日本のロボットはどこで止まってしまったのかアナ・マトロニック『ロボットの歴史を作ったロボット100』

ギリシャ神話から最先端の科学まで、古今東西のロボットからベスト100を紹介する『ロボットの歴史を作ったロボット100』。いかにも愛好家向けの「ミニ百科」に見える本書は、実はロボットと人間社会の関わりの変遷を描く「ロボット博物学」の書でもあった。博物学的にロボットを分析することで見えてきた、ロボットの多様な現在と日本とアメリカの文化的な相違とは。
日本のロボットはどこで止まってしまったのかアナ・マトロニック『ロボットの歴史を作ったロボット100』

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ロボットの歴史を作ったロボット100』アナ・マトロニック 片山美佳子・訳〈日経ナショナル ジオグラフィック〉

アナ・マトロニック|ANA MATRONIC
ミュージシャン、映像アーティスト、ラジオパーソナリティ。バンド「シザー・シスターズ」のヴォーカル。ロボットを愛するあまり右腕にロボット回路のタトゥーを入れ、ロボットにインスパイアされたステージネームを名乗る。BBCラジオ2のクリスマス特集でロボットについて語る番組を担当。夫のセス・カービーとネコのイジーとともに米国ニューヨーク、ブルックリンで暮らす。

マニア向けのムック本?

いきなり連載二回目でこんなトーンから始めるのも気まずいのだが、最初に正直に告白してしまうと、この本を初めて見た時、ずいぶんと「チョロい」本だなと思ったのだった。マニア向けのコレクターアイテムとしてのロボットを扱うムック本。どうしてそんな本を、あのナショナル・ジオグラフィックが出してしまったのだろう、と疑問を感じずにはいられなかった。

ナショナルジオグラフィックといえば、世界中の秘境を高精細のフォトグラビアを通じて、それこそ「博物学的」視線で紹介し続けてきた、他に類のない啓蒙的フォトマガジンだ。極彩色の不思議な鳥や、荒野を土煙を上げながら駆けるバッファローの群れ、超接写で捉えた巨大蜘蛛の複眼など、一種魔術的な魅力すら漂わせる写真を常に掲載してきた。そのナショジオがどうしてこんな子どもじみたマニアックなものを?と思ってしまったのだ。

理由の一つは、『ロボットの歴史を作ったロボット100』といういかにもノスタルジックなタイトルであり、そのテーマに対して、AIBOに鉄腕アトムという、これもまたいかにもマニア向けのアイコンが表紙デザインとしてあしらわれていたことだった。

その上で、「はじめに」の第一文は、著者のアナ・マトロニック女史が「私はロボットが大好きだ」と宣言することから始まっている。このあたりで、あぁ、これはもうマニア御用達のミニ百科なのだろうとすっかり思い込んでしまった。アナのいかにも、私、毎年“Comi-Con”(コミコン)に参加してます!という感じの写真もそんな印象に拍車をかけてきた。

ともあれこんな第一印象だったため、しばらくこの本は放っておかれたままだった。だが、食わず嫌いも何だなと思い直し、一通り目を通そうと読み始めてみると、予想に反して、最初に抱いた印象とは大分異なるものであることに気がついた。

確かに一つ一つのロボットについては、著者であるアナの思い入れたっぷりの感想が記されているだけなのだけど──といっても、それはそれでマニア心をきっとくすぐるのだろうなあと納得できるものもあるから厄介なのだが(苦笑)──、けれども、そのロボットたちの選択や配列、つまりは「編集」の部分については、上手く考えられているように思えてきたのだ。

てっきり「私はロボットが大好きだ」というから、その「好き」なものばかりが恣意的に並べられているだけのもの、もっといえば、彼女の子供の頃の記憶に残ったノスタルジックなものばかりが並んでいると思っていた。要するに、昔の映画やドラマに出ていた、「いかにも」な造形のヒトガタロボットが紹介されているものと思いこんでいた。

確かに本の最初のあたりはそんな感じなのだが、それでも後半になると、ドローンやルンバ(お掃除ロボット)も紹介されている。現代的な、もはやヒトガタの形状に左右されない「AI搭載の自律型機械──ただし機械には生物的有機体要素も含まれます!」というタイプのものまで扱われているのだ。

『スター・ウォーズ』シリーズに登場するドロイド、「R2-D2」と「C-3PO」。機械化された心と精神をもつドロイドといわれてまずこの2体を思い浮かべる人も多いだろう。筆者のアナはこの2体が「私が初めて友人と思ったロボット」だと語る。

多種多彩な現代のロボット

2017年現在、ロボットといえば、その用途は多様であり、それゆえその存在形態も様々だ。ヒトガタに限らず、というよりもむしろヒトガタにこだわらずに、動物や昆虫、あるいは映画『インターステラー』に登場した塗り壁のごとき黒板タイプのTARSのように、純粋に動作上の合理的理由から選択された幾何学的な形状まで様々だ(もっともTARSのシックな黒のボディは海兵隊上がりのロボットという設定に妙に呼応してもいたのだが)。そのため、「未来のロボット」といった時、19世紀の頃から続く「絡繰り人形が高度化された機械」というイメージは、もはや時代遅れのものとなっている。

なにしろ、AIというテーマが確立されたことで知性そのものが単体で開発され、その横でゲノム編集など合成生物学によって新たな有機生命体も模索(考案)されている時代だ。知性も身体も独立して個別の研究開発対象となっている。クローンのように有機体でボディを作り、そこに知性を植え付ける、などということが普通に当たり前に想像できてしまう。あるいは、一つの知性を複数のボディで共有するというようなことすらイメージできてしまう。知性が個体に限定的に宿るという発想ですら、一つの固定観念に過ぎないところまですでに来てしまっている。

AI、バイオ、ゲノム、機械工学、生態学、複雑系理論など、多くの開発中、研究中の知恵が総動員される総合的な領域である分、「ロボット」という言葉が意味するものは、もはや「ハイテク」という言葉が対象とする領域とほとんど変わらないものにまで至っている。

どうやら本書は、そんなロボットのフロンティアまで視野に入れていたようなのだ。

そこで今更ながら目次をよく見てみると、前半は“Robot Imagined”(空想されたロボット)、後半は“Robot Realized”(現実化されたロボット)と区分けされ、いわば前半は「アートとしてのロボット」、後半は「エンジニアリングとしてのロボット」が取り上げられている。そこから、芸術と工学という西洋らしい二分法に沿って、ロボットと人間社会との関わりの変遷を記そうという編集意図も透けて見えてくる。思っていた以上に、きちんと博物学していたのだ。さすがはナショナル・ジオグラフィック!

こうして頁を前後しながら一通り読み終わった頃には、第一印象と随分違うというだけでなく、むしろ評価は逆転していた。個々のアイテム、すなわちロボットは確かにマニアックなところがあるけれど、全体的な構成はきちんと「ロボット博物学」をしていて、それも好事家向けなどではなく、2017年現在のテクノロジーの状況を踏まえた、人間とロボットが共存する社会はこれからどうなるのだろう?という問いに答えようとしたものになっている。

言うまでもなくこの問いは、もはや科学者やマニアだけでなく、普通のビジネスマンでも自分たちの会社や社会の10年後、20年後を想像する上で無視することのできない問いである。本書は、そのような「いつか現実化する不安」に対して、どのようにアプローチしていったらよいのか、それとなく示唆してくる。そんなあたりもナショジオらしい啓蒙的な本として出来上がっている。

さすがはコミコンの国アメリカ。SF要素が、ただのネタではなく、きちんと社会で受け止められるべきナラティブ(語り)として扱われる。

もっとも、それは著者のアナの筆致に、いくぶんかフェミニズム的な要素が散りばめられているところからも見て取れる。日頃から彼女の目には、ロボット(に限らずテクノロジー全般)が、女性の活躍機会を拡大してくれるものとして映っているのではないかと思わされる。それは、彼女にとってのロボットのヒーローが、実のところ、ロボットでもヒーローでもなく、身体の一部を生体工学で補った女性の「バイオニック・ジェミー」、すなわちサイボーグのヒロイン!であることからも伺える(ちなみに『バイオニック・ジェミー』は日本でもテレビ放送されていたので、40代より上の人なら名前くらいは覚えている人もいるかもしれない。一昔前のアメドラという感じの漂うシリーズだった)。

テレビドラマ『ドクター・フー』シリーズに登場する犬型ロボット「K-9」と映画『インターステラー』に登場する「TARS」と「CASE」。本書はロボットをいくつかのカテゴリーに分けて紹介しており、この3体のロボットは「召使い、相棒、助っ人」というカテゴリーに入れられている。

広がるロボットの射程

このように機械と人間のハイブリッドたるサイボーグ、それも女性のサイボーグも、この本では「ロボット」のカテゴリーとしてみなされる。つまり、ロボットといっても、その範囲は、一般に理解されているような、ジェンダーやセクシュアリティが定義できないという意味で「中性(ないしは無性)の機械的存在」であることからすでにはるかに逸脱している。

この本の印象が、読後、全く変わってしまった理由の一つは、このようにロボットの定義の「射程の広さ」──というよりも、融通無碍なところにある。そのアマチュアらしい雑多な扱いが、面白いことに、近年の、AIやバイオテクノロジーの台頭によって拡散されつつあるロボットイメージに、むしろ上手くマッチしているのだ。

実際、この本は、始めこそ、ロボットといえばもはや世界中のお約束であるC-3POとR2-D2のスターウォーズコンビから始まるものの、最後はシンギュラリティ提唱者のレイ・カーツワイルで終わっている。締めは「トランスヒューマニズム」なのである。

「トランスヒューマン」とは「人間を超えた存在」のことだから、ロボットどころか、人間やめます、という世界なのだが、そんな結論も、この本の編集を見ると、太古の昔から、いかに人間が、人間を模した存在を、あるいは鏡像的存在を、制作してきたか、という人間の業から説かれているため、不思議と納得のいくものとなっている。

ギリシャ神話の鍛冶の女神──ということは当時の「ものづくり」の女神である──ヘファイストスがゼウスに命じられてパンドラをつくるところからロボットを語り始めてしまったら、もはやロボットとは、人間存在の隠喩全般を指すものにまで拡大されてしまう。事実上、ロボットとは人間であり、人間とはロボットである、というところにまでたどり着いてしまう。

まさかそんな読後感を、あの第一印象から得られるとは思わなかった。もちろん、ヘファイストスのエピソードなど個々の記述は駆け足のものであり、解説というよりもせいぜい紹介に留まるものだ。そのため、人によっては食い足りないと思うかもしれないけれど、そのあたりは、読後に、個々人の好みや関心のありかに沿って好きに深掘りしてください、ということだ。その意味でも、よくできた入門書であり地図なのである。

本書ではフィクションに登場するキャラクターや現代の最新ロボットだけでなく、初期のプロトタイプも取り上げることでどのようにロボットが進化してきたを描き出す。ページ左の弦楽器を演奏する機械人形「ダルシマー」は、モデルとなったフランス王妃マリー・アントワネットが1784年に購入したという。

第一印象のズレの由来

それにしても、どうしてあのような第一印象を持ってしまったのだろうか。読後は、むしろ、そこが気になってしまい、原書にも少し当たってみたのだが、そこでいくつか納得できたことがあった。

一つは、「私はロボットが大好きだ」という宣言なのだが、これは“I love robot.”だった。つまり、言葉通り、「ロボットを愛している」だったのだ。うすうす感づいていたのだが、やはりそうだった。

これは「大好き」のような「好き」の一点張りではなく、ダメなところ、どうしようもないところも含めて全てを許して受け入れます、という意味の「愛している=Love」なのだ。であれば、ただのマニアックな「大好き」がいっぱいのムックとは異なり、悪いロボット、倫理感を持たない人類の脅威となるロボットまで公平に扱われていたことにも納得がいった。

次に、原書のタイトルが“Robot Takeover”であったこと。要するに「ロボットによる奪取」なわけだが、ここには、ロボットの存在がせり上がってくることで、社会としても個々の人間としてもロボットと人間のハイブリッドな存在が未来を占めていく、というイメージが示唆される。とてもストレートなタイトルなのだ。

そして、実際、原著の表紙には、そうした人間と機械のハイブリッドを示唆するような、ハードでリアルなイラストが使われている。ちなみに、そのイメージは、日本語版でも表紙カバーを取ると実は見ることができる。気がついたときは、どうしてこちらを表紙にしなかったのだろうと、思ったほどだ。

けれども、ここまで来てようやく合点がいった。そのような「尖った」本を、AIBOやアトムをあしらえた表紙と、どこにも未来的理想を示唆するような(政治的)主張もない邦訳タイトルでコーティングしてしまったからこそ、冒頭のようなマニア本としての「第一印象」が生じてしまっていたわけだ。

ここでこの「ズレ」が看過できないのは、どうも、この「翻訳=転換」に、米日のロボットを取り巻く文化状況の違いが反映されているようにも思えるからだ。

最後に少しばかりそのことに触れておこう。

表紙カバーを外すとハードでシリアスなイラストが浮かび上がる。同イラストが使われている原著『Robot Takeover』の表紙はより一層シリアスで、「キャラクター図鑑」のような趣は一切感じられない。

イメージを支える文化的土壌

おおまかにいえば、実はこの本は、今時の「トランスヒューマニズム」に至る道を、映画やドラマを引き合いにしながら紹介した極めて現代的な本だったわけだが、それが日本ではAIBOやアトムなど、あえていえば愛玩用の存在としてのロボットをどちらかといえば懐古的に紹介するようなものとして扱われてしまっている。

ロボットの形象がすでにノスタルジーの対象であること、そしてその多くがヒューマノイドであることが強調されている。このヒトガタへのこだわりは、とても日本的だ。しかも人間らしさが、事実上「優しさ」に翻訳されてしまう。結果として妙にウェットな存在にロボットを位置づけようとしているように見えてくる。そこから「不気味の谷」という問題まで取沙汰され、ことさらにヒトガタロボットと人間との違いが話題になってしまうのが日本のロボット事情なのだ。あるいはAIBOのように愛玩用のペットの存在が強調されるのも日本らしい。クールジャパンの影響も見過ごせないだろう。

これもよく聞く話だが、しばらく前から日本のメカデザインの基調は、human-friendly、すなわち「人に優しい」がお題目になってしまった感がある。特に、日本社会の少子高齢化という傾向の中、まだ商用利用が見えないロボットの開発予算を公的に確保するために介護ロボットがことさらにフィーチャーされたからなのか、必要以上にロボットといえば「ヒトガタ」が連想されるようになっている。

けれども、この日本におけるヒトガタロボットへの偏重は、ロボットの実用化が具体化された2010年代に入り、欧米諸国でヒトガタに限らないロボットが実際に開発されるようになったため、ずいぶんと目立ってきたように思われる。欧米諸国では、ボストン・ダイナミクスのような動物型のロボットや、複数機体による群体的行動すら実現するドローンタイプのロボットが実際に登場することで、ロボットのイメージはこれまでと違ってかなり自由なものになった。用途に応じて、動物や昆虫の行動様式までが模倣対象となっているためだ。

公平のために記せば、こうしたノン・ヒューマノイドタイプのロボットの開発は、アメリカでは多くの場合、スポンサーにDARPA、すなわち軍の研究開発機関があるため、開発目標が明確な分、自由な発想の下で設計が試みられている。その点では、日米ともに「何のためのロボットなのか?」という課題設定に大きく制約されているともいえる。

この本は、そのようなロボットを取り巻く文化的土壌や背景の違いについてもそれとなく教えてくれる。家電産業の衰退によって、消費者向けの商品を世界中に提供する機会が以前よりも減った日本社会においては、それこそ学者やマニアだけでなく、国外との取引もあるビジネスマンにとっても、エンドユーザーが抱く「ロボットのいる未来像」の文化的相違を知る上で示唆に富んでいる。本書はやはりナショジオらしい啓発的な本だったのである。

TEXT BY JUNICHI IKEDA