プリオン病の発症を止めるための研究に乗り出した、ある夫婦の飽くなき“闘い”(後篇)

ケリー・クランシー

神経科学者。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで、ブレイン・マシン・インターフェースの開発に取り組んでいる。『ニューヨーカー』誌、『ハーパーズ』、『ノーチラス』に記事を執筆。(@kellybclancy

あとになって考えると、あれが始まりだったのかもしれない。だが、2010年初め、カムニ・ヴァラブが視力の衰えを訴えるようになったときは、気にするほどのことはなさそうに思えた。カムニは51歳。そんなふうになってもおかしくない年齢だ。ペンシルヴェニア州西部の厳しい冬──2度の記録的なブリザードが2週続けて襲ってきた──のせいで、疲労がたまっていたのだろう。

前の年の夏、カムニの体調はよかった。娘のソニアの結婚式の準備をひとりで取り仕切り、人々の絆が強いかつての鉄鋼の街ハーミテージにある家の裏庭で、300人の招待客がお酒を呑んでダンスを楽しんだ。ところが、3月に誕生日を迎えるころ、事態は明らかに深刻になっていた。

本日10/22:「Editor’s Lounge」始動!

ワークスタイル/ワークプレイス研究者の山下正太郎と『WIRED』日本版の「リモートワーク学」でもおなじみの横石崇を迎えて探る、「FUTURE of WORK」の現在地。ストーリー末尾にウェビナーURLあり。

かつては詩を書いていたのに、文を組み立てることもまともにできなくなった。注意散漫になり、しょっちゅう混乱していた。テレビのリモコンをどこかに置き忘れたといって、パントリーの中を探す始末だ。身体も急速に衰えていった。5月には、食べることも立つことも、シャワーを浴びることもひとりでできなくなった。不眠症に苦しみ、頭の冴えた貴重な時間も自分が家族の重荷になっていると嘆いていた。

当時ソニアは25歳でボストンに住んでいたが、しょっちゅう母親に電話をかけ、できる限り帰省した。「母は怖がっているというより悲しんでいました。よく『この姿を見てよ。何の役にも立たないわ』などと言っていました」と、ソニアは振り返る。

カムニの病状が悪化するのに伴い、眼科医を皮切りに、病気の原因を探す長く苦しい旅が始まった。夫で医師のセイガーは地元の神経科医に彼女を連れていったが、重金属中毒やライム病の証拠は見つからなかった。

その後クリーブランド・クリニック、ボストンにあるブリガム・アンド・ウィメンズ・ホスピタルを訪れた。専門医たちが微小腫瘍の有無を検査するも見つからず、カムニの髄液を見て頭をひねった。一般的な脳疾患の痕跡が一切なかったからだ。

誰ひとり答えを見つけられない一方で、セイガーが病院の予約を入れるよりも速いスピードで、病は進行していった。検査を受けるたびに、家族は陽性結果が出るよう願った。たとえ治療の見込みがないにせよ、そのときはカムニの症状に名前がつけばそれだけでいくらか安心できるのではないかと思っていたのだ。だが願いに反して、どの検査も結果は陰性だった。

脳内を穴だらけにする異常プリオン

10月、カムニは生命維持装置で生きながらえていた。カムニは助からないと診断されたら特別な延命措置は望まないという意志を明らかにしていたが、依然として何の診断も下されていなかった。

「母は見るからに苦しそうでした。うつろな目をして病院のベッドに横たわり、いろいろな種類の機械に囲まれて、1時間ごとに針で刺され、筋肉という筋肉がけいれんし、収縮し、硬直するんです。わたしたちのことも、何も、わかっていないようでした。ただ、顔には恐怖が表れていました。それと痛みが」。12月になってようやく、家族は予備的診断を受けた。再検査の結果、カムニの髄液からプリオン病の兆候が見つかったのだ。

プリオンは誤って折り畳まれたタンパク質で、脳内で有害な塊になる。病気を引き起こすことはまれだが、発症すれば確実に死に至る(人の最も一般的なプリオン病はクロイツフェルト・ヤコブ病[CJD]で、米国で年間500人が死亡している)。

プリオン病にかかる原因は次の3つだ──不運な親から遺伝することもあれば、特発性であること、つまり偶然の突然変異の場合もある。それから汚染された角膜や皮膚の移植、あるいは牛海綿状脳症(BSE)、俗に言う狂牛病にり患した牛の肉を介して異常タンパク質が体内に入ることによって起きる場合もある。原因がなんであれ、いったん症状が出ると、病気は急激に進行し回復しない。異常プリオンは脳を壊し、健康な組織を殺し、脳を穴だらけにしてしまう。

関連記事狂牛病を引き起こす、異常タンパク質『プリオン』を探る

診断を受けたヴァラブ家は、カムニの生命維持装置を外す決断をした。家族は彼女の周りに集まって、最後のお別れをした。母の死を受け入れようと気を張っていたソニアだったが、数カ月間の不安から解放されて安堵する気持ちもあった。それはひとつには、母の死後、しばらく忘れていた人々の温かさを実感したからだ。

愛する人が認知症で壊れていくのを目の当たりにするのは、得体の知れない恐しい経験だ。一方で、死にはもうひとつの側面がある。わたしたちはみな、カードを送ったり、お悔やみを言ったりするなど、故人を悼む気持ちを共有するという社会の常識を心得ている。カムニの葬儀には数百人が参列した。「そういう街なんです。両親がそこでどんなふうに生きてきたかもよくわかります」とソニアは言う。

病気が遺伝している確率は50パーセント

カムニの診断に大きなショックを受けたセイガーは、最終的な確認のために解剖を依頼した。組織サンプルがクリーブランド州の米国プリオン病病理サーヴェイランスセンターに送られた。そのころ、ソニアと夫のエリック・ミニケルはボストンでの生活に戻っていた。義母を見舞うかたわら、エリックはマサチューセッツ工科大学(MIT)で都市計画の修士を修了し、運輸アナリストとして職を得た。11年夏、ソニアはハーヴァードで法律の学位を取得して小さなコンサルティング会社に入った。カムニの死の悪夢は遠ざかろうとしていた。

その年の10月、ふたりは友人の婚約パーティに出るためにハーミテージに戻った。ボストン行きのフライトに乗るため空港に向かう直前、セイガーは娘を呼んだ。医者であるセイガーは、悪い知らせを伝える経験はそれまで何度となく積んできたが、ソニアはあれほど苦しそうな父を見たことがなかった。母の解剖結果が届いたと、父は言った。母が倒れた病は、プリオン病の一種である致死性家族性不眠症(FFI)で、ソニアにこの病気が遺伝している確率は50パーセントだった。

この話をソニアは飛行機のなかで夫に伝えた。エリックはボストンに着くまでの間泣き通しで、客室乗務員も心配していたが、なすすべはなかった。「こんなことを告げなければならない父を見るのは、とんでもなくつらかったですし、夫に話すのも本当に苦しかった」とソニアは当時を思い返す。「最悪だったのは父。次がエリック。その次がわたしです」

すぐにソニアは、自分が母の突然変異を受け継いでいるかどうか調べてもらうことを決めた。それには医師も、遺伝カウンセラーも、家族の何人かさえも反対した。病気に治療法がないのなら、知って何になるというんだ、というのだ。知らないほうが幸せではないのか? でも、ソニアの意志は固かった。

「陰性であってほしいと切に願っても、陽性かもしれないという恐怖が始終まとわりついて、心を常に支配するようになるんです。正体がわかれば、あとは対応するだけです。かたちの定まらないものに、うまく対処することはできません」とソニアは言う。

数週間かかったが、結局ソニアは検査を受けた。結果が出るのは2カ月後なので、ずっと先延ばしにしていた新婚旅行で東京を訪れた。時差ぼけが治らず、毎晩わき道をぶらぶらとさまよっていた。その旅はまさにソニアとエリックの精神状態そのものだった──知らない場所にふたりきり、言葉が通じるのはお互いだけ。

S-E

希少疾患で母を亡くしたことをきっかけに、ソニア・ヴァラブと夫のエリック・ミニケルは治療法の探究に乗り出した。

ひとつのUSBから研究生活へ

検査結果を知る日の朝、ソニアは縁起を担ごうとしている自分に気がついた。待合室で遺伝カウンセラーが笑っているのを見て、「これから人生を変えるほど恐ろしい告知をしようという人が、たったいまこんなふうに機嫌よくいられるはずがない」と思った記憶があるという。

エリックが付き添い、ふたりは診察室に入った。医師は単刀直入に検査結果を報告した──「お母様と同じ変異が見つかりました」。発症するまでにおそらく10年か20年はあるだろうが、病気から逃れることはできない。この病気にかかった人はみな亡くなっていた。彼女は奇妙な落ち着きを感じていた。報告を聞いた父はボストン行きのフライトを予約した。週末をいっしょに過ごし、努めて別の話をするようにした。「いまは病気じゃないし、きっとしばらくは発症しないという事実を考え続けるよりほかありませんでした」とソニアは話す。

致死性家族性不眠症のキャリアであることが判明してまもなく、スティーヴィー・スタイナーという科学者の友人がソニアにUSBメモリを手わたした。それにはプリオン病研究の情報が詰まっていた。珍しい病気の研究がこれほど盛んだなんて、想像したこともなかった。それからソニアとエリックは病気について知識を深めることに夢中になった。

ソニアは大学で生物学の授業をいくつか受けていたが、中国語専攻のエリックは「熱帯地方の作付体系」といった科目で必修単位を満たし、生物学の科目はことごとく避けていた。「優性と劣性の意味の違いを思い出すのに、ウィキペディアで調べたくらいです」とエリックは話す。ふたりは大学生だと言い張ってMITの授業を受講し、考えを整理し治療法について思索するためにブログを始めた

診断から数週間のうちに、ソニアは科学の勉強に集中するために会社を辞め、日中は引き続きMITの講義を受けながら、ハーヴァードのエクステンション・スクールで生物学の夜間講座を受講した。ふたりは貯蓄とエリックの給料で生活していた。ソニアは一時的に仕事を離れる研究休暇のつもりでいたのだが、すぐに教科書や学術論文だけでは科学を学ぶのに不充分だとわかった。

「科学の理論と実践はまるで別物です」とソニアは言う。実験をやってみたい。そう思った彼女は、ハンチントン病を専門とする研究グループの検査助手の職を見つけた。後れをとるまいと、エリックも仕事を辞めてデータクランチング[編註:大量のデータを処理し、意味のある情報に変換する作業]の専門知識を活かして遺伝学研究所に就職する。科学を掘り下げるにつれ、ふたりは治療法の発見にのめり込むようになった。

夫婦の思い切ったキャリア転換を、それぞれの家族は不安に思っていた。すべての時間をソニアの病気を考えるのに費やして、本当にいいのか? どうみても失敗に終わりそうな研究に何年間も人生を無駄にする覚悟はあるのか?

エリックの姉妹は医師で、実験をこなしながら学位を取得した経験から、実験は気が遠くなるほど細心の注意を要することを実感していた。「隣の人がくしゃみをすれば、結果も変わってしまうんだよ」と忠告したが、ソニアとエリックを思いとどまらせることはできなかった。

フォレ族に見られたクールー病

ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックがDNAの二重螺旋構造の発見を発表してからわずか1年後の1954年、不可思議な神経症状のエピデミックが発生していることがパプア・ニューギニアから報告され始めた。先住民のフォレ族はそれを「クールー病」と呼んだ。「クールー」は「震え」を意味する現地語だ。

この病気になって生存した者はひとりもいなかった。り患者に感染の兆候──正常な免疫反応である粘液の分泌や発熱や抗体の生成──はみられなかった。医師が診る限り、症状に遺伝性はなかった。

最終的に、米国人ウイルス学者のカールトン・ガジュセックをはじめとする人類学者と科学者のチームは、クールー病の要因はフォレ族の葬儀における人肉食の習慣ではないかと考えた。実際のところ、クールー病にかかるのは主として女性と子どもで、亡くなった人の肉を食していたのは主に女性と子どもだったのだ(フォレ族は、死者の危険な魂を鎮められるのは女性の身体だけだと信じていた)。

解剖の結果、亡くなった患者の脳は穴だらけであることが明らかになった。ガジュセックが亡くなった人の脳物質をチンパンジーに投与したところ、クールー病にかかって死亡した。この病が感染症の一種である証拠だ。

とはいえ、科学者は感染因子が何であるかがわからなかった。この点でクールー病は致死性変性疾患のひとつであるスクレイピーと酷似している。この病気になると、羊は自分の身体をひたすらフェンスにこすりつける。通常の一連の殺菌剤と消毒剤ではいずれの病気にも効果がなかった。病原体の詳細は不明だが、手ごわいものであることは確かだった。ガジュセックは、スクレイピーの混じったハムスターの脳物質を庭に埋めるという奇妙な実験を行なった。3年後に掘り起こしたところ、脳物質は感染したままだった。

科学誌が掲載をためらうほど急進的だった「プリオン」

カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)の化学者スタンリー・プルシナーは、やめたほうがいいという同僚たちの助言にもかかわらず、72年にスクレイピーの研究を始めた。マウスが死に至るまでに何年もの潜伏期間があったので、発表できる論文の数が少なくなる可能性があった。

81年に初めて終身在職権を求めて失敗し、ほどなくして研究の資金源を失った。それでもプルシナーは意志を貫いた。民間基金の助成金を確保し、UCSFの管理者を説得して研究を続けられるようにした。翌年、プルシナーはそれまで展開してきた急進的な理論に関する論文を、権威ある学術誌『サイエンス』に発表した。

プルシナーはかつて、ある化学物質──遺伝物質を壊すよう特別に設計された物質──と混ぜたとき、スクレイピーが生き残ることを発見していた。一方で、タンパク質を破壊する化学物質と混ぜると、スクレイピーは無害化した。プルシナーは、疾患の原因は、科学がいまだ解明できていないもの──遺伝物質なしで複製する病原体──に違いないと結論づけた。

プルシナーはそれをタンパク質からなる感染因子「プリオン」と名づけた。彼の論文はピアレヴューをうまく乗り切ったものの、『サイエンス』の編集者は反発を恐れ、論文の発表を数カ月の間ためらっていた。それだけプルシナーの主張は突飛で──そして的確でもあった。97年、プルシナーはその異説でノーベル賞を受賞した。

関連記事カリフォルニア大、合成した異常プリオンでマウスの発症を確認

周囲を同じ構造に変えていく

プルシナーやほかの科学者が研究を進め、プリオンはカート・ヴォネガット・ジュニアの小説『猫のゆりかご』に出てくる秘密兵器に似た挙動をとることが判明した。ヴォネガットはアイス・ナインという新しい形の水を空想した。これは「特殊な結晶」で、常温の水を氷に変化させ、それに触れた普通の水をアイス・ナインに変える。

ひとつの結晶は連鎖反応を引き起こし、海を氷で覆いつくし、地球上のすべての生き物を死に至らせる。プリオンの感染プロセスも同じだ。プリオンタンパク質のPrPは、それ自体が危険なものではない。すべての脊椎動物に共通で、主に脳細胞に発現すると考えられている(生物学者はそれが何であるかを解明していない)。

しかし、PrPは変形しやすく、自発的に誤って折り畳まれて異なる構造に変化する可能性がある。こうした構造の一部がテンプレートとして機能し、周囲のPrPを同じように折り畳み、それが増えると脳を混乱させる突起が形成される。正確に言うと、プリオンに感染力があるわけではなく、形状が感染しやすいのだ。

プリオンの構造の違いによって発生するプリオン病の種類──クールー病、致死性家族性不眠症、クロイツフェルト・ヤコブ病など──はさまざまだが、それぞれに独自の臨床症状もあれば、共通のものもある。だがこれらはどれも、本質的には同じ疾患だ。

平均的な人が一生の間にプリオン病を発症する確率は5,000分の1。90年代に狂牛病が発生した英国ではやや高く、科学者の推定では2,000人に1人の割合で組織内にプリオンが潜伏していて、いつか死を招くプラークと呼ばれる構造が生じる。

ソニアのケースは、PrPをコードする遺伝子の突然変異がタンパク質の誤った折り畳みを促すのが原因だ。カムニが発症するまでは、致死性家族性不眠症の家族歴はなかった。カムニの命が誕生したときの卵子または精子に、たまたま遺伝子のミスが起きたようだ。実際、カムニが生まれ、彼女の子孫がプリオン病を発症する確率は3,000万分の1から2分の1になった。ソニアとエリックに子どもがいたら、同じく残酷な確率に直面していたことだろう。

マジックミラー越しの世界

致死性家族性不眠症にその名がつけられたのは1986年、イタリアの研究者グループが『ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』に論文を発表したときだ。そこには、ヴェニスに住むある患者の話が書かれていた。

死を目前にしたその人はボローニャ大学の神経科学研究室を自ら訪ねた。男性の家系は200年以上にわたってその病気に苦しんでおり、彼自身も話に聞いていた恐ろしい症状──筋肉の震え、歩行困難、過剰な発汗、悪化するばかりの不眠症と認知症──がすべて発現していた。

亡くなるまでの期間、研究者らは彼の様子を動画に収めた。目はうつろで視点が定まらず、眠っているわけでも完全に覚醒しているわけでもない。記録には「ひとりになると、患者は次第に夢を見ているかのような昏迷状態に陥った」と書かれている。

カムニは最悪の不眠症は免れたが、ひどい認知症に苦しんだ。最期の数カ月間が彼女にとってどんなものだったかを知ることはかなわないが、別の患者の経験から何かわかるかもしれない。2001年、ある米国人男性(DF)が致死性家族性不眠症と診断された。トークラジオのパーソナリティを務めた栄養学者を父にもつ、訓練を受けた自然療法医である彼は、サプリメントと一般的ではない方法──電気けいれん療法、処方薬と不法薬物、感覚遮断タンク[アイソレーション・タンク]──を使った自己管理による治療法を開始した。

主治医によると、最終的にDFは3つ目の治療法を受けるのはやめた。「コミック『アクアマン』のマニアのような気分になる」からだという。DFはキャンピング・カーを購入し、中枢神経の刺激剤と抑制剤で睡眠サイクルを調整しながら2年近くたびたび全国を回った。刺激剤を使わないと電話のベルさえも聞こえないが、投与すれば頭が冴えて、休みなしで長距離を運転できるのだ。

刺激剤のおかげだろうか、DFは多くの患者よりも詳細に自分の認知症の症状を思い出すことができた。致死性家族性不眠症によって、感覚信号を新皮質に送る脳領域で、意識を調整すると考えられている視床が損なわれる。こうした中継局を失うと、患者は外界の刺激を認識できなくなる。

彼らの意識体験は要するに幻覚だ。マジックミラー越しに隣の部屋を見ていると想像してみよう。隣の部屋の照明を消すと、ミラーに映るのは自分の姿だけだ。DFの言葉を借りるなら、「外の世界から見ればわたしは死んでしまっているけれど、わたしのなかでは、わたしはまだここにいる」のである。

認知症の発作が出ているとき、DFは愛する人たちに囲まれていることに気づいた。生きている人も、故人もいた。「何ひとつ包み隠さず、彼自身のすべてを知る経験だった。彼の意識は彼自身をまるごと経験した」と医師は記している。DFは認知症が与える安らぎと、正気に戻って自分の頭と身体が壊れていくことに気づく苦痛を対比した。彼は、致死性家族性不眠症の患者はむしろ死にたいと思っていると考えるようになった。ある時点で、覚醒して苦しむくらいなら、忘却に温かく包まれているほうがいいと思えるようになるのだ。

第1回 「Thursday Editor’s Lounge」のご案内

10月22日(木) 18:30〜20:00
〜日本における「FUTURE of WORK」の現在地〜

Guest:山下正太郎(コクヨ株式会社 ワークスタイル研究所 所長/『WORKSIGHT』 編集長)、横石崇(&Co.,Ltd.代表取締役/Tokyo Work Design Weekオーガナイザー)

※ こちらのZoom URL より当日無料でご参加いただけます。
https://condenast.zoom.us/j/92130947076?pwd=ekI0WmNYM1lqdFdFL0J1Y0ZzZDJZUT09

(ミーティングID: 921 3094 7076、パスコード: 666894)