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Books&Apps編集部

一年ぶりに会う友人との飲み会で、つい最近、オヤジが死んだと聞かされることがあった。

お正月気分の残る1月の寒中、乾杯に続きまずはお悔やみを伝える。

 

「いいんだ。もういい年だったし、介護も大変だったし」

そんな友人の話に“あてにいきたいこと”があり、少し深堀りする。

 

「実はウチのオヤジ、55歳で死んだんです。でも今から思えば、早死したことを良かったとすら思ってます」

「それそれ!変な言い方だけど、そうなんよ。羨ましいよ」

そこから思いがけず、「親は早く死ぬべき」という話が盛り上がりをみせることになる。

 

新年早々にとんでもない狂人たちだと思われるだろうが、少しお付き合い願いたい。

 

「年上の女性をどう思う?」

話は変わるが、もう30年ほども前の1995年のこと。

年明け1月か2月だったか、大学3年生だった私は大阪伊丹から1人、JALの最新鋭機・ボーイング747-400D型機に乗り羽田に向かっていた。

 

フライト時間はわずか60分ほど。

そんな中、機内サービスをテキパキと済ませたスチュワーデスさん(現在のCA:キャビンアテンダントさん)が話しかけてくることがあった。

 

「こんにちは、桃野さんですね?」

「はい、そうです」

「今日は頑張ってね、一緒にお仕事できるといいですね」

(…??)

 

何のことかわからず、頭が真っ白になり言葉にならないことを答えただろうか。

21歳の大学生にとって、垢抜けた美しすぎるスチュワーデスさんから個人的に話しかけられるなど、まったく意味がわからないハプニングだ。

片思いの女性からいきなり頬にキスされたような、舞い上がりに近い混乱を感じる。

 

さらに着陸間際、別のスチュワーデスさんが安全確認で巡回してきた際にも話しかけられる。

「桃野さん、いよいよですね。頑張ってね!」

「え…?あ、はい!」

2度めは妙に力強く答えた気がするが、なんとなく状況を理解できた。

 

その時私は、JALの自社養成パイロット試験で、役員面接に向かっているところだった。

フライト前、空港カウンターで名前を告げると見慣れないチケットが手渡されたので、きっと社内用のなにかだったのだろう。

そしてCAさんに、顧客情報が共有されていないわけがない。

 

エアラインパイロットになるのは、子供の頃からの夢だった。

しかし航空大学校を2度落ちてしまい、就職活動の年に「最後の悪あがき」のつもりで受験したJALのパイロット試験である。

 

ただ当時は、就職氷河期まっただ中でANAはパイロットの採用を中止、JALもわずか30名まで大幅削減した年だった。

加えて、応募書類にはこんな申告事項まであった。

 

「航空大学校を何回受験したか」

「その時の結果はどうだったか」

「(落ちた人に対して)合格できなかった自己分析を記入」

 

私はそれに素直に、2回受験し、ともに学科は合格したこと。視力が足りずに最終合格できなかったと分析していると記入した。

言い換えれば、「2回が2回とも、視力が足りずに落ちました」と言っているのである。

 

学科で落ちたならまだしも、リカバリーが難しい視力で航空大学校を2回も落ちたというのなら、そもそも書類選考で落とすのが合理的だ。

当時の航空大学校は運輸省(現・国土交通省)の直轄であり、1泊2日の精密な航空身体検査を実施した上で落としたのだから、なおさらである。

にもかかわらずここまでたどり着き、美しいCAさんから個人的にエールをもらうなど、もう夢見心地でしかない。

 

さらにその後も、思いがけない出来事が続く。

羽田空港内にあるJALの施設に到着し、指定された狭い会議室のような部屋で待機していると、スチュワーデスさんが3人、入室してくる。

 

「よくここまで勝ち残ったね。緊張してると思って、ちょっと覗きに来ました!」

「はい、とても緊張しています…」

「リラックスしてね。いつも通りの実力を出せれば、きっとうまくいくから」

「はい、頑張ります」

 

(…騙されるな、これは面接の一部に決まっている。どこかに隠しカメラがあるかも)

警戒し、とにかく気を緩めない。

そんな中、3人目の女性がこんな事をいう。

 

「ところで君は、なぜパイロットになりたいと思ったの?それから、年上のスチュワーデスのことって、どう思う?」

 

パイロットになりたかった理由は、答えた。

年上のスチュワーデスさんをどう思うか聞かれたことについては、どう答えたのか正直、ドキドキしすぎてしまいまったく覚えてない。

 

結局私はこの面接で落ち、パイロットの夢は夢に終わった。

 

ブドウは決して酸っぱくない

ここまで駄文を読んで頂き申し訳ないのだが、お伝えしたいことがある。

先程までのJALスチュワーデスさんとの思い出は、きっと妄想だ。

 

いや正確にいうと、それらしい出来事はあった。

パイロット採用試験で羽田まで呼ばれ、その道中、機内でエールをもらったこと。

面接の前に、びっくりするくらいキレイなスチュワーデスさんに取り囲まれたこと。

その時におそらく、なんとなく茶化した質問にドキドキしたこと。

 

どんな言葉であったかはともかく、平成初期というコンプラ感の時代を考えても、きっとなにかそういうやり取りはあったのだろう。

その上でここでお伝えしたいのは、こんなことだ。

 

長年の夢が破れ、言葉に出来ないほどに辛く悔しい想い出のハズなのに、今となっては美しい記憶に結晶化しているということ。

なんなら、楽しかったことしか思い出せないということ。

レアな体験にワクワクした、若い日の想い出の1ページになっていること。

私はきっと、記憶を美化し、200%増しで上書きしてしまっている。

 

そして話は冒頭の、「親は早く死ぬべき」についてだ。

どう考えても私は、早死したオヤジと“仲良し親子”ではなかった。

悪くもなかったが、特別良いわけでもなく、ありふれた親子関係に過ぎなかった。

 

そんなオヤジが55歳の若さで死ぬと、葬式には驚くほど大勢の人が参列してくれた。

さらに毎年、命日には多くの人が、仏壇に線香をあげに来てくれた。

 

そんなオヤジの“客観的評価”に接しつつ、5年、10年といろいろな記憶が風化していく中、溶け落ちずに最後まで残ったのが「良い思い出」だった。

 

第一志望の高校に合格した時、掲示板の前で自分のことのように一緒に喜んでくれたこと。

職場に無理やり連れて行かれ、自慢の息子だと部下に嬉しそうに紹介されたこと(迷惑だったが)。

深夜に腹が減り冷蔵庫を漁っていると、無理やり車に乗せられ、近くのラーメン屋に連れて行かれたこと…。

 

振り返れば、そんな記憶の断片が強く結びつき、美しく結晶化してしまっている。

55歳という若さで、現役時代に死んだこともありなおさらである。

その一方で、介護で大変だったと語る友人は、

「オヤジのことは、いい思い出だけのままに見送りたかった」

という意味のことを繰り返す。

 

誤解してほしくないのだが、これは

「だから親は惜しまれるうちに、誰にも迷惑かけずにさっさと死ぬべき」

というオチに落とす話ではない。

友人も私も“自分の死に方”を、“親の死に方”に投影しているという話だ。

 

やがてくるであろう自分の死に際して、周囲の皆から惜しまれ、共に過ごした時間を良い思い出として記憶に残して欲しい。

そう思った時、気力・体力ともに充実し、社会のお役に立てている時に死に場所を得るのも、悪い話じゃないよね、ということだ。

親や誰かのことではなく、自分自身の生き方の話である。

 

そしてきっと、もし私がパイロットになれていたなら、昔の記憶はさほど美しくなっていなかったはずだ。

それどころか、人間関係や仕事のストレスに潰され、パイロットを辞めてしまっていれば、最悪の想い出にすらなっていただろう。

 

イソップ童話で有名な「手の届かないところにあるぶどうは酸っぱい」という例えだが、私はそう思わない。

手が届かなかったからこそ、憧れと美しさが色褪せること無く、記憶の中に残り続けることだってある。

失いたくない時に失ってしまったからこそ、追憶の想いとともにいつまでも心に残り続ける、強烈な感情がある。

 

お互いのオヤジを想い、生き方と死に方、死ぬべき時について語り合った、正月早々の酒だった。

 

“門松や 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし”

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など

出張先ではなぜか、深夜に出かけて唐揚げでビール、仕上げのラーメンとかやらかしてしまいます。
出張先だから良いじゃんと思うのですが、良いわけない…(泣)

X(旧Twitter) :@ momod1997

facebook :桃野泰徳

Photo by:Jerry Wang

最近、妻から「先生をバカにする」小学生がいるという話を聞いた。

学級崩壊の原因にもなっているらしい。

 

昭和の「怖い先生がたくさんいる」小学校に通っていた私からすれば、信じられないような話だ。

 

なぜそんなことになっているのか。

篠原信によれば、小学校の教師よりも「学歴の良い」親が増え、彼らが先生をバカにする、という考察があった。

観察し、仮説を立て、接し方を工夫すること

90年代後半から、保護者の親に質的変化が起きた。学校の教師をバカにするという空気。親御さんに大卒が増え、教師よりも偏差値の高い大学・学部を出たと誇る親が目立つように。

これは、私も実際に見たことがある。

 

また、中学受験をする子供たちが増え、「学歴の良い」塾の先生にも、そのような発言をする人がいると聞いた。

実際、10年以上前の記事だが、こんなことを言っている人も存在している。

中学受験こそ日本のエリート教育の本流、東大なんてクソ

当然のことながら彼らエリート中学受験生は、小学校の先生よりはるかに頭がよく、はるかに多くのことを知っている。
特に理科や算数のような科目ではできる子供は際限なくできるので、小学校の教員の無能さには耐えられなくなる時が来る。
当時ひとりの生徒が「うちの学校の先生はぜんぜんわかってなくて、よく間違ったことを教えるんだ。あんな授業受けたくないよ」と僕に打ち明けてきた。
その時、僕は「馬鹿な人に馬鹿といって自尊心を傷つけてしまうととんだ災難に巻き込まれてしまうことがある。そういうときは先生が馬鹿なことに気付かないふりをした方がいい。理不尽と思うかもしれないが、君が大人になったらきっと今日僕がいったことがわかるようになる時がくる」と答えた。

 

だから、「自分で自分の教育をしなくてはならない」という発言が出てくるのだろう。

 

先生がちょっときつくしかると、たちまち親からクレームが来る、という今の状況は、先生にとってはやりにくいだろうな、と思う。

公教育の担い手が不足するのは当然だろう。

 

 

確かに、能力の低い教師もいるし、努力している教師ばかりではないのは事実だと思う。

子供時代にどんな先生に接したかは重要だ。

 

が、それにしても「子供の前でわざわざ」、学歴などに関して、先生をバカにするようなことを言わなくてもいい。

というよりも、子供の前でのその手の発言には、かなり気を付けたほうがいいと思う。

なぜか。

いくつか理由がある。

 

一つ。

経済学者の中室牧子が著作「科学的根拠(エビデンス)で子育て」で、示したように、「学歴」や「IQ」は将来の生活レベルや幸福とあまり関係がないこと。

かつては認知能力が重要だと考えられてきたのですが、2000年前後から、「認知能力が将来の収入の変動の一部だけしか説明できない」ことを示すエビデンスが増えてきました。たとえば、学力テストの個人差は、将来の収入の個人差のせいぜい17%程度しか説明することができないし、IQの個人差に至ってはたった7%程度しか説明できないというのです。

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学歴やIQよりも、よほど「好奇心」「思いやり」「利他性」などの「非認知能力」の方が、長期的には重要となる。

 

二つ。

先生は、学歴と関係なく、勉強をうまく教えられるよりも、社会性を身につけさせる人の方が影響が大きいこと。

将来の成果に与える影響を見てみると、認知能力で計測された付加価値よりも、非認知能力で計測された付加価値の影響のほうが大きいということです。(中略)

性別、勤続年数、出身大学の偏差値などのさまざまな教員の特徴と非認知能力で測った付加価値のあいだにはほとんど相関が見られなかったのです。

勉強を教えることはあまりうまくなくとも、「キッチリと社会性を身につけさせる」教員は、とても貴重なのだ。

 

三つ。

子供時代に、偏った人間観を身につけてしまうと、かなり損をすること。

 

バカな教師でも尊敬しなさい、とまで言う必要はない。

ただ、自分から学ぼうと思えば、人間は誰からも学ぶことができる、と思うことそのものが重要なのだ。

 

特に、普段どうしようもない人物だったとしても、「百歩譲って、この人の優れたところは何だろうか?」という考え方を持っている人は、非常に強い。

なぜならば、これはリーダーシップに不可欠な考え方だからだ。

 

なお、リーダーシップは将来の収入にきわめて大きな影響がある。

分析の結果、高校時代にリーダーシップを発揮した経験がある人は、そうした経験のない人に比べると、高校を卒業して11年後の収入が4〜33%も高くなることが示されたのです。

大人になればすぐに、「万能の人」はおらず、誰もが欠点を抱えており、リーダーは清濁を併せのんで、メンバーを使っていかねばならない。

それが身につかないと、大したことはできない。

 

「尊敬できない人」からでも、学びを得られる人は本物。

私の恩師はこういっていた。

「尊敬できない人」からでも、学びを得られる人は本物である。

 

現代では、何かを成し遂げたり、成功を勝ち取ったり、富を得たりするには、「学び」が不可欠となった。

 

しかし、「勉強」と違って、「学び」は難しい。

コミュニケーション力

リーダーシップ

忍耐力

自制心

やり抜く力

こうした力を他人から学ぼうという時には、最大限、偏見を排して謙虚に振舞うことが必要とされる。

 

しかし、自分の目的とする能力を、必ずしも自分が尊敬している人が持っているとは限らない。

だから「学歴」といった、偏った指標で人間を評価し、人を馬鹿にするような態度を身につけてしまうと、生涯、学びに苦労することになる。

 

柔軟な子供の時に、「あの先生は低学歴だから言うことを聞かなくていいよ」などと、子供の前で言ったり、そのような態度を見せたりすることが、いかに危険で、子供の未来を奪う行為か。

いうまでもない。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」76万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

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Photo:Dmitry Ratushny

このところ、膨大な量の活字を読んでいる。

新しい職場で新しい仕事を始めたからだ。

 

全く未経験の業種で働き始めたので、先ず業界のことが分からない。顧客のことも分からない。要するに、右も左も分からない。

 

しかも、就職先は地方の中小企業である。つまり、マニュアルがない。研修もない。誰も教えてくれやしない。

 

小さな会社では、社員教育にマニュアルなんぞ無くて当たり前なのだ。誰もが自分の業務で手いっぱいのため、指導の余裕もないらしい。OJTもなく、何もかもいきなりぶっつけ本番である。

会社側としては、いい年齢の大人を中途採用しているのだから、

「一から教えなくたって、ある程度のことはできて当たり前だろ? こっちは即戦力として雇っているんだ!」

と、考えているのだろう。

 

まあ、そんなことだろうと覚悟はしていた。新人とはいえ新卒の女の子ではないので、懇切丁寧に教えてもらえるなんて、こっちもハナから期待してない。なので、とりあえず上司に指示された仕事を機械的にこなしつつ、取り掛かったのは読書である。

 

まず始めに、数年分の業界誌を気合いで一気読みして、昨今の業界の状況を把握した。

次に、図書館の地域資料コーナーにて勤め先の社史を探し出し、ネットに載っていない企業情報を頭に入れた。

 

それから、任された業務に役立ちそうな本を手当たり次第に借りてきて、片っ端から読み漁っている。そして役に立つと思った本は購入し、マーカーを引きながら読み返す。

これは楽しむための読書ではない。多量の情報とハウツーを短期間に詰め込むための読書なので、脳みそにめちゃくちゃ負荷がかかる。

 

そうやって寸暇を惜しんで学習しながら、新しい環境や社内ツールにも早く馴染むよう努力するのは、なかなかシンドイ。

こっちは人生の折り返し地点をとっくに過ぎているのだ。新しいことを覚えるのは、どんどん苦手になっている。

 

自分にとって心地よい環境で、慣れた仕事だけしていられたら、どんなに楽だろう。

けれど、気持ちが楽な方へ逃げようとするたびに、

「逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ」

と、私の中の碇シンジが耳元でささやき始める。

そうだ、シンジの言う通りだ。ここで逃げちゃダメだ。エヴァに乗るんだ、私!

 

組織も個人も、変化と挑戦から逃げたら死亡フラグが立つことを、私は商店街に勤めた2年間で思い知ったじゃないか。

 

私が勤めた商店街の歴史を紐解くと、ただひたすら変化に対する拒絶と抵抗の繰り返しだった。

昭和の時代には、周辺地域が発展して新たな有力商店街が出現することを「なんとしても阻止せねばならん!」と、大真面目に議論していた。

 

平成になって、主要駅の周辺に再開発の話が持ち上がると、「あっちが整備されて綺麗になったら、こっちの客が奪われるじゃないか!」と、計画を妨害している。

さらに「地域住民が簡単に都会へ行けるようになったら、地元の店で買い物をしなくなる。そんなことは許さない」と、鉄道や高速の整備にもゴネまくっていたのだ。

 

当然ながら、イオンの進出には血道をあげて反対運動を繰り広げた。それに加え、シネコンの建設にも反対したことで、終いには地元住民の怒りを買い、盛大に批判を浴びている。

 

当たり前である。

住民にとっては、駅周辺が再開発されて都会的な街並みになれば嬉しいし、鉄道や高速道路が整備され、他県へのアクセスが容易になるのは喜ばしいことなのだから。

イオンをはじめとした郊外の大型商業施設の方が、駐車場が無料(←大事なポイント)だし、子供の遊び場もあるし、買い物も楽しい。

話題の映画は、古ぼけた映画館より、最新の設備が整ったシネコンでポップコーンをかじりながら観たい。

 

それなのに、商店街は自分たちの利権と顧客を囲い込もうとするあまり、地域が発展し、地方の暮らしが便利で豊かになることを妨害し続けてきたのである。

消費者の利益を無視して、自分たちの都合を押し付けることにばかり躍起になってきたのだから、見放されるのは当然の結果だろう。

 

けれど、見放されてなお、商店街に残された店主たちは変わることができない。

DXやキャッシュレスを嫌がり、ECにもインバウンドにも背を向けて、二言目には、

「難しいことは分からない」

「面倒なことはやりたくない」

「新しいことは覚えられない」

「今まで通りがいい」

と言い募る。この2年近くの間、私はそれらの言葉を耳にタコができるほど聞いてきたが、そのたびに悲しい気持ちにさせられたものだ。

 

「あと5年〜10年は商売を続けたい」と言いつつも、時代についていく気が全くない者たちが社会的な死を迎えるまで、もはや5年の猶予もないだろうから。

 

そもそも商店街の黄金期に商売をしていた人たちは、実は努力をしたことがない。高度成長期とバブル期は、ただ立地の良い商店街に店を構えているだけで、殿様商売でも面白いように客が入り、真面目に働かなくても左うちわだったという。

金も時間もたっぷりあったから、その時代の店主たちはみな女グセが悪く、当時の商店街は艶談に事欠かなかったと聞いている。

 

つまり、真面目に働かず、そんなことばかりしていたのだ。

親が経営に汗をかく姿を見ていないから、後継ぎたちも押し並べて時代の変化に疎く、経営オンチである例が多い。

 

華やかな時代が過ぎた後も、幸運期に築いた資産で悠々と食べてきた人たちは、まだ商売を続けていても、もはや経営はしていない。

彼らには変わる気がないというより、もともと時代に合わせて変化していく才覚もなければ、新しいスキルを獲得する能力もなかったのだろう。

 

過ぎ去りし過去の栄光にとらわれて、1日でも長く「今のまま」(努力せずとも食べていける幸せ)が続くことを願う人たちに、

「無理に変わろうとしなくてもいいですよ。これまで通りで、どうにかなりますから」

と、言ってあげられたらいいのだけれど、難しい。

 

こうして立ち止まっているあいだにも、世界中で生み出される新しいテクノロジーが、どんどん社会を変えていく。

生成AIごときに驚いてる場合ではないのだろう。やがては自立型AIの普及が始まり、次の10年で社会の有り様は一段と変わるに違いないのだから。

 

その時になって、

「AI? 何それ? 嫌よ、嫌。もう、やめてやめて。難しいことは分からん。ついていけんから、とにかく今まで通りにして!」

と言う人たちに、居場所は用意されない。

 

新しい職場の上司に、

「ゆきさん、長く働いて下さいね」

と声をかけてもらったが、65歳を定年とするなら、まだ後15年もある。

これから15年間、会社が存在し続けられるかなんて分かりっこない。大企業に勤めていたって安泰とは言えないのだから、この会社で定年まで働ける未来を信じられない。

 

だから私は、今日も必死になって知識を詰め込む。会社にとって役立つ社員になるためじゃない。

スキルアップして、私個人の価値を上げるためだ。いつ会社がなくなってもいいように。文章を書く仕事が消えたっていいように。

 

例え今こうして詰め込んでいる知識や、磨いているスキルの全てが陳腐化したって構わない。また学び直せばいいのだ。

 

私には大した学歴がない。資格もない。誇れるようなキャリアもない。

エリートでも何でもない私のような一般人が、かろうじて持っている「時代が変わっても通用する汎用性のあるスキル」って何だろう。

 

それはきっと、変化に対する柔軟性とか、学習意欲の高さとかいうスマートさじゃなくて、

「時代の荒波がなんだ、コノヤロウ! ここで溺れてたまるか、クソが!」

と発奮するド根性ではないだろうか。

 

 

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【著者プロフィール】

マダムユキ

最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。

Twitter:@flat9_yuki

Photo by :Jason W

「貧乏」はなくなった

令和の日本には貧乏がなくなった。

そのことについて書きたい。

 

……と、言ったところで「この時代、みんなが豊かだとでも言うのか?」、「困っているひとはたくさんいるぞ」、「そもそも、おまえに金があるのか?」などといろいろな声が飛んできそうだ。

なので、もう少し詳しく書く。「昭和のころにあった『貧乏』特有の概念は薄れてなくなり、令和の今にあるのはただ『貧困』や『困窮』である」と。

 

これならばどうだろうか。昭和の時代に、あるいはバブル崩壊前、失われた30年より前に物心あった人ならば、少しは共感してくれるかもしれない。

 

令和のいま、「貧しいけれど楽しい我が家」的な「貧乏」に含まれる、ある種のユーモアや前向きさはほとんど失われているように思える。かぎ括弧付きの「貧乏」。あるいは、カタカナで「ビンボー」と書いた方がいいかもしれない。

 

東海林さだおの時代

東海林さだおを知っているだろうか? 知らなかったら検索すればいい。

おれにとっては、おれは幼少期におれの日本語を形作ってくれた文筆家だ。おれは東海林さだおのコラムを読んで、「漫画でなく文章でも面白いものがあるんだ」と知った。おれの日本語の根幹には東海林さだおの影響が大きい。

 

して、おれが「令和に貧乏はないな」と思ったのは、貧乏についての本を読んだからだ。東海林さだおの『貧乏大好き~ビンボー恐るるに足らず』というアンソロジーである。令和に書かれた新作ではない。かなり昔、それこそ昭和ど真ん中くらいのコラムも収録されている。

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冒頭に、こう書かれていた。

貧乏を恐れてはいけない。
かといって親しむものでもない。
むろん憧れるものでもない。
仲良くしようとして近寄っていくものでもない。
わざわざ近寄っていかなくても、ちゃんと向こうから近寄ってきてくれる。
貧乏神というものはいつのまにか家の中に居座っているものなのである。
戦争が廊下の奥に立っていた
という俳句があるが貧乏神もちゃんと廊下の奥に立っている。

もう、これだけで「貧乏」のニュアンスと、いま語られている「貧困」との差を感じないだろうか。「貧乏神」にはまだ余裕が感じられる。貧困に神がいるなどと言ったら、不謹慎と指弾されることだろう。

 

さらにこう続く。

貧乏はイメージが暗い。
貧という字を見ただけで暗い気持ちになる。
貧という字を見て急に希望が湧いてきたという人がいるだろうか。
赤貧洗うが如しを読んで、頭に虹が輝いたという人がいるだろうか。

東海林さだおは「貧乏」を分解してこう述べる。たしかに「貧」にいいイメージがないのは確かだ。ただ、おれのあたまには一つだけ「貧」がついてある種の人たちが喜ぶ単語が思いついたが、ここで書くのはやめよう。

「貧」だけですでにこのように荒んだ気持ちになっているところへ「乏」の字が追いかけてくる。
乏しい。
「少ない」「足りない」「不十分」。
お金に「乏しい」ことを「貧乏」という。
なにもそんなにしつこく追いかけてこなくてもいいじゃないか。

「乏しい」もたしかに歓迎したくない言葉だ。たしかに「貧乏」という言葉はしつこい。

貧乏は逃げきれるものでないことは誰もがわかっている。
だが向こうはどうしても仲良くしたいのだ。
だったら、その熱意にほだされてみるのもいいのではないか。
向こうはこっちに恋い焦がれているワケです。
応えてあげるのが人の道。
開き直って、
「大好き!」
と受けとめてあげるのが人の道というものではないでしょうか。

して、ショージ君(いきなり「東海林さだお」のことをショージ君と呼び始めるけどとくに意味はないです)はこのように締めくくる。

 

これを読んで「ケシカラン!」と思う人も少なくないのではないか。だが、それは時代のずれというものだ。「貧乏」は「貧乏」、ショージ君の貧乏は昭和の貧乏であって、令和の貧困ではないのだ。おれはこの記事で「違うんだな」ということを言いたい。

 

それにしても、「貧困大好き!」などと言おうものなら、だれにも共感されず、非難され……る、以前に言葉がおかしい。

 

そうだ、「貧乏」は貧しく乏しいだけであって、それ自体に感情は入っていない。しかし、「貧困」は「困っている」のだ。「困っているけど、大好き」などというのは、高度なラブコメで用いられる状態であって、普通はつながらない。

「困窮」にしたってそうだ。「窮している」のだ。「窮」の文字の力は貧や乏や困よりもあまりに強い。なにって、見た目が。

 

「貧乏」の実例

東海林さだおには庶民の目がある。コンビニができる前からその目で社会を見てきた。コンビニができても見ている。こんなエピソードがあった。コンビニでおでんの話だ。

オジサンはレジ係を見た。
女子高生のバイトのようだ。
それを見たオジサンはもう半杯、おツユを容器に入れた。
おとなしそうな人だったからだ。
おでん四品はとっくにおツユの中に水没している。明らかに良識の域を超えている。
オジサンはおでん四品、おツユタプタプの容器をレジに差し出した。
レジ係は容器を受けとり、容器の中をしばらくの間じっと見つめていた。
オジサンはドキリとした。
「いよいよセコムか」
翌日の日刊ゲンダイに、
「中年男、コンビニでバイトの女子高生のバイトをおどし、おでんのツユを大量に持ち去る」
というような記事が出るのだろうか。

いろいろの事情でいまどきセルフでおでんを入れるコンビニもないような気がするが、それも時代か。それはそうと、まあこんな細かく、せこい話が「貧乏」の話だ。

 

せこいといえばこれはどうだろうか。

歯を磨こうとしていた。
歯磨きのチューブを何気なく押すと歯ブラシの上に4センチほどが出てしまった。
明らかに出し過ぎである。
2センチは余計に出ている。
何とかならないか。
このときの残念な思いは思いのほか強い。
一度チューブから出た歯磨きは絶対に元に戻すことはできないことは誰もが知っている。
それなのに「何とかならないか」と思ったところがせこい。
「何とかならないか」と2秒ほど迷ったのだが、その2秒がせこい。
2秒迷ったのち、どうにもならないことがわかり、
「ま、いいや、たまには贅沢に使ってみるか」
と、その4️⃣センチをそのまま使ったのだが、2センチだけ余分の歯磨きを「贅沢」ととらえたところがせこい。
せこい、と気がついたところがせこい。

このくらいになると、なんとなく令和にも通用しそうな話じゃないのか。そんなふうにも思う。

このくらいの小さな話になると、なにやら普遍性みたいなものがあるんじゃないのか。さすがに「本当に貧しくて困っている人は歯磨きなんか使えないのだ! ケシカラン!」という人は……いるかもしれない。「風呂キャンセル界隈」のように、「歯磨きキャンセル界隈」などと論じられるかもしれない。

 

不適切にもほどがある

そうだ、いまどきは、コンプライアンスというのか、マナーというのか、ネットを舞台にしたマナー戦争の時代でもある。この令和において、「牛丼屋の紅生姜はどのくらい食べていいのか」などは、無駄に炎上して止まらない話題かと思う。冷静な判断ができる人なら、「今日は紅生姜たくさん食べたくなったから、こんなに盛っちゃったんだよね」とかいって、SNSに画像をアップすることはないだろう。自ら燃えて注目を浴びたいというなら別だが。

「この世にタダのものなど一つもない」
と思っている人は多いかも知れない。

ショージ君はこんなことを言い始めてしまう。炎上の予感だ。

こういう人はロマンのない人である。
この世にタダのものは存在するのである。
牛丼屋の紅生姜がタダである。
立ち食いそば屋の刻みネギがタダである。
さっぽろラーメン屋のおろし生にんにくがタダである。
紅生姜と刻みネギと、おろし生にんにくの存在をもって、この世にロマンはあるとする理論は多少の無理があるかもしれない。

もう、この時点でアウトの匂いが強い。牛丼屋の紅生姜はタダといってよいのか? という話になると、もう「ロマン」とか茶化しても受け入れられない。

ぼくはどういうわけか、こうしたタダのものを眼前にすると興奮するたちである。
冷静ではいられなくなる。
まず「より多く確保」という精神が芽生え、次に「この状況の中で損をしてはならない」という思いが胸中を駆けめぐる。
当然中腰になる。
もともとがタダのものであるから、損をするということは考えられないのだが、
「タダの限界ギリギリまで確保しなければ損をするぞ」
と思ってしまうのである。
「もし損をしたらどうしよう」
と思い、もしそうなったら、
「大変なことになる」
と思ってしまうのである。

して、ここまできたらもう炎上確実に違いない。みんな冷静ではいられなくなる。中腰でレスバの準備を始める。今はそういう時代だ。

 

べつにおれは「昔はよかった」と言いたいわけではない。ただ、「時代は変わった」というだけなのだ。ショージ君を読んで育ったおれも、今現在この文章を読むと、「大丈夫か?」と心配したくなってくる。

 

20年前はもう昭和じゃなかった

昭和と現在の間に「平成」もある。いまから20年以上前だろうか、学生かニートだったおれは、たまに2chを読むこともあった。あるとき、ふと漫画に関する板を見ていて、東海林さだおのスレを見つけた。

 

どんなことが書いてあるかといえば、「いまどきサラリーマン漫画で寿司屋が出てくること自体おかしい」、「東海林さだおは成功者だから庶民目線で何か描くのは無理がある」といった非難であった。

 

おれは東海林さだおの崇拝者なので、「なんだそれは」と思って、スレを閉じた。だが、一方でそれはとても気になる指摘でもあった。だからいまでも覚えていて、こう書いている。

 

たしかに、おれが子供のころに読んだ東海林さだおのコラムや、サラリーマン4コマは、古い昭和のものだった。まあ、そのころも昭和だったが、おれが読んでいたのはさらにさかのぼって昭和40年代、50年代のものが多かったかと思う。

 

そのころの昭和サラリーマンと平成のサラリーマンには価値観の断絶がある。あったのかもしれない。そのことについて、おれははっきりわかっていなかったのだ。昭和の時代の牛丼屋と、デフレ時代の牛丼屋。そしていま、インフレ傾向にありつつ収入が増えていないなかでの牛丼屋。シンプルなオリジナルの牛丼自体は変化していないのに、それを見る目は変化している。

 

さきほど、読んでいて心配になってくると感じたおれもまた、変化してしまった。立ち返ってみてわかることもある。

 

ただ、金持ちの世界はわからんよな

ただ、あれだ、「貧乏」と「貧困」の違い、変化はわかっても、おれは金持ちになったことはないから、金持ちの世界はわからない。回らない寿司屋、といった陳腐化した言い回しをするが、そんなところに入ったことは45年生きてきて一度もない。

寿司屋のオヤジというものは、もともと客を馬鹿にしようと待ち構えているものなのである。
特に高級な店のオヤジがそうだ。
〝客を馬鹿にして何十年〟というオヤジが、何とかして客を馬鹿にしようと、手ぐすね引いて待ち構えているのだ。
客のほうは、(寿司屋で何とか馬鹿にされまい。何とか恥をかかずにすましたい)と思って、いろいろ勉強して出かけて行くのだが、それはムダなことだ。
何しろテキは、〝この道ひとすじ。客を馬鹿にして何十年〟というその道のプロなのだ。

こんなのを読むと、「そうなのだろうな」と思ってしまう。寿司屋のカウンターでどう注文すればいいのか。もっとも、おれは回る寿司にもいかないので、いまどきのタッチパネル注文の仕方も自信ないが。

なぜ人は、寿司屋でおびえ、緊張し、店主を敬い奉ったりするのであろうか。
その理由はただ一つ、寿司の値段が高いからである。
あさましい話ではないか。
あさましい世相ではないか。
金権主義、金至上主義が、寿司屋にまで及んでいるだけの話なのだ。

これは令和でも通用するんじゃないのかな。してもよくないか。いや、おれが貧乏、いや、貧困なだけだろうか。そこのところはよくわからない。妬み、僻みだろうと言われると、たんにそうなのかもしれない。

 

とはいえ、寿司の正しい食べ方なんてない。高級店によっても食べる順番や箸で食べるか手で食べるか、言っていることが違うという。

要するにです、寿司はどう食ったっていいのです。
客はヘコヘコする必要は少しもないし、店のオヤジが威張るいわれもないのだ。
ホテルの中の超高級店に行っても、堂々としていればいいのだ。
ヘコヘコじゃなく、ズカズカと入っていって、ドッカリとすわり、
「おう、オヤジ、きょうは何がうまいんだい。一番うまいやつを握ってくれィ」
と言ってやるべきなのだ。
そのあと、どうなるかは責任持たないけどね。

まあ、そうなるだろうな。……とかいう話も、「そもそも街のお寿司屋さんに対する偏見だ」とか、「寿司が高いとかバブル時代の意識を引きずっている」とか言われてしまうのだろうな。

 

時代が変わっていくことをみんなで書き留めよう

というわけで、久々にショージ君の「貧乏」話を読んでみて、「あ、時代が変わっている」ということを実感した次第。この実感というのは、「あ、炎上するんじゃないのか」みたいなセンサーが働いた実感だ。

 

とはいえ、時代が変わったことについて言及できるのは、余程の研究家か、さもなければ実際にその時代を生きて、変化を感じた当事者だろう。おれも少し長く生きた。昭和、平成、令和。1970年代から2020年代。おれより若いひとは、東海林さだおが書いたことに面白みを感じないかもしれない。そもそもなにを語っているのか理解不能かもしれない。

 

でも、おれには面白かったこともわかるし、令和には通用しないかもしれないこともわかる。だから、そのことをちょっと書き留めたくなった。令和には「貧乏」がなくなっていた。

 

若い人に昔のことをわかってくれとか、そういう時代に育ったのだから、中高年の不適切さを許してくれとも言わない。

 

ただ、こんなふうに気づいたことがあったら、ちょっとどこかネットに放流してほしい。平成に育った人間から見た令和も、またおれとは違う光景なのだろう。おれはそれを知りたい。もちろん、昔の話も知りたい。江戸から明治になったりしたら、その変化はすごいものだったりする。
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というわけで、研究者は文書から、われわれは生活のなかから「逝きし世の面影」を書き留めよう。そしてネットに流そう。ひょっとしたら、百年残るかもしれない。もっとも、それが炎上しても、どうなるかは責任持たないけどね。

 

 

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【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Towfiqu barbhuiya

この記事で書きたいことは、以下のようなことです。

 

・塾の先生が「お勧めしたゲームをちゃんと遊んで感想をくれる人」でした

・生意気な子どもだった私も、「その先生の言うことだけはちゃんと聞かねば」となりました

・「真剣に聞いてくれる」「何かを共有出来る」相手だと思うと、子どもの側でも真剣に話を聞く姿勢をとりやすい気がします

・また、「自分が好きなコンテンツを、相手も好きになってくれる」というのはもの凄く楽しい体験です

・子どもに読書をさせたいなら、親自身本を読むのももちろんですが、子どもがお勧めする本を親が真剣に読むのも大事かもと思います

・子どもにも「お勧めする楽しさ」を知って欲しいと思っています

 

よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

 

昔話から始めさせてください。

30年くらい昔の話です。当時の私はまだ中学生で、名古屋の上社というところに住んでいました。

路線でいうと地下鉄東山線、名古屋の北東の隅の方です。上社~藤が丘間だけは地下鉄が地上を走っているのですが、幼少の頃の私は「地下鉄」なのに何故地上を走っているのかがよく分からず、「日曜日は地下鉄で」という当時のキャッチフレーズを真に受け、「普段は地上を走ってるんだけど日曜だけは地下鉄に変形するんだな」と完全に勘違いしていました。

 

初めて一社方面の地下鉄に乗って、電車が地下に潜って行った時の「こういうことだったのか!」という鮮烈な驚きは今でも忘れません。子どもの勘違いというものは時に妙な感動を生み出すものです。

 

中学に入った頃の私は、小学校までは得意科目だった算数の成績をだいぶ落としていました。初歩の算数は特に勉強しなくても出来ていたところ、数学になって汎化した概念を理解出来ずについていけなくなる、その典型的なパターンだったと思います。

そこで心配した親が塾に通わせてくれたようで、それがしんざきにとって初めての通塾の記憶になります。

 

その塾で数学を教えてくれた先生のことを、ここでは仮にA先生とします。

当時の私はいかにも生意気な子どもで、根拠のない自信に溢れており、しかも大人の話をあまり真剣に聞いていませんでした。勉強なんて真面目にやらなくても出来るし、たまたま成績が悪くてもちょっと頑張ればすぐ取り返せる、と。なんなら、周囲の大人よりも自分の方が頭がいい、とまで考えていました。今から考えると実に浅薄な話で、学校の先生もさぞかし扱いにくかっただろうと思います。

 

ただ、そんな生意気な私も、A先生の話はきちんと聞いていましたし、A先生が「こうするといい」と言ったことは、かなり素直に受け入れていました。私にとってA先生は「周囲の大人とはちょっと違う人」であって、「この人のいうことは真剣に聞かないと」と思っていました。

 

それは何故かというと、端的に書くと「A先生に「新桃太郎伝説」をお勧めしたら、ちゃんと遊んで感想を教えてくれたから」でした。

 

***

 

「新桃太郎伝説」ってゲーム、皆さんご存知でしょうか?色んな昔話をごった煮にした和風RPG「桃太郎伝説」のSFCでの続編でして、一言で表現すると「バランスに多少難はあるものの、和風の世界観とシナリオ、仲間を使い分けた攻略や様々な演出が超面白いゲーム」です。

「桃鉄」に登場するキャラクターが元々出演していたRPGのシリーズ、といった方が通りが良いでしょうか。

 

天気によってキャラの強さが上下するシステムとか、仲間が好き勝手歩き回るフィールドの演出とか、ただひたすらに広い希望の都とか、前作と打って変わってシビアなシナリオとか、まあとにかく遊び甲斐のあるゲームでした。あとBGMがめちゃくちゃ良い。

 

特に「ましら」という仲間の能力が際立ってまして、「実際に画面上に表示される鍵盤から3つ選んで打鍵し、その組み合わせで様々な効果を発揮する」という、他に類を見ない特色をもっていました。この「ましら」を上手いこと使いこなしてゲームを攻略することに、当時の私は大変ハマっていたわけです。まあ、あまり細かく新桃の話をしているとそれだけで1万字くらいになりそうなので、これくらいにしておきますが。

 

で、とある授業の際、「家にスーパーファミコンがあって、子どもがたまに遊んでいる」というような話をしたA先生に、話の流れで私は「新桃太郎伝説」をお勧めしたわけです。上記のようなゲームの面白さを力説したのでしょうか。

 

で、このA先生の何がすごいって、次の授業の時本当に「新桃太郎伝説買った!!」とおっしゃいまして。その後も、「希望の都ついた!!」とか「風神雷神が強すぎるんだけど」とか「大江山がひど過ぎる」とか、実際に自分でゲームをプレイして、授業の合間にちょくちょくゲームの話で盛り上がったのです。

 

この時だけではなく、その後もA先生、私が「面白い」と言ったゲームや漫画を、ちょくちょく実際に買って遊んで/読んでは、その度私に感想を話してくれました。

 

実を言うと、「自分がお勧めした本やゲームを大人が読んでくれた」って経験、当時の私には衝撃的だったんですよ。

なぜかというと、「子どもが楽しんでいるコンテンツを、大人は基本的に相手にしてくれない」と思っていたから。

 

当時は今ほどゲームや漫画が市民権を得ていなかったということもありますが、「ゲームを遊ぶ/漫画を読む」という趣味をおおっぴらにしている大人はかなり希少でした。ゲームは「子どもが遊ぶもの」でしたし、子どもが好むコンテンツは基本「子どもだまし」であって、大人が真剣にそれを摂取しようとすることは、少なくとも私の周囲では殆どありませんでした。

 

今から考えれば、まあ無理もない話ではあります。ある程度年を食ってくると、新しいコンテンツを摂取するハードルってどんどん上がりますし、時間だってお金だって限られます。ゲームなんて普通に遊ぶだけで数十時間食うのはざらでして、たとえ「面白そう」と思ったとしても、そう気楽に手を出せるものではありません。「面白い」という感覚の違いだって、面白さを感じる為のバックグラウンドの違いだってあるでしょう。

 

そこから考えると、むしろ当時のA先生の方が特異点というか、相当頑張って時間やその他もろもろのリソースを捻出してくださっていたのだろうと思います。

 

とはいえ、斜に構えていた私が、「新桃太郎伝説」を契機にすっかりA先生に私淑して、「この人の言うことはおろそかに出来ない」と認識していたことは事実です。もとよりA先生の教え方は大変分かりやすく、勉強のノウハウも色々教えていただきました。その後私に学習の習慣がついたのも、数学の成績が改善していったのも、一つにはA先生のおかげなのだろうと思います。

 

これがA先生の狙い通りだったのかどうか、今となってはよくわかりません。生徒一人の成績を改善する為にゲームを何本も買うのもちょっとしんどい話ではありまして、もしかすると本当にA先生はゲーム好きで、単に私のお勧めしたタイトルが性にあっただけだったのかも知れません。どちらかというとその方がいいなあ、とも思います。

 

***

 

「子どもが本を読まない、読書をしない」という親御さんの悩みを、昔からちょくちょく聞きます。ひと昔前は「ゲームばっかり遊んで本を読まない」だったかも知れませんが、最近は「youtubeやTikTokばっかり見て本を読まない」になるのでしょうか。

 

そういう悩みに関して、これまたよく聞く言葉として、「そういう親自身は本を読んでいますか?」というものがあります。

 

普段過ごす環境が「当然のように本を読む環境」になっているかどうか、周囲の人たちが「ごく自然に本を読む」人かどうか。「本を読む」という文化がごく普通のものかどうか。子どもの読書習慣について、その辺が重要なのは確かなのでしょう。両親が読む本の冊数が多くなるほど子どもが本を読む頻度も増える傾向がある、という研究もあるようです。

 

本なんて楽しいから読むものであって、興味がない子に無理に読ませるようなものではないと思うんですが、まあ「楽しい本に出会う機会」「ごく自然に本を手にとれる環境」は用意してあげた方が望ましいのかも、というのは大筋で同感です。読みたい本があれば勝手に読むでしょ、とも思うんですけどね。

 

ただ、そこにもう一つ付け加えるとすれば、

「親が「この本を読みなさい」と勧めるばかりではなく、子どもが「これ面白いよ!」とお勧めしてくれた本や漫画やゲームのようなコンテンツを、親も真面目に摂取してみるのはいかがでしょうか」

とも思うのです。

 

まず、「自分が面白いと思うコンテンツを、他人と共有して一緒に楽しめる」って、言うまでもなくめちゃくちゃ楽しいんですよね。驚きを、感動を、笑いを、憤りを、悲しさを他人と共有できる。「そうそう、それそれ!」で盛り上がれる。あるいは、単に「いいよね……」「いい……」で通じ合える。

 

ある程度コンテンツに真剣に向き合っている人なら、誰もが「他人と共有する楽しさ」というものを知っていると思います。自分一人でも楽しいけれど、誰かと一緒だと二倍楽しい。

 

まず、この「誰かと一緒に楽しむ喜び」というものを知ってもらう、それによってますます本やゲームのようなコンテンツに真剣に、主体的にのめりこめるようになる、という要素は、一つ間違いなくあると思うんです。まず、「お勧めする喜び」「お勧めしたものをちゃんと読んでくれて、その感想を共有できる喜び」というものを知って欲しい。

 

もちろん上で書いたA先生のように、「自分が面白いと思ったことに共感してくれる相手」とは、それだけ真剣にやり取りできる、という側面もあると思います。同じ土俵に立った相手とは真剣に取り組まなくてはいけない。ただ「親子」というだけの関係性だけではなく、「コンテンツ仲間」という関係性をもっていることによってコミュニケーションが円滑に進む部分も、おそらくあるんじゃないかなーと。

 

私、子どもが3人いまして、3人とも本来結構難しい年ごろだと思うんですが、それでも普段からべらべら色んなことを喋れるのって、多くはこの「コンテンツの共有」を入り口にしたものだと思ってるんですよね。上の子が高校生になっても、未だラノベの話で一緒に盛り上がれるというのは、つくづく幸せなことだと思います。

更に、「純粋に、自分が知らなかったコンテンツと出会う機会になる」。

 

子ども向け漫画でも、絵本でも、動画でも、「これ、子どもに言われなかったら絶対触れなかったな」と思うコンテンツって、実際のところめちゃくちゃ多いんですよ。そして、真剣に摂取してみると、誰かを夢中にさせるだけのことはあって、やっぱり面白いもんは大変面白い。氷の城壁も、河野裕先生も、「氷の上のプリンセス」も、「世界でいちばん透きとおった物語」も、全部子どもからの「お勧め」で知りました。もちろん「これは合わんな」ってものも当然あるんですが、打率で言うと「おもしれー!」と思うことの方がかなり多い。

 

私もそれなりに色んなコンテンツにアンテナ張ってるつもりではあるんですが、さすがにこの年になると感覚も鈍ってくるもので、漫画でも動画でも、なかなか新しいものを見つけてくるのが難しくなっても来るんですよね。そこに、子どもたちが「こんなのあったよ!」「面白いから読んでみ!」と勧めてくれるのは、本当、オタク冥利に尽きるなーと思う次第なのです。

 

これも先ほど書いたとおり、リソースというものは有限です。時間もお金も体力も限られていますから、「お勧めされたものを全て摂取する」というのはちょっと難しいです。

 

とはいえ、子どもと「コンテンツ仲間」であり続けるためにも、自分が何かをお勧めするだけではなく、子どもの「お勧め」を今後とも出来る限り真剣に摂取していこう、と。

そんな風に考える次第なのです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:Taylor Flowe

「正直者は得をする」という言葉がある。

 

素晴らしい言葉だし、事実でもあろう。

「正直」の対義語は「うそつき」だろうが、少なくともうそつきは世渡りの大敵であり、これは是が非でも避けなければならない。極端な例外を除いて、うまく世渡りを続けている人は皆、正直さを大切に思っていると私は確信している。

 

ただし、「正直」はただ積み重ねれば得をするものではないとも思う。むしろ、無思慮に正直を積み重ねてまずいことになったり、社会的に損をする場面も多いように思う。

では、どう「正直」であるべきか?

 

私は、正直ってやつはそのままではロクなもんじゃないと思っている。

いわば、「加工」してないと「正直」は食えたものじゃない、という側面もあるように思うのだ。まずは以下をご覧いただきたい。

とある日の生放送中、5分休憩から戻ってモニターに目をやった瞬間、寒気がするほどの罵詈雑言の数々が、殺意を持って画面上から這い出てきた。

『生きている価値ないよ』『はよ消えろ』『ゴミクズ』『存在価値ないよ』
5分足らずで100件近く、この類いのブラックワードが立ち並び、僕に襲い掛かった。
中には通報したら逮捕されるのではないか、という度を超えたものも存在したため、数人をその場でBAN制裁した。

上掲は、子どもを相手取ってネットの実況をやっていた方の記事からの抜粋だ(残念ながら、この方のブログは消滅してしまって、私の手元に残った文章はこれだけである)。

ここに書かれている子どもたちの反応は、きわめて「正直」なものだ。子どもの正直はときに残酷で、誰からも咎められるおそれがないとわかった時、その残酷さが剥き出しになる。

 

しかし、このような反応は世間で許されるものではない。たとえ「正直」でも、こういう物言いを繰り返している人は損をするし、子どもはそのことを学んでいかなければならない。

小中学生が動画の荒れたコメント欄に書き込む時の「正直」と、社会人が世間で期待される「正直」には大きな違いがある。

 

これは、何かを非難する時に限ったことではない。「カネが欲しい」「異性が欲しい」「承認欲求をみたしたい」といった欲求はどこにでもあろうが、その「正直」を無加工でゴロンと目の前に差し出された時、人はしばしばドン引きする。

プリミティブな欲求に正直であることは決して悪いことではないが、アウトプットする時、世間や第三者に受け入れられやすいかたちで「加工」できなければ、その正直さが仇になることもあるだろう。

 

ちなみに、「正直」の「加工」とは、「嘘」をつくことではない

嘘をつけば、他人に対して嘘を貫かなければならなくなる。嘘がばれなくても、隠しとおすために精神的負荷や記憶的負荷がかかり続けるのは大問題だ。だから「正直」を「加工」したつもりで嘘をついてしまう人は、じきに行き詰まる。

 

もちろん、「正直」の「加工」が自己欺瞞であってもならない。

自己欺瞞は、自分自身に対して嘘をつく所作である。これにも精神的負荷がかかるし、(精神分析でいう)防衛機制のメカニズムから考えて、自分自身の認知や認識に盲点をつくってしまうおそれが高い。

 

だから、自分の内心にある「正直」の一番似つかわしい部分を点検したり、社会的に最も似つかわしい姿にフォルムチェンジさせたりして、自己欺瞞に陥らず、なおかつ自分自身と「正直」が喧嘩しないような均衡点を探さなければならない。

人のなかの「正直」とは、必ずしも一面的ではない。たいていは多面的だ。そのことを利用すれば、「正直」の「加工」は決して無理ではない。

 

たとえば「カネが欲しい」の場合、カネが欲しいという正直を無加工でゴロンと差し出すのでなく、カネを稼ぐ過程でやりたいことや、自分が得意なことと関連付けて語ったり考えたりしたほうが良い場面がある。

そうした関連づけを自分の内心と矛盾しないかたちでできる人と、関連づけできずに無加工で差し出してしまう人では、主観的には同じ正直者でも、社会や第三者に受け入れられる確率、その正直が報われる確率は違ってくる。

 

加工に失敗し、嘘をつかざるを得なくなってしまうのは厳しいことだ。つい、他人や自分自身に嘘をついてしまう人のなかには、正直の加工がうまくないせいでそうなっている人が一定の割合でいるように思う。

 

「異性が欲しい」「承認欲求をみたしたい」なども同じだ。これらの正直を、無加工で出して構わない場面が無いわけではない。とはいっても、多くの社会関係のなかでは、適切に加工ができていなければその正直はひんしゅくを買うだろう。

 

自他に嘘をつかないかたちで・これらの正直をうまく加工して出せる人ほど、異性や承認にかえって手が届きやすい。

たとえば嘘をつくことなくモテている人は、だいたい正直の加工やフォルムチェンジが上手い。彼らが正直を積み重ねて得をしているのは事実だが、その正直とは、まるで精密機械部品のようにしっかり加工されていて、しかも、社会関係のなかでの正直の積み重ね方も上手いのである。

 

逆に、どれほど正直を積み重ねていても、無加工の欲求を無分別に言い散らかしているだけの人は、絶対にモテない。異性や承認がどんどん遠ざかってしまうだろう。世の中は、だいたいそんな風にできている。

 

「正直」の社会化

ここまで、正直を加工するという表現を使ってきたが、もう少しそれらしい表現をするなら、正直の社会化、ということになるだろうか。

 

プリミティブな欲求やエモーションを生のまま出すのでなく、場面のTPOや相手の立場や理解力などに即したかたちで加工してはじめて、正直は人間関係のなかで受け入れられるものになる。あるいは、受け入れられる確率の高いものになる。社会的動物としての人間は、そうやって正直の適切な加工を幼少期から学び始めて、生涯をかけて学び続けていく。

 

こうした正直の社会化は、年齢が高くなったり社会的立場が変わったりすると求められる度合いが高くなるため、小中学生に求められる度合いと就活中の若者に求められる度合いとアラフィフの中年に求められる度合いはかなり違う。SNSなどでも、フォロワー数が1000人と10000人と100000人では違うだろう。

正直を適切に加工する技量が年齢や社会的立場に追随できなくなると、正直をとおして得をするのは難しくなり、損をしやすくなる。

 

社会人の生え抜きコミュニティでは、えてして、そういう正直の加工がハイレベルに行われ、それが当たり前になっていたりする。

なるほど、彼らは正直を積み重ねて得をしている。だが単に正直だから得をしているわけではなく、正直を精密機械部品のように加工し、社会関係のなかで注意深く運用しているから得をしているのである。

 

「正直者が馬鹿を見る」という言葉もあるが、馬鹿をみやすいのは、正直の社会化がうまくやれない人や、正直の社会化に失敗したあげく嘘をつかざるを得なくなってしまう人ではなかったか。

 

正直の社会化の程度や技量が、絶えず、皆に問われているのだと思う。

 

コミュニティの背景をよく読み、節度を守って。

なお、正直を加工すると言っても限度があるし、どんな加工がどの程度まで許容されるのかは、コミュニティの背景によってかなり変化し得る。

たとえばBlueskyのタイムラインで許容されやすい正直の加工と、X(旧twitter)のタイムラインで許容されやすい正直の加工は、おそらく異なっている。時代や政治情勢によっても左右されるかもしれない。だからコミュニティの背景や状況をしっかり踏まえておくのも、正直の加工に際して大切なことだと思う。

 

とはいえ、そうやって周りをキョロキョロ見渡しながら、自分のうちにあったはずの正直に加工を加えすぎてしまうと、やがて、自己欺瞞や嘘とどこが違うのか、甚だ怪しい境地にたどり着いてしまうかもしれない。

過ぎたるは猶及ばざるが如し。やりすぎて嘘になってしまっては元も子もありません。

――『シロクマの屑籠』セレクション 2018年11月31日投稿 より

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:Giulia Bertelli

前回の記事で、八村塁選手の現在地を客観的に把握するための指標として

NBA「年俸偏差値」を公開しました。

NBA「年俸偏差値」から見えてくる八村塁の「格」と河村勇輝が超えるべき「壁」

 

日本で偏差値と言えば、受験時の偏差値ランキングを思い浮かべる人がほとんどだと思いますが、

実は受験偏差値こそ本当の偏差「値」を示していません。

 

予備校が実施した模試をベースに、予備校が独自の算出方法で「指標」として示しているにすぎません。そもそも大学の合否は偏差値で決まるのではなく、当日の点数で決まります。

※参考:合格可能性評価について | 成績統計資料データ | 全統模試案内

 

一方このNBA年俸偏差値は「リアル」です。

下一桁まで公開されている全選手の年俸を偏差値の定義に則ってそのまま換算した数値だからです。

引用データ元:basketball-reference

 

NBA選手の年俸を偏差値化してみるとあまりにも見事に「序列」が見える化されることに気づいたことが、このNBA偏差値ランキングを公開した大きな理由です。

NBAウォッチャーなら誰もが感じる選手の「格」というものが本当にあったなと(笑)。

後述しますが、その序列が生まれるには明確な理由があります。

 

ただし、年俸を偏差値換算して選手の実力を比較する際にとても重要な条件があります。

それは全員が同じ条件下に年俸契約をしていることです。チームごとに年俸の支払い条件が異なれば、必ずしも選手の実力が年俸に反映されるとは限りません。

 

例えば、日本のプロ野球の場合、入団するチームによって年俸の支払われる条件が全く変わります。

個人成績、チーム成績が個人の年俸に影響するのは当然ですが、根本的に親会社の資金力によって年俸の多寡が決まるからです。それはチームの平均年俸を見れば明らかです。

日本プロ野球選手会オフィシャルサイト 2024年シーズン 年俸調査結果の発表「年度別平均年俸比較データ」を引用しChatGPT 4oで表およびグラフ作成)

 

球団平均年俸の10年間平均でトップのソフトバンク7025.2万円に対して、最下位の日本ハムは2936.6万円と約2.4倍の差があるのです。

この差は、選手の年俸が実力よりも入団したチームで大きく変わることを示しています。

 

「ソフトバンクはここ10年ずっと常勝軍団だし、日ハムは内部のゴタゴタもあり弱小チームのままだったからこの差は当然!」などと納得してはいけません。

 

これからプロ野球に入ろうとする選手にとってはたまったもんじゃありません。

流動性の極めて低い日本のプロ野球において、彼らの年俸は自分の実力よりもドラフトでどのチームに指名されるかで決定するのです。

イチローや大谷のような超絶レベルならMLBに行けば数十倍の年俸になりますが、活躍の場を日本のプロ野球と見定めている中堅レベルの選手にとっては、その実力よりもどのチームに所属しているかによって年俸が決まります。

 

故にプロ野球の場合必ずしも年俸が実力を反映していることにはならず、実力を測る物差しとしての年俸偏差値は機能しません。

 

 

一方NBAではこのようなことは原則的に起こり得ません。

前回記事で紹介した通りサラリーキャップ制度があり、NBA本契約15名に使える予算上限($140,588,000 約211億円)だけでなく下限($126,529,000 約190億円)が決められています。

また選手個人の年俸もチーム独自のルールではなく、NBA選手会(NBPA)とNBAが締結しているCBA(Collective Bargaining Agreement)と呼ばれる労使協定のルールに則って契約がなされるからです。

CBAについて

NBPAとNBAの間で締結された労使協定(CBA)は、NBAでプレーする全てのプロバスケットボール選手の雇用条件や契約内容、またNBAチーム、NBA、NBPAそれぞれの権利と義務を定めたものです。-NBPA公式サイトより一部抜粋(ChatGPT4oで翻訳)

 

さらに大事なことは、その年俸予算の大部分はリーグが各チームに平等に配分する分配金です。

故にLAレイカーズやNYニックスのような大都市の人気チームに所属しなければ高年俸を得られないという状況は発生しません。(ただし大都市チームほど知名度は高まるため個人のスポンサー収入は得やすくなる)

 

むしろ、サラリーキャップ制度の特性として起こるのはその逆です。弱小チームに高額契約のスター選手がやってきて、一気にチームが強くなることがあります。

ごく最近の例として、3年連続得点王だったスーパースタージェームズ・ハーデンを放出し、2020-21年以降ドアマットチームに成り果てていたヒューストンロケッツに、2023-24年シーズンからフレッドバンブリートとディロンブルックスという中堅選手が移籍してきました。

 

ロケッツが若手育成に切り替えサラリーキャップに余裕があったため、前チームでは主力ではあったもののスター待遇の年俸でなかった彼らが、約2倍の年俸契約でロケッツに移籍できたのです。

フレッドバンブリートは$21,250,000から$40,806,300へ、ディロンブルックスは$11,400,000から$22,627,671となりました。チームも移籍前の西地区15チーム中14位から昨年は11位、今年は現在2位(1/16現在)と大躍進をとげています。

 

 

さてここでようやく本題、なぜNBA年俸偏差値に明確に序列が現れるのか?を解説したいと思います。

前回、NBA「年俸偏差値」を公開し、下記のような序列を示しました。

1.偏差値80超(1~14位)— ベテランスーパースター

2.偏差値70-80(15~31位)— 各チームのエース格・若手スーパースター

3.偏差値60-70(32~68位)— 実力派選手と未来を担うスター候補

4.偏差値50-60(69~149位)— スタメン選手の層

5.偏差値45-50(150~250位)— ローテーション選手の層

なぜこのようにわかやすく序列ができてしまうのでしょうか?

それは結論、契約の仕組みがそうなっているからです

 

特にスーパースターにはスーパースターなりの契約が準備されており、それを「勝ち取る」ことが優勝や個人タイトルとは別の意味でのNBA選手間同士の競争における一つの到達点なのです。

 

まずそれがわかりやすく現れている部分をご紹介します。

NBA年俸を高い順に棒グラフで表してみると、上位層に明らかに不自然な「壁」ができていることが見て取れます。壁というかもはや「崖」です。

 

 

まず最初の壁は14位レブロン・ジェームズ(偏差値80)と15位ルディ・ゴベア(偏差値76.1)の間にある、まさに偏差値80の壁です。

これは、偶然ではありません。まさに契約によるギャップです。

 

NBAにはマックス契約と呼ばれるチームのスター選手のための仕組みが準備されています。

その大原則はサラリーキャップ上限から受け取れる個人の年俸上限を定めていることです。

ただし、その上限はNBA在籍年数により決められており、概略は下記の通りです。

 

在籍 10年〜:サラリーキャップの35%

在籍 7〜9年:同30%

在籍 0〜6年:同25%

 

この偏差値80以上は、まさにサラリーキャップ35%を基準としたマックス契約をしている選手たちなのです。

ステフィンカリーやケビン・デュラント、レブロンのような10年以上のベテランスーパースターに適用されますが、それとは別にフランチャイズ選手優遇を目的として在籍 7〜9年の生え抜き選手は直近3年以内の個人タイトル獲得状況によってサラリーキャップ35%での契約が可能となる通称スーパーマックス契約が可能となります。

上位14名のうち以下6名はそのスーパーマックス契約の選手達です。

ヤニス・アデトクンボ、ジョエル・エンビード、デビン・ブッカー、ジェイレン・ブラウン、ニコラ・ヨキッチ、カール=アンソニー・タウンズ

※補足 契約年の違いやその他細かいルールがあり必ずしも35%ピッタリとはなっていません。特にステフィン・カリーは35%を大幅に超えてますが、それらを解説すると非常に複雑になるのでここでは割愛させて頂きます。(この後解説するサラリーキャップ30%、25%も同様です)

 

ここまで説明すればもうお分かりだと思いますが、上位層に現れるこのギャップは

在籍年数に応じたマックス契約の上限の違いによって生み出されています。

 

したがってレブロンより下の偏差値76.1以下から〜73の間には、上限30%のマックス契約もしくはそれに準ずる契約をしている各チームのエース級選手たちが、まさにサラリーキャップのフタをされているかのごとく同年俸で並んでいます。

※例外として21位アンソニー・エドワーズと22位タイリス・ハリバートンだけは、まだ在籍6年以下の選手ですが、指定選手条項(Designated Rookie Extension)が適用され上限30%での契約をしています。

 

そして、2つ目の壁27位ベンシモンズと28位ザイオンウィリアムソンの間にあるギャップもやはりマックス契約30%と25%のギャップです。

28位以下には25%のマックス契約者もしくはそれに準ずる契約した選手たちがずらりと並んでいます。

特に、28位にランクインしているザイオン・ウィリアムソン、ジャ・モラント、ダリアス・ガーランドの3人は、今シーズンでNBA在籍6年目を迎える八村塁と同じ2019年のドラフト同期で、この世代のトップグループと言えます。

実はこの層は、NBA在籍6年前後の「若手スーパースター候補生」たちが多く存在し、この中から、将来的に頭一つ抜けた選手が、スーパーマックス契約やベテランマックス契約といった最上位層に進むのです。

実際、現在39位のジェイソン・テイタムは来シーズンからスーパーマックス契約を結ぶことが確定しています。

 

 

NBAの「年俸偏差値」に明確な序列が現れる理由は、マックス契約者(=各チームごとのスター選手)を中心にチーム編成が行われていることにあります。契約によって、以下のような層が自ずと形成されるからです。

35%の層: ベテランスーパースター(在籍10年以上の選手)

30%の層: 各チームのエース格や若手スーパースター(在籍7〜9年目の選手)

25%の層: 未来を担うスター候補や実力派選手(在籍6年以下の選手)

 

これらの層が構造的に形成されることで、選手間の序列が明確に見えるのです。

また、今回は詳しく触れませんでしたが、それ以下の実力の選手たちは、さらに厳しい競争に晒されています。NBAのロスターは1チーム15人と枠が限られており、「スターではない」選手にとっては契約を勝ち取ること自体が生存競争です。

その激しい環境が、NBAを世界最高峰のリーグたらしめる大きな要因でもあります。

 

そうやって生まれた序列がNBA選手年俸を偏差値化した時に「格」として現れているのです。

 

-

 

以上、NBA年俸偏差値に明確に序列が現れる理由を解説しました。

私たちNBAウォッチャーはこの序列の議論も含めエンタメとして楽しんでるわけですが、一方、NBA選手たちはリーグに入団以降、常にこの序列競争(=年俸の奪い合い)に晒されているということでもあります。

 

スター選手たちはスター選手同士のマックス契約獲得競争がありますし、スター選手でなくともNBA本契約15人の枠で自分の役割、ポジションをどう確立しサラリーキャップという枠の中で契約を勝ち取るかを常に考えていなければいけません。最低でも毎年2名ドラフトで新しい選手が入ってきますし、ドラフト外からでも突如として河村のような選手が現れたりします。

彼らはチーム同士の競争だけでなく、チーム内でも常に競争しているのです。

 

私は八村選手の騒動をきっかけに前回記事を書くことを決意しました。彼がNBAに入団して以来6年間(本当は大学時代も壮絶な競争に晒されていた)、レイカーズのスタメンという地位を得た今現在も含め、ずっとこの競争に晒され続けていることをを忘れないでもらいたいと思います。

言ってみれば、毎年受験勉強のプレッシャーに晒されているようなもので、華やかな舞台の裏で壮絶なプレッシャーと闘いつづけているのです。

私は八村塁をずっと応援し続けます。

 

 

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【プロフィール】

著者:楢原一雅

ティネクト株式会社創業メンバー

山と柴犬を愛してます

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インスタ(柴犬):@dameshibanofanchan

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Photo by Luke White

もう30年以上も前、大学生だった頃のことだ。

アルティメットというスポーツで西日本代表に選抜され、横浜スタジアムで開催されるオールスター東西対抗戦に出場することがあった。

 

とはいえ、アルティメットなど当時も今も、知っている人のほうが圧倒的に少ないマイナースポーツである。

そのため、京都から横浜までの移動費すら自腹で、主催者からもらえたのは数千円の手当のみ。

貧乏学生だったこともあり、夜行バスで移動しスタジアム近くに到着すると、試合時間までマクドナルドで過ごすことにする。

 

朝マックをホットコーヒーで注文し、3時間くらい過ごしただろうか。

会場入りの時間も近づいてきたので、トイレに行き用を済ませる。

すると個室から出てきた時、入れ違いで高校生くらいの若い兄ちゃんと肩がぶつかってしまった。

 

目も合わせずお互い、なんとなく謝罪の会釈だけかわす。

その後、席に戻りコーヒーを飲み干すと試合に向け、気持ちを高めようとしていたその時だ。さっきの兄ちゃんが、慌てたように小走りで店内を通り抜け、あたふたと出て行くのが視界に入った。

 

(ん…?“大”なのになんでそんなに早いんだ…?)

そんな違和感を覚えつつ目で追うと、兄ちゃんは店を出る間際にこちらを一瞥し、ほんの僅か口元を緩めた。

 

「あ!!!」

ジーパンの後ろポケットに手をあてるが、そこにあるべき財布が無い。

トイレの個室棚に置きっぱなしにしていたことに気がつき、慌ててトイレに駆け戻ったが、もはや何も残されていなかった。

 

「あっんのクソ野郎~~~~!!」

食べ残しのハッシュドポテトやトレーもそのままに、カバンを引っ掴んで店を飛び出す。

しかしもはや、どちらに向かって逃げたのかもわからない。

とりあえず人の多そうな方に向かって追いかけてみたが、見つけることなど到底できなかった。

(アカン…こんな都会のど真ん中で、無一文になってしまったやんけ…)

 

令和の今と違い、タッチレスどころかガラケーすら無い、平成はじめの頃だ。

財布を失うことは、現金、スマホ、クレカなど、あらゆる決済手段を失うことに等しい。10円玉すら無いので、誰かに電話をかけることもできない。

しかも、財布の中には帰りの夜行バスのチケットも入っていたので、文字通り途方に暮れる。

 

(…そう言えば選手IDも、財布の中やん)

出場すらやべえ…。そんな絶望的な思いのまま足を引きずり、とりあえずスタジアムに向かうことにした。

 

その後、何があったか。

結論から言うと、30年以上の時が経った今も、この時の出来事を心から“良かった”と思えている。

なんなら、私の財布を置き引きしたあの兄ちゃんにすら、うっすらとした感謝を覚えているほどだ。

どういうことか。

 

「なんで俺が怒られなアカンねん」

話は変わるが昔、地方のメーカーでCFO(最高財務責任者)をしていた時のことだ。

消耗品の減り方がおかしい工場があり、調査に行くことがあった。

 

「工場長、棚卸はどれくらいの精度でされてますか?他工場に比べて、消耗品費に気になるところがあるんです」

「仕入れ額の3%を毎月の期末在庫として、機械的に引き当ててるだけやで。それでええって、前の経理部長がいってたさかいにな」

「え、全品目についてですか?では棚卸をしている品目はまったく無いんですか」

「できるかいな。開きかけの箱とか、どうやって数量をカウントするんよ」

確かに、持ち出しも難しいような工業製品の場合は、仕入れの一定割合を機械的に在庫とみなし、棚卸の手間を省くのは一般的なセオリーだ。

リスクが少なく、異常値が出てから対応しても遅くないので、現実的で合理的な管理手法である。

 

しかしその時、工場で出ていた異常値を品目レベルまで調べてみると、

・一般家庭でも消費するもの

・換金が比較的容易なもの

といった在庫に偏っていた。

そのためそんな事情を説明し、改めて工場の“空気感”を聞いてみることにする。

 

「正直、悪いことしてるヤツがいてもわからへんなあとは思ってた。どうしたらいい?」

「全ての在庫に管理番号をつけさせて下さい。点数が多いので詳細の把握までは困難ですが、出納記録を自分たちでつけさせることで、どうなるか様子を見たいんです」

すると翌月には、早くも結果が出る。

異常値が出ていた品目について、仕入れ額・数量が目に見えて減り、なんなら他工場よりも低くなったのである。

数ヶ月様子をみたが、その傾向は明らかだった。そのため役員会に工場長も出席するよう依頼し、意見を求めることにする。

 

「ご存知のように、工場長の足元でおそらく横領行為が続いていたと思います。在庫管理を全工場共通で仕組み化したいのですが、お力を貸して頂けないでしょうか」

「そんなこと言っても、前の経理部長がそれでいいって言ったからそうしてただけですやん。それから、素直な意見を言ってもええんですか?」

「工場長の責任を追求する場ではないのですが…。ただ、ご意見はもちろん歓迎します」

「管理責任とか、結果責任というヤツの意味がホンマにわからへんのですわ。私は何も悪いことしてへんのですよ。なのになんで、私が責任を追求されるような空気になってるんですか?」

 

“上司だからといって、なんで全ての責任を取らなければならないのか”

そんな趣旨の、素朴だがわからなくもない疑問だ。

言い換えれば、責任者というだけでなんで俺が、何でもかんでも怒られなアカンねん、ということを言っている。

 

「工場長、繰り返しますがここは工場長の責任を問う場ではありませんので、そう感じさせてしまったのであればお詫びします。その上で質問にお答えすると、本来的には、工場長の責任は重大です」

「だからなんでですの、教えて下さいよ」

「仕事を任せたからです。責任を取る気がないのに、責任も仕事も部下に任せたのですか?」

「…?」

「横領できる余地があることを知っていながら、材料や備品の管理を部下の裁量にしたという話です。その結果、その通りになったことについて知らないは、本来的には筋が通りません」

「そんなこと言っても、細かいことまで目が行き届かへんのです」

「それをもっと言って下さい。どんな理由でどこに目が行き届かないのかを教えて下さったら、解決するのは私の仕事です。相談して下さったのに、解決できなかった上での横領なら当然、私の責任です」

「…わかりました、今後そうしますわ」

 

明らかに納得していない。

理屈ではわかるけど気に入らない、という不満が顔色から窺える。

 

(どうすれば伝わるだろうか…)

工場長の責任追及の場であると勘違いされたことを含めて、空気もかなり悪い。

考えあぐねた私は、一つの苦い思い出を話した。

 

なぜそこに財布が…

話は冒頭の、横浜スタジアムの件についてだ。

なぜ財布を置き引きされたことを、むしろ良かったとすら考えているのか。

 

当時の私は、合皮の長財布を愛用していた。そのためトイレに入った時、「大」ではポケットから出して、適当な場所に置くのが常だった。

言い換えれば、「トイレに入るたびに、棚に置き忘れる可能性」を、「忘れないようにする注意力」で補っていたのである。

これは、リスク管理の考え方として最悪だ。

 

“立っている物は倒れる”

“吊っている物は落ちる”

がKY(危険予知)の基本であり、いつか必ずそうなることを前提にしなければならない。

 

その解決方法として、

“倒れないように工夫する”

“落ちないようにしっかりと縛る”

は一義的に正しいが、リスク管理としては何もしていないに等しい。

“ポケットから出したものは置き忘れる”

を前提に、リスクを最大限に評価して管理をしなければならないということである。

 

結果、この事件以降、私は小さな折りたたみの財布と小銭入れを2つ持ち、常に前ポケットにいれることにした。

ズボンの前ポケットがいつも2つ、大きく膨らんでいるのは正直、カッコいいものではない。

しかしトイレに入った時に出す必要が無く、置き忘れリスク管理としては完璧だったため、大学卒業までそのスタイルで通す。

 

さすがに社会人になって以降は別のやり方にしたものの、痛い目にあったことはリスク管理の原点になったという話だ。

言い換えれば、学生時代の“僅かな”損失でそれ以上の経験知を得たということである。

もっとも、当時は悶え苦しむほどの損失だったが。

 

そして話は、工場長との会話についてだ。

私は学生時代の思い出をそのままに、当時の感情を含めてお伝えした。

 

「大事なことは、再発しない仕組みを作ることです。しかし工場長は、再発防止の意欲すらお持ちなのか疑問です」

「…そんなことありません。なんでですの」

「工場長が、横領で失われたお金に痛みを感じていないように思えるからです」

「…」

「お子さんが工場長の財布から1万円を抜いたとして、細かなことまでわからないと無関心になるでしょうか。家の秩序を保つためにも、子供の教育のためにも、必死に対策を考えるはずです」

「…それはそうやな、そう思う」

 

そして工場長に対し、減給や懲戒などといった“痛み”でわかってもらおうなどと思っていないこと。

その上で、財布を置き引きされ泣きそうになった自分の経験になぞらえて、組織の痛みを自分の痛みとして理解して欲しいとお話しした。

どこまで納得してもらえたのか本当のところはわからないが、最終的にその工場は工場長の下で、全くケチのつけようのない成果が上がる。

 

余談だが、財布を置き引きされてから2年後のこと。

大学卒業間際に、滋賀県の米原警察署から自宅に電話があった。

「もしもし、桃野さんですか?あなたの財布が新幹線の米原駅構内で拾得されまして、そのご連絡です」

「え…?私、米原駅で乗り降りしたことなんかありません。どういうことでしょう?」

 

訝しく思いつつ、電車を1時間以上も乗り継ぎ赴くと、そこにあったのはまさに、横浜スタジアム近くのマクドで置き引きされた財布だった。

お金はすべて抜かれていたが、それ以外のものは全部当時のまま残されていた。

 

横浜で盗まれたものが滋賀県で見つかるとは、一体どういうことなのか…。

もしかして、あの時に置き引きした兄ちゃんが財布の中身を見て滋賀県在住だと知り、なにかの通りがかりで、新幹線のドアから米原駅に放りだしたのだろうか。

 

僅かな贖罪の意識からなのかもしれんが、だが兄ちゃん…。

西大津駅(現大津京駅)と米原駅って、京都駅から神戸駅よりも時間かかって、同じ滋賀県と思えへんくらい遠いねん(泣)

せめて京都駅前に捨ててくれてたら、もう少し助かったわ…。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など

トイレの置き忘れ防止に、いまではボディバックを愛用しています。
さすがにここまで大きいので、忘れたことはありません。
しかし置き忘れリスクが0ではないことに、未だに怯えてます…

X(旧Twitter) :@ momod1997

facebook :桃野泰徳

Photo by:Jonas Gerlach

三宅香帆さんの「言語化」についての新刊が売れていると聞き、手にとってみた。

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某所では昨年末に「言語化」という言葉が大賞を取ったらしい。

ビジネスでチャットコミュニケーションが増えている今、「言語化」という能力が注目されているのかもしれない。

 

ただ今回は、その話ではない。

ここでは、もうすこし、しょうもない話をする。

 

実は、この本を読んだあと、Amazonの本のページにある、レビューを見ていて、おかしなレビューがあった。

それが、以下のものだ。

 

 

おかしさがわかるだろうか。

そう。配送についてコメントしているだけで、本の内容についての話が一切ない。

そもそも、梱包について書くことは、ガイドライン違反となっているから、本来このようなコメントは書いてはいけない。

 

 

ただ、そんなこと以前に、このレビューの目的もよくわからないし、書いた人物が何を考えているかもよくわからない。

しかも星の数は4。これはこの本の平均的な評価より低いので、実質的にはこの本の評価を毀損するだけ。

むしろつかないほうが良いコメントと言える。

 

そして、このような「変な評価/無神経なコメントを付ける人」が、webには溢れている。

例えば食べログ。

食べログには書き込みに関するガイドラインがある。

 

実は、食べログに書き込んでいい内容は結構制限されていて、原則的にはクレームや、衛生面の話などは、書いてはいけない。

食べログのガイドラインでは「隣りにいた客がうるさくて迷惑だった」と書くのも違反に当たる。

 

しかし、「隣の客」で検索をかけてみれば、もちろんそんなガイドラインなどは、完全に無視されている。

 

ただ、これを見て「書き込むやつが悪い」という人は少ないかもしれない。

「知らなかったんだろう」

「運営がきちんと対処しないからだ」

「ユーザがガイドラインなんてよむはずがない」

といった、食べログの運営の責任を指摘する人が多いだろう。

 

もちろん、ガイドラインに沿って厳格にコメントを削除しないのは、食べログの責任であり

「書き込みのガイドラインを作るなら、それを守らせるように真摯に対応せよ」とは思う。

 

が、今、気になるのはそこではない。

私が気になるのは、書き手のマインドのほうだ。

 

もっというと、

「公開されている場で、気軽に低評価をつけたり、クレームを書き込んだりする人の精神状態はどうなのか?」

と思う。

 

例えばこの食べログのコメント。

「最高でした!」と書いておいて、評価は3.4。

食べログの3.4というのは、「平凡」ということだ。

店主からすれば、「なにこいつ」と思うだろう。

 

下のツイートと全く同じ気持ちだ。

 

そもそも、みんなの眼の前で「この店最低だよ」と堂々とコメントを付ける人物へは、

「このコメントは最低だな」

「この人物の舌はおかしい」

「この人の評価は全く当てになりません」

などと、遠慮なく逆に評価していいはずだ。

撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけ。

 

「無神経なコメントや、低評価を簡単につける人」はパワハラ野郎と同じ

私は前の会社で、マネジャーをやっているとき

「人の評価は、細心の注意を払って、死ぬほど気を使って言い方を考えて、それでもなお謙虚にやりなさい。神への冒涜だから」

と言われながら育った。

 

当たり前だけど、低評価は気軽につけていいものじゃないし、言い方も考える必要がある。

人間としての最低限の礼儀だ。

 

成績が悪かったときに、「お前の無能には呆れるよ」「ダメ社員」とか言いすててしまう上司は、失礼なだけではなく、全くその人にとって有用ではないフィードバックしかできないダメ上司だ。

「パワハラだ」と言われても仕方ない。

 

「低評価を簡単につける人」

「無神経なレビューを書く人」

は、みんなの前で、無能に対して大声だして叱りつける上司と、全く同じことをやっていることになる。

それは戦争開始の合図だ。

 

「店のサービスが悪いから仕方ない」という人もいるかもしれないが、でもそれは「こいつが無能だから仕方ない」というのと同じだ。

評価をすること自体は必要だが、言い方はよく考える必要がある。

 

ね、配慮なく言われると、気分悪くなるでしょう?

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」65万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

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Photo:Reet Talreja

生成AIとおれ、おれと生成AI

おれは以前、Adobe Photoshopが搭載したAI機能について書いた

 

2023年9月の話だ。

その翌年の2024年はどうだったか。さらに生成AIとともにあった。画像加工よりも、むしろ文章について多く使った。ちょっとしたキャッチコピーの千本ノックとか、人間にはさせられないことを要求できる。

 

おれはべつに言葉や文章を苦手とする人間ではないつもりだ。だが、考えつくアイディアには限りがある。

べつにAIにすべてを委ねるわけではない。ただ、思いつかなかった単語があれば、それを使ってみる。発想は広がる。

 

仕事で言えば、コードを書かせたことが何回かある。生成AIが存在していないころは、それを書ける人に依頼したものだ。もちろん有料だ。しかし、「この依頼なら、生成AIに書かせることができるのでは?」と考えるようになった。とりあえず、依頼を受けたら、自分でやってみる、というかAIにやらせてみる。すると、できる。そのコードが正しいものか、美しいものか、おれにはわかりゃあしない。でも、動いたら勝ちだ。

 

AIは人間の仕事を奪うのか? 奪うに決まっている。おれは奪った。おれもいつか奪われるかもしれない。

 

遊びでは、イラストを描かせていた。おれは毎晩のように鍋(鍋に限らず毎日同じなにか)を作っていた。「鍋作り中」などとXに書き込んでは、挿絵をAIに描かせていた。アニメ絵というか、そういう感じのイラストだ。

AIにイラストを描かせること(AIが人のイラストを無断学習させること)については賛否両論あって深くは触れないが、おれが鍋を作るたびにイラストを無料ですぐに描いてくれる人はいないので、おれはAIを使った。

 

ほかにもこんな遊びをしたことがある。クヌート・ハムスンというノーベル賞作家(だけど、ナチスドイツを賞賛したためにキャンセルされた)の作品を、AIに翻訳させようとしたのだ。

ハムスンの作品は『飢え』と『ヴィクトリア』はなんとか手に入るが、肝心のノーベル文学賞受賞作の『土の恵み』がほとんど入手不能になっていたのだ。

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ただ、英語版が著作権フリー(Project Gutenberg)で公開されていた。おれには英語が読めない。いくつか機械翻訳を試してみたが、ChatGPTに「この英文をハードボイルド風に翻訳してください」と指定したやつがばっちりに思えた。

 

そしておれは、761,000文字の小説を一気に翻訳させる方法からAIに相談した。Pythonというわけのわからないものの環境を設定して翻訳を試み……、トークンの量の前に失敗した。とはいえ、PythonのコードはOpen AIのAPIにアクセスしてなんらかの処理をしてくれた。そのことはブログに書いて、そこそこ読まれた。

 

結局、データ量の大きさの前に敗れた形になった。そのあと、読者の人から国立国会図書館デジタルコレクションで読めるという情報を得て、国立国会図書館デジタルコレクションにアクセスできるアカウントを作ってみたら、たしかに読めた。だからといって読んでいない。読めるとわかったので安心してしまったのだ。

 

おれは、そんなことをした。

 

生成AI翻訳

仕事でも翻訳が必要になることがある。パンフレットや屋外サインの注意書きなどで、多国語が要求されるからだ。基本的には、そのシチュエーションを翻訳屋さんに伝えて、人力で翻訳してもらう。

 

しかし、あまりにも短い文などは、機械翻訳に頼っていたこともある。もちろん、シチュエーションの理解などもできない機械翻訳に頼ることはできない。

 

では、どうするのか? 出てきたテキストで画像検索するのだ。それで、外国の実際の看板画像が出てきたらオーケーだ。まあ、そんなことも英語でくらいしか確かめようがない。アルファベットは読める。逆に、日本語を知らない人間に同じことをしろというのは無理だ。

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もちろん、公共の仕事が多いので、基本は人間の翻訳屋さんに頼んでいる。頼んでいるが、そのチェックに生成AIを使う。人間は人間のやることで、スペリングのミスがまったくないわけじゃない。

 

Google翻訳やDeepLはスペリングのミスにやや寛容なところもある。生成AI翻訳も寛容だが、「スペリングをチェックしてください」と頼めば、そういう目で読んでくれる(可能性が高まる)。英語ならばおれの目でもミスに気づくことができるが、ハングルなどについてはまったくのお手上げだから、チェックはAI頼みだ。

 

クヌート・ハムスンの翻訳にしろ、仕事の翻訳にしろ、AI翻訳は役に立つ。

 

して、翻訳について、先日こんなnoteの記事が話題になった。

もうすぐ消滅するという人間の翻訳について

 

筆者の平野暁人さんは、主に舞台芸術などのフランス語、イタリア語の翻訳、通訳をされている方らしい。そして、その仕事が、なくなったというところから話は始まる。円安、世界における英語の支配……、そこにAI翻訳の話も入ってくる。文体にくせがあり、長い文章なので自分にはすべてを掴みかねたように思う。残念ながら、おれは舞台芸術をまるで知らない。

 

ただ、次の箇所がおれには気になった。この箇所をブックマークした人はけっこういた。

 

その箇所を引用させていただく。

それではなぜ、人間の翻訳は終わってゆくのだろうか。
それでもなぜ、人間の翻訳は終わってゆくのだろうか。

ほかでもなく、人間の側が翻訳に対する要求水準を下げ始めたからである。
「(ちょっと変だけど)これでもわかるし」
「(間違いもあったけど)だいたい合ってるし」
「(この程度の修正でなんとかなるなら)わざわざ専門家に発注しなくても」

機械の意図を汲みにゆくことで
機械の精度に合わせて降りてゆくことで
人間が人間を終わらせ始めている。
貧困に煽られたコストカットの誘惑と
タイムパフォーマンスの強迫がそれを後押しする。
あらゆる意味において展開される貧困の前に
機械翻訳の進化はもはや副次的なファクターに過ぎない。

この部分だけあえて抜き取らしてもらえば、わかりやすい一節だ。おれが仕事でしていること、翻訳に限らず生成AIを使ってやっていることは、「これ」だ。「これ」の一部に違いない。

 

もしも、業務としての公共施設やパンフレットの翻訳ではなく、自社の商品解説などで翻訳が必要になるのならば、この零細企業、翻訳にお金はかけないだろう。ちょっと変でも、だいたい通じればいい。そういう方向にかじを切る。まあ、外国に売り込む商品やサービスはないのだけれど。もちろん、お金に余裕があれば翻訳屋さんに頼む。しかし、お金に余裕がなければ、そうするだろう。コストカットの誘惑。コストカットの必要。

 

……だが、同時にこうも思ってしまった。「要求水準を下げ始めた」のか? いや、もとより低かったのではないか。

 

コミュニケーションに必要なコストとリターン

要求水準はもとより低かった。が、これは「ある分野において」だ。文化の背景や歴史を知り、文章としてのセンスが求められる文学の翻訳に、読者は高い水準を求める。

 

翻訳作品は一つの作品だ。リチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』であると同時に、藤本和子の『アメリカの鱒釣り』なのだ(……とか言いつつ、おれは英語も読めないので、「翻訳」としていかにすばらしいのかは、信頼できる翻訳家や作家がそう言っているから、という受け売りだ)。

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誤ってはいけない翻訳もある。医療など命に関わるものや、国同士の交渉なんてものもあるだろう。法律に関する翻訳もあるだろう。むろん、そういった決まり切ったものこそ、機械的な正確さが重宝されるということもあるかもしれない。人間は間違えるからだ。

 

とはいえ、やはり優秀な人間が察知している前提や流れというものにも頼りたくなるだろう。そういう実務的なものについては、機械が先で人間があとでも、人間が先で機械が後でもいいだろう。いずれにせよ、まだAIだけに任せるのは躊躇するところはある。

 

とはいえ、たとえば観光で異国の地を訪れたときはどうだろう? そういう領域だ。だいたいわかればいい。右と左が取り違えられてなければいい。AI翻訳に至らぬところあろうとも、「ありがとう」と「殺すぞ、この野郎」を取り違えたりはしない。「誠に感謝いたします」と、「ありがとね」くらいのニュアンスの違いは、まあいいじゃないか。

 

あるいは機械の言葉だってそうだ。世界の片隅のほんの小さな修正が、プログラミングの原理原則に則った美しいコードである必要はない。動けばそれでいい。そういうレベルの低い場所は実在する。

 

もちろん、それこそは貧しさ。ただし、貧しい世界もある、それも現実だ。お金に限った貧しさではない。そこには知識や知能、感性などさまざまなものが含まれている。芸術の水準も、実務の水準もそんなに求められないプアな世界はある。そしておれは、そういう世界のプアな人間だ。

 

万国のプアな人間よ

プアな人間も生きていていいのではないか。そして、プアな人間同士が、この現世のプアな人間同士が、プアな方法でコミュニケーションできるのも悪くない。

 

プアな人間は外国語を知らない。単語も文法も発音も知らない。もちろん、聞き取ることもできない。

語学は難しい。外国語を学ぶことは、単語や文法、発音、聞き取りについて学ぶことだけではないだろう。背景となる文化や歴史まで学んでこそだろう。だが、それ以前の問題というものもある。

 

そんな人間でも、外国語の人とやり取りができるのならば? そこにはおもしろいなにかがあるかも知れない。現に、そういうコミュニケーションは、ネット上において出現している。元インプレゾンビだったり、そうでなかったりするアフリカの人が、日本で人気の配信者になったりしているじゃないか。

 

彼らの精神のあり方がプアだとは言わない。だが、やり取りされるお互いの言葉は、プロの翻訳家や通訳によるものより、はるかにプアだろう。それでも、通じるし、楽しいなら悪くない。

 

英語が支配する世界で、AIの言葉が共通語になる。あたらしいエスペラント語になる。そのとき、言葉とはいったいなにになるのだろう。母国語というものはどういう存在になるのだろう。おれには想像もつかない。

 

われわれの陳腐でうすっぺらい言葉が、われわれのなかに存在すらしていない言語に翻訳され、知り合うことがなかったであろう世界のだれかと知り合うとは、どういうことだろうか。そこで交わされる言葉とはなんだろうか。なにか起こるのだろうか。

 

なにも起こらないかもしれない。そもそも、プアで実用的なツールがあったところで、プアなことしか言えない人間の言葉はだれにも届かないかもしれない。

しかし、それは母国語が同じ人間の間でも起こり得ることだ。「ひたすら少数の者たちのために手紙を書くがいい」と詩人の田村隆一は書いた。ほとんどの人間に無視される言葉も、だれかには届くかもしれない。

 

おれが拙い言葉で手紙を書くとき、数少ない宛先は日本語を読める人間だけだった。だが、もし、なんらかの変容が起きて、世界に向けて書くことになったら? 悪い気はしない。世界のどこかに、おれのように弱く、しょうもない、下らない人間がいて、おれの言うことに共感してくれたら、それはそれで楽しい。

 

おれに偉大な言葉はいらない。おれたちプアな人間の言葉には、考慮しなければいけないような文化的背景もなければ、理解しなければいけない民族の歴史もない。

 

「こんばんは。今日はどんな失敗をしましたか? 私は抑うつで寝込んでいた。私は昨日の夜も酒を飲んだし、今夜も飲むでしょう。ところで、おまえは元気か?」

 

 

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【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Annie Spratt

もう40年以上も前、おそらく1970年代の、遠い昔の記憶の話だ。

近所の家の庭先で、とてもかわいい子犬が5匹、生まれたことがあった。

白に黒、ブチに茶白…、目も開かない中でヨタヨタ歩こうとする姿はたちまち町内の子供達の話題になり、連日、学校帰りに皆がその家の軒先に集まる。

 

母犬のおっぱいに一生懸命吸い付く小さなモフモフたちのかわいさは、とても言葉になどできない。

そんな生まれたての命を家主さんの許可をもらい、抱っこしたり、スリスリしたりしながら毎日、楽しい時間を過ごしていた。

 

1970年代といえば、犬は外で飼うものであり、エサは残り物に味噌汁をかけて与えるような時代だ。

既製品の犬小屋のようなものが備えられている家は、“上流階級”だけである。

多くの場合、軒下に打たれた杭に適当にヒモで繋がれ、そばに水入れ兼エサ入れが転がっている、というのが犬の扱いだった。

 

さらに当時は、犬も猫も野良がそこら中にうろちょろしている時代である。

軒先に繋がれている犬はいつでも、その家がそうであったように、発情期になるといつの間にか子犬を産むのが普通の出来事だった。

 

そんなある日、一つの事件が起きる。

いつも通り放課後、皆で子犬をモフりに行くのだが、軒先にも犬小屋にも一匹もいない。

さらに裏庭に置かれた燃え盛る焚き火用のドラム缶から、子犬の鳴き声のようなものが聞こえる。

 

「やばい!子犬がドラム缶の中にいる!」

すぐに家の玄関を叩き、家主に異変を知らせる。

すると、程なくして出てきたおっちゃんはこんなことを言う。

 

「子犬たち、どこに行ったんかと思って探してたんやわ。なんで自分からドラム缶の中に入ったんやろうなあ、かわいそうに。こらもう助からんわ」

「そんな!まだ鳴いてるじゃないですか、助けましょうよ!」

「あかんあかん、危ないし火傷するから、触ったらあかんど!」

「…」

 

すると、そんなオッサンにイラついた何人かの上級生が、家主を無視してドラム缶を蹴り倒した。

薪や家庭ごみ、よくわからない燃えカスに混じり、真っ黒に煤けた子犬が出てくる。

痙攣し、かろうじて生きている子もいたが、程なくして皆、動かなくなってしまった。

 

「なんでこんなことになったねん…」

「どうやって子犬が、こんな大きなドラム缶に自分で入り込んだんや…」

 

そんなことを口々に言い合い、あまりに残酷な事件にショックを受ける子供たち。

まだ幼かった頃の、遠い記憶の果てにある悲しい思い出だ。

 

嘘という“麻薬”

話は変わるが、もうだいぶ以前のことだ。

製造業の会社を経営する知人と話している時に、こんな“口論”になったことがある。

 

「雇用調整助成金って知ってるか?社員を休業させたらその分、国が給与を補填してくれる制度やねん」

「知ってるけど、なかなか使い道ないなあ。逆にもっと人手が欲しいくらいやし」

「相変わらずお前は素直やなあ。嘘も方便って言葉を知らんのか?」

「…は?」

「書類上で従業員を休ませたら、それでお金をもらえるって制度なんやぞこれ」

 

そして彼は、社員を普通に出勤させて、何日かに1回だけ休ませたことにすること。

日替わりで少しずつ、何人かの社員でローテーションして休ませればいいじゃないか、ということ。

やりすぎなければ、きっとバレないだろうというような趣旨のことを話す。

 

「絶対にやめとけ。ホンマにそれはヤバい。公金を詐取しようとするとか、メチャメチャやぞ」

「いやいや、お前は昔から、ホンマにまじめ過ぎやねん。こんなもん、どこの会社でもやってるん知らんのか?自分だけやらへんだら、自分だけが損をするっていう意味やぞ」

「お前こそ、現実を知らなさ過ぎるわ。人が動くと、その痕跡を消すことなんか絶対にできへんねんぞ。社員が仕事したら、あらゆるところに痕跡が残るんや。証憑類や経理記録の実務を知らなさすぎやろ」

「そんなことくらい矛盾なく、上手くやれるわ。休ませたことにした日は、経費精算を一切せんようにすればいいんやろ?嘘も方便ってもんやわ」

 

あらゆる意味で、社会や会社経営を舐めきっている。

公金を詐取してもバレないと思っている、認識の甘さ。

経費精算や行動記録を全て改ざんできると思っている、数字や経理実務に対する知識の無さ。

不正行為を“嘘も方便”と繰り返す、モラルの低さ。

 

それだけではない、経営トップがそんな指示を部下や従業員に出したら、組織のモラルはどうなるのか。

元々、気が合うとは言えないヤツだったが、この出来事を機に縁を切ることを決めた。

 

そしてそれから、2年後くらいのことだったろうか。

案の定、ヤツの会社が雇用調整助成金の不正受給を認定され、返還命令が出されたと聞くことになる。

その額は数千万円に昇り、巨額であったことからもニュースになったのだが、当然のことだ。

 

最初は数十万円程度からはじめたのだろうが、

「何もしなくてもお金をもらえる」

などという“麻薬”の快感を覚えたら、行動がエスカレートしたであろう状況が目に浮かぶ。

ただ、その経緯に少し関心があり、面識のあった同社の取締役に連絡を取ったことがあった。

 

「随分と巨額の返還命令を喰らったようですね。会社はもつのですか?」

「…厳しいですが、なんとか生き残れると思います」

「そうですか。ところでもしよろしければ教えて下さい。今回、どんな理由で不正が露見したのでしょう」

「おそらくご想像の通りだと思いますが…。休業手当の対象になった社員の、移動やホテルの宿泊などの、経理記録の矛盾あたりです。100点以上も指摘されたので、どうしようもありませんでした」

 

“どうしようもありませんでした”という説明になんとも言えない違和感しかなかったが、要するに彼もまた、どうにかなると思い、どうにかしようとしたのだろう。

社長が社長なら、取締役も取締役ということだ。

 

程なくして、彼の会社は主要取引先はもちろん、顧問弁護士の事務所からも解約され、税理士事務所からも解約され、さらに2年ほど後に特別清算(俗に言う倒産の一形態)に追い込まれ、消滅する。

公金の不正受給を始めたときには90名くらいの社員がいたようだが、それからすぐに社員が辞め始め、最後は18名くらいの規模にまで縮小していたと聞いた。

 

それはそうだろう。

いくら生活がかかっているからといっても、社長自らが部下に公然と不正行為を指示し、さらに不正企業であると公に認定され、ニュースにもなるのだから。

誰がそんな会社で働きたいと思うものか。

 

会社経営者は、閉じられた世界の中で本当に大きな権限を持っている存在だ。

だからこそ、器の小さなアホほどすぐに、万能感に狂い社会も従業員の心も舐め腐り、わけのわからない価値観に基づいた経営判断を始める。

そしてそんなアホほど、意味のわからないロジックで自分の行為を正当化しようとする。

典型的なバカ経営者そのものである。

 

「嘘も方便」という言葉を勘違いした、頭の悪い彼の会社が潰れたこと、本当に良かったと思っている。

 

“嘘も方便”の本当の意味

話は冒頭の、子犬の事件のことについてだ。

当時はまだ小学校1年生か2年生か、そんな幼さもあり良くわからなかったが、当然、今はよくわかっている。

 

あのオッサンは、飼いきれずに持て余した子犬を燃え盛るドラム缶に放り込み、焼き殺したに決まっている。

本当は子供たちが集まる前にやろうとしたのだろうが、タイミング悪く下校時刻に重なり、大騒ぎになる。

そこですかさず子供たちに、

「自分も子犬を探していた」

「まさか子犬たちが、自分からドラム缶に入っているなどと思いもしなかった」

という、“嘘も方便”を思いつき説明した。

 

しかしこんなものは、「嘘も方便」ではない。

詭弁であり、言い訳であり、命に対する許しがたい冒涜であって暴挙である。

 

ワンコの外飼いが当たり前で、去勢や不妊手術という概念が存在していないに近い時代だったからといって、許されるものではないだろう。

もっとも私は、ワンコやニャンコから去勢や不妊手術という「生き物としての喜び」を強制的に奪い、にもかかわらず「大事な家族」と言える風潮にも大きな疑問を感じるが。

大事な息子のキンタマを切り落とし、娘の子宮を除去するような手術などできるものか、と思うが、それは別の話にしたい。

 

そして話は、雇用調整助成金の不正受給をしたアホ経営者の知人についてだ。

彼は「嘘も方便」と言い訳し、会社存続を至上命題として不正行為を正当化し続けた。

確かに、会社の存続そのものが、ある意味において会社の至上命題であることは間違いない。

 

しかしながら、そのために不正行為にまで手を染め、しかもそれを社員にも強要したらどうなるか。

モラルが崩壊し、会社が無法地帯になることはもちろん、志ある有能な社員から辞めるに決まっているだろう。

 

結局のところ、子犬を焼き殺したオッサンも、雇用調整助成金を不正受給した知人も、同じ穴の狢(むじな)である。

「嘘も方便」という言い訳で、「結果的に上手く行けば、どんな嘘をついてもOK」という、見下げ果てたモラルに生きる卑怯者だ。

 

「嘘も方便」という諺(ことわざ)の本当の意味は、嘘も吐き方によっては、社会や物事がうまくいく、という例えである。

言い換えれば、自分のエゴのために嘘を吐くということの正当化に使えるものなどでは、断じて無い。

 

それにしても、オッサンになれば随分と昔のことを思い出すものだと思った、2024年の年の瀬だった。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など

最近、ウチの裏山付近でデベロッパーが山を崩し谷を埋める大規模な土地開発をしてるのですが、1日中、家が揺れてたまりません(泣)
震度2~3の揺れが断続的に続くので、かなり参ってます。
誰か助けて!><;

X(旧Twitter) :@ momod1997

facebook :桃野泰徳

Photo by:Marek Studzinski

お正月に社会全体について放談するのが好きだ。

今回の主旨は「少子高齢化の進んだ日本社会を、『すでに終わっている』というパースペクティブから再点検してみよう」というものだ。ご笑覧いただきたい。

 

昭和100年。老衰国家日本

今年は昭和100年にあたる。

太平洋戦争から80年、バブル崩壊から約30年が経過した。“エコノミックアニマル”と揶揄されていた頃の記憶さえ遠くなった、衰えゆく国、日本。

 

はじめに、その日本の人口ピラミッドを眺めてみよう。

日本の人口ピラミッドは二峰性を示している。峰のひとつは第一次ベビーブームに生まれた、いわゆる団塊世代で、これが75歳前後になっている。その団塊世代の老後を支えるべく、日本は前代未聞の社会保障費を費やし、多くのマンパワーを割いている。

社会全体の老齢化は街の風景にも現れていて、ゲームセンターやスポーツ用品店がなくなり、介護施設や葬祭センターにとって代わられた。過疎地はもちろん、東京都内でも高齢者に出くわす割合は高い。

 

もうひとつの峰は団塊ジュニア世代である。就職氷河期世代の前半にもあたり、経済的に恵まれないだけでなく、挙児や婚姻の機会を逃した人も多かった。既に50代を迎えたこの世代の世代再生産能力は、既になくなっている。

 

これから先、どんなに出生率が高まったとしても、この、竜頭蛇尾のようなかたちの人口ピラミッドを覆すことなど、できはしないだろう。

 

もちろん、人口ピラミッドを完全に覆さなければならないわけではない。ゆっくり人口減少していくぶんには問題にはならないだろう。

しかし2022年の日本の合計特殊出生率は1.26だったから、人口減少のスピードはそれなり早く、少子高齢化は進行すると思われる。内閣府の推計では、2055年には高齢化率は38%に到達し、その時には1人の高齢者を生産年齢人口1.4人で支える計算になるという。

 

「これから大変だ」ではなく「既に終わっている」と考えてみませんか

こうした、少子高齢化のグラフは誰でも見慣れているだろうし、日本社会の未来を憂う人なら「これから大変だ」「なんとかしなければ」と思うだろう。普段は私もそんな感じだ。

 

しかし今日はあえて「既に日本は終わっている」というパースペクティブでこれを考えてみたい。

 

社会学者たちは20世紀後半の段階から少子高齢化について試算し、警鐘を鳴らしてきた。

しかし警鐘が十分に顧みられてきたとは言えない。団塊ジュニア世代~就職氷河期世代が婚姻や挙児の適齢期を迎えていた頃、日本社会はそのことにさほど関心を持たなかったし、さほど便宜もはからなかった。むしろ、この世代の労働力を搾り取り、婚姻や挙児にリソースを差し向ける余裕を与えなかった。

 

20世紀後半から眺めた場合、2025年の日本社会の少子高齢化っぷりは「このままでは危ない未来」ではなく「当時の予測が悪いかたちで当たってしまった結末」である。人口置換水準の維持はもちろん、緩やかな人口減少で済ませる道も絶たれてしまった。終わってしまったのである。

 

終わってしまったという目線で、前掲の人口ピラミッドを振り返ってみよう。この、いびつな人口ピラミッドをどうにかする術は、もうない。なぜなら、世代再生産が可能な人口が全人口の半分もいないからだ。

 

日本人の平均寿命はずいぶん長くなったが、世代再生産のリミットはたいして長くなっていない。女性の妊孕性は35歳あたりから急速に低下し、50歳前後で閉経を迎える。男性も、30代後半から妊娠させる力がどんどん弱まり、男性ホルモンの濃度も低下していく。現代人は忘れがちだが、動物としての人間は40歳で初老と言って良い段階で、50歳ともなれば老人である。

 

今日の日本社会には、40代でも「若手」とみなされる職場や地域がいくらでもある。日本人の年齢の中央値が48.3歳というから、まあそんなものではある。だが冷静に考えると、初老と呼ばれたはずの人間が「若手」とは、世も末ではないか!

日本社会に慣れ過ぎていると当たり前のように思えるかもしれないが、たとえば、若年人口の多い東南アジア諸国と比べると、その異様さは際立つ。

 

ついでに言うと、高齢化率の高いドイツなど、他の先進国もたいがい老人の国である。ただし、老人の国の度合いや内実にも違いがあり、日本やドイツなどは現時点でかなり高齢化率が高くなっている一方、これからの高齢化のスピードはそれほどでもない。

 

韓国や中国は、現時点では日本よりも高齢化率が低いけれども、合計特殊出生率の低下速度がすさまじいので、やがて日本を追い越し、もっと深刻な老人の国になるだろう。それらの国々も少子化に対して決定打を打てていないので、この放談のパースペクティブで見れば既に終わった国と言えるかもしれない。

 

社会保障費も「危機」ではなく「破綻」とみてみよう

さて、少子高齢化といえば社会保障費にも目を向けないわけにはいかない。

国税庁の試算によれば、日本の社会保障費は2025年には140兆円を上回るという。この社会保障費が、いわゆる現役世代への租税や赤字国債によって賄われている。これからますます生産年齢人口の割合が減っていくのに社会保障費が膨張し続けていくさまは、「危機感をおぼえるべきもの」というより「既に終わっている」何かではないだろうか。

 

社会保障費が膨張し続けているにもかかわらず、医療へのアクセスは悪化しようとしている。医療費の自己負担額は、平成から令和にかけてジリジリ大きくなってきた。昨今は、高額医療費の限度額引き上げが議論されている。それだけではない。ジェネリック薬を中心に薬剤の供給が滞り、新薬の導入も停滞している。介護者不足も深刻だ。

 

それでも現場はなんとか回っているから、この状態を「ぎりぎりの状態」「これから大変だ」といった視点でみることもできよう。普段は私もそういう視点である。

 

だがこの放談のパースペクティブでみれば、これも「既に終わったこと」、もっと言えば「破綻してしまったこと」と言える。社会保障費の膨張が止まらず、それでも介護者や薬が足りず、窓口負担も増え続けるとしたら、この構図、この状況じたいがすでに破綻といって良い状況でしょう?

 

もちろん、国や官庁は「えへへ、本当はもう破綻しているんです、ごめんねー」とは絶対に言えないので、これから先、どんなに社会保障費が膨らもうとも、窓口での医療費負担が高くなろうとも、マトモに使える薬が枯渇しようとも、日本の社会保障体制は絶対に、絶対に、絶対に破綻 しない! お上が破綻を宣言しない限り、社会保障体制はけっして破綻しないのである。

 

だが、それが行政的なレトリックのたぐいであることを、我々民草の側は知っておかなければならないし、つつがなく体制をまわしていかなければならないパブリックサーヴァントたちの立場や心中を察しておくべきだとも思う。どれほどカタストロフに瀕していても、「王様は裸だ」と言えないのが宮仕えの辛いところである。

 

そしてカタストロフがクライマックスになる直前までは、案外、体制は回っているようにみえるものだ。

第二次世界大戦末期のドイツや日本でさえ、ある程度まで体制は保たれていた。だが、カタストロフがクライマックスを迎えるより早く、戦中のドイツや日本は終わっていたではないか。

 

本当はすでにゆでガエル?

少子高齢化については、もちろんまだできることはあろうし、この放談における「終わる」や「破綻」が日本人の絶滅を意味するわけではない。社会保障制度や医療制度が破綻しようがしまいが日本人はそこに居続けるし、明日は必ずやって来る。そして私たちの人生はなおも続いていく。

 

しかし、世代再生産の構図や、社会保障とそれを支える制度や体制に関しては「終わっている」「破綻している」という語彙が似合うし、それらの終了や破綻に伴う辛酸を私たちはこれから舐めなければならない。というより、舐め始めたのが現状だと認識すると、色々なことの辻褄が合うようにも思える。

 

1973年に田中角栄が老人医療費をゼロに設定してから半世紀以上が経ち、その間に日本には医療が行き渡り、長寿が実現した。しかし行き着く先は老人の国で、半分以上の人間が世代再生産のリミットをこえてしまった国だった。

先進国の状況を見慣れていると、だからどうした、たいしたことでもあるまい、と思えるかもしれないが、これは有史以来なかった人口ピラミッドの構図であり、これほど老人が多数派を占めた国が過去にあったためしがない。

 

大事なことなので繰り返すが、どれだけ人口が減ろうとも、医療福祉体制が実質的に破綻しようとも、明日は来るし私たちは生きていかなければならない。これからを生きていくに際して、「日本社会は、既にグラグラと煮えた鍋である」というパースペクティブから現状を眺めてみると少し違う景色が見えるかもしれませんよ、と思い、この放談を作ってみた。

 

それで言えば、「私たちはこれからゆであがるカエルではなく、既にゆであがったカエルなのである」。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:Austin Santaniello

ところで皆さんは、「昔のゲームの攻略本を読む」という趣味をご存知でしょうか?

 

私は子どもの頃からゲームの攻略本が大好きで、ゲームを遊ぶのと同じか、もしかするとそれ以上に、攻略本を読むのに時間を使っています。

そのゲームを遊んでいる期間だけではなく、とっくにクリアし終わった後も延々と読み続けますし、全然遊んだことのないゲームの攻略本でも喜んで読みます。

 

私の嗜好が珍しいということではなく、恐らく同じような「攻略本愛好者」は世の中にたくさんいる、あるいはいたのではないでしょうか。

 

ゲーム攻略本を読むことで、私たちは「ゲームの世界」に触れることが出来ました。

実際にゲーム機を立ち上げなくても、頭の中でそのゲームを楽しむことが出来ました。ゲームの表層に描かれていない部分でも、情報を脳内補完し掘り下げることが出来ました。

 

親に「ゲームを遊ぶ時間」を制限されていたとしても、攻略本を読む分には「なんか読書してるように見える」という名目で親の監視を免れることが出来ました。だから私たちは、夜遅くまでゲーム攻略本を読みふけりました。

 

「ドラゴンクエスト公式ガイドブック」を。「ロマンシングサ・ガ基礎知識編」を。「必勝作戦メチャガイド」を。「信長の野望 武将FILE」を。「ウィザードリィIIIのすべて ファミコン版」を。

 

ゲーム攻略本には、夢がありました。愛がありました。知識と、少しのユーモアがありました。時にはゲームと全然関係ないネタ情報も載っていましたし、思いもよらないビッグネームによる「ゲームコラム」や「おまけ漫画」も載っていました。

 

その攻略本を書いている人、それぞれの思いや愛や偏執が感じられるようで、そういった「ゲーム攻略と何の関係もない情報」も私は大好きです。

 

先日、飲み会でファミコンのゲームの話題になった時、「この前、ちょうどファミマガの貝獣物語の攻略本読みまして」という話をしたのですが、その際、

 

「しんざきさん、貝獣物語(※ナムコ発のRPG。とても面白いのだが、ハマりバグがあったり魔法の処理がおかしかったりと、幾つか難点がある。またラストダンジョンが鬼畜仕様で、ゲーム添付のおまけ冊子「涙の密書」がないとまず攻略出来ない)遊んでるんですか?」

「いや今は遊んでないですけど……30年くらい前にクリアはしました」

「遊んでないのに、そんな昔の攻略本読んでるんですか!?」

 

とびっくりされたのです。そこで初めて、「あ、「ゲームを遊んでなくても攻略本を読む」という習慣がない人もいるんだ」と気付きました。

 

私にとって、「ゲーム攻略本を読む」というのは、「推理小説を読む」とか「漫画を読む」「エッセイを読む」「歴史書を読む」というのと変わらない、一つの読書ジャンルです。

だから、全然遊んでないゲームの攻略本でも読みますし、古本屋で見つけたら喜んで買います。

 

今回は、そんなゲーム攻略本の中でも私が特に気に入っていて、何度も何度も読み返している「オールタイム・ベスト」を何冊か紹介したいと思います。

○サンサーラ・ナーガ2 ワールドガイドブック(ファミコン通信)

数あるSFCRPGの攻略本の中でもお気に入りの一冊です。

 

そもそもサンサーラ・ナーガというのは、「主人公ではなくお供の竜を育てる」というシステムが特徴の、ビクター発のファミコンRPGです。

知る人ぞ知るゲーム漫画家の桜玉吉先生がキャラデザを担当されていることでも有名で、ヒンドゥー教やバラモン教を元にした独特の世界観と味のあるストーリーで、根強いファン(私とか)がいるシリーズです。

 

で、この「サンサーラ・ナーガ2 ワールドガイドブック」は、続編のSFC版「2」の攻略本なのですが、「何故か数ページにわたって蕎麦や牛丼のメニューと紹介文が載っている」というのが非常に大きな特徴になっています。

 

ちょっと引用させていただきますと、

こんな感じで、実際の蕎麦屋で掲示されていても全然違和感がない画像とコメントが並んでいます。

しかも画像がやたら美味そう。これ読んでるだけで蕎麦食べたくなってきます。

 

「月見そばの月を壊して食べるかどうかは論争の的だが、立ち食いなら壊して食べた方がらしいのでは」とか、「立ち食いでてんぷらと言えばかき揚げと相場が決まってる」とか、こだわり度の強い内容も記載されています。

 

これ、ゲームと全く関係ないかというとそういうわけでもなく、「サンサーラ・ナーガ」では作中店舗として「はらたま」という蕎麦屋のチェーン店が出ていまして、その「はらたま」のメニュー紹介という体裁なのです。

 

とはいえ攻略に殆ど関係ない情報ということは間違いなく、純粋に「世界観の解像度」を上げるためだけのコンテンツといっていいでしょう。

こういうの、作り手のこだわりや妄想が強く混入されていて、読んでいる側としては「そうそう、こういう大の好き!!」ってなります。

 

こういう、「攻略上は何の役にも立たない、けれどその世界に関わるコンテンツ」を読むことこそ、攻略本の醍醐味だと私は思うわけです。

スタッフに「撮影&料理コーディネイト」という役職が書かれている攻略本は、なかなか例が少ないのではないでしょうか。

 

攻略本としては、攻略チャートや敵のデータからダンジョンのマップ、武器・防具のデータまで一通り網羅していて、これまた読んでいるだけでゲームを遊んでいる気になれる作り。

ラストダンジョンまでちゃんとマップが載っていることも特徴で、説明不足な点もややあるものの、十分攻略で活用出来る内容になっています。

 

全くの余談ですが、サンサーラ・ナーガ2は「めちゃくちゃ曲が良い」「サントラに収録されているアレンジ版も輪をかけて素晴らしい」ということも特徴で、フィールド曲の笛の音の寂寞感もさることながら、アレンジ版「遊泳」の後半ピアノソロは最高の高という他ありません。サントラがプレミアついてしまっているのが残念でならないんですが、機会があれば是非聴いてみていただきたい次第です。

 

○半熟英雄 天下泰平記(NTT出版)

言わずと知れたNTT出版による、SFC版「半熟英雄」の公式攻略本。

 

NTT出版といえば、FF・聖剣・ロマサガなどスクウェアの名作RPGの攻略本を数多く出版していることで著名で、時折誤情報も混じっているものの、イラストや周辺情報も豊富に掲載されていて、読むだけで楽しい本が多いです。

 

特に色んなタイトルの「基礎知識編」は、基礎知識といいながら攻略と関係ないイラストや設定、世界観の情報が豊富に記載されていてとても好き。「完全攻略編」より「基礎知識編」の方が好き派閥です。

 

それはそうと、そんなNTT出版の攻略本の中でも、この「半熟英雄 天下泰平記」は特にお気に入りです。そもそも半熟英雄といえば、当時はまだコンシューマーでは珍しかったRTS(リアルタイムストラテジー)のゲームであって、数々の「将軍」と召喚獣である「エッグモンスター」の戦いが大変面白いのですが、「天下泰平記」ではその将軍とエッグモンスターについて、ゲーム内だけでは分からない情報が様々に補完されています。

 

特に将軍については、ゲーム内では攻撃、内政などのパラメータの他、「趣味」「性格」という項目がさらっと記載されているだけだったところ、この攻略本ではそれぞれの将軍の人となりや普段の様子について、短いながら一人一人コメントされていて、それだけでも滅茶苦茶面白いわけです。

「ぶつぞう」が趣味と書かれていて、遊んでいる間「???」となったヘラについて、「信仰しているわけではないが仏像が好き。最近仏像に似てきたと言われるようになって、喜んでいいか悩んでいる」とか、初代からの強将軍「アポロン」については「ワインにくわしいと思っているが実際に味が分かっているかは不明」とか、とにかく「将軍一人一人の個性」がちゃんと伝わってくる記載になっており、読んでいるだけで作中世界観の解像度がグングン上がってくるんですよね。レア将軍を雇えた時の喜びが倍加すること請け合いです。

 

この作品、FFシリーズやロマサガシリーズから(名前だけとはいえ)キャラクターが将軍として出演しており、例えば「カイン」が「大リーグを見るのが趣味、子どもが大好きなよきパパ」となっていたり、エッジはバーボンが好きな大酒飲み設定になっていたりします。こういう「武将データ」的なコンテンツの味を煮詰めたような作りになっていて、これまた大変お気に入り。

 

攻略本としても、各面のマップから切り札、奥の手のデータ、ボスの紹介から攻略のポイントまで、非常に参考になる内容になっています。データ的にも大きな問題は見当たらず(半熟値と半熟レベル、登場エッグモンスターの関係など、もう少し書いた方がいいのでは?と思う点はないではないのですが)、有用な攻略本と言っていいのではないかと思います。

 

余談ながら、「半熟英雄」は「4」まで出ているわけですが、ゲームとしては初代のファミコン版の時点で既に完成していたんじゃないかと思う部分もあります。

通常の戦略RPGみたいに複数の勢力で競い合っている展開、知らない間に他国が強大化していたりとか、戦略要素を考えるのも非常に面白いゲームでした。難易度も高いんですが。

 

○RPG攻略大全(徳間書店)

こちらはちょっと毛色が変わって、昔の「ファミリーコンピューターマガジン」のおまけでついてたヤツです。

当初は「RPG攻略大全上巻」「下巻」だけだったんですが、その後も「最新版」「○○年版」とどんどん続刊が出ていき、「AVG攻略大全」や「SLG攻略大全」などにも派生していきました。

 

これ、かつてはちょくちょく見かけた「一冊に複数のゲームについての攻略情報が収録されている」攻略冊子の代表格だと認識しておりまして、一作一作の情報量はそこまで多くないんですが、色んなゲームの情報に触れることが出来て、読んでいるだけで幸福感が凄かったのです。旺文社の「必勝作戦メチャガイド」なども有名かと思いますが、個人的に一番馴染んでいるのはこの「攻略大全」シリーズ。

 

内容としては、がーっと攻略順と主要なダンジョンのマップなどが掲載されている、現在で言う「攻略チャート」風な内容がメインではありますが、例えドラクエのエンディングについて「これだけ感動したエンディングは当時なかった」と記載されていたり、時折筆者の感想ダダ漏れの内容が観測出来て、これも読んでいるだけで楽しいです。「ワルキューレの冒険」のダンジョンマップには大変お世話になりました。

 

ちなみに、こういう「複数のゲームタイトルが載った攻略本」で存在を知って遊び始めたゲームというのも結構な数あって、例えば「ウルティマ 聖者への道」とか「スクウェアのトム・ソーヤ」はそのパターンでした。スクウェアのトム・ソーヤ、面白いですよね。あのゲーム遊んでるとパン食べたくなります。

○ウィザードリィIIIのすべて ファミコン版

こちらも言わずと知れた、Wizardry関連のコンテンツと言えばこの人、「ベニー松山」氏の手による攻略本。私が一番遊んでいたのはファミコン版の「III」(Apple・PC版で言うところの#2)で、一番読み込んでいる攻略本もこの「ファミコン版III」のものになります。

この本はとにかく、末弥純氏が描く様々なモンスターの美麗なイラストと、そのモンスターに対する解説文が秀逸の一言。

本の序盤でモンスター紹介があるのですが、そこだけでも画集と同じくらいの価値があると感じます。怖くって綺麗で可愛くって愛嬌があって、どのモンスターの絵も本当に素晴らしい。

 

モンスター解説も詳細かつ軽妙で、フラックが2体で出現する理由や、ライカーガスが古代スパルタのリュクルゴスのことだという話や、マーフィーズゴーストについての解説など、ベニー松山氏の知識に裏打ちされた内容になっていて読んでいるだけでも楽しいです。

 

巻末にWizardryのファンコミュニティである「友の会」のコーナーがあることも重要で、愛好者の投稿やイラスト、4コマ漫画なども掲載されています。

ファンコミュニティというものの存在を知ったのもこの頃だったかなーと思い、投稿した人たちは今頃何をしてるのかな、「五つの試練」とかクリアされたかな、と想像するのも楽しい限りです。

 

攻略本としては、モンスターや武器のデータ、マップのデータなど、必要十分な内容がきっちり押さえられている他、最終階となる地下6階だけは「自分で書き込んで完成させる」作りになっており、私自身が書いた未完成のマップが残っています。今では全部頭に入ってるんですが、当時は苦戦したんだなーと懐かしいことこの上ありません。

 

○ミスティッククエスト スクープガイドブック & コミック(徳間書店)

「攻略本」というよりはゲームの紹介本に近いのですが、こちらも愛読している一冊なので紹介させてください。ファイナルファンタジーUSAこと「ミスティッククエスト」についての、ファミマガのおまけ冊子です。

 

ミスティッククエストは、ゲームとしてはFFというよりGBの聖剣伝説(こちらも元々は「ファイナルファンタジー外伝」という扱いだった)に近く、FF歴代シリーズの中でも最も話が早い主人公である「ザッシュ」が、あまり深く物事を考えず魔王ダークキングを倒す為に活躍するゲームなのですが、その存在を知ったのがこの「スクープガイドブック」です。

 

この冊子、「マリーとエリーのアトリエ」や「スーパービックリマン」のコミカライズも手がけているおちよしひこ先生による紹介漫画が載っており、これがまた非常にスピード感があって面白く、「このゲームを遊んでみたい!」と思わせること大なのです。

特に水の街アクエリアに住んでいる「フェイ」については、おちよしひこ先生の可愛らしい絵柄が全面的に活かされた非常に魅力的なキャラとして描かれており、「なんか知らないがなにかと絶望している」という本人の挙動も交えつつ、どう考えてもザッシュ本人より戦力になるというゲームの特徴を100%伝えきった、非常に良く出来たコミカライズなのです。

 

「ゲーム雑誌や攻略本に載っているおまけ漫画」というのは、これに限らず非常に侮れないものが多く、「この人がこの漫画描いてたの!?」と十数年も経ってから気付くことも頻繁にあるという、それはそれでとても深いコンテンツです。内藤泰弘先生のサムスピとか、面堂かずき先生のロマサガ2なんかも有名ですよね。

 

なにはともあれ、ゲーム雑誌のおまけ冊子最高ですよねという話でした。

 

***

 

長々書いてしまいました。

 

かつて、私たちが「攻略本」を舐めるように読んでいた時代から、どれくらい経ったのでしょうか。20年?30年?

上記の通り、「ゲーム攻略本」は非常に面白いコンテンツなのですが、唯一の難点として「入手性が非常に悪い」という問題があります。NTT出版や光栄の武将ファイル辺りはまだしもですが、ゲーム雑誌の付録攻略本となると、オークションサイトを探し回らないと手に入らなかったりします。

 

近年では、ゲーム攻略情報というのはほぼインターネットで賄えるようになりました。また、web上の情報でも、個人による「攻略ページ」というものも、多くが企業によるwiki風の攻略サイトによって隅に追いやられてしまい、個人のコンテンツとしては「攻略動画」が主流になっているようです(もちろん個人サイトで頑張っていらっしゃる方もいますが)。その影響もあってか、最近では「攻略本」というものを見かけることもだいぶ少なくなりました。

 

それが悪い、ということではありません。ただ、昔とは随分風景が変わったな、という、ただそれだけの話です。

 

ただ、今でも私は「ゲームの攻略本」が好きです。その瞬間にはそのゲームを遊んでいなくても、読むだけで十分「このゲームおもしれー!!」と感じられる、時にはゲームの世界観を掘り下げ、時にはそのゲームに触れるきっかけになる、そんな「攻略本」が好きなままです。だから、今でも私はここにいます。

 

今でも「ゲーム攻略」に関わり続け、コンテンツを作り続けている方々に心からの敬意を表しつつ、なんなら皆さんにもちょっと実家の本棚を漁って、「昔の攻略本」を手に取ってみてはいただけないかなと、そんなことを考えてこの記事を書いた次第です。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:

日本に愛想をつかした...わけではないと思うけれど、イギリスに移住したママ友の智代さんが、クリスマスと元旦を日本にいる子供達と過ごすために帰ってきた。

 

クリスマスと元旦を過ごすためと言っても、12月初旬から1月末まで2ヶ月近くも帰るのだから、クリスマス休暇にしてはずいぶん長い。フライトチケットの価格の都合で、そういうスケジュールになったらしい。

チケット価格はホリデーシーズンに入る12月中旬から上がり始め、1月後半まで高止まりするため、その期間を避けたそうだ。

 

「いくら円が安くなったと言っても、為替の問題ではないと思うんです。ユキさんがイギリス留学していた頃だって、ポンドは高かったでしょう?」

「あの頃(1990年代後半)はめちゃくちゃポンド高でしたからねぇ。当時はだいたい250円で1ポンドだったかな」

 

2024年12月現在のレートでは196円で1ポンドなので、昔よりも今の方がポンドは安い。けれど、現在のイギリスは当時と比較にならないほど物価が上がっており、カフェでランチを食べるにも1人あたり4,000円はかかるのだと、ママ友はため息をついた。

 

「イギリスの物価が高いと言うより、日本の物価が安過ぎるんですよね。なんでこんなに安い国になっちゃったんでしょうか? 他の国は経済成長して、賃金も物価も上昇を続けてきたのに、日本だけが取り残されてしまって...。
考えてみたら、外食が高いのなんて当たり前じゃないですか?人の手で料理されたものを、サービスを受けながら食べるんですから」

 

そんなお喋りをしながら私たちが食べているホテルのランチは、2,500円である。

イギリスに比べたら格安なのだろうが、以前の価格を考えるとやっぱり高いと感じてしまう。ホテルのレストランといえど、コロナ前なら1,500円で十分なランチセットが食べられたのだから。

 

今年に入ってから、どこの飲食店でも遂に値上げを始めた。値段を上げていない店は、ランチセットからサラダが消えたり、品数やごはんの量が減ったり、食後のお茶が別料金になったりしている。

食材の仕入れ値が上がり、人件費も上がっているので、さすがに価格転嫁しなければやっていけなくなったのだろう。

 

地方ではまだ最低賃金が時給1,000円を下回っているものの、さすがに時給1,000円以下の求人には応募がない。地方には仕事がないと言われてきたけれど、もはや労働人口が減りすぎたことで、低スキルの労働者でも仕事を選べるようになってきたのだ。

 

「嫌なら辞めていいんだぞ。お前の代わりはいくらでもいる」

と経営者や上司に脅されて、働き手がブラック労働に耐えるしかなかったのも、今や昔の話である。

今どきの若者は、ちょっとでも職場や仕事に不満を覚えると、

 

「嫌なので辞めます。代わりの仕事はいくらでもあるので」

と言わんばかりに、スタコラサッサと逃げていく。辞表を出したり、辞意を伝えてくれるならマシな方で、何も言わないまま急に来なくなるという話はあちこちで聞く。

 

「実は、息子が会社を辞めることになってしまって。ボーナスをもらったら、辞表を出して帰ってくるんです」

「え? 今年の春に就職したばっかりなのに?」

「そうなんですよ。仕事も嫌なら、県外での暮らしも嫌だったみたいで、地元に帰りたいって言うんです。だから、処分を考えていた家は売れなくなってしまいました」

「えー...。12月まで我慢したんだったら、あと3ヶ月だけ我慢すればいいのに。そしたら丸1年は働いたことになるんだから、職歴として履歴書にも書けるのに」

「私もそう言いましたけど、『同期入社の女の子は1ヶ月で来なくなって、そのまま辞めちゃったんだから、これでも僕は長続きした』って言うんですよ。本当に、あの子は今どきの子っていうか...」

「う〜ん。じゃあ、仕方ないですね。まあ、住む家さえあるなら、仕事は何をしたって暮らしは何とかなりますよ」

 

べつに他人の子供だからといって、適当なことを言ったわけではない。例え、ろくな学歴や職歴がなかろうと、ひとまず若ささえあれば何とかなるだろう。地方は若い労働力に飢えているのだから。

私が働いている職場でも、アラフィフの私が若者扱いされるほど高齢化が進んでいるが、周りを見渡しても似たり寄ったりの状況なのだ。20代以下は存在しておらず、30代が若者で、40代〜50代でもまだ若手。60代〜70代は立派な現役である。

 

そんな話をしていたら、ママ友が心配そうに眉根を寄せた。

 

「もう、この県が大丈夫なのかしらって、心配になりますね。子供たちが小さかった頃と比べても、ずいぶん景色が変わっちゃったような気がします。あの頃はまだ、人手不足や高齢化もそこまで目立ってなかった気がするんですけど」

「そりゃ、人口の多い私たち世代が、あの頃は30代で若かったからですよ。
私たち世代と、その親である団塊の世代が現役で社会を支えているうちは、地域のインフラも各種サービスも維持できていたんです」

 

「これからどうなるんでしょうか?」

「そうですね。まず、県庁所在地以外の自治体はインフラや住民サービスが維持できなくなって、消滅します。だって、ここまできたらお金の問題じゃないですから。
お金なんていくらあったって、働いてくれる人がいなけりゃ医療も介護も受けられないし、日常の買い物だってままならない。だったら、住民は県庁所在地の中心部に集まって暮らすしかないんじゃないですか?」

 

「まあ、ちょっとずつ自然に集まってますよね。最近は繁華街や駅前にマンションがどんどん建ってますけど、市外や郊外に住んでた人たちが住み替えてるって話ですし」

「街中の風景も変わりますよ。まず、百貨店がなくなります。紙の本の衰退と共に地元の顔だった老舗書店も消えるでしょう。地元民だけを相手にしている小売店と飲食店は、消費者不足で閉店が相次いで、そこらじゅうが空き店舗だらけになります。
地元の中小企業も後継者と従業員の確保ができなくなって、倒産と廃業が相次ぐんでしょうね」

 

「怖いけど、そうですよね」

「分かってたことじゃないですか。ずっと前から、いつかこうなるって分かってた。必ず起こると予想されていたことが、今ようやく現実になり始めただけですよ」

 

「そうなんですよ。分かってました。分かっていたけれど、実際に景色が変わり始めるまでは、実感が持てなかったんですよね」

 

そんな話をしているうちに、時計が2時を回ってしまった。ランチタイムが終わる時間だ。店を出なければならない。

 

「会計して、1階のティーサロンに行きましょうよ。そこでお茶を飲みながら、お喋りの続きをしましょう。ケーキが美味しそうだったら、デザートに食べてもいいし」

「そうですね。お茶だけなら、ラウンジのソファーでも飲めたはずですよ。とりあえず移動いたしましょう」

 

今日は、久しぶりに帰国してきた智代さんと、夕方までゆっくりお喋りをするつもりだった。だからランチはホテルのレストランにしたのだ。ホテルであれば、レストランを出てすぐにお茶を飲めるティーサロンに移動ができる。

 

しかし...、

「閉まってますね」

「おかしいですね。このティーサロンに定休日なんてあったかしら? ひょっとして閉店してしまったとか?」

 

「あっ、何か書いてあります。あー...そっか。もう平日の営業はしてないみたいですよ」

「えー、困りましたね。平日に営業しても、お客さんが来ないということでしょうか?」

 

「あるいは従業員不足で、営業できなくなってるのかもしれませんね」

「あっちのラウンジはどうでしょう?」

 

「ラウンジは.....無くなってます...。ラウンジだった場所が、喫煙所になっていますよ。Barカウンターも無くなってる」

「ええー...。ここのホテル、いつの間にそんなことになっていたのでしょうか?」

 

「ラウンジに人を配置できなくなったのかもしれません」

「さっきの話じゃないですけど、もうこのホテルにも綻びが見えてますね」

 

かつてシャンデリアが燦然と輝いて煌びやかだったホテルは、今は営業している店もまばらなせいか、全体に薄暗かった。昭和の時代からあるシティーホテルだが、ここもそう遠くない将来に役目を終えるのかもしれない。

 

 

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【著者プロフィール】

マダムユキ

最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。

Twitter:@flat9_yuki

Photo by :Katelyn Greer

年明けに、こんな記事を読んだ。

 

翻訳の仕事がない、という翻訳家の文章だ。

もうすぐ消滅するという人間の翻訳について

翻訳の依頼は加速度的に減り続けている。

答えを出したようにみえるのは言うまでもなく、
2023年初頭のChatGPT公開を皮切りとして世に放たれた生成AI翻訳である。

機械翻訳の進歩は多くの翻訳家の理解をとうに超えていたが
生成AI翻訳の普及は少なからぬ翻訳家に「それ」がほんとうの終わりを運んできたと実感させるに十分だった。(中略)

現状の生成AI翻訳はどうみても完璧というには程遠く、依然として人間の翻訳を終わらせるだけの力をもたない。それでもなぜ、人間の翻訳は終わってゆくのだろうか。

ほかでもなく、人間の側が翻訳に対する要求水準を下げ始めたからである。(中略)

人間の翻訳を終わらせるのに、完璧な機械などもとより必要なかったのだ。
(太字は筆者)

 

まあ、そうなるだろう、という感想が浮かんだ。

だがこれは、翻訳家だけの問題ではない。

 

現状の生成AIの能力は、それほど高いものではないし、「生成AIは万能」と煽るつもりもない。

が、それでも営業、コールセンター員、システムエンジニア、コンサルタント、ライターなど、いわゆる「ホワイトカラー」全員に影響を及ぼす可能性がある。

 

 

この文章を読んで、私は自動車産業の話を思い出した。

 

1800年頃生まれた自動車は、1900年頃までに技術の進歩により、多くの金持ちに愛される道具となった。

しかし、当時の「手作業」による自動車の生産台数は、1つの会社でせいぜい年間1000台、1500台というオーダーで、価格は高く、庶民には手が出なかった。

今の価値に換算すれば、一台あたり数千万円~数億円というところだろう。

 

そこに切り込んだのが、T型フォードだった。

T型フォードは「標準化・コンベア・分業」という武器をひっさげ、年間に数万台の自動車を生産、価格を大きく引き下げた。

庶民がクルマを買えるようになったのだ。

 

しかし、こうして生まれた「システムによるモノづくり」は、多くの職人を駆逐した。

 

それ以後、自動車産業は、さらなる機械化による生産性向上が続き、現代に至る。

かつて大量に人を抱えた工場は機械化され、多くの工場労働者もまた、徐々に仕事を失った。

 

もちろん、これは自動車に限らない、繊維からパンまで、あらゆる工業製品に起きたことである。

 

 

それと全く同様のことが、生成AIの登場によって起きている。

ただし、場所は工場ではなく、オフィスでだ。

 

いままでも「ホワイトカラー」の仕事が奪われるのでは、という意見はあった。

コンピュータの登場によってである。

 

コンピュータによるIT化は、経理部員の仕事を奪い、事務職という仕事を絶滅寸前に追いこんだ

しかしこれらは、正確に言えば「電卓をたたく」「FAXを送る」「OHPを作る」などの肉体労働の置換であり、「頭脳労働」は置換されない、という認識が多くの人にあっただろう。

実際、PCによって、ホワイトカラーはむしろ増殖したのではないだろうか。

 

しかし、生成AIは異なる。

これは、電卓やPCとは、本質的に異なる機械であり、「思考の代替」を可能とする。

そのため、史上始めて「頭脳労働が、機械に置換される可能性」が出てきたのだ。

 

例えば「ライター」の仕事。

私は書き物を生業の一つとし、お客様に大量の原稿を納めてきた。

 

しかしそうした「ライター」の仕事はまさに、生成AIに取って代わられようとしている。

前に書いた通りだ。

「「生成AIを仕事で使い倒す人たち」に取材して回ったら「自分の10年後の失業」が見えてしまった」

そして、私は一つの確信を得ました。

それは、「私は間違いなく10年後、失業する」です。

実際、「記事」を必要としているお客様も、人間のライターを切って、続々と生成AIに、記事作成を切り替えている。

想像よりもずっと速いペースで。

おそらく10年も必要ない。

 

もちろん「人間のようなレベルで記事が書けない」という方もいるが、前述した翻訳家の言葉を借りれば、

ほかでもなく、人間の側がライティングに対する要求水準を下げ始めたからである。

人間のライティングを終わらせるのに、完璧な機械などもとより必要なかったのだ

と言って差し支えないだろう。

 

とにかく、圧倒的なコストの低さの前には、多くの人間はかなわない。

今まで1記事当たり何万円も払っていた記事に対して、ほぼタダで「多少は質は落ちるけど、実用上問題ない」ものができるのだ。

もうライターはお手上げとしか言えない。

 

自分がやっている業務において、「ロールスロイスのようなハンドメイドの車の素晴らしさは認めるけど、実用上はダイハツの軽自動車で十分だから」

という概念が生まれたら、もう後戻りはできない。

加速度的に仕事は消えていく。

 

もちろん、したり顔で「私の仕事は減ってないよ(なぜならば私はロールスロイスの職人だから)」という人もいるだろう。

 

そう主張することは構わない。

だが、それが主流になることはない。

せいぜい、そいつの食い扶持を稼ぐぐらいの仕事が残っている、というだけの話だ。

 

 

翻訳、ライティングのほかに、「AIで十分だから」と言われるような仕事はあるだろうか。

 

例えば調査業務。

GoogleのGemini pro deep researchを使ったことがあれば、「カンタンな調査なら、AIで十分かも」と思う人が出てきてもおかしくない。

コンサルタントのジュニアクラスがやる、「調べもの程度のリサーチ」はそのうち、完全に代替可能になると、現段階ですら予想できる。

 

あるいはシステムエンジニアをはじめとするIT関連業種。

グーグルやMSら警鐘、生成AIでITエンジニアは不要になる?「90%以上影響」の詳細

グーグル、マイクロソフト、IBM、シスコなどからなるAIコンソーシアムが2024年7月に発表した最新レポートでは、生成AIがもたらすIT関連職への影響が分析され、各職種におけるスキル動向が明らかにされた。注目すべきは、IT関連職の90%以上が、AIによって大きく、あるいは中程度に変革される可能性があるという点だ。

ソフトウェア開発、データサイエンス、デザイン、QAとほぼ全領域で大きな影響が出そうだ。

「対物」系のホワイトカラーは、比較的AIへの代替が容易かもしれない。

 

しかし、「対人」系の仕事もうかうかしていられない。

 

例えばコールセンターについては、すでに導入している会社も増え、かつAIへの置き換えを実際に検証している会社はとても増えている。

おそらく数年で、雇用に影響が出るほどの置き換えが発生するだろう。

 

営業やコンサルタント、弁護士、会計士、医師、人材紹介、秘書などの「半対人サービス」も、定型的な処理ができる部分から、どんどんAIに置き換える、という話がでてくるだろう。

いや、実をいうと、すでに出てきている。

 

すでに財務分析や画像診断、判例の調査、提案書の作成、議事録には生成AIが活躍しつつある。

こちらも雇用に影響が出るまでに、そう長くかからないだろう。

 

鍵は上に述べたように、コストを下げるために、多少は質を落としてもいいと判断されるかどうかだ。

この判断がなされた部分から、AI化は容赦なく進展する。

人間でも「そこそこ」の仕事しかできない人が、たくさんいるのだから。

 

 

逆に、金持ち相手の、接客・感情労働が混ざった、頭脳労働は当面なくならないかもしれない。

 

例えば。

五つ星のホテルマン。

ブティック店員。

プライベートバンクの行員。

グラン・メゾンの接客係。

人間ドックや美容整形の職員。

パーソナルジムトレーナー。

ファーストクラスのCA。

 

なぜなら、「AIに命令するのではなく、人間をかしづかせる」ことに対して金を払う人間は、当面いなくならないだろうからだ。

 

「人間にしかできない」というサービスは、要するに「人間にやってほしい」という、感情を含んだ価格設定になるはずだ。

むしろ宝飾品のように高いほど、希少性が高まる(ように見える)ので、人気が出るかもしれない。

「頭脳労働」とは、こういう金持ち相手の職種に収れんしていく可能性もある。

 

実際、私はコンサルタントだったころ、上司に「お前らは男芸者だ」と言われていた。

「人間のコンサルタントを使っていること」そのものに、価値を感じている経営者は、決して少なくない。

 

だから、コンサルタントも現在の「高級事務職」としての働きはAIに置き換えが進む一方で、「人間のコンサルを使いたい」という一部の経営者たちに愛されるサービスに移り行くかもしれない。

 

 

ただし、すくなくとも、現状の生成AIの能力からすると、2025年の間に「ほぼ完全に置き換えが可能な」職種は、ライターや翻訳など、一部の職種に限られる。

しかし、1年後の2026年には、上で挙げた中のいくつかの職種において、少なくともAIを用いた新しいwebサービスが「ホワイトカラーの置き換え」として、大いに活況を呈するだろう。

 

ただ、それを決めるのは、結局はAIの能力というよりも、かつての

ユニバレが嫌だ」→「ユニクロでいいじゃん」→「ユニクロいいね」

への移行と同じく、

「生成AIには任せられない」→ 「別に生成AIでいいや」→ 「生成AIいいね」

という人の意識の変革のスピード次第なのだ。

 

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」65万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

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Photo:Reet Talreja

もうずいぶん前のことだが、社外取締役を務めていた会社で副社長から、こんな相談をされたことがある。

「もう会社はもたないと思うんです。社長と私の退任を前提に事業を売却するべきだと思うのですが、ご意見をお聞かせ下さい…」

会社を立ち上げた創業メンバーからの、悲痛な相談だ。目を合わせることもせず、憔悴しきった様子に心が痛む。

 

「賛成します。今となっては他に方法がないと思いますので。しかしなぜ今まで、その方向で動かなかったのでしょう」

「持株比率があるので…。社長本人が決心しないと簡単なことではありませんでした。しかしそれ以上に厄介な問題があったんです」

 

そういうと副社長は、一部の幹部社員や従業員にも相談を持ちかけたことがあること。

するとその際に返ってきた答えは、意外にも社長の続投を求める意見が多かったこと。

そのため、もしかして自分のほうがズレているのではないのか。会社を売却して生き残るより、このまま会社ごと心中することを従業員も望んでいるのではないか、というような迷いを話した。

 

「副社長、話は理解しましたが、その解釈は根本的におかしいのでは…。別の意味でズレています」

「…なぜでしょうか。合理的な経営判断だけで組織はうまくいきません。だからこそ、従業員の意見や想いまでシェアしたのに、正直心外です」

怒りを滲ませ、抗議に近い感情を見せる副社長。

 

それはそうだろう。ただの社外取締役で、なにの権限もない私に相当な覚悟をもって、相談したのである。

にもかかわらず、「根本的におかしい」などと言われたら、腹を立てないわけがない。

しかしそれをわかった上でも、副社長の感性はズレている。そのため、ケンカを売る覚悟で私も、本音を話し始めた。

 

「百姓出身のワシは…!」

話は変わるが、昭和時代には「学習まんが」というジャンルの本が多数あった。

今もあるのか知らないが、おそらく40代以上の人であれば、誰でも記憶にあるだろう。偉人伝シリーズや日本の歴史シリーズといった読み物である。

源頼朝、織田信長、豊臣秀吉…。

誰もが知る歴史上の“偉人”の生涯を漫画形式で紹介することもあり、おそらく昭和の親世代は“教育に良い”と考え、こぞって子供に買い与えていたのではないだろうか。

他にも、「宇宙の秘密」「人体の秘密」など、秘密シリーズも全盛期だった。

 

そんな中で、いちばん記憶に残っている1冊は歴史シリーズ、「豊臣秀吉」だろうか。

信長の草履取りから始まり、最後には天下人に昇り詰めるというような過程を漫画化したものだが、しかし小学生の私にすら、そのストーリーは違和感しかなかった。

細かなところを言えば色々あるが、一番は「秀吉は、平和を愛する庶民的で心優しい、戦国の世に抗うリーダー」という視点で描かれていたところである。

 

刀狩を描く場面では、「そもそも、こんな物があるから戦争が絶えない世の中になってしまうのだ!」と叫び、恒久的な平和を訴え、農民や野武士から武器を取り立てる。

また関白に就任し、天下統一という一つの外形的な形が整った場面では、風呂に浸かりながら湯漬け(お茶漬け)をかきこみ、「ワシは百姓の出身だ!こういうのんびりした生活がしたかったんだよ!」と話し、また風呂上がりにふんどし一枚でリラックスするシーンが描かれる。

 

しかしどう考えても、こんな描写はおかしいだろう。

おそらく少しでも歴史に興味のある人であれば、秀吉の強烈な自己顕示欲や、残虐性の際立つ一面を知っているはずだ。

 

一例を上げれば1595年8月、京都三条河原での、女性や子供ばかり39人を大量処刑にした惨殺事件である。

養子・豊臣秀次に謀反の嫌疑をかけ、その一族郎党を皆殺しにした出来事だが、その経緯はとても言葉になどできない。

当時、公開処刑を見物に来た町民たちの中にも、

「見に来たことを後悔した…」

と話す人もいたそうだが、私はその記録を読んだことすら後悔した。

 

少しだけお話しすると、母親の目の前で先に幼子から空に投げ上げ、槍で串刺しにし、それから絶望に泣き叫ぶ母親を処刑したというものだが、もうそれだけで十分だろう。

もうとても、それ以上を書く気になれない。

かつての主君、織田信長の妹であるお市の方が産んだ茶々(淀君)を側室にし、子供を産ませている経緯を考えても、なかなかのものだ。

 

もちろん、その目的や感情を現代の価値観ではとても推し量れないし、推し量ることそのものが間違っている。

500年近い前の文化はそれほどに隔絶感があるので、当時としては当たり前のことだったのかもしれない。

 

しかし残酷な方法で女性や子供を39人も惨殺し、また32歳年下で、かつての主君の姪っ子を側室にして子供を産ませるというのは、500年の時を隔てても、

「時代が時代だから」

というには、なかなかすんなりと納得することが難しい。

 

繰り返すが、もちろんそれはそれで、そういう時代だったから、という側面は否定しない。

その上で、ではなぜそんな秀吉に、「刀なんてものがあるから、戦争が起きるのだ!」などという嘘くせえ現代風の反戦的なセリフを言わせ、刀狩というただの「権力基盤の強化」を、さも平和主義の理想実現であるかのように描くのか。

 

黄金の茶室を作らせ、また北野大茶会など、華美で贅沢な権勢誇示を好んだ秀吉に、

「百姓出身のワシは、湯漬けが大好きじゃ!」

などと、嘘くせえセリフを漫画の中で言わせるのか。

秀吉の生涯を少しばかり知っていれば、小学生にも違和感の残る読後感でしかなかった。

 

物語とは、誰かの目線を通じて、その価値観で描くのがわかりやすいストーリーであることは否定しない。

だからといって、ここまで偏った“主人公が正義”という立場で描くとは、あまりにも子供を舐めすぎているだろう。

 

思えば昭和の時代には、一方的な勧善懲悪の水戸黄門や、わかりやすい正義対悪という構図が好まれていた。

「正義の怒りをぶつけろー、ガンダム」

と歌われていたほどに、人気漫画ガンダムでも、連邦は正義でジオンは悪と言う前提だったが、戦争に善も悪もあるものか。

それほどに浅く、二元論的に人の心や歴史の出来事を解釈しようとした文化が、昭和時代にはあった。その影響が今も、40代以上の世代に残っていると危惧するのは、考えすぎだろうか。

 

「このまま仕事を続けたい」

話は冒頭の、副社長からの相談についてだ。

なぜ一見正しそうな彼の言っていることを、根本的におかしいと反論したのか。

 

「少し教えて下さい。副社長が意見を聞いた社員はどんな役職で、何歳くらいの方でしたか」

「50代の部長もいますし、30代の課長もいます。敏感な話題なので、20代の若手社員には聞いていませんが」

 

「その人たちは、例えば資産家であるとか、奥さんがものすごく稼いでいる専門職とか、そういうことはあるのでしょうか」

「…ありません。部長の奥さんは専業主婦ですし、課長の奥さんは確かパートさんです。いったい何を言いたいのでしょう」

 

「単刀直入に言います。であれば部長も課長も、会社に“人質”を取られているのですよね?」

「…え?」

「会社に生活を依存している人、つまり人質に取られている人が、社長の悪口を言えると思いますか?その意思表示に何のバイアスもかかっていないと、本当にお思いでしょうか」

 

どういう表現をして良いのか今も正直わからないが、人は多かれ少なかれ、

“生活を維持する”

ことの優先順位は、相当高いものだ。当たり前だが。そのため、例えば会社に勤めている人であれば、クソ上司のクソみたいな指示にも、歯ぎしりしながら従ったことがあるだろう。

 

生活を“人質”に取られるとはそういうことであり、その状態で

「社長をクビにすべきだと思うけど、どう思う?」

などと聞くことがナンセンスで、現実的な想像力が欠如していると言わざるを得ない。

 

「副社長、もっと言えば従業員の皆はきっと、会社が潰れるなんて夢にも思ってません。“正常性バイアス”はそれほどに強烈です」

「…」

「本音を聞きたければ、もうお金がないこと、打つ手がないこと。3ヶ月後に皆をクビにする必要があると話して下さい。それでも家族を路頭に迷わせていいと、本当に言うでしょうか」

 

そして話は、“漫画 豊臣秀吉”についてだ。

刀狩を反戦的な理想の社会づくりであると描き、天下を取ってもなお質素な生活を好む権力者という描き方は、確かに美しい。

しかし人は、一義的には自分のエゴに従い、人生の決断をしたがるものだ。権力者であれば、なおさらである。

 

美しい理想や社会の実現のため、秀吉が意思決定をしたなどという妄想を描くことは、前提からしてバカげている。

敵と味方を峻別し、味方には手厚かったが敵には苛烈だった秀吉の現実的な価値観を考えても、全く説得力がないだろう。そんな単純なストーリーを真に受けるようなリテラシーで大人になり、リーダーになればどうなるか。

 

その後、副社長は会社の状況をそのまま従業員に素直にシェアしたが、多くの社員が

「このまま仕事を続けたい」

「社長と副社長が退任し経営者が変わることもやむを得ない」

という意思表示をしたそうだ。それはそうだろう、生活という“人質”を失った経営陣に対する従業員の本音など、そんなものである。

 

単純な二元論で勧善懲悪を説く“美しい昭和の価値観”は、娯楽コンテンツでしかない。

そんな“ものの見方”しかできず、人の心を理解できない経営陣が率いる会社の、一つの終わり方だった。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など

水戸黄門ではいつも、見せ場のシーンでは圧倒的多数の“賊”が鎮圧されてたことを不思議に思ってた、生意気小学生でした。
運良く黄門様を討てたとして、その後はお家取り潰しで済まんのに、そこで逆ギレはないやろー。

X(旧Twitter) :@ momod1997

facebook :桃野泰徳

Photo by:S. Tsuchiya

父は若いころ、すぐに怒る人だった。

自動車の運転をすれば前の車のマナーに怒り、仕事では「きっちり仕上げない人」に対して怒り、自分の書斎の物を動かす家族にも怒った。

イライラがデフォルトのようだった。

 

学生の時の担当教官も、すぐに怒る人だった。

論文の読み込みが甘い学生を厳しく叱責し、発表に対してはパワハラまがいの容赦ない非難を浴びせた。

他の研究室で、その様子が噂になっていたほどだった。

 

私の上司も、よく怒る人だった。

クライアントへサービスする部下たちの能力の低さに怒った。

会社の方針に賛同しない社員に対して怒った。遅刻者やルール違反を犯した人間にはさらに激しく怒った。

あまりに彼が激しく怒るので、多数の人が辞めていった。

 

そうかんがえていくと、私の生涯におけるキーパーソンには「いつも怒っている人」が少なからずいた。

 

もちろん、ビジネスの現場だけではなく、世の中全体も同じだ。

 

妻は「激しく怒る人」によく遭遇しているという。

子どもに対してすぐに怒りを爆発させる母親。

自分の思い通りにならないと、すぐにキレる知人。

 

あるいはツイッターを見れば、そこかしこに「怒り」がある。

無能な政治家に、不倫した芸能人に、裁判の判決に、犯罪者に、暴言に、ブラック企業に、外国人に、税金に……

それこそ無数の怒りが、webを覆っている。

 

つまり、多かれ少なかれ、実際には、ほとんどの人は毎日「怒っている」。

 

ただ、私は「怒ることが悪い」というつもりはない。

そもそも、怒りを「我慢している」状態は、とても体に悪い。よりストレスに晒されてしまうからだ。

 

精神科医の片田珠美氏は、怒りを抑圧していると、ある時突然キレて社会的に取り返しのつかないことになったり、飲酒などで自分を破壊する衝動につながったりする、と警告している。

[amazonjs asin="B009KZ4624" locale="JP" tmpl="Small" title="なぜ、「怒る」のをやめられないのか~「怒り恐怖症」と受動的攻撃~ (光文社新書)"]

だから、「怒り」を感じるのは自然なこととして受け入れなければならない。

 

ただ、怒りは、負の側面も大きい。

時と場所をわきまえず怒る人、いつも怒っている人が好きな人はいない。

社会的な制裁が待っている。

だからトータルで見て我々に必要なのは、、怒りをうまく御する方法、怒りを原因とする社会的な破滅や、私的生活の破滅を防ぐ方法なのだろう。

 

実際、「激しく怒る人」は、企業内、ビジネスではかなり減ってきているように感じる。

コンプライアンスを意識しているのか、怒りでは何も変わらないと諦めているのか。その両方か。

「怒ると頭が悪くなり、やらかす可能性が高くなる」

そういうことを教えられ、平静を保つ訓練を受けている人も増えたのかもしれない。

 

「怒り」に振り回されず、それを使いこなす人たち

一方で、世の中には非常にしたたかな人も存在している。

「怒り」に振り回されず、それを使いこなす人たちだ。

 

彼らは「怒りをガマンしているので怒らない」と誤解されがちだが、実はそうではない。

そもそも、「怒る」という事に対して、ちょっと考え方が異なる

 

私の知人もその一人だ。

 

例えばどこにでも、人が集まると「老けた?」とか「太った?」とか余計なことを言って、他人を怒らせる輩がいる。

しかし、その知人は、そう言われて怒るどころか、「いやー俺も歳だからさ」と軽やかに受け流す。

あまつさえその輩に「君は若いね、全然変わってないよな」と、褒めさえする。

 

周囲の人間の中には、それを見て「いや、そこまで言われたら怒れよ!」と、本人でもないのに怒る人もいるくらいだ。

 

だから、聞いてみたことがある。

「なんで怒らないの?」

「我慢するのは体に悪いよ?」と。

 

彼は言った。

「何で怒る必要があるの?時間もったいないじゃない。」

 

怒りを御するとはどういうことか

いったいどういうことなのか。

 

大多数の人が、「怒りたくないのに、怒ってしまう」ことに悩んでいるのに対して、彼は全く逆の発想を「怒る」に対して持っていた。

彼はこういった。

「怒ることに実入りがある、怒る必要がある時には、ちゃんと怒りを表明しますよ。」

 

発想の違いが判るだろうか。

多くの人にとって「怒り」は、一種の生理現象であるのに対して、彼にとって、「怒り」は、たんなる問題解決の「手段」の一つに過ぎない。

 

これはなかなか賢い発想だと思う。

だから、私はきいてみた。

「話を聞いてると、まるで「怒り」を感じない人みたい。なんでそんなことができるの?」

 

彼は言った。

「怒りを感じるのは誰でも一緒。だけど「怒る」と「我を失う」こととは、実は簡単に切り離せる。

 

「どうやって?」

「カンタンだよ。「ここで相手を責める、不快感を示す、怒鳴る、そしたら問題は解決するか?」って考える。」

 

つまり、彼の言い分はこうだ。

我を失って、怒鳴り散らして問題が解決するならぜひそうする。でも大抵は無駄で結局、気分も全くスッキリしない。揉め事が大きくなる。

だから、まずは怒鳴るのではなく、「ほしい結果」だけを考える。

 

彼の言う「ほしい結果」とは例えば、こんな感じだ。

・相手が反省する

・相手の行動が変わる

・自分の理想の状態になる

 

そして最後に、彼はこういった。

「もちろん、「相手を全力で傷つけたい」ときには、怒鳴るしかない。でも幸いなことに、今までそういうケースはない。」

 

「イヤなことを言われたとき、「やり返したれ!」と思わないの?」

「ん-、やり返したら、そいつがビビッて、そういうのが止まるんだったら、やるかな。ただ、そういう姿を第三者に見られてしまうデメリットもあるからね。迷うね。そこに誰もいなかったら、「二度というな」って脅すかも(笑)」

 

なるほど、と思った。

彼の中では、「怒ること」と、「我を忘れてバカになること」が、別に定義されている。

だから、感情と行動を切り離せるのだ。

 

後先考えずに怒りを表明すれば「愚か者」のレッテルを貼られてしまう。

だが、それを知って、適切に怒りを使えば、相手を動かすこともできる。

 

 

アンガーマネジメント協会理事の安藤氏によれば、怒りとはほとんどの場合において、「コアビリーフ」、つまり我々が「こうあるべき」と信じていることが、裏切られたときに発生するという。

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精神科医の水島広子氏は怒りの原因を

1.期待値や予定が狂ったことに対する怒り

2.軽んじられた・侮辱されたことに対する怒り

3.我慢をさせられたことへの怒り

といった形に分類している。

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世の中はままならず、思い通りにいくことはほとんどない。

だから、我々は日々、怒っている。

 

しかし、それが、後先考えない愚かな行動に転換されるかは、自分で選択できる。

 

「7つの習慣」は、「刺激」(不快な現状)と、「反応」(我を忘れて怒鳴るなど)の間には、スペースがあり、人間は他の動物と異なるのは、「反応は自分で選べる」点だと主張する。

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精神科医の水島氏は「傷つけているのは自分」と言い、安藤氏は、「怒りの感情のままに行動するのではなく、自らの意志でどのように行動すればよいのかを考えて選択する」という。

 

つまり「怒り」を感じることは真っ当で、そこには自分にとって大切な欲求が発生している。

しかしそんな時こそ、頭を使って、戦略的に動かないと、望む現状は手に入らない。

 

感情を爆発させるだけでは、ますます人は去り、現状は細っていく。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」65万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

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Photo:Andrea Cassani

あっ、なんかヤベェなって思ったよね。相手の顔色が変わった瞬間に。

どうやら地雷を踏んだらしいわ。めっちゃムカついてるっぽいやん。

 

「なんでいつまでもそんなに忙しいの?」

って聞いただけだったんだけど。だって、純粋に疑問だったから。

お互いに昭和の面影が残る商店街で、組合の事務員という同じ仕事をしているからこそ、なぜ連日のように残業し、週末も出勤するほど忙しいのか、本気で分からなかったのだ。

 

「基本的には、前の人がめちゃくちゃにしてたことの片付けに、まだ時間がかかってるんです」

そう答える斉藤さんの顔は強張っている。

 

「そっか。でも、前任者のやらかしの片付けが大変だったのは、こっちも同じだけど」

おっと、これは言うべきじゃなかったな。余計にコワイ顔になっちゃった。

「こっちはとっくに片付け終わってるのに、そっちは何してんの?」って、嫌味を言ったみたいに思われたかな。

 

「うちの組合は、私の前任者が理事長と事務局長と事務員の三役をこなしていたから、仕事の境目が分からなくなってたんですよ。それを一つ一つ整理して、理事がやるべき仕事は理事にやってもらわないといけないんですけど、なかなか理解してもらえなくて」

 

事務員に何もかも任せっぱなしで理事たちが何もしないのは、商店街に限らず、ちっこい組合ならどこだって同じじゃないの?

 

「まあ、理事長は良い人なので、ちゃんと仕事をしてくれるようになりました。だけど、今度は理事長に負担が偏りすぎちゃったのが問題なんです。他の理事たちにも仕事を分担してもらわないといけないし、もっと理事のなり手も増やさないといけない。
それを組合員さんたちに分かってもらおうとしてるんですけど、どうして私がこんなに忙しいのかについても、毎回一から説明しなくちゃいけなくて、もうウンザリ。なんど言っても分かってくれないし」

 

あー、だから「なんで忙しいの?」って言葉にキレたのか。ウンザリしてたのね。

せっかく久しぶりの事務員ランチ会で、私にとっては最後の参加になるのに、気まずくなっちゃったなぁ...。

 

私と斉藤さんの勤め先はそれぞれ別の商店街だが、立地は違えど規模と歴史は似たり寄ったりだった。

 

日本が高度成長期だった時代にブイブイ言わせていた商店主たちが、世がバブルの頃にMAX調子に乗りまくり、よせばいいのに組合を法人化して、億単位の助成金と融資を受けて高度化(アーケードをかけたり、街路をカラー舗装したりすること)した。

けれど、巨費を投じた高度化事業を終えた頃には郊外にイオンができて、あっさり衰退し、今では買い物客どころか通行人すら少ない限界商店街に成り果てているのだ。

 

何より似通っているのは、どちらの商店街も長年にわたって事務局を任されてきた事務員が高齢となり、退職した途端に山ほどの不正が明るみになったことだった。

開けてびっくりパンドラの箱を押し付けられた私たちは、事務員同士の交流会で知り合った頃、どちらも頭を抱えていた。

 

お互い涙目になりながら組合の内情をぶっちゃけ、

「やっばw ◯◯◯商店街って、うちよりヒドイやん」(←失礼)

「えっ? うちよりそっちの方がよっぽどヤバくてメシウマ案件ですよ」(←超失礼)

 

などと軽口を叩いて、慰め合った。どんな理不尽な環境下だろうと、自分以外にも苦労している仲間が居ると思うと励まされるものだ。

しかし、私は問題の処理を終えると同時に退職を選んだが、彼女は問題の解決に目処が立っても残留を選び、そこからは道が分かれていた。

 

「とにかく、理事たちにはもっと働いてもらわなくちゃいけません。理事会の出席率も上げないといけないし、理事長や理事の成り手の確保もしなくちゃいけないから忙しいんです」

 

「そうなんだ。でも、理事が組合のために何もしないなんて、今じゃどこの組合でも当たり前のことなんじゃないかなぁ。みんな自分の商売で忙しいんだし、組合のことで煩わされたくないでしょ。
だったらさ、そもそも組合員も事務員も負担に感じる仕事はしなくてもいいように、業務を効率化してしまえばいいんじゃないの? うちの組合は大分DX化したから、リモートでもできる...」

と言いかけたところで、いまいましそうに話を遮られた。

 

「それについていける人や、喜ぶ人が商店街にどれだけいるんですか?だいたい業務の効率化って言うけど、ただ単に事務作業をするだけの人に、商店主さんたちが給料を払う価値を感じると思いますか?」

えっ? 事務員がやるべき仕事は、事務作業じゃないの?

 

話の展開に面食らっていると、斉藤さんは強い口調でこう続けた。

「商店街の事務員の一番大切な仕事は、事務作業じゃないです。組合員さんたちお一人お一人と、じっくり向き合ってお話をすることなんですよ」

 

ん? ちょっと何言ってるのか分からない…。

 

「何か不満があっても、事務員が話を聞いてあげれば丸く収まることって多いんです。商店主同士で言いたいことを言い合うと大事になるような話も、事務員が間に入って、優しい言葉に変えて上手に伝えれば、物事が円滑に進みます。
商店主って気難しい人が多いので、上手く機嫌を取ることも大事です。そういうことを上手くやるのが、商店街の事務員としての手腕なんですよ。
だから、キャッシュレスとかペーパーレスなんてしたらダメでしょう? 回覧板を回したり集金に行くからこそ、顔を合わせてお話ができるんですから」

 

それって本気で言ってるの?

斉藤さんって、確か私よりひとまわり若いよね?

 

あ、そっか。分かっちゃった。なんで斉藤さんがいつまで経っても忙しいのか。そして「分かってもらえない」と不満たらたらなのか。

 

この人は、内部的には意味があっても、対外的には何の価値もない仕事を延々とやっているのだ。だったら「忙しいことが周囲に理解されない」のも当然である。

なんなら「アホちゃうか?」「ヒマなんか?」と思われているのではないだろうか。

 

そして、商店街を取り巻く状況はとっくに変わってしまっているのに、システムではなく他人の意識を変えようとしている。昔ながらの商店街の復活と、彼女が思う正しい組合のあり方を目指すという、時代に逆行する方向で。

だから、今の理事長さんは負担に耐えきれず引退したがっており、新たな理事の成り手も居ないのだ。組合員と話をするのが一番大事な仕事だと言う彼女の頑張りは、恐らく裏目に出ているのだろう。

 

超がつく薄給でも真面目に働いてくれる彼女に対して、感謝の気持ちと申し訳なさがあるからこそ、誰も面と向かって言えずにいるんじゃないだろうか。ことあるごとに店に来て、「もっと組合のために働け」だの、「理事を引き受けろ」だのと粘られるのは、迷惑このうえないということを。

自分にとって一銭の利益にもならないのに、ただ負担が増える話を喜ぶ商売人なぞどこにも居ない。

 

昔の商店主たちが組合の活動に熱心だったのは、金と暇がたんまりあったからである。

国や自治体から助成金もジャブジャブ注がれていた。だからこそ、そうした公金の受け皿として誕生したのが法人格の組合なのだ。

 

「えー...っと。事務員の価値うんぬんの前に、言ってしまえば、わざわざ事務員を雇わなくちゃいけないような法人格の組合自体が、もう商店街に必要ないんだと思うよ。
昔みたいに大規模事業はやらなくなってるんだから。イベント開催や街のインフラ管理程度のことなら、町内会みたいな任意団体になってやればいいでしょう?」

 

「そんなこと絶対に無理ですね。さびれたとはいっても、歴史のある商店街なんですよ。振興組合を解散して任意団体に成り下がるなんて、プライドが許しません」

そりゃ何のプライドだよ? クッソくだらねぇな。

 

やれやれ。つくづく歳をとっていて良かった。もしも私が彼女と同じくらいに若ければ、心の声をそのまま口にして、大喧嘩になっていただろう。

斉藤さんと熱い議論を交わす気はなかった。放っておいても、これから起こる急激な人口減のあおりをうけて、そう遠くない将来に商店街は滅ぶのだから。

 

当の商店主たちも、そのことはちゃんと自覚している。だからこそ、いつでも逃げていけるように、組合と積極的な関わりを持ちたくないのだ。

そんな人たちを変えることはできない。

 

「そっかぁ。頑張ってね。ここでの頑張りは、きっと無駄にならないから」

私は顔に作り笑いを貼り付けながら、薄っぺらいエールを送った。

 

 

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【著者プロフィール】

マダムユキ

最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。

Twitter:@flat9_yuki

Photo by :David Clode

「うおおおおおおお」

「きたぁああああああああ」

「音楽だけで泣ける」

「記憶消してもう一回やりたい」

「演出が神」

 

とあるゲームの実況配信。

主人公がラスボスとの最終決戦に望み、互いの正義をぶつけ合う緊迫のシーン。

 

最高潮の盛り上がりを見せる場面で、コメント欄はリスナーたちの叫びであふれかえっていた。

 

文章で飯を食っているわたしだけど、こういうエモさ爆発の瞬間では、どうしても言語化能力の限界を感じてしまう。

最近は「言語化能力」が注目され、持ち上げられているけれど、決して万能なスキルではないのだ。

 

今年の新語大賞に選ばれた「言語化」とは

三省堂が選ぶ「今年の新語2024」の大賞に、「言語化」が選ばれた(ちなみに2位は「横転」)。

言語化という言葉自体は前からあったものの、より身近になった、以前とはちがう形で浸透した、といった理由で選ばれたのだろう。

 

「言語化」はいろんな使い方ができる言葉なので、この記事では「伝えたいことを言葉として整理し、相手に正しく受け取ってもらうこと」と定義したい。

かんたんにいえば、「言葉を使って相手に説明する(相手に理解してもらう)」能力だ。

 

デジタル化が進み、さらにコロナ禍でリモートワークが推奨されたことで、文章でのやりとりが増加。言語化能力を求められる機会は格段に増えた。

仕事だけに関わらず、身近な人とのLINEのやり取りや見ず知らずの人に届くSNSなんかでも、コミュニケーション方法が文面、つまり言葉を使うものにぐっと傾いた。

ジェスチャーや表情ではなく、言葉を用いて、自分で考えていることを相手に伝える必要性が高まっているのだ。

 

言語化能力が低かったら、自分が伝えたいことがなかなか相手に伝わらないし、言語化が苦手な人の意図を汲み取ることもできない。言葉での意思疎通が苦手だと、対人トラブルも多くなってしまう。

が、それと同時に、「自分の感情を言葉にして整理し、他人に伝わるように出力しなおすこと」は、決して万能ではないなーとも思う。

 

大きな感情の前では言語化能力は無意味

わたしの友人で、すこぶるオススメがうまい人がいる。

好きな漫画やアニメ、最近見た面白いドラマや映画、何度も足を運んだ温泉やお寺……。

 

なぜか彼が勧めるものは、どれもよく感じるのだ。

 

「この曲はまじでやばい! サビ前にドラムがドドドドドド~ってなってすっげぇかっこいいし、最後の最後にギターがジャジャジャーン、キュゥゥウウンって神ソロくるんだよ! ライブで初めて聞いたときリアルにチビったわ、テンション爆上がりだよ!」

 

さまざまな語彙や表現を使ったスマートな言語化とはほど遠いが、なんかこう、ちょっと苦笑いしながら、「わかったわかった、あとで聞いてみるから」と答えてしまうんだよなぁ。

何がどういいのかはよくわからないけど、とりあえずカッコいい曲なんだろうな、みたいな。

 

言語化が大事だと言われるけれど、結局のところ人と人とのコミュニケーションだから、むき出しの感情によるパワーに敵わない場面は存在する。

 

人間は、あまりに大きな感情を前にすると、「言葉」を失うのだ。

悲しみが押し寄せてただ泣くことしかできなかったり、怒りに震えて喉から血が出るほど叫んだり、あまりの出来事に驚愕して呆然としたり……。

 

オーディション番組でも、あまりに圧倒的なステージを見せた人に対しては、審査員もただ「素晴らしかった」「涙が出た」と拍手をすることしかできない。

 

オタクがよく言う「まじでやばかった(語彙力」みたいなやつもそう。

どう表現しても追いつかないほど感動した、感動しすぎて語彙力が消し飛んだ、という意味だ。

 

いくら理論整然と訴えたとしても、「保育園落ちた日本死ね!」の慟哭が与えるインパクトには敵わない。

これが、「保育園に落ちて仕事復帰ができない主婦が困っていること」というタグで、懇切丁寧に現状を整理した内容だったら、決してバズっていないだろう。

 

一線を超えた大きな感情の前では、言語化能力なんてのは、なんの力ももたないのだ。

 

言語化能力は決して万能ではない

もちろん、「だから言語化能力なんて必要ない」と言いたいわけではなくて。

ただ、「言語化」という能力を信頼しすぎるのもどうなのかな?と思う。

 

正確にいえば、「自分にとってわかりやすい言葉を使ってくれる人をやたらと信頼するのは正しい姿勢なのか」「客観的で具体的に説明されればすんなり信じていいのか」といった感じだろうか。

言葉としてキレイに整理できない強い感情だってあるし、そういう感情だから人を動かすことができる場面だって、いくらでもあるはずなのだ。

 

さらにいえば、世の中には、「口がうまい人」が存在する。

面接でやたらと自分をよく見せるのがうまい人はいるし、優良誤認させるような言い方で丸めこむのがじょうずな営業もいる。

 

詐欺師かなにかで服役中の犯罪者で、あまりにも人と仲良くなるのがうますぎて刑務官や記者ですらうっかり心を許してしまいそうになった……なんて話を聞いたこともあった。

「言葉巧みに」という表現があるように、言語化能力は悪用だってできるのだ。

 

逆にいえば、寡黙で愛想はないが、仕事はとても丁寧で使う人のことを考えた家具を作る職人さんや、自己表現が苦手で誤解されやすいけれど困っている人を見たら放っておけない優しい人だっているわけで。

言語化は現代社会ではたしかに重宝される能力だし、身につけておくに越したことはないけれど、「言語化能力への過度な信頼」もちょっとちがうよなーと思う。

 

言葉にできないものごとが軽視されないように

言語化能力が求められる場面が多いからか、「言いたいことを他人に伝えられずに苦しい」とか、「思っていることはあるけどそれを表現できない自分が悪い」のように、言語化能力が低いことをコンプレックスに思っている人がたくさんいる。

とくに仕事では、自分がやったことがいかにすごいかと力説する人が評価されやすく、淡々と地味な作業をしている人が見逃されることも少なくない。

 

じゃあ言語化能力が低い=ダメな人間かというと、もちろんそんなことはなく。

 

いっぱい素敵な魅力があるのに、それを言葉として表現できないせいで評価が下がってしまうのは、見ていて残念な気持ちになってしまう。

まぁ、「いい感じにやっといて」と言う上司にはイラっとするし、「なんかうまいことできない?」と相談してくる人は面倒くせぇなぁとは思うけども。

 

それでも言語化を持ち上げすぎることで、「言葉で表現できない人やものごと」の価値が不当に下がってしまうことには気をつけたいと思う。

言語化能力はあるに越したことはないにせよ、「言葉で伝えること」は決して、万能な能力ではないのだから。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo:Adam Jang

2024年12月2日、今年の「新語・流行語大賞」が発表されました。その中には、X(Twitter)やTikTokで盛り上がったコンテンツも多く、SNSをきっかけに商品やサービスが売れる「SNS売れ」も、珍しいものではなくなりました。

 

「SNS発のヒットを我が社でも!」と考える方もいらっしゃるでしょう。しかし、どうやったら起こせるのか分からない…。そんな方々に向けて、SNS売れの仕組みや、発生させるために必要な要素を整理してみました。

 

そもそもSNS売れとは

そもそも、SNS売れとはどんな現象でしょうか。私は「消費者が自発的に投稿を行い、それが拡散されることで売上につながる現象」だと考えています。これは、インフルエンサーによるPR投稿や広告を活用した短期的な売上増加ではなく、消費者が自発的に話題にすることで生まれる現象なのです。

 

SNS売れの構造をマーケティングの4P(Product:商品、Price:価格、Promotion:プロモーション、Place:流通)に当てはめると、以下のように表せます。

まず、消費者が何らかの方法で商品を知り、その商品を手に取ったり購入したりします。その後、他の人におすすめしたり、感想を投稿することでクチコミが発生します。そして、おすすめやSNS上のクチコミをきっかけに商品を知り、手に取ることで新たな購買が生まれます。そんな循環的なサイクルが、SNS売れと呼ばれる現象です。

 

「商品を知る」にはプロモーションや販売場所(Promotion、Place)が重要です。一方、「話題にする」には商品の特徴や価格(Product、Price)がカギとなり、消費者のクチコミを書きたいという動機につながるのです。

 

つまり、SNS売れを目指すなら、「どうやって商品を知ってもらうか」という視点と同じかそれ以上に、「どうすれば消費者が話題にしたくなる商品になるか」という視点が重要です。いくら宣伝に力を入れても、商品自体が「誰かにオススメしたい」「クチコミをしたい」という動機を生まないものであれば、消費者が自発的に話題にすることはありません。

 

SNS売れを目指して自社の投稿をバズらせようとするよりも、消費者が自発的に話題にしたくなるような要素を、商品やサービス自体に組み込むことが必要になるかもしれません。

 

SNS売れの成功要因3つのポイント

では、「誰かにオススメしたくなる商品」とはどのようなものでしょうか。

 

私は「安い」「どこにもない」「カスタマーサービスが優れている」という3つの要素が成功のポイントだと考えています。これらが消費者の期待を上回れば、SNS上で話題になりやすいと言えます。

 

「安い」は、価格の比較が簡単な時代だからこそ重要です。「この品質でこの価格!」という驚きが口コミを促し、購入者が増えることで投稿も増えやすくなります。

 

「どこにもない」は、他にはない特徴を持つ商品やサービス、つまり独自の便益を提供できているかということを指します。これらの要素がクチコミにつながるのは、想像しやすいでしょう。

 

そして、「カスタマーサービス」は特に重要な要素です。なぜなら、「安い」と「どこにもない」という要素を両立させることは非常に難しく、どちらか一方、あるいはどちらも満たせない商品やサービスであっても、カスタマーサービスで消費者の期待を上回ることは可能だからです。

 

例えば、飲食店がSNSで人気になる理由には、料理や価格だけでなく、接客やスタッフの人柄など、カスタマーサービスも影響します。

 

これらは、必ずしもすべてを満たす必要はありません。「安い」だけでも、「どこにもない」だけでも、SNS売れを起こすことは可能です。しかし、カスタマーサービスについては、他の要素と組み合わせることで、より強力なSNS売れにつながりやすいです。

 

もしも、いずれの要素も満たすことができない場合は、SNS売れを目指す戦略がそもそも適切ではない可能性があります。その場合は、SNSでの話題化にこだわるのではなく、別のマーケティング戦略を検討する方が賢明でしょう。

 

「SNS売れ」につながるクチコミ創出のステップ

クチコミを生む商品の特徴に続いて、ユーザーがクチコミを投稿したくなる動機も紹介します。以下のようなものが考えられます。

 

・新しい商品を購入したから
・身近な人からオススメされたから
・プロモーションで興味を持ったから
・インフルエンサーの投稿を見て気になったから
・話題になっているから

 

この中で重要なのは、「話題になっている」という状況を作り出すことです。SNSのタイムライン上で同じ商品に関する投稿を繰り返し見かけると、ユーザーは「よく見かける」「話題になっている」と感じる傾向があります。そして、「自分も買ってみよう」「買ったら投稿しよう」という行動につながりやすくなります。

 

このような連鎖を生むためには、より多くのクチコミが投稿されている状態が好ましいです。「良さそう」程度の短いテキストが書かれているだけでも、数多く投稿されている方が効果的です。

 

また、クチコミの発生は企業でコントロールはできませんが、クチコミの発生に寄与するコミュニケーションを企業側が行なうことはできます。以下の4つを考慮したSNS活用を心がけましょう。

 

①表現欲求を刺激する

自社商品のアレンジレシピを紹介するなど、ユーザーが「私も真似したい」「試した結果を投稿したい」と思えるような情報・アイディアを提供する。

 

②承認欲求を充足する

投稿されたクチコミに「いいね」や返信を行なうなど、投稿したユーザーが認められ、満足感を得られるようなコミュニケーションを行う。

 

③空気感を醸成する

投稿されているクチコミをリポストで紹介するなど、「言及しやすい」「流行っている」という雰囲気を作り出す。

 

④「情報を届けること」に目を向ける

広告を活用し、クチコミを投稿してほしいターゲット層に確実に情報を届ける。

 

どんな商品でも「SNS売れ」するわけではない

ここまで、SNS売れの構造や、発生させるために必要な要素を解説してきました。

 

あなたが取り扱う商品やサービスは「安い」「どこにもない」「カスタマーサービスが優れている」に当てはまりますか? 前述した通り、誰かにオススメしたい・クチコミをしたいという「動機を生む商品」でなければ、「SNS売れ」を起こすことは難しいです。

 

テレビや雑誌で見かける「SNS発のヒット」「〇〇でバズった商品」という言葉にとらわれず、まずは商品やサービスの特性を見極めて、自社に合った戦略を考えることから始めてみてください。

 

 

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【著者プロフィール】

増岡 宏紀

株式会社ホットリンク 営業本部長

SNSコンサルタントやプロモーションプランナーとして活動後、現在は営業本部長として事業戦略や営業戦略を推進。これまでにTwitter広告事業やSNSドラマ事業、プロモーション事業の立ち上げを行う。

Photo by:Erik Lucatero

■■

世の中には2種類の人間がいる。セックスしたい者としたくない者だ。私は後者の人間である。

セックスしたくない人間は性的少数派(性的マイノリティ)であり「アセクシュアル」と称される。私もそんなアセクシュアルの1人だ……と書くと自信に満ち溢れていそうだが、私がそう自認したのはごくごく最近のことだ。それまでは自分がLGBTQ+の一員だなんて夢にも思っていなかった。

この稿ではそんな私がどのように「アセクシュアル」という言葉と出会い、自認に至ったか、経緯を書いていきたい。

 

■■

ここまで読んで「性的指向? 自分は『普通』だから関係ないや」と思った方もいるかもしれない。けれど、性的指向には「普通」なんて存在しないことをまず述べたい。

異性に性的欲求を抱く人のことを「ヘテロセクシュアル」と呼ぶ。ヘテロセクシュアルが普通でそれ以外が異常ということはない。性的指向は人の数だけあり、みんな対等だ。

 

■■

2024年現在の日本では性的マイノリティは「LGBT」と総称されることがまだまだ多い。だが性的マイノリティはLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)以外にも沢山存在する。アセクシュアルもその一つだ。そのため最近では「LGBTQ+(+=LGBTQ以外のセクシュアリティ)」や「LGBTQIA(Q=クィア・クエスチョニング、I=インターセックス、A=アセクシュアル)」と表記することが多くなっている。

「+」の記号ひとつにパンセクシュアル、ノンバイナリ、ジェンダーフルイド、デミセクシュアル等、様々な性的マイノリティが込められている。実に色んな人たちがこのちっちゃな「+」にぎゅっと詰め込まれているところを想像すると「+」がなんだか愛おしく思えてくる。「+」におつかれさま、と一声かけたいような気分だ。

 

■■

「アセクシュアル」とは他者に性的関心を抱かない人のことだ。恋愛感情を持たない人は「アロマンティック」とよぶ。恋愛感情を持つ人は「ロマンティック」である。アセクシュアルの中にはアロマンティックも、ロマンティックもいる。さらに付け加えると、アセクシュアルには性欲がある人も多い。つまりアセクシュアルでも恋愛する人はするし、セックスする人はする。同じアセクシュアルといえど、そこは人それぞれだったりする。

性的関心もなければ恋愛感情もない私は厳密には「アロマンティック・アセクシュアル」ということになる。

 

■■

私が「アセクシュアル」「アロマンティック」という言葉と出会ったのは2010年代だったと思う。SNSで見つけたのだが、そのとき感じたのは

「ちゃんと名前がついてるんだ!」

という驚きだった。

 

それまで「自分はどうもロマンスの才能に欠ける」という自覚はあった。恋愛映画やドラマは「笑かしだよね?」としか思えない自分。異性と付き合った期間もあるが、それはとても辛い日々だった。従って「自分、男女交際、下手だ」とも自覚していた。

いっぽう、性欲に関しては「ない」という自覚に至るに少々時間がかかった。無を証明するのは難しい。しかし知人に「最近セックスしたのいつ?」と聞かれ「覚えてないけど10年くらい前かな?」と答えるとものすごく驚かれた。

狼狽した知人に「で、でも一人ではしてるよね?」と再度問われ「全然しないな~」と答えて「はっ」と気づいた。

 

ひょっとして私のように10年以上性活動(ソロ含む)を行っていない人は少ないの!?

みんなしてないと勝手に思い込んでいたが勝手な思い込みほど自分ではなかなか気づけないものである。私にとってそれは青天の霹靂だったのだ。

 

■■自認が遅かった訳①とくに困ってなかった

今でも自分がアセクシュアルだと考えると「いやいや、私なんかが名乗るなんておこがましいですよぉ」という気持ちになる。

「アセクシュアル」という言葉を知り、恋愛に興味ナシの性欲ナッシングに気づいてはいても、アセクシュアル自認はなんとなくできないでいた。自認せずともとくに不便はないからだ。

アセクシュアル全員がそうではないだろう。なかには「結婚しろ」という家族の願いをプレッシャーに感じ、応えられない自分に悩んでいる人も多いようだが、私個人は世間体を気にしたことがないのでアセクシュアルでもさほど困ってない。

 

■■

「あの人が好き!」というときめき。アセクシュアル以外の人々にはそういうきっかけがある。そこから恋愛を通じて性的自認に至るのではないだろうか(と想像する)。

私にはそういったときめきがない。ときめきがないのは幸いである。悩みもないからだ。ところが悩みがないところには発展も成長もないのも事実。

「私は〇〇(←任意の性的指向を入れてください)!」だと自分で認めるには腹をくくるきっかけが必要だ。自分が性的マイノリティだと自認するには、私には決め手がずっと欠けていた。

 

■■自認が遅かった訳②「いつか運命の人が現れるよ」問題

アセクシュアル自認が遅れた理由にはもう一つある。多くのアセクシュアルたちが経験したと語る、通称「いつか運命の人が現れるよ」問題だ。

世の多くを占めるロマンティックたちは学校で、職場で、親戚の集まりで、私にささやき続けてきた。

「いつか運命の人が現れるよ」と。そうなったときには私も恋に落ちて結婚するんだよ、と。

 

なまじロマンティック下手を自覚していた私はそれを信じ込み、愚直に待った。四半世紀待った。眠り姫でも床ずれで起きてしまう時間を待ち続け、現在に至るが運命の人は現れていない。あるいは、現れているのかもしれないが、それはどちらでもいいことだ。

待ち続ける間に、運命の人の出現は関係ないことに気づいてしまったからだ。恋愛も結婚も、自分の中に「したい」という欲求がなければ実現しない。

待ち続ける間に【真実】にも気づいた。それは「シングルでも、結婚してなくても、どうってことはない」ということである。

 

■■

アセクシュアルに対して、ロマンティック指向の人たちは「人に興味のない冷酷な人間なんじゃないの?」と思うらしいが、そんなことはない。私にだってちゃんと寂しいという感情はあるし、友だちも100人くらい欲しい。

結婚やお付き合いに興味はないけれど、人と共にあることを諦めたくはない。

数か月前にアセクシュアルが集まるイベントに行ってみた。そこで人生で感じたことのないフィット感を感じた。

「初恋って来ました?」

「来ない(笑)!」

「一生来ませんよね(笑)!」

「あれって都市伝説でしょ?(笑)(笑)」

と笑いを共有できる喜び。こんなに居心地が良いということはやっぱり私もアセクシュアルなんだな、自分の中で腑に落ち、ようやく私は自認するに至った。

 

■■

今現在私は「アセクシュアルでよかった!」と思うことが多い。

日本の市場は恋愛至上主義、それも異性愛至上主義に満ちている。言い換えると世の中の異性愛者(ヘテロセクシュアル)たちは一番財布を狙われている。街に出ようが、スマホを眺めようが、お金を使うよう誘惑され続けるなんてこの物価高では死活問題だ。

ロマンス詐欺にも気をつけなければならない。先日、国際ロマンス詐欺の犯罪ドキュメンタリーを見た。詐欺師の高度な手口に恐怖しながら見たが、同時に、アセクシュアルとしてはこの手の詐欺には引っかかりようがないな、とも思った。

日々あらゆる場面で危険に晒されているヘテロセクシュアルは、私には務まりそうにない。アセクシュアルでよかった。

 

■■

恋人もおらず結婚もせず「運命の人」を待ち続けた年月の末に辿り着いたのは「『運命の人』、いてもいなくても関係ない」という事実と、「恋人がいなくても、結婚しなくても、どうってことない」という真理だった。

 

今、私はアセクシュアルという自認に辿り着いてよかったと思っている。もし現在、恋愛至上主義の世の中に違和感を感じている人がいるなら「あなたは一人じゃない」と伝えたい。この国が、全ての人々にとって居心地の良い社会になるよう祈っている。

 

 

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【著者プロフィール】

大和彩

約10年前に失職したきっかけで持病が悪化、現在主治医に就労を禁止されている。働くことこそが私のアイデンティティであり、私から仕事を取ったら何も残らない、とその頃は思い込んでいたが、さて。今現在でも一番辛いことはあまり働けないことである。

失職して生活保護を申請した経験を基に『失職女子。(WAVE出版)』という本を書いた。

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好きな食べ物はあったかいお茶とチョコレート。

45歳独身男性狂う説

いつかは自分を哀れと思うこともなくなり、そんな不健全な強迫観念からは解放されるだろうと思っていた。ところが年とともに、この強迫観念はますます深くはまり込むばかり、どうにも身動きできない始末だ。
シオラン『カイエ』

[amazonjs asin="4588150456" locale="JP" tmpl="Small" title="カイエ: 1957-1972"]

45歳独身男性は狂う。そんな話があった。けっこう前からあったと思う。あったんじゃないのかな。あるいは40歳だったかもしれないけれど、あったと思う。それを、ここのところあらためてネットで目にすることになった。

45歳独身男性狂う説。あるいは、既婚でも狂う。

 

それは、どうなのか? 単に攻撃しても問題がない「おっさん」を責めて楽しんでいるだけだという話もある。ミドルエイジクライシスの一つとして、そういう歳だという話もある。みんな色々言う。

 

そして、おれも言いたくなった。なぜならばおれは、「45歳独身男性」そのものだからだ。1歳の差もなく、おれは、独身で、男性だ。おれは狂っているのか? 狂っていないのか? どうなのか? ちょっと口出ししたくなるではないか。違うか? 違わない。そういうものだ。おれも来年の2月には46歳になってしまう。だから、この旬の時期に書いておかなければいけないのだ。たぶん。

 

そして、いまのところおれは自分が狂っているとは思えないので、その理由を書いていくことにしようか。

 

もとから狂っていれば狂わないのか?

とはいえ、ある意味でおれは狂っている。2011年に精神科にはじめて行き、1年後には双極性障害(双極症/躁うつ病)と診断されたからだ。その後、おれは「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律第45条の保健福祉手帳」、要するに障害者手帳を取得するに至った。

 

もしも「狂う」が精神疾患的なものであれば、おれは30代初頭から狂っていた。精神病院に行ったのがその年というだけであって、狂っていたのはさらに遡って20代だったかもしれないし、あるいは生まれてからずっと狂っていたかもしれない。それが明らかになったのが30代の始めだったというだけかもしれない。

 

……とは言うものの、世の中の「45歳狂う説」は精神の病的な異常、脳の病的な異常そのものを指すものではないらしい。とはいえ、これはこれで狂っているので、おれが双極性障害II型であることは前提として抑えておかなければならない。たぶん。

 

しかし、おれの精神の狂い方、朝、抑うつに襲われて身体が動かなくなるとか、ちょっと軽躁状態になって歯ぎしりがひどくなるとか、そういうのは「45歳狂う説」とはちょっと違うような気がする。たぶん、違う。それは年齢に関係ない、おれの疾患だ。

 

けどねえ、あれだな、加齢で身体が弱ってくると、それが精神にも響く。というか、人間は心身相互の存在というか、それぞれが関係なくは生きていけないものだ。となると、おれの精神障害が今後さらに悪化していく可能性は否定できない。というか、このところ悪くなっている実感はある……。

 

もとから孤独でも狂うのか?

さて、どうも、「45歳独身男性狂う説」に多く見られるのは、配偶者もおらず、孤独な一人暮らしをするなかで狂っていくという言説のようだ。

コミュニケーションを求めて狂う。かつてあったかもしれないコミュニケーション、あるいは同年代のだれかが得ているコミュニケーションを求めて狂う。

 

どう狂うというのか? 独身男性であれば、配偶者を求めて女性に対して狂ったような言動をする。あるいは、人的交流を求めて若い人全般に対して挙動がおかしくなる。そのようなものらしい。

 

正直、おれにはよくわからない。おれは孤独を苦にしない。それどころか、一人でいることが大好きでたまらない。一人暮らしをして20年以上経つが、いまだに会社からの帰宅時に「部屋に帰ってもだれもいないのはいいなあ」と脳汁が溢れ出すくらい嬉しくてたまらない。一人でいるのがたまらなく好きだ。好きというか、他人と一緒にいるのを苦しく思うくらいだ。

 

この性質はおれの根本にあるものであって、物心ついたころから変わらないといえる。一人がいい。一人で満ち足りる。一人でなくては満ち足らない。実家がなくなり、一家離散して、一人暮らしを余儀なくされたそのときですら、「あ、一人っていいな!」と思ったくらいだ。これほどの自由はない。自由であることより良いものはない。

 

むろん、これもどうなるものかはわからない。自分のなかの孤独というものが変質したとき、この風景はすべて別のものになってしまうかもしれない。そのとき、おれは「狂う」かもしれない。だが、今はそのときではない。

 

年齢に関係なく危機でも狂うのか?

「45歳狂う説」には、ミッドエイジ・クライシス(中年の危機)の一つの表現にすぎないという意見もある。ライフステージが変わっていく状況において、その負担によって調子を崩す。たとえば、家庭を持っている人なら子供の成長もあるだろうし、持っていようとなかろうと、親の介護などが問題になってくることもあるだろう。

 

もちろん、加齢による身体の調子の変化もあるだろう、仕事の環境の変化もあるだろう、いろいろな危機が襲ってくる。とにかく、そういう年齢の時期なのだ。その真っ盛りというか、代表的な年齢が「45歳」ということも言えるだろうか。現代の厄年とでも言おうか。いや、しかし、厄年というものが成立したころに比べたら、もうちょっとあとの年齢になるだろうか。

 

まあいい、とにかく危機だ。危機についてもおれは「ずっと危機だった」といえる。こちらに書いてきたように、おれはずっと潰れそうな零細企業に勤めてきて、一度は親会社ができて低いレベルなりの安定はしたものの、そこから見放されてまたどん底になった。

その日暮らしとは言わないが、その月、その半年くらいの生活をずっとしてきた。身分だけは正社員かもしれないが、給料の遅配、無配は当たり前だ。おれはずっと危機だった。

 

その危機のなかにあるまま生きてきて、その上でライフステージがまったくかわらない。会社では一番の下っ端のままだし、独身男性なので自分の家族もいない。家族とは20年以上前に自宅を失い一家離散という形で別れていて、それも変わらない。

 

危機といえばずっと危機なので、いまさら「中年の危機」もねえよ、というのが正直なところだ。とはいえ、父は人工透析で死にかけているわりには生きているような状態だし、母だってもちろん年をとっている。その介護などの話が出てくる可能性はあるし、そうなったらおれは狂うかもしれない。

 

……っていうか、おれは自分の精神障害で、自分ひとりを生かすのに精一杯だ。とてもじゃないが丁寧な暮らしもなにもできたもんじゃない。最低限、セルフ・ネグレクトを回避して生きているに過ぎない。

だれかに支えてもらいたいくらいのもので(実際に自立支援医療などの形で福祉に少し支えられている)、人を支えることはできない。もし、だれかを支えなければいけないとなったら、「狂う」どころでは済まない。いや、どうすんだよ、これ?

 

自分の可能性を捨てずいられたら狂わないのか?

最後に挙げておきたいのは、自分の可能性を捨てずにいられたら狂わないのか? 捨てたら狂うのか? あるいはその逆かも? ということだ。

 

中年になって自分が自分のために生きられることの限界を迎えて、狂うのだという話もある。そこで家庭などの他人との共生が必要なのだと。人はいつまでも自分のためだけには生きられないのだと。共生が必要なのだと。

 

その感覚はおれにはわからない。おれは人生の早いうちに自分の人生に見切りをつけて、そこそこエリートコースであった大学を中退してニートになった人間だ。おれはおれになんの期待もしていなかった。

 

が、正反対の感覚も抱いていた。おれは幼稚な全能感をなに一つ捨ててはいなかったのだ。「おれくらいの人間ならば、ニートになろうとも、引きこもりになろうとも、どうにでも生きていけるに違いない」。ああ、この盛大なる勘違い、これである。

 

いや、いま「勘違い」と書いたが、この自嘲は自嘲にすぎない。内心でおれは45歳にもなって、「おれくらいの才能があれば、死ぬまでどうとでも生きていける」と信じている。なんなら、これからおれの才能がなんらかの形で跳ねて、おれより先に行っていた人間全部をまとめて差し切るんじゃないかくらいのことを思っている。

ハイペースで逃げていた人間は垂れてきたところを差すし、スローペースで先行していたやつも差し切る。スローペースでもドウデュースのように差し切る。おれにはその末脚がある。今はまだ脚をためているだけだ。

 

……45歳なのに? というか、これはもう狂っているといっていいのではないか。冷静に考えて、そうだろう。そういう客観性を欠くのを、世の中では「狂っている」というのではないのか。そのような気がする。それでも、ヘンリー・ダーガーのように死んだ後に気づかれる才能もあるわけだし。

え、ダーガーは狂ってる代表格じゃねえかって? そう言われると返す言葉もございません。

 

結局、おれは45歳になっていないのではないか?

というわけで、いろいろな事例みたいなものを自分に照らし合わせてきたが、畢竟、おれはまだ世間の「45歳」になっていないのではないか? というところに至った。いま、書いていて至った。社会的責任から逃げ続け、ライフステージは変わらず、幼稚な全能感や中身の伴わない自分への可能性を捨てられず……。

 

これは、ときが来たら、すでに狂っているおれも完全に狂った人間になるのではないのだろうか。ただ、おれにはほとんど社会とのコミュニケーションみたいなものがないから、「あの人は最近おかしいね」、「そうだね」みたいなことも言われない。ただ、一人で狂う。

 

そうなったらどうなる? 街なかで虚空に向かって一人喋っているおじさん、そういうものになる。親子連れがいたら、親が子供を「見ちゃいけません」、「近づいたらだめ」といって守ろうとする「事案」になる。

なるほど、それは確かに狂っているといっていい。おれの精神年齢が低く、もとから狂っているからわかっていなかっただけの話だ。おれが世間の「45歳」になったら、そのときは狂う。おれの手に負えないほどにおれは狂う。おれはおれの知らないところで狂う。狂気の世界が待っている。

 

だからといって、なんなのだ? おれが知らないのならばそれでいい。おれは究極的な意味でおれの死を知ることはできない。どんな人間でも同じことだ。死の寸前まで自覚できたとしても、死そのものは自らのものになりえない。

 

同じように、おれはおれの発狂を知ることはできない。それはそれで幸せなことではないだろうか。

ただ、そのためには死がそうであるように、自らの手を離れて狂わなくてはならない。完全なる狂気。そこに接近して、そこに至れないのは苦痛であるだろう。できることならば、おれは苦痛から逃げたい。そのようにして生きてきたし、その帰結がこのざまだ。正気のおれにはそれがわかる。わかるんだ。

 

 

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【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :NIR HIMI

この記事で書きたいことは、大体以下のようなことです。

 

・「タスクを実行する能力」は大事ですが、「タスクを適切に振る能力」もとても大事です
・「タスクを振るのが苦手」という人は、かなりのベテランでも珍しくありません
・管理職になった頃、私も「タスクを人に振る」ことが大の苦手で、しばしば自分で仕事を抱え込んだり、タスクを偏らせたりしてしまっていました
・「タスクの意味や優先順を明確に言語化出来ておらず、タスク振りに説得力がないこと」が最大の原因だったと思っています
・解決する為に、「タスクを徹底的に言語化すること」「誰にお願いするか、その理由も明確化すること」「それをチームで共有すること」などを習慣化しました
・その結果、以前よりはだいぶマシなマネジメントが出来るようになった気がします
・言語化大事ですよね。今後も精進します

 

以上です。よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

 

マネージャー・管理職の皆さん、人に仕事振るのって得意ですか?適切なタスク振り、出来てますか?頼みやすい人にタスクが偏ったり、スケジュール調整に失敗してタスクが滞ったり、「自分でやった方が早いから」で仕事抱え込んだりしてませんか?

 

「タスクを適切に処理する能力」はもちろん大事なんですが、「タスクを適切に割り振る能力」も超重要、というかマネージャーの主な仕事ってタスク振りと優先度管理・スケジュール管理なんですが、案外「タスクを振る能力」について語られることって、「タスクを実行する能力」よりは稀な気がしています。なんででしょうね?

 

しんざきは、昔「タスクを人に振ること」が大の苦手で、何度も大失敗しました。

 

マネジメント職をやるようになってから20年弱経つんですが、最近ようやく多少はマシになったかなーと思えるようになったので、ここまで色んな人に聞きながら試行錯誤してきたことについて、簡単に書かせていただければと思います。よろしくお願いします。

 

***

 

昔話から始めます。

20年近く前のことですが、しんざきは中堅どころのSI企業からとあるベンチャー企業に転職して、そこで初めて管理職を経験しました。

 

なにせ創立数年のベンチャーだったので、当時はシステム面も殆ど整備されておらず、社内に情シス部門すらありませんでした。

出来合いのパッケージで動かしていた基幹システムを、内製でリプレースするお手伝いとして私が呼ばれました。テクニカルな話が多少なりとも分かる人は私を含めてほんの数人しかおらず、社内で動いている仕事はなにもかもが属人業務でした。

 

システムのリプレースを協業さんも含めて3,4人で半年かけてなんとか終わらせ、息つく暇もなく社内システムの整備にとりかかりました。

 

前職では下っ端だった私も、転職先では「有識者」の類いでした。というより、付け焼き刃でも誰かが有識者として動かないと、会社のシステムが回りませんでした。

 

やることは山ほどあるのに人は全く足らず、何度も会社に文句を言って、少しずつ採用を進めました。結果、どういうわけか、私が新設のシステム部門のマネージャーになりました。別に知見を見込まれて抜擢されたわけではなく、単に他にやる人がいなかっただけですが。

 

何もかも手探りでした。当時はチームビルドのノウハウも知らず、人事評価のやり方も分からず、ステークホルダーという言葉すら知りませんでした。前職の頃管理してもらっていた、その見よう見まねでタスク管理をして、スケジュールの線表を作って、評価基準も考えました。

 

当時は本当に「失敗の山を築きながら、時々発生する成功ケースでなんとか仕事を回す」ような状態だったのですが、そこで失敗したことの一つが「タスクの振り方」でした。

 

***

 

当時の私の失敗をいちいちあげつらっているとそれだけで記事が終わってしまうので、代表的なところをピックアップしますが、

・「自分がやった方が早いから」と色んなタスクを部下に振らずに抱え込んでしまい、本来マネジメント層がやるべき仕事を滞らせてしまった
・タスクの意味や必要とされる成果物の粒度をきちんと説明出来ず、仕事に納得感がない状態を招いていた
・頼みやすくタスク処理が速い人にばかりタスクを集中させてしまい、業務量の不公平感を招いてしまった
・いざタスクを振っても、「任せる」ということがなかなか出来ず、いちいち細かいところまで指示しようとしてしまった
・タスクが遅れた時のリカバリの引き出しがなく、「自分で引き取る」か「出来そうな人に引き取ってもらう」くらいしか解決しようがなかった

 

逆に何が出来ていたんだよ、という話ですよね。今から振り返ると、本当に何も出来ていなかったと思います。

 

まず、最大の問題として、「本来部下に任せるべき仕事を抱え込んでしまっていた」という点があります。

例えば細かい実装の作業とか、日々の運用におけるトラブル対応とか、「それちゃんとやり方を説明すればお前じゃなくても出来るよね」というタスクを、「引き継ぐ余裕がないし、タスクを止めるわけにもいかないから」という言い訳でいつまでも自分で抱えてしまっていたのです。

 

人間が処理出来るタスク量には限界がありますから、何かの仕事を抱えていれば、当然それ以外が疎かになります。本来ならマネージャーの一番の仕事は「部下の仕事が上手く回るような建て付けを考えること」なのに、抱えた仕事の忙しさを言い訳にして、そっちの時間を全くとれていなかったわけです。

 

もちろん程度問題ではあるのですが、私について言えば、これは間違いなく「マネージャー(私)の怠慢」でした。

タスクを引き継ぐこと、タスクの意味を説明してドキュメントを整備してやり方を教えて、相手に権限を委譲することは、もちろん大変ですし時間コストもかかります。当初は却って仕事が増えることにもなるでしょう。

 

しかし、マネージャーが「個人」としてしか動いていなかったら、いつまでも「チーム」での仕事は出来ない。チームでのバリューを出せなければ、組織で動く意味がないわけです。結果、あふれた仕事だけを継ぎ接ぎ的に下に振っていたわけですから、論外としか言いようがありません。

 

「頼みやすい」「処理が速い」人ばかりにタスクを集中させてしまっていた、というのもひどい失敗だったと思います。

 

もちろん、「既存のタスクとのスケジュール調整が出来ている」というのは最低限の前提です。

その上で、「適材適所」というものは当然あります。部下のスキルによって、守備範囲によって、「この人にはこのタスクを振るべき」という場面は往々にして発生します。結果的に、「一部の人にタスクが偏ってしまう」ということはあるでしょう。

 

ただ、やらないままだといつまでも出来るようにはならない。今タスク処理が遅い人でも、スキルや知見が足りない人でも、経験を積むことによってレベルアップは出来る筈なのに、マネージャーが最初からその機会を作らないのでは話になりません。

 

タスクを喜んで受けてくれる人か、それとも毎回いやな顔をする人か、という点にも、正直なところ、随分影響されてしまっていたと思います。

もちろん仕事なのだから、やってもらわないといけない時には頼み込んでもお願いするのですが、喜んで受けてくれる人に偏ってしまう部分はどうしてもあった。

 

これには、自分自身が「ちゃんと説得力を持ったタスク振りが出来ているか」という点に自信を持てていなかった、という点も大きかったと思っています。

 

部下にしても、納得出来る理由や説明もなくタスクを振られていれば、そりゃ「こいつは俺に何をさせようとしているんだ」という気分にもなるでしょう。逆に、きちんとタスクの意味も価値も説明出来ているし、スケジュールの調整も出来ていれば、感情としていやな顔をされても「そこを何とか」とは言いやすくなるでしょう。

 

「タスクをちゃんと任せられていなかった」ということも大きな反省点です。

タスクの目的をきちんと定義した上で、「自分が責任をもつべき範囲はどこまでか」をきちんと考えられていれば、「じゃあここから先は私が責任をもつので、ここまではあなたの裁量で考えてください。もちろん相談には乗ります」と言えた筈でした。

 

それが出来ていなかったから、責任範囲の切り分けも出来ず、「自分はどこまで口出しをするべきか」が決められずに、細かいところまで口を出しがちになっていた。部下をきちんと信頼できていなかったわけで、タスク振りに納得感がない一因にもなっていたでしょう。

 

この辺、マネージャーとして最低限の仕事も出来ていなかったわけで、今から考えると汗顔の至りという他ありません。

 

***

 

じゃあこれだけ惨憺たる状態をどう解決したのか、という話なんですが。もちろん改善のための魔法の一手があったわけではなく、知見がないなりにあれこれ悩んで、色々と試行錯誤しました。

 

まず、タスクを徹底的に可視化・言語化する、というところから始めました。

具体的には、

・タスクを実施する理由、背景
・タスクの規模
・定常的なタスクか、非定常的なタスクか
・タスクの優先度、期限
・タスクを実施する際求められるもの、成果物、その粒度
・そのタスクを実施するとどんないいことが起きるのか
・やらないと何がまずいのか

 

この辺りのテンプレートを作って、見えているタスク全てについてテキスト化して、誰にでも見える形にしました。その上で、タスクを振る時はもちろん、タスクの発生時や完了時にも、毎回この内容をみんなで確認するようにしました。

 

自分で仕事を抱えてしまっている最大の原因は、「タスクを手放せないから」なのですが、自分や周囲を説得するためにも、「そのタスクは本当に手放せないのか?」を深掘りすることは必要でした。

なんなら、タスクが一時的に滞っても、一時的に品質が低下しても、もしかするとやめちゃっても大丈夫なんじゃないのか?これによって、タスクの取捨選択の判断も出来るし、「一時的にクオリティや速度を下げても人に任せる」という判断も出来ます。

 

もちろん、「タスクを振る」際にも、これらをきちんと言語化し、共有することは重要です。

タスクを実施する際にも、「その理由」まできちんと理解しているかどうかでは、仕事をする上での解像度も、成果物に対する理解度も変わります。更にその上で、「何故自分がそのタスクを実施する必要があるのか」が理解出来れば、タスクを受ける上での納得感も上がるでしょう。

 

だから、「何故あなたにこのタスクをお願いするのか」という点についても、さぼらずに可能な限り言語化し、セットで共有するようにしました。

あなたにはこういう経験があるから、このタスクを高い品質で実施出来ると考えている、とか。今後あなたにこういう仕事をして欲しいから、今このタスクを担当して欲しい、とか。当然、その人が既に受けているタスクとの交通整理も行いました。

 

これで、私の無思慮なタスク振りに嫌な顔をしていた人にも、ある程度納得感を持ってタスクを受けてもらえるようになりました。

 

当たり前のことですよね?出来てなかったんです、当時。

この辺、殆ど意識せずに出来ている人もいれば、今なら色んなツールも使えると思うんですが、当時は「こう解決しよう」ということ自体、一つ一つ自分で言語化しなくてはいけませんでした。

 

改善は亀の歩みで、今だからこそ振り返ることも出来るようになりましたが、当時は本当に山ほど試行錯誤しました。ご迷惑をおかけした皆さんには、今でも足を向けて寝られません。

 

***

 

随分長く書いてしまいました。

昔よりは多少マシになったと思うんですが、私がちゃんとマネジメントをこなせているかどうかについては、正直今でもそこまで自信はありません。常に「これ大丈夫かな?」「本当にこのやり方でいいのかな?」と不安になりながら管理職をやる日々です。

 

とはいえ、自分を客観視して、今のやり方をより最適化していくためにも、「昔何が出来ていなかったのか」を可視化するのは悪いことではないかもなあ、と。

 

昔の私のように、マネージャーになりたてで右も左も分かりません、人に仕事振る時って何すればいいの、という方がいらっしゃいましたら、少しでもお役に立てればと考え、この記事を書かせていただいた次第です。よろしくお願いします。

 

今日書きたいことはこれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:Mark König

今日は、社会適応の話がしたくなったので良かったら付き合ってやってください。

 

昨今は、年功序列をバッシングして、自由選択/自己責任を寿いできた言説も一巡した感がありますが、それでも、組織のしがらみや会社の保守的風土は叩いて良いもの・忌避すべきものとしてインターネットでは語られています。

 

では、そうしたしがらみや保守性を忌避する人たちは、しがらみや保守性と無縁でいられるのでしょうか?

 

私は、違う気がしてならないんですよ。X(旧twitter)でしがらみをバカバカしいと言い捨て、会社の文化・風土みたいなものをけちょんけちょんにしている人が、案外、自分自身が既存のメンバーの側で新参を迎える時には保守的風土の一部をなしていたり、新参の新しいムーブを牽制していたりすること、ままあるように思うんですよね。

それってダブルスタンダードだと思うのですが、国際政治などをみればよくわかるように、人間においてダブルスタンダードは例外ではなく通常運転でしかありません。あるのは、ダブルスタンダードとして後ろ指をさされないためのテクニックの巧拙ばかりです。

 

ですから、「私たちには進取の精神がある」「私たちは自由なやりとりを尊重する」と言っている人のうち、少なくともある割合の人々は状況が変わったら違ったことをさえずり始めるに違いない、と思ってかからなければならないと私には思われるのです。

 

しがらみや保守性から純粋にフリーな人なら、組織やコミュニティに新参が入ってきた時、その新参が目新しい提言を次々にしはじめたとしても、違和感はおぼえないものでしょう。その新参の提言に実用性や説得力があるならば尚更です。

 

でも実際にそのような新参が入ってくると、口ではしがらみや保守性を批判していた当の人物が、新参の提言が採用されることに難色を示し、ああだこうだと実現の難しさを指摘し、さらには新参の発言力を削りにかかることすらあるじゃないですか。

そのとき、その新参を批判したり発言力を削りにかかったりする人は保守的な顔をしていて、会社の保守的風土を体現する人として行動しているでしょう━━少なくとも新参側からはそう見えるはずです。

 

この現象は、人が集まっているコミュニティや組織では高頻度に発生しがちで、もともと保守的だと喧伝されているコミュニティや組織ではいざ知らず、開明的で自由だと考えられているコミュニティや組織においてはダブルスタンダードと(新参側には)感じられるやつです。転じて、どこのコミュニティや組織にも、いわば「保守性」や「部族」っぽさはあると思うのですよね。

 

「そういうあんただって部族の民じゃん?」

私は今、「部族っぽさ」というフレーズを出しました。

ここでいう「部族っぽさ」とは、コミュニティや組織のメンバーのそれぞれが、内部の文脈に沿ったかたちで自分たち自身のプレゼンスを獲得・蓄積していて、それに沿ったメソッドを作ってしまっていて、それらを簡単には手放したくないし、手放さないためにあれこれと言を弄する、そのような性質のことを指しているつもりです。

 

たとえば、コミュニティや組織のなかで有る仕事を請け負っていて、評価もされていて、それがアイデンティティの一端ともなっている人が、いきなりやってきた新参の出しゃばりによって仕事も評価もアイデンティティも奪われそうになった時、文句の一つも言ってやりたい気持ちになるのは自然でしょう。

いや、文句の一つも言える場面だったら文句を言うだろうし、新参の出しゃばりを掣肘できる方法があるなら掣肘したくもなるでしょう。

 

が、そうやって元からいた人が既得権益を守ろうと行動している時、新参側からは「部族っぽいムーブだ」「口では自由だと言っているけれども、既存のしがらみや文脈に結局縛られているじゃないか」とダブルスタンダード的にみえるのは避けられません。

 

私が世間のあちこちを見て回った観測範囲では、こうしたことは革新性や風通しの良さを旗印にしているコミュニティや組織でも案外起こるもので、例外はあまりありません。

角度を変えて言い直すなら、「人間には、自分の属しているコミュニティや組織、あるいは場で獲得・形成・蓄積した既得権益を防衛しようとするかなり強いインセンティブがある」となるでしょうか。

 

ここから導かれる教訓は、「どこのコミュニティや組織にも部族っぽさはあるし」「口で何と言っているかにかかわらず、人は既存の文脈や体制に沿ったかたちでことをなすための布石をしがち」となるでしょうか。

いわゆる「部族っぽさ」は組織の性質だけによってできあがっているとは思えません。人はしばしば「部族っぽく」振舞うものなのです。

 

では、新参はどう振る舞うべきか

以上を踏まえて、新参の挙動について考えてみましょう。

人間に上掲のような性質があるとしたら(そして実際にはあるでしょう)、新しいコミュニティや組織に入ってきたばかりの新参が何の配慮も計算もないまま新風を吹き込もうとするのはリスキーでしょう。その試みはコミュニティメンバーの既得権益のさわりになるとみられるかもしれず、面子や面目を損ねる言動と解釈されるかもしれず、抵抗を受ける可能性があります。

 

もしコミュニティや組織のメンバーが十分に利口だった場合、たとえ新参がいきなり出しゃばって献策したとしても、その行為に正当性が伴い、既存の文脈と照らし合わせても批判しづらい状況だったら表立っては誰も抵抗しないと思われます。しかし、何の予告も根回しも配慮もなくそうした場合、コミュニティや組織に貢献するために善意でやったことでさえ、恨みを買ったり、いつかどこかで足を引っ張られたりするリスクを冒すことになるでしょう。

 

既存のメンバー全員を敵に回して構わない場合や、敵対したくて仕方がない場合を除けば、そういった事態は避けたほうがいいはず。逆に、そうした事態を避けるためには、新参はいきなり出しゃばらず、まずはコミュニティや組織内の文脈や既得権益の網の目をよく観察し、よく把握することだと思います。

そして原則として、文脈や既得権益の網の目を尊重する挙動を心がけておいたほうが後々動きやすくなるでしょう。組織のメンバーの面子や面目や立場を脅かさない挙動を心がけているつもりの人も、念のため、人や場の観察に時間をかけるのが穏当ではないでしょうか。

 

世渡りの技術として当たり前だ、何周遅れだ、という人もいらっしゃるかもしれませんが、世渡りの技術って、わかっている人は果てしなく先行し、わかっていない人は遅れているものなので、こういう文章もあっていいんじゃないかな、と私はいつも思っています。それに、頭ではわかっていても、やりたくない人やできない人も多いですからね。

 

また、革新的と称しているコミュニティや組織の看板をあてにするあまり、「ここだったら新参がいきなり出しゃばっても誰も文句は言わないし恨みも買わないはず」と勘違いし、挙句、自分自身の居心地を悪くしていくに違いない“改革案”や“献策”を連発する人ってやっぱりいますよ。それって、すごくもったいないことじゃないですか。

 

ですから、既存メンバーを全員叩き潰してやりたいと思っているのでない限り、新参はかならず慎重に振る舞って、そのコミュニティや組織の内部にある既得権益や文脈を把握すること、いわばそのコミュニティや組織に存在するであろう部族っぽさを掴んでいくことが大切だと私は何度も言いたいです。

最も革新的だと評判のコミュニティや組織にこれから入っていく人においても、それは例外ではありません。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:Nemesia Production

2024年12月3日、韓国の尹錫悦(ユン・ソンヨル)大統領が戒厳令を発令するも、僅か6時間で撤回に追い込まれ、失脚した。

朴槿恵(パク・クネ)元大統領とあわせ、日本に融和的な大統領は、やはり韓国で国民的支持を得るのは難しいのだろうか。

 

それも無理からぬ話で、韓国、加えて中国でも、反日教育は戦後、為政者の常套手段だった。子供の頃から日本と日本人を敵視する教育を受けてきた歴史を考えれば、日本に融和的な態度を取る政治家など“国賊”とされて当然である。

それほどに、政治的合理性など国民感情の前には無力だ。もし私たちが「中国・韓国は邪悪な悪魔」と教えられ育てられたなら、きっと同じ思いを持つのではないだろうか。

 

ではなぜ、中国や韓国では長らく、日本と日本人を憎むような教育を続けてきたのか。

いうまでもなく、政治的安定を維持するために即効性のある方法は、外敵の設定だからだ。「日本が再び、我が国を侵略しようとしている。今、国内で争っているような場合か」そう呼びかければ、国民は多少の生活の不安や為政者への疑問など、吹き飛んでしまう。

 

そのような状況で政府を攻撃するような政治家や国民こそ、むしろ国賊として糾弾されるので、為政者にとって最高のツールだ。

実際、中国では文化大革命(1966年~)や天安門事件(1989年)を経験するなど、国内政治は長らく不安定な状態が続いた。韓国も軍事独裁政権による不安定な治世が続き、1993年の金泳三氏まで文民出身者が大統領に就任することすらなかった。

 

そんな中で、日本を「仮想敵」にし、反日教育で国民の“団結”をはかった中国・韓国のリーダーたちの姿勢は、戦前からの流れもあり、ある意味で当然だったのだろう。

そして、そんな隣国の政治家やそのやり方を、多くの日本人はもちろん、快く思わない。私だって本音を言えば、そんな手法に頼った様々な歪みが、両国と国民の友好関係を損ねていると感じている。

そんなもやもや感の中、少し思うところがあって、では日本はどうなのかと近現代の出来事を時系列にしてみることがあった。

 

すると一つの事に気が付き、背筋に冷たいものを感じている。

「もしかして日本って今、”内乱”寸前の状態なのでは…」

という思いだ。

 

“失われた30年”

近現代の日本の歴史を、少し時系列で比較してみたい。

日本が近代化に踏み出し、今日的な国家の建設を始めたのは1867年のことであった。それ以降、欧米列強から猛烈に学び国力をつけていった日本は、明治新政府樹立から28年目の1894年に日清戦争に突入、翌1895年に勝利する。

さらに38年目の1904年には、大国・ロシアとの戦争も経験し、奇跡的な勝利を収めた。これを機に大陸への利権を確実なものとした日本は、44年目の1910年に韓国を併合。
国の勢いは一つのピークに達する。

 

同じ時系列を、戦後日本でもみてみたい。

先の大戦に敗れた日本は、1945年に連合国の占領を受けることになり大日本帝國が崩壊。日本国のスタートを切ることになる。

戦後、長らくの間、1ドル360円という今から思えば想像もつかないような「安い円の固定相場」の恩恵もあり、輸出産業を成長させると、驚異的な戦後復興を果たす。

 

すると27年目の1971年、ニクソン・ショックに伴う世界秩序のリセットの影響で、1ドルは308円へと切り下げられる。

さらにその僅か2年後、29年目の1973年にアメリカは「高いドルの固定相場制」を維持することを放棄して、世界は変動相場制へと移行することになった。

そして円高ドル安が進むことになる。

 

それでも日本は国力を伸ばし続け、“産業のコメ”とも呼ばれた半導体分野で圧倒的な強みを見せると、欧米からの風当たりはどんどん強くなった。

加えて米国の“お家芸”でもあった自動車産業のシェアをも奪い続けると、米国世論の怒りは沸騰し、もはや戦争とも言えるほどに激しい経済摩擦を抱えることになる。

おそらく50代以上の世代であれば、米国の労働者たちがトヨタなどの新車をハンマーで叩き潰す衝撃的なニュースを、色濃く記憶しているはずだ。逆に言えば、この時代の日本はそれほどまでにメチャメチャ強かったのである。

 

その結果、戦後41年目となる1985年にプラザ合意が、さらに42年目となる1986年には日米半導体協定が成立する。

詳述は避けるが、要するに「アメリカによる新たな世界秩序の押し付け」により、日本は経済戦争に敗れたということだ。

令和の今、トランプ大統領を特別乱暴なリーダーだと思っている若い人も多いかも知れないが、アメリカは昔から、同じような外交を展開してきたのである。

 

そしてこのプラザ合意の影響で日本は円高不況になり、追い込まれた政府と日銀は低金利政策に舵を切る。

その結果、市中に大量のお金が溢れ空前の好景気と言われた、仮りそめの“バブル経済”が発生。戦後45年目となる1989年の大納会では当時、史上最高値となる日経平均38,915円を記録するなど、日本は「最高に勢いがある時代」を迎えた。

 

しかしそもそもが、米国との経済戦争に敗れた“副産物”として生まれた好景気に過ぎない。わずか数年ほどでバブルが弾けると、日本経済は加速度的に衰退局面に入る。

そして1996年、「第二次ベビーブーム」頂点の世代が大学を卒業する年になるとすでに日本経済は冷えきっており、就職氷河期は本格化する。以降、“失われた30年”が深刻化することになる。

 

「2010 中流階級消滅」

ここまでの、明治新政府と戦後日本の歩みを少しわかりやすく箇条書きにしてみたい。

【明治日本】
28年目 日清戦争勝利(列強仲間入り)
38年目 日露戦争(大国との利害衝突)
44年目 韓国併合(国勢の山)

 

【戦後日本】
29年目 変動相場制移行(列強仲間入り)
41年目 プラザ合意、続いて日米半導体協定(大国との利害衝突)
45年目 バブル経済頂点(国勢の山)

 

驚くほど、歴史が繰り返しているような気がしないだろうか。

そしてこの後の歴史についても、引き続き箇条書きする。

 

【明治日本】
54年目 国際連盟成立 日本常任理事国入り(欧米ルールへの組込み)
64年目 ロンドン海軍軍縮条約(欧米による日本の国力抑え込み)
65年目 満州事変(既得権益による、情勢変化を狙った政変)
71年目 日中戦争勃発(既得権益の暴走)
79年目 敗戦、大日本帝國の崩壊(既得権益の崩壊)

【戦後日本】
52年目 日本版ビッグバン、諸外国への金融開放(欧米ルールへの組込み)
65年目 自民党大敗、民主党政権が成立し政権交代(既得権益に抵抗する国民の政変)
70年目 消費税8%に引き上げ
75年目 消費税10%に引き上げ
80年目 2024年、自公政権過半数割れ(既得権益の崩壊を願った国民の意思表示)

 

いかがだろうか。

明治新政府樹立以降の動きと、戦後日本の流れは、驚くほど似ている気がしないだろうか。その上で、ここで注目してほしいのは明治日本54年目(1920年)の国際連盟への加入と、戦後日本52年目(1996年)の日本版ビッグバンについてである。

 

私は1996年に大学を卒業し大手証券会社に入社したので、当時のことは本当によく覚えている。日本の金融業界は当時、護送船団方式と呼ばれ、国から既得権益を守られながら高収益を上げられる、憧れの就職先だった。

しかしながら様々な金融商品が諸外国に開放され、つまり「金融の鎖国解除」がなされた結果、もはや銀行をはじめとする金融機関は、見る影もなくなる。

 

なお当時から現在への流れ、不況について、小泉純一郎や安倍晋三・両元総理、あるいはパソナの竹中平蔵氏の政策や経営方針の結果だとする意見が根強くあるが、疑問がある。なぜか。

小泉氏や安倍氏が総理になるよりも前、1998年に出版された「2010 中流階級消滅」という1冊の本がある。上述、1996年に本格化した日本版ビッグバンの2年後に出された本で、英国シティの証券会社で20代の若さで役員に昇った故・田中勝博氏が出した1冊だ。

要旨、日本は2010年までに中流階級などと言われるものは無くなり、非正規雇用が普通になることなどを予言する内容である。そしてその通り、日本は1996年の金融開放から世界秩序に巻き込まれ、日本的な終身雇用などは失われた。

 

結果、雇用の非正規化が進み貧富の差は拡大し、国民の不満が増大して政情が不安定化した結果、奇しくも2010年の前年、2009年に政権交代まで発生し、民主党政権が発足することになる。

 

日本人は決しておとなしくない

そして話は冒頭の「日本は内乱寸前」についてだ。

令和の今、なぜ日本はそんな危機にあると危惧しているのか。

先述のように、明治日本の政治家たちは欧米ルールに組み込まれ、日本狙い撃ちの国際秩序が高まると、既得権益のリーダーたちは外敵を作り、国民の不満を海外に向ける。

まさに戦後、中国や韓国のリーダーが採った手法と同じである。

 

しかし今の日本でこんな手法は絶対に通用しない上に、リベラルが幅を利かせるマスコミがそんな世論形成など、絶対に許さない。

ごまかしのガス抜きで国民の“団結”をはかるなど、不可能ということである。するとどうなるか。

 

明治日本では79年目、敗戦により国が崩壊した。

戦後日本では80年目、自公政権の過半数割れが発生した。

 

これは既得権益の暴走と破壊がハードランディングするか、それともソフトランディングするかの違いでしか無く、まさに瀬戸際ではないのか。

にもかかわらず、今も自民・公明の与党は増税と再配分にこだわり、減税に徹底抵抗している。

 

その結果、ヘイトの行き先は財務省のSNSに向かいはじめ、荒らされるなど、キナ臭い世相になってきた。

それでも政治が変わらず、政治的意思決定の構造が維持されるのであれば、この国はハードランディングを迎えざるを得ないのではないかと、危惧しているということだ。

 

そういえば、韓国・尹錫悦(ユン・ソンヨル)大統領の戒厳令に対し市民が結集し、その企てを阻止したことについて、こんな書き込みがSNSで目立った。

「韓国では民主主義が根付いていて羨ましい」

民主主義が根付いていればこんな政変も起こり得ず、“無秩序”が政治を変えることなどありえないので、その解釈は間違えている。ただし、国民が強い意志で政治に意見をする行動力については、素晴らしいと思う。

 

その上で日本でも、実は国民が怒り狂った時には、同じような行動力を発揮している。

古く江戸時代には、一揆をはじめとする一般庶民の武装蜂起が頻発した。わずか120年ほど前の1905年には、日比谷騒擾(日比谷焼き討ち事件)が発生し、東京は政府施設や鉄道など社会インフラが焼かれ、大混乱に陥っている。

 

同じようなことが、そろそろ令和の日本でも発生し大規模な“内乱”が起きるのではないかと危惧するのは、考えすぎだろうか。

それほどに、今の政治は国民を舐めきっている。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など

先日、亡父のお墓参りに行ったら、花生けに一輪の小さなひまわりが供えられていました。
誰が供えたんだろう。冬のひまわりも、とてもキレイなものですね。

X(旧Twitter) :@ momod1997

facebook :桃野泰徳

Photo by:Stijn Swinnen

わたしは、仕事ができない。

 

文章を書くのは苦じゃないから、情報をまとめたり、考えを言語化したりすることはできる。でも残念ながら、それでもカバーできないくらい、苦手なことが多すぎる。

 

だれだって、無能よりは有能になりたい。

「あの人って仕事できるよね」と噂されてにやっとしたいし、「自分じゃどうにもならなかったんです……」と助けを求められて鮮やかに解決したい。

 

でも、わたしにはムリだ。

だからきっと、有能になることを目指すより、わたしは「有能な人にうまく使ってもらう」ことを目指したほうがいいんだと思う。

 

能力が低い人間の苦悩

朝起きて髪を整えるためにヘアブラシがある引き出しを開けようとしたが、なにかがつっかえて開かなくなっていた。

んー? なんだろう、ヘアアイロンの入れ方でも悪かったのかな。

 

かがんで隙間から中を確認するも、特になにかがつっかえている様子はない。

閉めて開けてを繰り返しても、ガタッと音を立てるだけで開く気配はない。

そうこうしていると、夫が起きてきた。

 

「なにしてるの?」

「引き出しが開かない」

「つっかえてるんじゃない?」

「見てみたけど、なんにもないんだよね」

「下の棚は?」

「下?」

 

夫はおもむろに、1段下の引き出しを開けようとする。するとその引き出しもガタッと音を立ててつっかえていた。引き出しをゆすってつっかえていた物の位置をずらすと、その引き出しも、ブラシが入っている上の引き出しも開いた。

 

にしても、なんでわたしは「上じゃなくて下がつっかえているのかもしれない」という発想にならなかったんだろう。

わたしはいっつもそうだ。

 

カフェで働いていたときも、「冷蔵庫から白パン持ってきて」と言われ、いつもの場所になくて必死で探し回っても見つけられなかった。

それを店長に伝えると、「あるはずだけど」と自分で冷蔵庫を見に行き、数十秒で見つけてきた。わたしは冷蔵庫をくまなく探したつもりなのに。

 

5年以上居酒屋でバイトしていたのに、ついにドリンカーをマスターすることもなかった。

 

ドリンクのレシピは全部頭に入っているけれど、ピーク時にダーッと注文が飛び込んでくると、頭が真っ白になってフリーズしてしまう。一生懸命作っても、注文のほうが多くてすぐにパンク。

「なんでまだできてないの!?」と他のバイトがキッチンにやってきて交代すると、ものの10分ですべての注文をさばいてくれるのに。

 

なまじ小さい頃から「しっかりしている」と言われてきたからこそ、それなりの年齢になって自分が「無能側」の人間だと気づいたときは、ショックだった。

 

なんでわたしはこんなに能力が低いんだろう。

なんでできないのかがわからないし、わからないからこそ改善もできない。

悔しいし、途方に暮れた。

 

有能に憧れたけど、わたしにはムリみたい

そこからわたしは、いろんな本を読んだ。

優秀な人がやっているナンタラカンタラ、頭がいい人はこう考えている、仕事が早い人と遅い人の違い……。

 

それらから学んで、真似して、自分もどうにか有能側の仲間入りできないかと試行錯誤した。

が、現実はそう甘くはない。

いまだって相変わらず不注意で請求書の日付をよく間違えるし、マルチタスクが必要になる場面では相変わらずポンコツだ。

 

わたしの頭の中にはきっと、なにかのピースが欠けているんだ。

いくら目を凝らして、口に出して全部読んで請求書をチェックしても、しょうもないミスがあるんだから。言われて見ればどう考えたって誤字なのに、なぜか気づけないんだから。

 

すでに完成したパズルの解像度を上げることは努力でできるかもしれないけれど、存在しないピースを努力で埋めるのは、きっとムリなんだ。

仕事だけにかぎらず、日常生活でもわたしはどこかポンコツで、それがわたしなんだ。

 

自分が他人に貢献できる方法を考えた

有能側にはなれないと悟ったわたしは、「無能なりに有能な人の役に立とう」と考えるようになった。まぁ、ここでいじけたところでしょうがないし。

たとえば、オーバークックというゲーム。

https://store-jp.nintendo.com/item/software/D70010000010088?srsltid=AfmBOoruSJwCpkPwgqjcionmc806UFUJWqiLp15Df_NPRVeaOORjBI9m

左上に表示されるメニュー、この図でいえばトマトとキャベツのサラダ→キャベツのみサラダ→キャベツとトマトときゅうりのサラダ……などを作っていくゲームだ。

食材を切って、盛り付けて、提供して、お皿を洗って、といったさまざまなタスクを、協力してこなしていく(ソロプレイももちろん可)。

 

わたしが苦手なマルチタスクの極みのようなゲームで、自分がなにをすればいいかわからなくてウロウロ。人とぶつかって落下。米を焦がし、不要な食材を焼き、邪魔なところに皿を置く。

控えめに言って、いないほうがマシなレベルである。

 

足を引っ張っている自覚があったので、おとなしく友だちのサポートに回ることにした。

皿を洗う、できたものを提供する、など、言ってしまえば「だれにでもできるけどだれかがやらなきゃいけない作業」をすることにしたのだ。

 

かんたんな作業だから少し余裕もできて、「焦げそうな米置いとくね」とか、「トマト運んどくよー」とか、ちょっとは気を利かすこともできた。

 

先日家具の組み立てをしたときも、夫がテキパキ組み立ててくれるので、説明書を事前に読んでネジを順番に並べておくとか、次に使う板を袋から出しておくとか、段ボールを隅にまとめて作業スペースを確保するとか、そういう雑務を買って出た(妊娠中で組み立てられないのもあったけど)。

活躍したわけではないけれど、自分的には悪くない働きだったんじゃないかと思う。

 

そうだ、能力が低いからって、なにも貢献できないわけじゃない。

できないことをムリにやろうとするよりも、できる範囲で最大限貢献すればいいんだ。

 

有能な人にうまく使ってもらえればそれで満足

では、「できる範囲で貢献」とは、どういうことをいうんだろう。

 

とりあえず、指示通りやる。ごちゃごちゃ言わず、やる。

この指示の目的はこうだな、ってことはこっちをやるといいんじゃないか、と邪魔にならない範囲で気を利かせてみる。でも余計なことはしない。

 

ミスなくできる作業を進んでやり、自分にできる手伝いを探す。

自分の手柄をアピールするよりも、他の人の成果を素直に褒めて祝福する。

こんな感じだろうか。

「なんかこいつがいたら便利だな」と思ってもらえればひとまず合格。

 

たとえ第一線でバリバリ活躍するような華々しい結果は残せずとも、貢献しようと誠実に努力していれば、それを認めてくれる人は絶対に現れる。はず。

 

そしてもっとも重要なのが、自分ができる仕事を割り振ってくれる有能のもとにつくこと。

世の中には、任せるのがうまい人がいる。

多少のマイナス要素は目をつむって、その人の得意分野を見つけて、それを活かせる仕事を振っていくような人。

そういう人にかわいがってもらえれば、最高である。

 

そのためには、自分ができること、できないことを把握して、できることは率先してやってまわりに貢献していけばいいんじゃないかと思う。

別に、わたしがその「有能」にならなくたっていいんだ。

リーダー仕事はその人にお願いして、わたしはその人に、じょうずに使ってもらえばいい。

 

伸ばせる能力とそうじゃない能力、はっきり言えば向き・不向きはだれにだって存在する。

なんなら、不向きが多すぎて、「何やっても人並以下、ギリギリこれなら普通にできる」という人もいる。

苦手なことに直面すると、「努力してできるようになろう」と思ったり、「なんで自分はできないんだ」と落ち込んだりする。

だれだって、有能側の人間になりたいから。

 

もちろん、それで有能になれるならなったほうがいい。でも時には苦手なことだってやらなきゃいけないし、適正がなくとも逃げられない場面もある。

それなら背伸びして「有能」を目指さすより、有能な人に上手に使ってもらえるように、「便利なヤツ」ポジションを目指すほうが現実的なのだと思う。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo:Imagine Buddy

生成AIの登場で、ホワイトカラーの職場は大きく影響を受けつつあります。

しかし、依然として多くの企業において「生成AI」は、思ったよりも導入が進んでいないのが現状です。事実、帝国データバンクの調査によれば、今年8月の時点で「活用」は17%。

従業員1000人以上、あるいは売上1000億以上の大企業であっても、活用企業は3割強にとどまります。

 

また、日本は世界に比べて、生成AIの利用率が低いという結果が出ています。

総務省は5日発表した2024年版情報通信白書で、生成AI(人工知能)を利用している個人が9.1%にとどまるとの調査結果をまとめた。比較対象とした中国(56.3%)、米国(46.3%)、英国(39.8%)、ドイツ(34.6%)とは大きな開きがあった。

日本経済新聞

いったいなぜ、このような状況になっているのでしょうか。

 

一つは、多くの人にとって「生成AIの具体的な活用方法が明確でない」こと。

要は「何に使ったらよいかよくわからない」です。

 

そしてもう一つは、「そもそも生産性の向上に対し、興味もメリットもない」ことです。

 

そしてこの2つ、あまり関連が無いように見えますが、実は表裏一体です。つまり「生産性向上に興味もメリットもない」からこそ、生成AIの具体的活用方法を掘り下げたり、模索したりもしない。

そういう状況が、現場で起きている。

 

実際、日本の「ホワイトカラー」(=オフィスワーカー)文化では、長時間労働が美徳とされる風潮が根強く、効率化や生産性向上に対する意識が低い(むしろ抵抗する)場合が多々あります。

これはトヨタをはじめとする日本の製造現場が、「機械化を進め、乾いたぞうきんを絞るようにコストカット・生産性向上に取り組んできた」のとは対照的です。

 

逆に、海外企業は、ホワイトカラーの生産性に対しても、非常に厳しい傾向にあります。

 

知人の一人が、外資系の大手コンサルティング会社に勤務していますが、

「事務のアウトソーシング先のオペレーションについて、「毎年人を減らせ。5年で半分以下にせよ」」という目標を与えられているそうです。

これは厳しい目標のようにも見えますが、見方を変えれば「5年も経て、同じ人数でしかオペレーションを回せない」という状態を、改善にとりくんでいないとみなされるのは、製造業を見れば、十分に理解できます。

 

では日本では、ホワイトカラーの生産性において、諸外国に後れを取ったままとなるのでしょうか?

 

私は、そうではならないと思います。

なぜならば、日本の人口減少が加速しているからです。

 

近い将来、「ホワイトカラーの生産性」にも本気で取り組まなければ、仕事が回らないのは目に見えています。

むしろホワイトカラーの数を削れるだけ削って、現場に人を充当しなければ、国土の保全すら危ういかもしれません。

 

したがって、工場が、機械化で生産性を大きく向上させたように、オフィスも生産性を大きく向上させなければならない時代が来た。

そもそも、ホワイトカラーは人が過剰だ。

工場が、オペレーションの人員を減らし続けてきたように、オフィスの人員も減らし続けなければ、つじつまがあわない。

私はそう考えています。

 

​そこへ来て、ホワイトカラーの仕事を代替できる機械=生成AI がようやく生み出されたのです。

これは、工場におけるロボットや工作機械の発明と、似たようなものと私は見ています。

工場で人間がハンマーを振るわなくてよくなったように、人間がオフィスで資料作りや情報処理に時間を使わなくてよくなりつつあるのです。

 

そして、オフィスへの生成AI導入を、工場の機械導入になぞらえれば、これは日本人にとってむしろ得意な領域なのではないでしょうか。

 

なぜ「得意」と言えるのか。

 

日本人はトップダウンによる大きな変革を嫌いますが、日常の小さな改善はむしろ得意です。

これは、トヨタが小さな改善を積み重ねて、世界一になったことは、決して偶然ではありません。

日本人は、現場での漸進的な改善が得意な人々なのです。

 

そしてそれは、生成AIによるオフィスワークの改善と、とてもよく整合する。

だから手始めに、私は自分が使い、生産性を向上させるために、「文書生成」の生成AI「Automagic」を作りました。

実際に、私が文章を書くスピードは、従来の3倍から5倍になったと思います。

 

生産性を向上させたら余った時間はどうする?

しかし今もなお、日本のオフィスで生成AIの導入が遅い理由は、前述したように。短期的には「一般社員」の目線からすれば、生産性の向上は自分たちの首を絞めるからです。

自分の立場を危うくする(ように見える)生産性の向上に、積極的に取り組む理由がない。

生成AIを使ってまで、本当に生産性の向上なんてやる必要あるの?という話になります。

 

仰る通りです。

 

私は、目的を「人員削減」においた生成AI導入は、労使の揉め事を増やすだけだ、と思っています。

今後10年、20年と経るうち、少ない人数でオフィスワークを回さねばならなくなるのはわかる、でも今はその時ではない。

みんな、そう思ってますよね。

 

でも、今のように「議事録を作るのに何時間もかかる」「提案書を書くのに1日かかる」といった、生産性の低い状態も良くないのではないでしょうか。

要するに、生産性を向上させたら、余った時間は何に使うのか、というところが明確になっていないとダメなのだ、と思います。

 

そこで私が申しあげたいのが

「余った時間は子育てに使う」

「余った時間は家族に使う」

です。

 

雇用を守りながら、時間を有効に使うには、生産性を向上させて余った時間を、皆で家族を強くするために使えばいいのです。

実際、2年ほど前、伊藤忠商事の女性社員の出生率が急上昇したというニュースが流れました。

朝型勤務は男性社員や子どもを持たない女性社員にも評判がいい。なぜなら労働時間が短くなるからだ。朝型勤務の終了時刻に合わせて仕事を終わらせようと、自然と効率を重視した働き方になる。だらだら働くことが少なくなり、生産性の高い働き方が実現できるようになる。

そして、この裏には「生産性の向上」があったという分析があるのです。

 

会社が儲かる、すなわち生産性が向上すると、出生率が向上する。

これは、絶対ではないにしろ、一つの側面であると思います。

 

企業はどのように生成AIを活用していけばよい?

では、企業は「ホワイトカラーのオフィスワークの改善」のために、どのように生成AIを導入していけばよいのでしょうか。

 

生成AIの原理は、過去のデータを基に、パターンを学習し、アウトプットを生成する技術です。

したがって今のところ、生成AIは既存情報の加工や改善に優れており、特定のルールや制約のもとでの作業において強みを発揮します。逆に、新しいアイデアやコンセプトをゼロから生み出す「0→1」のプロセスには不向きです。

これは生成AIの制約条件です。

 

それを理解したうえで、我々はまずこんな作業を、生成AIにやらせています。

 

1.タスク設定で、仕事の立ち上がりを加速

どこから手を付けたらよいかわからない仕事は、時間を浪費しがちです。しかし、生成AIのアシストがあれば、生成AIに「タスクの進め方を提案してください」と依頼することもできます。

例えば、調査業務であれば、調査の目的を明確にし、範囲と対象を設定し、方法を決定するなど、詳細なステップを提示してくれます。

 

2.反復作業の自動化

生成AIは、反復作業を自動化することで、作業効率を大幅に向上させることができます。

例えば、毎月のレポート作成や議事録の作成など、定期的に行われる単純作業はAIに任せることで効率化が図れます。

AIはまた、過去のメールデータをもとにしたメールの作成や返信、煩わしい転記作業、Excelのマクロを使わなければできなかったような作業なども、自然言語で依頼することができます。

 

3.検証・修正作業

例えば、生成AIで作成した議事録を、上司やクライアントの指摘を学習させたAIにレビューさせることで、事前に多くの指摘を先読みし、上司やクライアントの時間を節約することができます。

また、報告書や提案書、セミナー資料などのレビューも、生成AIを活用することで精度を高めることができます。生成AIは、誤字脱字の修正も得意ですよ。

 

4.資料作成

AIは「たたき台」を作るのが非常に得意です。

提案書の作成や、規定の作成なども、まずは「形を作ってくれる生成AI」に依頼をすることで、大まかな骨子を持った状態で、仕事に取り掛かることができます。

また、過去の資料を生成AIに参照させることで、よりカスタマイズされた資料を作らせることができます。

 

これはまだ一例にすぎず、やりようはいくらでもありますが、「生成AI」はオフィスの雑務をやらせるにふさわしい、まさに「工場の機械化」に似ているものです。

 

なお、この話に興味を持っていただいたら。

元電通コピーライターの梅田さん、生成AI普及協会理事の元田さんと一緒に、いろいろとウェビナーで配信しますので、来年の1月21日、ぜひ聞きに来てください。

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【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」65万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

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Photo:vackground.com

ひと月ほど前のこと。仕事仲間との会食、麻雀を終え、終電に近い電車に乗り込むと、年配らしき男性(推定60代)がうつ伏せに倒れていたので驚いた。

 

もっと驚いたのは、倒れていた男性に声をかけ、寄り添っていたのが、20代の若い男性1人だったこと。

その若い男性は、手と膝を床につけ、倒れた年配男性をのぞき込みながら、必死に声をかけていた。

 

車両には20人ほどの乗客がいたと記憶しているが、ある人はスマホの画面に目を落とし、またある人は「(若い男性に)任せておけばいいか」といった様子で、見て見ぬふりをしていた。

中には寝ている風の人もいたが、乗客が地べたに、うつ伏せで倒れているのだから、気がつかない訳はないと思うのだが……。

 

電車は発車していたため、私は2分後に到着した自宅最寄り駅で下車すると、車掌さんと駅員さんに急病人がいることを告げた。

車掌さんらは、うつ伏せに倒れていた乗客に声がけしたが、ほとんど反応がなかったので、脳血管の類いの急病か、ただの酔っ払いだったのかは分からない。ただ、遠巻きに見守るだけの人が多いこと、中には全く無関心だった人もいたことに衝撃を受けた。

と同時に、倒れていた年配男性に必死に寄り添っていた若い男性の責任感、行動力に感銘を受けた。

 

今も、勇気、責任感、気配りに満ちた、あのカッコいい若者の姿が忘れられない。

倍ほども歳の離れた若者に、当たり前だが、なかなか行動に移せない、人として大切なものを教わった気がする。

 

あの一件以来、せめて、公の場では、周囲への気配りを欠かさないように意識している。高齢者や目の不自由な人、体調の悪そうな人への気配りは当然だが、バッグや衣類に「ヘルプマーク」をつけた人にも、より留意するようになった。

ご承知の通り、ヘルプマークとは、何らかの支援や気配りが必要であることを周囲に伝えるマークのこと。

赤色の下地に、白色のプラスマークとハートが描かれている、ステッカーのようなものを、誰でも一度や二度は見たことがあるのではないか。

 

これは、「いざの場合は支援や援助をお願します」という救急要請の合図。支援が必要な人なら誰でも装着できる。

明確な基準はないが、東京都福祉局によれば、義足や人工関節を使用している方、内部障害や難病の方、妊娠初期の方など、援助や配慮を必要としている方が対象という。

 

このヘルプマークを身に着けた人を見たら、声掛けする、席を譲る、避難の援助をする、といった気持ちを持つことが大切になる。

ヘルプマークは、都道府県や市区町村の福祉課、保健所、市民センター、都営地下鉄の各駅(東京都)などで配布されているが、自分で作成して装着しても構わないという。

 

私も、数年前、ある特異な脳血管障害の影響で、症候性てんかんと診断され、ヘルプマークを持っている。ただ、何度かてんかん発作を経験し、また、てんかん治療薬の効果もあって、ある程度、病気を管理できるようになったので、まだヘルプマークをつけたことはない。

 

ぱっと見、健康だけが取り柄のように見える私でさえ、そうした持病があったりする。外見ではなかなか分からないが、実は支援や気配りを必要としている人は、予想以上に多いのが実情ではないだろうか。

 

そんな中、先日、少し込み合った電車に乗ると、9割以上の乗客がスマホに目を落としていた。LINEやメール、ゲームや音楽、アプリといったものに夢中で、周囲に気配りする余裕、隙間はほとんどない様子。

スマホとにらめっこする人の群れ。

今や当たり前の光景だが、よくよく見ると、気色悪く、人間味が感じられない空間、風景に思える。車内の様子を見渡し、周囲に気を配っている人が、何か奇異な目で見られる現状に違和感を覚える。

言葉を換えれば、公共の場が、自分だけの空間と勘違いしている人の多さに、危機感さえ募る。これでは、周囲に困っている人がいても気づかないし、逆に不審な人物がいても、危険な出来事が起こっても、俊敏に対応できない。

 

公共交通機関や街中などの「公共の場」は、その言葉の通り、不特定多数の誰もが利用する場所。

言うなれば「みんなの空間」で、だからこそ、互いに気配りするのが不可欠だが、今はスマホの影響もあってか、「自分だけの空間」といった状態になってしまっている。

どこまで「自己欲求」を追求する環境になれば気が済むのか-

どこまで「周囲への気配り」という大切なものをなくせば気が済むのか-

 

私自身も、電車内でスマホを見ることが少なくないので、人のことは言えないが、暗い気持ちになる。

 

とはいえ、人は捨てたもんじゃない。

先日、ヘルプマークはつけていなかったが、80代と思われる杖をついた高齢女性が、ふらつきながら電車に乗ってきた。

 

気になって高齢女性を注視していると、20代と思われる女性がすぐに立ちあがり、笑顔で席を譲った。

その高齢女性は歩く速度が遅いためか、下車駅が近づくと席を立とうとしたが、ふらついて倒れそうになった。すると、隣に座っていた学生風の男性が、高齢女性の体を支え、一度座席に戻した。

座ってからも、直接触れてはいないが、肩のすぐ後ろに両手を回し、高齢女性を支える思いを体現した。

 

下車駅に到着すると、高齢女性はふらふらと立ち上がり、ドアへ向かったが、乗客が乗り込んできて、ホームに出られない状況に。すると、向かい側に座っていた年配の女性がすぐに席を立ち、高齢女性を支えて、ホームまで誘導した。

高齢女性は後ろ姿のまま、右腕をゆっくり上げて、感謝の気持ちを伝えていた。

 

席を譲った20代の女性、隣の席で高齢女性を支えた学生風の男性、そしてホームへ誘導した年配の女性。人として当たり前のこと、しごく自然の行動だが、高齢女性を支えた「ワンチーム」の気配りを見て、晴れやかな気持ちになった。

 

公共の場に限らず、気配りが人の原点だと思うが、その「気配り」というワードが確実に希薄になりつつあるのが現代。“気配りのすすめ”なんて言うと大げさだが、せめて公共の場では「気配り」という最低限のマナーを忘れないようにしたい。

 

 

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【著者プロフィール】

小鉄

取材記者を経て、現在はフリーの執筆者。全国の地方都市を取材拠点に、最近は自身の現状も踏まえ、「生活苦」にスポットを当てた執筆に注力。趣味は地方巡りで、滞在地の史跡、神社仏閣、夜の街には欠かさず足を運んでいる。

Photo by:heino eisner

「食べて」と言わんばかりの、ふんわりと湯気が漂うワッフル。その上には固く絞られた生クリームと、とろっとしたたるチョコレートソース。

 

いつもなら迷わず頼んでいたけれど、今日は、今日からはもう……。

 

みなさんには、毎日何気なく続けていて欠かせなくなっている習慣や、自分にとって大切で「これがないと人生には必要だ」と思っていることはありますか?

たとえば、寝る前にだらだらとスマホを見てしまうことが欠かせないとか、朝食にコンビニの菓子パンを食べるとか。

 

それが体に良くないと分かっていても、「これくらいならいいや」「これがないと落ち着かないし」と、なんだかんだ続けてしまう行為。

 

わたしにとってそれは、甘いものだった。

三度の飯よりチョコレートが好き、レストランに行ったら必ずケーキも注文。カステラだってクッキーだってドーナツだってぜーんぶ大好き。

 

そりゃ食べすぎはよくないけど、甘いものを食べることでハッピーになるから、これらは人生を良くしてくれるかけがえのないもの。そう思ってた。

でもね、「ないとダメ」だと思っていた甘いものを食べない方が、わたしの人生は豊かになったんだよ……。

 

甘いもの大好きなわたしが、妊娠糖尿病で甘いもの断ちした結果

妊娠7か月目になり、明らかに妊婦だとわかるくらいお腹が出てきたタイミングで、妊娠糖尿病だと診断された。普通の糖尿病とはちがう、妊娠中特有の症状だ。

 

妊娠糖尿病に自覚症状はなく、体質や遺伝的な要素が大きいとは聞いていたけれど、わたしは検査を受ける前からイヤ~な予感がしていた。

おじいちゃんが糖尿病だったというのもあるけれど、「こんだけ甘いもの食ってりゃアウトでもおかしくないな……」と感じていたから(検査の話を聞くまで、妊娠糖尿病というものを知らず、たいして節制していなかった)。

 

ものごころついた時から甘いものが大好きで、小学生のころから毎日欠かさずおやつを食べていた。大の偏食であるわたしでも、甘いものなら食べられたのだ。

 

大人になってからは、在宅ワークの影響もあって、お菓子の摂取量がさらに増加。妊娠前は毎日板チョコを一枚以上食べていたし、週末はカフェでパフェを食べるのが習慣。

妊娠してから多少は気をつけてはいたものの、ワッフルにドイツの国民食とも言われる「ヌテラ」というチョコレートクリームをたっぷり塗って食べるのが大好きなのは相変わらず。

 

とはいえ妊娠糖尿病と言われたからには、さすがに食生活を改めなくてはまずい。わたし自身の健康だけならまだしも、お腹の子どもに大きな影響を及ぼしてしまうのだから。

 

そこで、再検査までの1週間、完全に甘いものを断つことを決意。

このわたしが! 甘いものを! 断つなんて!

絶対に無理!!!!!!!!

 

正直、最初は「どうせ途中でなにか食べちゃうだろうなぁ」と思っていた。ダイエットだって、まともにできたことがないし。

しかし母親は強しとよく言ったもので、自分でも驚くほど自制心を発揮した。

甘いものが食べたくなったときは、果物を食べたりスープを飲んだりして気を紛らわせ、食事はしっかり噛んでゆっくりと。

 

安西先生、チョコが食べたいです……。

でもダメだ、今回こそはちゃんと我慢するんだ!

 

小さい頃から砂糖漬けの食生活を送っていたわたしの体に変化が現れたのは、甘いもの断ち3日目くらいからだった。

 

お菓子を食べなかっただけで体調が劇的によくなった

甘いものをやめてから、お通じが良くなり、睡眠の質が上がり、昼寝をしなくても済むようになった。妊娠初期からずっと続いていた気持ち悪さも、嘘のようになくなった。

ネットで調べてみると、甘いものを食べることで便秘になったり、睡眠の質が低下したり、眠気や気持ち悪さが引き起こされることがあるらしい。

 

わたしはそれまで、「これらの症状はすべて妊娠によるもの」だと思い込んでいた。事実、そういう側面もあっただろう。

でも甘いものを控えてそれが軽減されたのであれば、わたしを悩ませていた体調不良の原因は、「妊娠中に甘いものをたくさん食べていたから」である可能性がかなり高い。

 

ってことは、だ。

妊娠以外の時期だって、砂糖の量を減らしていれば、お通じもよく睡眠の質も高く、もっと快適に暮らせていたんじゃないか?

 

不眠に悩まされたときだって、菓子パンをやめればよくなったかもしれない。

倦怠感でダラダラしていたときだって、つねに机の上に置いていた板チョコのせいかもしれない。

 

小さい頃から毎日甘いものを食べていたから、そんなこと思いもよらなかった。

大好きで、わたしの人生に欠かせないと思っていたものが、わたしの人生を悪くしていただなんて。

※これはあくまで私個人の体験談であり、医学的に正しいと保証するものではありません。

 

そもそもなんで甘いものが必要だと思っていたんだろう?

もちろん、甘いものを摂りすぎるのが良くないということは知っている。

 

それでも「食べすぎには気をつけよう」くらいの認識で、正直そこまで悪いとは思っていなかった。だって甘いものは美味しいし、食べると幸せな気分になるし、食べないなんて考えられないし……。

ほら、「寝る前の晩酌が欠かせない」とか「暗い部屋でずっとスマホを見ちゃう」とか、よく言うじゃないですか。あれと同じ。

 

でも今回人生で初めて甘いものを1週間断ってみて、改めて思った。

「わたしはなんでこんなにも、甘いものに執着していたんだろう?」

 

そりゃおいしいよ。

でもかなりお金もかかるし、体に良くないし、そもそもお菓子じゃなくても食べるものなんていっぱいあるじゃないか。

 

もはや甘いものを食べることが癖になっていて、「甘いものが食べたい」というよりも、「食べないと落ち着かない」「気づいたら食べている」状態だったのだと思う。

だから、甘いものがわたしに悪影響を及ぼしていることに、まったく気づいていなかったのだ。

 

悪い習慣でも「自分にとってはいいもの」と思い込んでしまう

実は夫も最近、似たような経験をしていた。

夫は毎日職場で3杯もコーヒーを飲んでいたらしい。でも仕事が忙しくてよく寝れない日が続き、食欲も落ちていた。

 

「とりあえずコーヒーをやめてみたら?」と提案し、夫は代わりにノンカフェインコーヒーを飲むように。

すると数日で睡眠の質が改善され、食欲も戻ったらしい。おそらく、体質的にカフェインが合わなかったのだろう。

それでも夫は半年以上、「コーヒーは美味しいし集中できる」と言って飲み続けていたのだから、人間とは不思議なものだ。

 

きっと夫もわたしと同じで、コーヒーは「そんなに悪いものじゃない」「欠かせないもの」「自分の人生を良くしてくれるもの」だと思って、何気なく飲んでいたんだろう。

 

そういえば友だちも、学生時代からずっと朝食抜きだったけれど、結婚してからパートナーと一緒に朝食を食べるようになって、午前中のパフォーマンスの質が爆上がりしたって言ってたっけ。

寝る直前までPCゲームをしていた友だちも、「勤務時間が変わって早起きになったから寝る1時間前にゲームをやめるようにしたら、ぐっすり眠れるようになった」と言っていた。

 

朝食は食べたほうがいい、寝る前のゲームは控えるべき、というのは誰もが知っていること。

それでも、「これくらいいいや」「リラックスには必要だし」と、自分にとってはいいものだと感じてダラダラと続けてしまうのだ。

 

人生の質を上げたければ、悪癖に気づくことが大事

習慣に関する本や理論はたくさんある。

それらには大抵、「意思を強く持て」「継続しろ」「言い訳するな」「目標を決めろ」なんて書かれている。

でも、そもそも自分が悪い習慣を繰り返しているということに気づかなければ、何も変えられない。

習慣を変えるうえで最も重要なのは、それに気づくことだ。アインシュタインが言っているように、同じことを繰り返して違う結果を得ようとするのは愚の骨頂である。
人生で違う結果を得たいなら、新しい習慣を確立する必要がある。努力して自分を律すれば、それは比較的簡単にできる。
出典:『習慣を変えれば人生が変わる』

そう、大事なのは気づくことだ。

普段何気なくやっていることが自分に悪い影響を及ぼしているのなら、新しい習慣を始めるよりも、まずはそれを改めなきゃいけない。

 

とはいえ自分自身で悪癖に気づくのは、なかなかむずかしい。

 

わたし自身、妊娠糖尿病と言われるまでは、「ちょっと控えればいいだろう」といつもよりは少ないものの、それでも日常的に甘いものを食べていた。

だってそれは、自分にとっていいものだから。それによって自分はハッピーになっていると信じているし、これくらいは別にいいだろうと自分を甘やかすことで息抜きをしているから。

 

だからこそ、自分の生活のなかで何気なく繰り返している習慣が、本当に自分にとっていいものなのかを考えるきっかけになればいいなぁ、と記事を書いてみた。

 

何気なく続けているその習慣は、本当にあなたを幸せにしていますか?

最近続いている不調は、無意識に繰り返している悪癖のせいではないですか?

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo:Marshal Quast

今日はメンタルヘルスの話をしたい。セロトニンの足りない人の生きづらさについてだ。(なお、この文章に関して開示すべきCOIはありません)

 

昨今、生きづらさがさまざまな角度から語られ、なかでもメンタルヘルス領域では発達障害(神経発達症群)の生きづらさがクローズアップされがちだ。

しかし、メンタルヘルスに根ざした生きづらさと言っても本当は色々で、その生きづらさのなかには、統合失調症やうつ病や双極性障害(双極症)といった大文字の精神疾患に限らないものも潜在している。

 

そうした個別の生きづらさのなかには、どうもセロトニンが足りていないよう見受けられる人々、逆に言うとセロトニンさえ足りていれば大幅に生きやすくなる人が含まれているようにみえるので、それについて思うところを書く。

 

セロトニンを補う薬がびっくりするほど効く人たち

精神科の外来にいらっしゃる患者さんの診断名はさまざまで、同じ診断名でも薬の効果や治療後の生きやすさはまちまちだ。

「うつ病」「社交不安障害(社交不安症)」といった病名こそ同じでも、薬の効き具合や治療開始一年後の状態が天と地ほど違うことは珍しくない。

 

私が前々から注目している一群の患者さんがいる。それは、セロトニンを補う薬を内服するとびっくりするほど効果があり、その後の生活が劇的と言っていいほど安定する患者さんたちである。

 

ご存知の人もいらっしゃるだろうが、今日、精神科ではセロトニン再取り込み阻害薬(Serotonin Reuptake Inhibitor:SSRI)という薬が頻繁に処方されている。このSSRIは抗うつ薬とカテゴライズされ、うつ病の患者さんに処方されるが、社交不安障害やパニック障害など、不安に関連した他の精神疾患にも効果がある。

セロトニンは不安やストレスと深いかかわりを持つ神経伝達物質なので、シナプス間隙のセロトニンを増大させるSSRIがさまざまな精神疾患やメンタルヘルスの状態に効果があるのは、薬理学的作用機序からいってわかる気がする。

 

そうして精神科外来でSSRIを処方され、内服している患者さんは数多いるわけだが、長年見ていると、そのなかに、SSRIが本当にびっくりするほど効く患者さんの一群があると感じている。

 

たとえば、ストレスやライフイベントをきっかけにうつ病になる患者さんはごまんといるが、その一部に、SSRIを内服して1か月かそこらで症状が9割がた改善し、それどころか、それ以降も病前よりずっと楽に生活をおくり続けている患者さんがいる。

 

うつ病に限らず、精神科の治療プロセスの合間には「そもそもストレスの発端となった案件を整理・解決するか、考えなくても良いようにする」ことが求められがちだが、この手のSSRIがめちゃくちゃ効く患者さんの場合、そうした整理・解決すべき案件に対して精神科医が助言・介入する必要性があまりないことが多い。SSRIが効果を発揮していくうちに、患者さん自身が案件の整理・解決を進めていくパターンをとることが多い。

 

社交不安障害、パニック障害、なんらかの恐怖症の患者さんなども同様だ。SSRIは効果が出るまでに2週間以上かかり、そのくせ副作用は初日から出てしまうことが多いので、そのことをよく説明し、辛抱強く内服していただく。効果のある人もいればそうでもない人がいるのは種々の不安障害の場合も同じだ。

しかしSSRIがめちゃくちゃ効く患者さんの場合は、2週間ほどではっきりと薬効が現れ、2~3か月ほどで仕事や学業に戻っていく。

 

精神疾患の治りやすさ・治りにくさはさまざまな要素によって左右される。たとえば孤立していたり、発達障害や知的障害が背景にあったり、家庭が揉めていたりすると治療効果は限定的になりがちだ。

しかし、そうした目につきやすいハンディとはまた別に、薬の効きやすさ/効きにくさの大きな個人差が存在している。

 

SSRIがめちゃくちゃ効く人と、セロトニンの恩寵

そういう、SSRIが人一倍効果的な患者さんには共通点があると私はみている。それは、症状がはっきり出現する以前から、なんだかセロトニンの足りてなさそうな人生を歩んできていた、という点だ。

 

たとえば患者さんAは、うつ病に罹患する前から人に言われたことをくよくよと考えてしまいやすく、緊張しやすく疲れやすい性分だった。また患者さんBからは、パニック障害が顕在化する前から気の小さいところがあって、けれども気が小さくてはやっていけない仕事だったから虚勢のような態度で今までやってきたといった話が聞かれたりする。社交不安障害の患者さんCについては、その症状が本格化する思春期の前から人混みが苦手で、地下鉄に乗りたがらず、片田舎での生活を夢見ていた。

 

神経伝達物質としてのセロトニンの恩寵は大きい。不安を減らし、緊張をやわらげ、平穏な精神状態にする。恐怖や怒りといったアドレナリン全開になるような状態を減らし、友好性を増やし、ストレスを低減させる。

恐怖や怒りやストレスへの反応は視床下部-下垂体-副腎系(Hypothalamic-Pituitary-Adrenal Axis, HPA系)が司っていて、そうしたものの発露は野生動物には必要不可欠だが、平和で安全で人口密度が高く、ストレスがあるからといって逃げたり戦ったり激怒したりしてはいけない現代社会においては、かえって邪魔になる一面もある。

図:HPA系の模式図。ストレスに対して視床下部・下垂体・副腎皮質が連動して反応し、コルチゾールやノルアドレナリンなどば分泌し、交感神経が亢進する。そうなると、戦闘したり闘争したりするのに適した身体のコンディションになるわけだが、現代社会でこれが過活動を起こすと動機やパニックや気分変動などを惹起するかもしれない。セロトニンには、この連動反応をなだめる方向に働く。

その、かえって邪魔になりえるHPA系をなだめ、恐怖や怒りやストレスを余計なところで感じにくくさせるのがセロトニンの恩寵、とりわけ現代社会におけるセロトニンの恩寵ということになる。

 

つまり、平和で安全で人口密度の高い現代社会はセロトニンがモノをいう社会で、東京のように人口密度が高いメガロポリスはセロトニンが足りないと生きづらくて仕方ない街だと言える。

 

進化心理学者たちは、「人間は、自己家畜化という生物学的な変化をとおしてセロトニンの恩寵を得やすい身体を獲得し、これが人間同士の協力を、ひいては文明の発達を可能にした」と述べる。ホモ・サピエンスという種全体の進化に関してはそうなのだろう。

しかし、いわゆる発達特性に個人差があるのと同様に、セロトニンの恩寵にも個人差がある。誰もが神経伝達物質としてのセロトニンに満ち満ちているわけではない。恐怖や怒りやストレスへの反応がより起こりやすく、にもかかわらず現代社会においてそれを無理くりにでも抑えなければならない人は、本当は結構いるのではないか。

 

昨今、ニューロダイバーシティーという言葉が登場している。日本語に訳せば「神経多様性」となるが、それはしばしば発達障害、とりわけ自閉スペクトラム症方面の発達特性を意識して語られることが多い。が、SSRIを内服することで精神疾患が治るだけでなく、ストレスの感じやすさや社交関係や社会関係が劇的に変わる一部の患者さんをみていると、セロトニンに関しても神経は多様で、現代社会に親和性の高い人から低い人までさまざまなのだろうなぁ……という思いを禁じ得ない。

 

都市生活とセロトニン

では、人口密度の低い生活に帰ればいいだろうか? それも難しいように思われる。進化心理学者のダンバーは、人間は群れ集まり、集団規模を大きくすることで進歩してきた経緯をさまざまに論じている。

2023年に邦訳されたダンバー『宗教の起源』にもそのさまが記され、その鍵として宗教についてとりあげているわけだが、この本のなかでダンバーは、集団生活について以下のようなことも述べている。

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集団生活の鍵を握るのは結束だが、それを維持するのは容易ではない。物理的に接近した環境で暮らすのは、生活面での負担も社会的なストレスも大きい。哺乳類では、一日の移動時間が長くなったり、食料資源をめぐる争いが激化したりするデメリットがあるのに加え、集団生活による心理的ストレスはメスの妊娠率を顕著に左右する。ストレスによって生理周期を調整する脳や卵巣の内分泌系が停止し、繁殖能力が下がるのだ。こうした損失、とくに不妊による損失を軽減しておかないと、集団は分裂し、消散してしまう。

ダンバーがこの文章のタネにした論文を眺めると、これは哺乳類全般の話で、人間にフォーカスを絞ったものではなかった。だが、人間も哺乳類だから集団生活による心理的ストレスを被る可能性はあるのだろう。

しかし、セロトニンはこのストレス軽減させ、集団生活によるストレスを低減させる。逆に言えば、セロトニンによるストレス低減効果が不十分・不完全な場合は、集団生活、たとえば朝夕の新宿駅のような環境はとてもストレスフルで、やっていられないことになる。

 

ダンバーは、集団生活は集団の力によってそれだけでイノベーティブであることに加えて、集団サイズが大きくなることで集団間闘争に有利になる一面も挙げていて、集団生活のアドバンテージが現代に限らないことをも例示している。

そのかわり、集団生活に属するようになった人間ひとりひとりには、複雑化していく人間関係について判断する高度な計算力が求められるようになり、集団生活によるストレスをどうにかする身体上のカラクリも必要になった。高度な計算力が欠けていても、ストレスをかわせなくても、集団生活にはついていけなくなってしまう。

 

私たちは、有史以来最も規模の大きな集団生活に身を曝している。密度だって高いだろう。

東京で生活していると、そうした人口集中が当たり前に思えるかもしれないが、あのように見ず知らずの不特定多数がすし詰めになるような環境は、動物としての私たちにとって本来はストレスフルなもので、セロトニンの恩寵があるおかげでどうにか対応できているものでしかないのである。

 

そして東京のラッシュアワーほど顕著ではなくても、都市生活には人混み、雑踏、繁華街、収容人数の多い建造物、といったものが遍在している。見知らぬ人とのすれ違いにいちいち緊張していたら発狂するだろう。である以上、セロトニンが足りていなかったら生きるのが辛すぎるだろうし、実際、そういう声を聴く機会は(私には)少なくない。

 

いまどきの都市生活は効率的で清潔で、なおかつ人口集中のおかげでさまざまな選択肢を享受することもできる。

しかし人口集中のおかげでストレスフルになりやすい部分、気になってしまいやすい部分も多分に含んでおり、それをカバーしているのがセロトニンだったりする。私たちはセロトニンが社会適応のカギとなっている社会を生きていて、それが足りていない人には、たとえば東京のような街は案外生きづらいのだ。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo:Will Ma