ヒトラーは、DAPの会合に初参加してから1921年7月の議長就任の間の党勢の伸張を「わが闘争」に生き生きと描いている。1919年にミュンヘン革命が打倒されたときヒトラーは伍長にもなれずの伍長補で、生活基盤は何もなかった。 ところがほぼ二年後にはドイツ軍参謀本部兵站総監にして事実上のドイツ帝国の独裁者だったルーデンドルフと対等に渡り合う、バイエルンの代表的国粋(フェルキッシュ)政党の代表となっていた。ヒトラーは名もない政党をほぼ独力でここまで引き上げたことになる。これはめくるめくような現実だ。 「わが闘争」には事実に反する記載が含まれていることはよく知られている。ところがこの二年間のことは多少の修正は必要かもしれないが概ね正しいものが多い。例えばDAPにヒトラーが始めて参加した1919年9月12日の集会に「わが闘争」で25人前後が参加したとしている。しかるに参加者のサインのある同日付のリスト