伊藤は桂太郎小村壽太郎との会談において、両人が提示した併合の方針について大綱を是認している[25]。1909年(明治42年)10月、伊藤が満州のハルビン安重根に暗殺された後、1910年(明治43年)5月に韓国統監(第三代)に就任した寺内正毅は、義兵の制圧と並行して、韓国併合への準備を進めた。

1909年12月、一進会「顧問」[26]として東京から同会を「指揮」[27]「操縦」[28]していた内田良平が「主謀」[27]して、一進会名義の「韓日合邦建議書(韓日合邦を要求する声明書)」を純宗、第二代韓国統監曾禰荒助、首相李完用に提出した。内田は東京で武田範之に声明草案を示して文章化させ[29][30]。自ら渡韓して12月1日京城に入り、一進会会長李容九らと打合せ[31]、語句修正の後同月3日に一進会本部で声明書を可決[32]、翌4日に提出した。韓国各地の一進会員は本部からの電報と同会機関紙により声明を知った[33]。また声明書は、事前に山県有朋、桂太郎首相、寺内正毅陸相の同意を得ていたという[34][35]

この建議書は、李容九が会員100万人を代表して述べるという体裁をとっており、「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本の天皇陛下に懇願し、我々も一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」と主張し、韓国と日本の連邦形式の対等合邦を求めた[36]

内田は声明書提出に当り、韓国にいる一進会会長李容九の同意を事前に取り付ける必要があった。内田側と李の書信のやり取りで「合邦」の内容について意見の相違が生じたが、内田は「合邦」の解釈は各自に任せるとし、李の同意を取り付けた[37]。李が想定していた「合邦」とはいわゆる連邦制であり、つまり韓国政府がそのまま残るというものだった[38]

声明発表後の各方面からの反発

一進会の声明に対して大韓協会、西北学会や天道教徒がただちに反対した。声明発表翌日には漢城府西大門において、李完用が大演説会を開き、併合反対決議が行われた。統監府の憲兵隊が当時の韓国統監であった曾禰荒助に送った報告によれば、この声明発表は日本人の政治活動家である内田良平が主謀したものであり、一進会に対して大規模な反対運動が起こった。この事態を重くみた曽禰統監は、一進会の集会、演説を禁止し、一進会と大韓協会の日本人顧問に対して論旨退去を命じ、活動を弾圧した。併合を既定方針とした日本政府にとって、賛成、反対の議論が沸騰し、両派の衝突が起こり秩序が乱れること自体が障害と映ったからである[39]

併合後に設置された朝鮮総督府によっても、当時の韓国民衆が一進会に対して大きな反対の声を挙げ、その結果として一進会が孤立状態にあったことが指摘されている[22][40]

解散

一進会の主張はあくまで日韓両国民の対等な地位に基づく日韓共栄であって、日本の考える外地としての併合とは全く異なるものであることや、日韓併合については韓国側の要求は一切受け入れない方針であったため、日本政府は一進会の請願を拒否した[41][42]。これは、当時の大韓帝国の巨額の債務や土地インフラに膨大な予算が必要になることから日本国民の理解を得ることは難しいとの政治判断からであった。一方、一進会の宋秉畯も、韓日の対等合邦は国力の差から困難であると判断して韓日併合論を展開し、1910年(明治43年)、第2次桂内閣により韓国併合がなされた。韓国併合後、韓国統監府は、親日派/非親日派の政治団体の対立による治安の混乱を収拾するため、朝鮮の全ての政治結社を禁止し、解散させた。これにより、一進会は併合直後の1910年(明治43年)9月12日に日本政府によって解散を命じられ、解散費用15万円を与えられ、同年9月25日に解散した[11]。一進会を率い、韓日併合論を説いた宋秉畯らは朝鮮総督府中枢院顧問となり、併合後の朝鮮の政治にも大きく影響を与え続け、その後、その功績により宋秉畯には伯爵位が与えられた。

一方では日韓の対等合邦を日本側が拒否し、その後に韓国を飲み込む形で併合したということから元会員の間には失望、怒りが広がり、後の三・一運動に身を投じる者も多く存在した。一進会の中心人物であった李容九は日本政府から送られた華族の叙爵を断り、会の解散から1年経たないうちに憤死した。喀血し、入院していた際に訪れた日本人の友人に対して一進会の活動についての後悔を語った[43]

日本人の関与

一進会の活動には内田良平や日韓電報通信社長の菊池忠三郎など日本人が深く関与し、日韓合邦の要請を出すことに成功したが、最終的には伊藤暗殺や一進会に対する政府、韓国国民の反発からコントロールできなくなってしまい、 菊池忠三郎によって「日韓合邦が頓挫した今、一進会は暴徒に変ずる恐れがある」という報告がされている[44]。 日本人顧問であった杉山茂丸は会の目的である「日韓合邦」が失敗し、併合された後の1921年(大正10年)に、元会員たちから自決を要求された。これを受けて杉山は、朝鮮の日本統治改革を強く訴える建白を執筆し、李容九や一進会の元会員たちを騙したことについても懺悔した[43]

宋秉畯から松石大佐に宛てた1904年12月2日付書簡[45]では「一進会組織の当初林公使萩原書記官は共に扇動的態度なりしに」とある。

梁谷成章在鎭南浦副領事から林権助在韓公使への1905年1月18日付報告[46]では「一進会と我が軍隊との関係は寧ろ良好にして一進会員は我軍隊庇護の許に其人員を拾集し[46]とある。

1905年3月14日付有吉明釜山領事から林権助在韓公使への報告[47]では、一進会員が日本人領事からの「保護」や長谷川大将の「後援」を公言しているとある。

萩原(書記官?)から小村外務大臣への1905年5月1日付報告[48]では、李載現から韓国外交官李範晋宛の書簡の内容を報じている。「長谷川好道大将が金満家韓人から多額の金額を徴発し一進会を使って全国にばらまかせている」とある。

一進会顧問内田良平が韓国副統監曾禰荒助に宛てた1907年12月10日付「所見陳述」[49]では、「京城官民は一進会員が統監下に知られ長谷川閣下に知られ現に閣下優過したまふを羡望して一進会の全盛を嫉視せる」と述べている。

評価

一進会に対する評価はその活動の解釈や政治的立場によって大きく異る。以下には日韓において出版されている一般書籍での評価について概述する(順不同)。

  • 平凡社の『朝鮮を知る事典』では、一進会を「親日御用団体」と呼び、表立った運動以外にスパイ活動などにも協力したとしている。また、親日団体としての働きについてはプラスの効果よりも民衆の反発を招いたマイナスの結果の部分が大きかったとしている。また、一進会の実態が「李容九や宋秉畯などの利権集団」であったとも記述している。
  • 鹿鳴海馬の『伊藤博文はなぜ殺されたか』(1995)では一進会は日本が日本軍の通訳をしていた宋秉畯に作らせた親日派の政治団体であるとしている。「一進会は日本の国粋団体・黒龍会の内田良平といった有力者を顧問に、日本の保護を受け朝鮮国内の反日分子や反日運動のスパイ活動を行い、大衆の反感を買った。特に日露戦争後、一進会が日本の指導保護を要請する宣言を発表したので猛烈な反発を受けた。中でも「共進会」や「大韓自強会」といった民族派の団体から一斉に売国奴として非難された。」と記述されている。
  • 三省堂の『朝鮮の歴史 新版』では、一進会が1909年(明治42年)に出した声明について、民衆の声を代表しておらず、かつ「会員100万人」も実体のない数字だったとしている。
  • 金完燮の『親日派のための弁明』(2002)では、一進会の運動を、李氏朝鮮政府の圧政をはねのけようとする農民階級東学党進歩会)と、支配階級出身で朝鮮の近代化をめざす改革派知識人グループ(維新会)、そして朝鮮近代化を支援することで「攻撃的な防御」を確保しようとする日本、の3つの改革勢力が結集されたものとして高く評価している。また、大韓民国政府が一進会を「親日御用エセ団体」と歪曲して韓国民に教えていると批判している。
  • 呉善花は、著書『韓国併合への道』で「少なくとも民族の尊厳の確保に賭けて大アジア主義を掲げ、国内で最大限の努力を傾けた李容九らを売国奴と決めつけ、国内で表立った活動をすることもなく外国で抗日活動を展開した安昌浩李承晩らを愛国者・抗日の闘士と高く評価するバランス・シートは、私にはまったく不当なものである」と評価している。
  • 山田朗は、当時の大韓帝国は政党政治ではなく、一進会が韓日合邦を望んでいたとしても、それは韓国人の民意を示したものではなく、一進会は韓国民衆から強い批判を受けていたと主張している[50]
  • 木村幹は、韓国併合直前期に日本に協力的だった韓国の政治勢力(すなわち親日派)には李完用を中心とする韓国の官僚達と、一進会のような民間の団体の二つの派閥があり、初代統監の伊藤は李完用を韓国側の協力者として選び、伊藤の支持を背景に李完用らは影響力を拡大する一方、一進会は日本側の、同じく民間の団体(黒龍会など)と提携し、伊藤・李完用らとは対立関係にあったとする。李完用らは日本に協力することで日本側に介入の口実を与えないようにし、大韓帝国の保持を図ったのに対し、一進会はそのような王朝国家の枠組みそのものを否定し、韓日両国民が日本の天皇の下で、対等な国民(一等国民)となることを考えた点に両者の対立の根本的な原因があったとする。一進会はそのような立場からより併合(合邦)に対し前向きな動きを見せたが、(日本による植民地化という形での)韓国併合の成立とともにその役割は終了し、切り捨てられてしまうのに対し、李完用らは日本を取引をするという強かな姿勢で臨み、併合後においても朝鮮貴族の地位の獲得に成功したが日韓の国力差の前ではそうした強かさすら大きな意味を持ち得ず、朝鮮貴族の地位も名誉的なものにすぎなかった[51]

出典

  1. ^ アジア歴史資料センター、レファレンスコードB03041514200, pp.12, "種別 政社, 名称 一進会, 設立年月 光武八年八月, 事務所 永楽町二丁目, 重ナル役員 会長 李容九 副会長 洪肯燮, 会員数 ?八十万名"
  2. ^ 内田良平『日韓合邦秘事』下巻 合邦主唱者タル一進会ガ実数四千ニ満サル会員ヲ以テ漫リニ百万ト称スルハ虚勢モ亦甚シ
  3. ^ 内田良平関係文書 | 憲政資料室の所蔵資料 | 国立国会図書館”. rnavi.ndl.go.jp. 2021年9月5日閲覧。
  4. ^ a b 한국사데이터베이스 비교보기 > (10) [平壤지방 정세시찰보고서 제출 건]”. db.history.go.kr. 2021年9月5日閲覧。 “一進會支部長等ノ言 一進會支部長等ノ言ニ曰ク吾等ハ李容九宋秉畯ノ言ニ聽キ毆傷ニ耐ヘ瀕死ヲ忍ヒ唾罵捽擊セラルゝヲ顧ミス一意日本ニ信賴スレハ暴政必ス除カルヘク文明決シテ進趣スヘシト斷決シタリ果然制度日ニ革マリ虐吏氣ヲ斂メ開花ノ運豫期スヘキヲ祝スルニ逢ヘリ然ルニ宋秉畯ノ明夷ト俱ニ西敎猝カニ勢ヲ逞フクシ一進會ハ日ニ衰ヘ貪官汚吏ハ再ヒ良民ヲ戕賊シ生靈ノ塗炭却テ舊ニ勝サルモ匡正ノ力ナク會員ヲ目スルニ國賊ニ汚名ヲ以テスルニ至ル二十三郡十萬餘名ノ會員ハ今ヤ減退シテ三萬餘名ニ過キス且ツ會員タルモ義務ヲ視ルコト恬然タリ故ニ內ハ財計ニ窮シ外ハ西敎ト官吏トニ迫害セラレテ此衰弱ノ狀ヲ呈セリト…右報告上申ス 明治四十年四月十五日 內田良平 統監伊藤侯爵閣下”
  5. ^ 伊藤公爵薨去後ニ於ケル韓国政局並ニ総理大臣李完用遭難一件”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月4日閲覧。 “明治四十二年十二月八日接受 主管 政務局 乙秘第二七一一号 十二月七日 日韓合邦論に対する韓人の言動 韓国興学会副会長朴炳哲は日韓合邦問題に対し左の通り言明し居れり。 我が韓国に於ける政治的団体の重なるものは第一、大韓協会、第二、西北学会、第三、一進会の三種にして大韓協会は恰も日本に於ける政友会の如く全国民多数の会員を有し韓国民全般を代表し居る政治団体と謂ふも強ち過言にあらず。又西北学会は文字の示すが如く平城、平安道、咸鏡道、黄海道等韓国西北地方に属する政事敵学術の進歩を図る政治団体たるに過ぎず。又一進会は或る一部の人士より成る政治団体にして其勢力も我が韓国に於ては大韓協会の如く厖大ならず其会員は僅か三千人内外に過ぎず。”
  6. ^ 韓国警察報告資料巻の3”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月4日閲覧。 “大韓協会 隆熙元年十一月一日(明治四十年)、尹孝定、呉世昌、権東鎮等の発起により一、教育の普及、二、産業の開発、三、生命財産の保護、四、行政制度の改善、五、官民弊習の矯正、六、勤勉貯蓄の実行、七、権利義務責任服従の思想鼓吹の綱領を以て組織せらる。其真想は隆熙元年七月日韓七協約に反対を以て成立したるものと云ふを得べし。京城に種々の政党と称する者あるも比較的多数の会員と人材を有するは大韓協会なりとす。現会長は金嘉鎮にして会員中の有力者は権東鎮、尹孝定、呉世昌等なり。該会が今日迄勢力を保ち居るは排日党なりしが為めにして一進会が会長の専制的なるに反し大韓協会は評議員の合議に依り行動するを以て多少敏活を欠くの嫌あり。昨年末一進会と殆んど連合の内約成らんとして一進会は日韓合邦を提唱したる為め遂に連合談破れ行掛り上大韓協会は一進会の提唱に反対し現状維持の態度を執り今日に至れり。爾来勢力に甚しき消長なし。(444画像目)”
  7. ^ 韓国警察報告資料巻の1”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月5日閲覧。 “一六、政社其他の会の状況会員の行動及官民の会に対する感情 一進会は各道全く萎靡沈衰に陥り平安南道の如きは会員中一進会を口にするだに避くるの風を生じ…大韓協会は各道を通じ会員中流以上者に属し会員少数なりと雖も一進会を凌駕せんとし平安南道の如きは一部の民心を支配するの潜勢力を有すと。然れども全道僅に五十内外の支会にして会員又六千を出でず一般より見るときは会勢不振の状況にあり。(222画像目)”
  8. ^ 海野福寿編 編『外交史料 韓国併合(下)』不二出版、2003年、657頁。「憲機第二三六五号 今回一進会の発表したる声明書の主謀者は内田良平にして…而して昨日菊池謙譲は内田に対し大要左の如き忠告を与へたりと…二、各会中声望あるは大韓協会なるを以て該会に反対すれば到底希望を満し能はざるにより大垣丈夫と協議決定すべしと」 
  9. ^ 한국사데이터베이스 비교보기 > (43) [韓日合邦에 대한 一進會의 성명서 등 대책에 관한 보고서 사본 송부 件]”. db.history.go.kr. 2021年9月3日閲覧。
  10. ^ 中村粲「大東亜戦争への道」(大東国男「李容九の生涯」)。
  11. ^ a b 日韓合邦秘史
  12. ^ a b 最近の韓国: 日露戦争中に於ける韓国の諸問題 松宮春一郎 1905年
  13. ^ 姜在彦 1987, p. 259.
  14. ^ 資料紹介 韓国侍従武官からみた日本の韓国併合 : 『魚潭少将回顧録』より「韓国末期の外交秘話」 P.18 藤村道生 1973年
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  16. ^ a b アジア歴史資料センター、レファレンスコードB03050325500
  17. ^ 現代漢城の風雲と名士 細井肇 1910年
  18. ^ アジア歴史資料センター、レファレンスコードB03050325700
  19. ^ 佐々充昭 (2018). “旧韓末における羅喆の訪日活動-朝鮮開化派亡命政客および玄洋社系人士との交流を中心に-”. 立命館文学 (657): 41. http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/657.htm. 
  20. ^ 『朝鮮最近史』
  21. ^ (32) [乙巳保護條約後 韓國社會 動靜報告 件]”. db.history.go.kr. 2021年9月4日閲覧。 “一進會ハ今回ノ宣言ニ付世上ノ攻擊ヲ受ケ會員中異論者ヲ生シ一ト先解散說ヲ唱フル者アルモ會長之ニ肯セス國民敎育會ハ之ヲ傳聞シ頻リニ一進會ノ解散說ヲ鼓吹シツゝアリ… 右及報告候也 明治三十八年十一月十六日 警務顧問 丸山重俊 印 特命全權公使 林權助 殿”
  22. ^ a b 韓国警察報告資料巻の3”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月4日閲覧。 “右の如く一進会は一時地方に勢力を有したりしも光武九年(明治三十八年)日韓保護条約締結当時進で日本の保護を仰ぐの可なるを宣言してより大に勢力を失墜し隆熙元年(明治四十年)日韓新協約発布せられ軍隊解散と共に各地に暴徒蜂起するや日本官憲に反抗的態度を執ると共に売国奴一進会員を殺すべしと唱へ会員中其毒刃に斃れたる者多く殆んど一進会員たるの甚危険なるを感ずるに至らしめたり。昨隆熙三年十二月日韓合邦論を提唱してより世論益売国奴を以て之を目し攻撃一層甚しきに至れり。只一進会が今日尚相当勢力を保ちつゝある所以は宋秉畯は親日派として常に日本官憲に接近し其後援を有せりと称せらるゝと勢力盛なる当時種々の口実の下に獲得したる利権あるに依り、尚日韓合邦は近き将来に実行せらるべく其暁には再び我党の天下たるべしと夢想し会員の離散を防ぎつゝあり。 一進会は官吏の㧙政及両班の横暴に反抗せんが為めに起ちたるものなるを以て其会員の多数は常民なりとす。従て宋秉畯、李容九等二三の輩を除くときは殆んど有力の士なし。(443・444画像目)”
  23. ^ 한국사데이터베이스 비교보기 > (26) [江原道 북부지방 시찰 특별보고서 제출 건]”. db.history.go.kr. 2021年9月5日閲覧。 “去ル四日小隊長ハ二十四名ヲ率ヰテ討伐ニ向ヒ昨夕卽チ七日ヲ以テ歸營シタリト而シテ未發火ノ火繩獵銃一ヲ齒獲シ賊二ヲ殪シ賊徒ヲ潰走セシメテ凱旋シ意氣大ニ揚レリト云フ 本討伐ニ隨ヒシ一ノ巡檢ハ新任セラレシ一進會員ナリ…該地ニハ侍天敎民アリ又一進會員アリテ我ニ於テハ今ヤ嚮導ニ最便ヲ有セルモ…右急ニ特報シタテマツル 明治四十年十二月八日夜 華川郡ニ於テ 內田良平 長谷川大將閣下”
  24. ^ 한국사데이터베이스 비교보기 > (26) [江原道 북부지방 시찰 특별보고서 제출 건]”. db.history.go.kr. 2021年9月5日閲覧。 “[一進會動靜에 관한 私信] 寒中御苦勞御察申候數度御報告被下忝存候陳者他ヨリ報告ニ依レハ貴中方御巡視之直接地方ニハ非サルモ國難鎭撫ヲ名トシ一進會カ黨勢ニ汲々タル結果時ニ或ハ暴行シ又ハ脅迫シ又ハ斷髮ヲ强制シ良民之カ爲メニ反テ不安ノ念ヲ生シ容易ナラサル形勢ニ立至リ居リ候樣ニ相聞ヘ申候是ハ旣ニ貴兄方カ御出發ノ際懇々申入候如ク己ヲ捨テ全ク國家ノ爲メニ盡力セラルゝニ非サレハ近クハ一進會ノ爲メニモ相成不申候遠キハ國家ニ尙ホ一層ノ困難ヲ可殘結果ニ終ルヘク候條此邊充分ニ御考慮相成度候一進會員ニシテ果シテ前段ニ陳ルカ如キ處置アルニ於テハ無用捨斷然タル處分ニ出ルノ外途ナキニ至ルヘク候是亦十二分ニ御含置被下度候且ツ貴兄方ハ御出發前ニ小生ヨリ李用九氏ニ申入候事ヲ決シテ無御忘却地方ニ對シ御處置有之度候又地方ノ情形ニ依リテハ一進會員ノ巡視ヲ暫時御見合可然歟トモ存候元來一ヲ得テ十ヲ失フカ如キコトハ爲國家決シテ採ラサル所ニ候此際良民ノ感情ヲ害スルカ如キ事決シテ有之間布吳々モ御銘心肝要ニ候李用九氏ト御熟談可然存候右申入度草々不備 十二月九日 曾禰荒助 內田良平殿”
  25. ^ 海野福寿 『韓国併合』 207頁
  26. ^ 内田良平『日本の亜細亜 : 皇国史談』黒竜会出版部、1932年、289頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918943/159。「自強会が決死隊を募って暴動を起し、韓国の大臣及び一進会長並びに同会顧問たる著者をも暗殺せんと謀った時」 
  27. ^ a b 海野福寿編 編『外交史料 韓国併合(下)』不二出版、2003年、657頁。「憲機第二三六五号 今回一進会ノ発表シタル声明書ノ主謀者ハ内田良平ニシテ、仝人ガ該書ヲ齎ラシタルコトハ蔽フ可カラザルモノニシテ、発表後、以外ニモ国民及政府ノ反対激烈ナルタメ、殆ンド今日ニテハ其成算ニ苦ミ居レリト。而シテ昨日、菊池謙譲ハ内田ニ対シ大要左ノ如キ忠告ヲ与ヘタリト。一、今日ノ事件ハ時機未タ熟セズ、一般ノ反対ヲ受ケ平和ヲ破壊スル而已ナラズ、平地ニ風波ヲ起スモノナレバ、一進会ノ指揮ハ東京ニ於テ之レヲ為サス、一切之レヲ京城ニ移シ、且ツ内田等ハ潔ク関係ヲ絶チ、間接ニ一進会ヲ援助スベシト。」 
  28. ^ 伊藤公爵薨去後ニ於ケル韓国政局並ニ総理大臣李完用遭難一件 3 隆煕4年〔明治43年〕1月7日から〔明治43年〕2月18日(42画像目)”. アジア歴史資料センター. 国立公文書館. 2021年8月29日閲覧。 “乙秘第二五〇号 一月二十九日 菊地忠三郎ノ行動 日韓電報通信社長菊地忠三郎ハ内田良平ガ退韓後同人ニ代リ一進会操縦ノ任ニ当リ居リタルガ”
  29. ^ 内田良平『日本の亜細亜 : 皇国史談』黒竜会出版部、1932年、284頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918943/157。「武田は著者と天祐侠以来の同志にして、博学且韓国流の漢文を書くことに於て唯一人者であった。同人の漢文は韓人が之を読んで、日人の筆に成ったと観るものなき程の文章家である。武田の着京するや、曩に杉山より桂首相に内覧同意せしめたる合邦請願書の草案を示し、原文の意を以て漢文となさしむる為め、芝浦竹芝館に籠居せしむること一週日の後、上奏文及び韓国統監に上る書、総理大臣李完様に上る書の三通を脱稿し、準備は茲に全く完成した。」 
  30. ^ 海野福寿編『外交史料 韓国併合(下)』不二出版、2003年、611頁。「一進会李容九の名において曾禰荒助統監に提出された合邦請願書は、内田良平の下で合邦運動に従事していた武田範之が起草し、一二月一日に再渡韓した内田が持参した原稿に若干の修正を加えたものである。」 
  31. ^ 内田良平『日本の亜細亜 : 皇国史談』黒竜会出版部、1932年、288頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918943/159。「著者は渡韓の途中、下の関に於て暴風雨に沮まれ、予定より一日後れて三十一日乗船、十二月一日京城に入り、即夜清華亭に李容九、武田範之、菊池忠三郎の三人と会合して、携帯せる合邦上奏文及び建議書を李容九に渡し、之が提出の手順を議定した。」 
  32. ^ 内田良平『日本の亜細亜 : 皇国史談』黒竜会出版部、1932年、292頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918943/161。「十一月(引用者注:十二月の誤りか)二日、武田は一進会中の能文家崔永年と共に、合邦の上奏文其他の字句修正を行ひ、李容九にも熟読せしめて慎重に協議する所ありしが、僅かに二三句を刪正したるのみにて之を終り、能筆家たる崔永年の子息をして、一室に籠居浄書せしめた。三日、一進会は三派の提携を断絶すると同時に、本部に於て大会を開き、合邦の上奏案を討議し、満場一致を以て一気呵成的に之を可決した。」 
  33. ^ 韓国警察報告資料巻の4(7画像目)”. アジア歴史資料センター. 国立公文書館. 2021年8月29日閲覧。 “一進会員ノ如キハ始メ本部ヨリ『皇室尊重人民仝等合致宣言書頒布』ノ電報ニ接シ次ニ国民新聞(引用者注:一進会の機関紙)ニヨリ宣言書ノ内意ヲ知リタルモノニシテ中ニハ其突然ノ発表ニ驚キタルモノアリ中ニハ自党ノ問題タルニ係ハラス反対ノ言ヲ吐ク者アリ又四面ノ攻撃ニ耐ヘスシテ脱会ヲ公示シタル者アリシカ各地多クハ本部ノ諭示ニヨリ何レモ慎重ノ態度ヲ持シ他ノ動静ヲ観望スルニ怠ラス”
  34. ^ 内田良平『日本の亜細亜 : 皇国史談』黒竜会出版部、1932年、286頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918943/158。「十五日(引用者注:1909年11月)、杉山(引用者注:杉山茂丸)を訪ひしに、杉山告ぐるに『山県公、桂首相に武田起草の上奏文を示し、一進会は之を提出して合邦を請ふの手順となれるを語り、更に寺内陸相にも示し、陸相の質問に対し答解し置きたる』を以てし」 
  35. ^ 海野福寿『伊藤博文と日韓併合』青木書店、2004年、178-179頁。「黒龍会編『日韓合邦秘史』によれば、伊藤の死後まもなく宋秉畯・内田良平・武田範之が合邦請願書の草案を作成し、山県・寺内・桂の同意を得たという。」 
  36. ^ 統監府文書 8、警秘第4106号の1
  37. ^ 内田良平『日本の亜細亜 : 皇国史談』黒竜会出版部、1932年、281-282頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918943/155。「宋秉畯(引用者注:韓国の政治家で当時日本にいて内田と親しかった)は合邦提議の方法を決定する必要あるより、頻りに李容九と書信を往復して内容の説明を為したるに、李容九の主張と頗る懸隔を生じたるを以て、著者は『合邦の内容は日本天皇陛下の叡慮に依って決すべきものにして、韓人の上るべき合邦建議書中には之を記載すべきものに非ず』となし……断然説明を廃し、単に合邦の大標題のみを立て置き、之を連邦と解し、或は政権委任と釈くものあるべきも、それは総て各自の解釈に任せ、彼等を統率し節制して進行せば、結局統治権全部の授受を完成するを得べしとなし、此の旨を以て李容九を同意せしめた。」 
  38. ^ 海野福寿編『外交史料 韓国併合(下)』不二出版、2003年、646頁。「警秘第四〇四九号ノ一 隆煕三年十二月二日 警視総監若林賚蔵 統監子爵曾禰荒助殿 日韓合邦問題ニ関スル件 近来、喧伝セラルヽ日韓合邦問題ノ径路ニ関シ更ニ探聞スル処ニ依レバ、過般来ヨリ宋秉畯ト一進会長李容九トノ間ニ於テ屡々交渉ヲ重ネツヽアリシハ事実ニシテ、其成立セル連邦案ノ細目ハ左ノ如キモノナリト伝フ。……五、政府ハ現今ノ如ク存在スルコト。」 
  39. ^ 海野福寿 2003, p. 657.
  40. ^ 韓国学文献研究所 1987, p. 318.
  41. ^ 一進会請願書の取り扱いにつき曾禰統監請訓 1909年12月5日 「日韓合邦ニ関スル一進会上進ノ趣旨ハ、要スルニ(一)韓国皇室ノ尊栄ヲ日本皇室ト共ニ永遠不朽ニ垂レント欲スルコト。(二)韓国ヲシテ世界一等国ノ班ニ列シ、韓国民モ日本人同様ノ権利幸福ヲ享受セシメントスルノ二点ニ帰着シ、合邦ノ意味ハ連邦ナルカ如ク、又、合併ナルカ如ク見エ、甚タ不明ナリ。元来、此ル大事ヲ一進会如キモノヽ行動ニ基キ今日ニ実行セントスルカ如キハ、徒ニ平地ニ風波ヲ起シ、其局ヲ統ルコトナキニ終ルヘシ」
  42. ^ 桂首相より一進会顧問・杉山茂丸宛内訓 1910年2月2日 「合邦論ニ耳ヲ傾クルト然ラサルトハ日本政府ノ方針活動ノ如何ニアル事故、寸毫モ韓国民ノ容喙ヲ許サス」(『同上』666頁)
  43. ^ a b 西尾陽太郎 1978.
  44. ^ 国立公文書館アジア歴史資料センター,『伊藤公爵薨去後ニ於ケル韓国政局並ニ総理大臣李完用遭難一件 3 隆煕4年〔明治43年〕1月7日から〔明治43年〕2月18日』(レファレンスコードB03050610500)
  45. ^ 3 明治38年1月10日から明治42年10月19日”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月4日閲覧。 “今回一進会組織の当初林公使萩原書記官は共に扇動的態度なりしに不拘中途一変某々は宮廷より数万円の解散料を玄暎運を介して着服し尚ほ一進会解散保証の下に公然大東俱楽部資金として韓皇より三万円寄付せしめ将た日本に於ても批難の声ある荒蕪地問題を一進会解散と交換問題として韓廷を威迫したるが如き之れ決して信義ある行動と認むべからず(8画像目)”
  46. ^ a b 한국사데이터베이스 비교보기 > (1) 平安南道 각 군에 諭告文 게시의 건 및 각 지방 一進會員 상황 보고”. db.history.go.kr. 2021年9月4日閲覧。 “(13) 管下東萊及金泉ニ於ケル一進會近況報告ノ件 機密第一一號 目下東萊府ニ滯在中ナル一進會員ハ何等一定ノ生業ヲ有セサル無賴ノ者多ク常ニ郡守ノ權限內ニ立入リ無用ノ干涉ヲ試ミ己レ其間ニ立チテ不當ノ利益ヲ占メントスルモノゝ如ク日夜酒食ヲ貪リ飽クコトヲ知ラス而シテ彼等ハ陽ニ日本政府ノ後援アルモノゝ如ク聲言シ居レル趣ニテ現ニ過般同地ヲ經由シテ來釜セル根諸陸軍大尉ノ談ニ依ルモ一進會員ヨリ同會ニ對シテハ釜山帝國領事ヨリ必要ニ應シ巡査ヲ派遣シ之ニ保護ヲ與フル筈ナルヲ以テ陸軍將校ニ於テモ相當ノ協力ヲ爲シ吳ルゝ樣依賴シ來レルモ其無根ナルヲ信シテ拒絶シタリトノ事ニ有之加之傳フル所ニ依レハ右等ノ輩ハ一進會ハ長谷川大將ノ後援ヲ有スル等ノコトヲ言明シ之カ爲メ同地附近ノ韓民ハ一進會ニ對シ多少恐怖ノ念ヲ懷キ他日奇禍ノ生シ來ランコトヲ恐レ同會ニ對シテ敬遠主義ヲ採ルモノゝ如キモ更ニ勢力ノ見ル可キモノ無之即樣ニ候而シテ本件我軍隊ノ勢力ヲ假リ若シクハ領事館ノ後援ヲ云々スル形跡ニシテ尙顯著ナルニ及ハゝ多少ノ處置ヲ採ルノ必要可有之ト存候”
  47. ^ 한국사데이터베이스 비교보기 > (13) 管下 東萊 및 金泉에서의 一進會 근황 보고의 건”. db.history.go.kr. 2021年9月5日閲覧。
  48. ^ 한국사데이터베이스 비교보기 > (110) [李載現이 金仁洙를 거쳐 李範晋에게 보낸 밀서에 관한 續報]”. db.history.go.kr. 2021年9月4日閲覧。 “長谷川大將モ亦屢々謁見シテ壓迫ヲ加ヘツゝアリ加之ナラス同大將ハ亡命者ト祕ニ書面ヲ往復シ通謀スル所アリ或ハ買官賣職ヲ禁斷スヘシト一方ニ勸告ヲ與ヘナカラ又一方ニハ韓人某々ト謀リ官職賣官ヲ爲シ或ハ金滿家韓人ヨリ多額ノ金額ヲ徵發セリト述ヘ又一進會ヲ敎唆シ之ヲ全國ニ配送シテ財産均等主義ヲ鼓吹セシメ地方民心ヲ攪亂セントスル傾キアリ”
  49. ^ 한국사데이터베이스 비교보기 > (26) [江原道 북부지방 시찰 특별보고서 제출 건の[自衛團援護會派遣 一進會員 非行에 관한 所見陳述]]”. db.history.go.kr. 2021年9月5日閲覧。
  50. ^ 山田朗 2001, p. 117.
  51. ^ 木村幹 2000, 第3章

参考文献

  • 山田朗 (2001), 歴史修正主義の克服―ゆがめられた“戦争論”を問う, 高文研 
  • 姜在彦 (1987), 朝鮮の歴史と文化, 大阪書籍 
  • 海野福寿 (2003), 外交史料・韓国併合下巻, 不二出版 
  • 韓国学文献研究所 (1984), 朝鮮の保護及び併合, 亜細亜文化社 
  • 吉岡吉典 (2007), 総点検 日本の戦争はなんだったか, 新日本出版社 
  • 西尾陽太郎 (1978), 李容九小伝―裏切られた日韓合邦運動, 葦書房 
  • 木村幹「朝鮮/韓国における近代と民族の相克--「親日派」を通じて」『政治経済史学』第403号、政治経済史学会、2000年3月、10-30頁、ISSN 02864266NAID 120000941926 

関連項目

外部リンク