経済 vs 憲法:政治の本質とは

 憲法の改正は、優先順位が低い。山本太郎氏はそう言う。

 なにが最も優先順位が高いかといえば経済だ。れいわ新選組山本太郎代表はそう言っていた。

 山本代表が言うように、憲法の改正は優先順位が低くて、経済は高いのだろうか。

 いかに与党である自由民主党の経済の政策がまちがっているか。経済の政策が悪いか。自民党がなす経済の政策の悪さを、憲法を引き合いに出して山本代表は批判していた。

 何を重んじるべきかで、少し山本代表とはちがうとらえ方をしてみたい。

 同じ憲法のことがらであったとしても、それを改正することは優先順位が低い。そこについては山本代表と同じだ。ちがうのは、何をもっとも優先させるべきかで、経済ではなくて憲法を重んじるべきなのである。

 なんで山本代表が言っていることとは少しちがって、経済よりも憲法をより重んじるべきなのかといえば、とうの山本代表が、自民党の経済の政策の悪さを批判するのに、憲法を引き合いに出しているのをあげられる。

 憲法と経済だったら二つのものだけど、一つのものを持ち出せばこと足りる。数を少なくすることができて、憲法だけを持ち出すのでよい。憲法だけを持ち出すのだと数が一つだけだから楽である。二点ではなくて、憲法の一点主義だ。

 山本代表のように、何をもっとも重んじるべきかで、経済を持ち出すのはわからないではない。政治において経済と財政の政策はとても重要だ。だから経済をもち出すのはうなずけるのはあるけど、それよりも憲法をより重んじてみたい。

 すごいよい経済の政策をやっているのが自民党なのではない。経済を良くしているのではなくて、経済のおんちだ。そう言われているのがあるけど、それと同じくらいかそれより以上に憲法おんちなのが自民党なのである。

 経済のおんちなのが自民党だけど、れいわ新選組は経済の通(つう)なのだろうか。そこのところはよく分からない。憲法については、自民党はおんちなのはある。れいわは憲法のおんちではなくて、それの通のところがあるのは確かだ。

 何のおんちなのかでは、自民党は経済のおんちなのかそれとも通なのかはちょっとよくわからないけど、憲法のおんちなのがあって、それが災いしている。自民党憲法のおんちであることによって、不幸におちいる人が多くおきてしまう。自民党が独裁や専制になり、一強のあり方がつづく。

 すごい大切なものなのが経済なのだから、それをじかにあつかう。山本代表はそのあり方だけど、それとはちがって、憲法を重んじることによって間接に経済をあつかうようにしてみたい。

 じかにではなくて憲法を経ることによって間接に経済をあつかうのだと遠まわりのようではあるけど、かえってそのほうが早道だ。遠まわりしたほうがいちばん早いことが中にはあって、政治においては憲法を重んじるほうが何ごとも早い。

 かんじんなところをとり落としているわけではないのが山本代表だ。自民党の経済の政策の悪さを批判するので、自民党憲法のおんちなのに触れながら経済の政策を批判していた。たんに経済のおんちなだけではなくて、憲法のおんちなのにも触れてくれている。

 経済はすごい大事なものだけど、それはひとまずいったん置いておいて、すごい話をたんじゅん化してしまうと、憲法のおんちの政治だと、多くの人々が不幸になってしまう。憲法の通の政治だと、不幸になる人を最小にすることがなり立つ。菅直人元首相のいう最小不幸社会だ。

 話をたんじゅん化してしまっているから、じっさいの日本のありようとはずれているだろうけど、ある人がなんで不幸なのかといえば、それはその人のせいであるよりも、与党である自民党憲法のおんちだからなのである。それが小さくない。立憲主義(憲法主義)の政治でないと、独裁や専制になってしまう。悪い経済の政策をやりやすいのが独裁や専制の政治である。

 すごいよい経済の政策を、独裁や専制でやって行く。たとえば、れいわ新選組はすごい良いのだから、れいわが独裁や専制で政治をやれば、日本は良くなるのかといえば、そうとはできそうにない。

 いかにれいわ新選組が良いのだとしても、独裁や専制だとだめである。独裁や専制だと、憲法主義によることができない。自由主義(liberalism)によれないのである。中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義だ。

 憲法主義によるのであれば、自由主義によるようにできる。自民党憲法主義や自由主義によれていないから、それによって経済が悪くなってしまう。ちゃんと自由主義によれれば、市場のよさを人々が受けられる。

 市場主義が行きすぎるのが新自由主義(neoliberalism)だ。市場の負のところがおきてしまう。資本主義の悪さだ。資本主義は正のところばかりではなくて負のところをもつ。資本主義の順機能と逆機能だ。

 じかに経済を重んじるのであるよりも、いったん憲法を経て遠まわりをしてみると、憲法の大事さが浮かび上がる。憲法主義によれていれば、自由主義によることができるから、経済において市場のよさを人々が受けとれる。よい秩序がなり立つ。自民党憲法のおんちだから、自由主義がこわれている。

 自由主義がこわれていることによって、経済が悪くなる。資本主義の負のところの、逆機能がうんと大きくなってしまう。正の順機能もあるにはあるけど、それよりも負のところが勝りかねない。

 自民党を批判するさいには、山本代表のような経済、憲法ではなくて、その逆の憲法、経済の流れでとらえることがなりたつ。憲法によって経済をとらえることができるのである。

 なんで経済よりも憲法を先だたせることがなりたつのかといえば、憲法は国のもとだからである。憲法(constitution)の語には設立(constitute)の意味あいがあって、国を設立することをさす。

 国が設立されなければ、国の経済もなりたたず、はじまらないだろう。いまの日本の政治は国が設立される以前に戻っているところがあり、権威がない状態だ。自然の状態(natural state)のところがある。

 自民党はうら金などで無法なことをやっている。そこにいまの日本の政治が自然の状態なのが表れている。規則をへいきでやぶっているのは、自然の状態なのをしめす。性悪論である。社会契約論からするとそう見なすことがなり立つ。人民が契約で国を支配するためのりくつなのが社会契約論だ。

 参照文献 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『市場 思考のフロンティア』金子勝(まさる) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『一三歳からの法学部入門』荘司雅彦

積極ではなくて、消極からのイスラエル批判:消極の価値をもち出す

 積極に、イスラエルは悪いとできるのだろうか。

 パレスチナに暴力をふるっているのがイスラエルなのだから、イスラエルは積極に悪いのだとすることがなり立たなくはない。

 積極にではなくて、消極のところからイスラエルを批判してみたい。

 イスラエルを批判するさいに、積極にやるべきであって、消極にやるべきではないとすることができる。積極だったらたのもしいけど、消極にだったら弱々しい。たよりない。

 なんで積極にではなくて消極にイスラエルを批判してみるのかといえば、価値の中には積極に定義づけできないものがあるからだ。

 色々な価値がある中で、三大の価値は積極には定義づけできづらいのだとされる。自由、平和、正義の三つだ。

 三つの価値を積極に定義づけできるのであれば、それそのものが確固とした自己同定(identity)をもつ。それじたいが独立した実体としてある。

 はっきりとさせることができずにあいまいさがあるものは、自己同定が確かではない。あくまでもほかのものとの関係の中にしかない。

 イスラエルパレスチナは平和なのかといえば、そうとはできづらい。そのさいの平和とは、戦争がないことを示す。

 平和とはどういったものなのかを、肯定で語るのであるよりは、否定の差異性によってとらえてみると、戦争が起きていないありようだ。

 いまイスラエルパレスチナでは、たくさんの人が殺されている。おもにパレスチナの人たちに暴力が振るわれているから、戦争がおきているようなものだ。多くの人が殺されているのは、戦争がおきているといっても良いことだから、イスラエルパレスチナは平和ではない。

 どういうことが正義なのかを、肯定で語るのではなくて、否定の差異性によってとらえてみると、不正がないありようだ。

 世界の法の決まりである、国際法をやぶっていて、それに違反しているのがイスラエルだろう。例外のとき以外は武力を行使しないようにすることがいる。必要の最小の限度を大きく上まわった武力の行使を国内においてしているのがイスラエルだ。

 まったく不正をなしていないのであれば、イスラエルは正義によっているとできなくはないけど、一つより以上の不正をなしているのがイスラエルだ。不正がないとはできないのだから、イスラエルは正義だとはたしかには断言することはできない。イスラエルは正義なのだとは胸をはって断言することはできないことだ。

 戦争がおきていて、不正が一つより以上ある。それがイスラエルパレスチナのありようだ。まったく戦争がおきていなくて、まったく不正がない。いっさい不正はない。人々が上から何かを強制されることができる限り少ない。強制がないのであれば、自由だ。積極にではなくて消極に自由を定義づけすればそうすることがなり立つ。

 いまのイスラエルパレスチナがどうなのかを、積極には言い切りづらいけど、消極に見てみると、平和ではなくて、正義がなくなっていて、自由ではない。消極の点からするとそれらの三つがなり立っていないから、それらの三つができるかぎりなり立つようにして行く。

 イスラエルの言いぶんだったら、積極のありようだろう。いまのイスラエルは平和であり、正義によっていて、自由だ。正義のための行動をしているのがイスラエルであり、国がもっている自由において国が行動しているのにすぎない。

 自国の正当化や合理化をしているのがイスラエルであり、積極のありようによっている。イスラエルを批判するさいに、積極とはちがって、消極からやって行く。消極の点からすれば、平和でもなく正義でもなく自由でもないから、それらをできるだけなり立たせることがいるのがわかる。

 どうやって三つの価値をなり立たせるのかでは、いまの日本の憲法をもち出すことがなり立つ。平和主義によっているのが日本の憲法だ。三つの大きな主義のうちの一つである。平和主義は前文による。

 個人の自由をよしとするのが憲法である。個人の自由を基礎づける働きをになう。個人の尊重だ。個人を重んじることによって、国の公(集団の公)が肥大化するのを防ぐ。国の公がかなり肥大化していて、個人の私を押しつぶしているのがいまのイスラエルだろう。

 参照文献 『大学受験に強くなる教養講座』横山雅彦法哲学入門』長尾龍一カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『アイデンティティ(identity) / 他者性(otherness) 思考のフロンティア』細見和之(ほそみかずゆき) 『ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中(かんさんじゅん) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『本当の戦争 すべての人が戦争について知っておくべき四三七の事柄』クリス・ヘッジズ 伏見威蕃(いわん)訳 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『できる大人はこう考える』高瀬淳一

れいわ新選組の大石氏と裏金の疑惑:政治家のうら金作りの現象に迫る

 すごいよい政治家は、いっさい裏金を作らないのだろうか。

 すごいよい政治家である野党のれいわ新選組の大石あきこ氏は、うら金を作っていたのだとして、おもに右派からの批判を受けている。

 改めてみると、うら金とは何なのか。それの定義づけはどういったものなのか。新聞の記事でそう問いかけているのが室井佑月(むろいゆずき)氏である。

 たしかに、政治のうら金の定義づけをはっきりとさせることはいることだ。定義づけは質である。その集まりである集合は量だ。内包つまり質と、外延つまり量である。

 せまいものとして質を定めると、量が少なくなる。広いものとして質を定めることもできて、うら金だったら、それそのものであるよりも、裏金のようなものだとすることがなり立つ。それそのものではなくて、何々のようなものであれば、質が広いから、量が増す。

 裏金を作っていたのではなくて、たんなる不注意だったのだとしているのが大石氏である。ほんとうに不注意だったのかもしれない。意図して不正をなしたのではないのだとしても、うたがうことはなり立つ。

 政治家が言うことは、伝達の情報(message)だ。政治家が意図(intention)どおりのことを言うとはかぎらないから、意図とはちがうことを言っているのだとうたがえる。それとは別に、政治家が言っていることがうまく伝わらないのは誤解だ。

 どういう見解(view)を持つのかがある。大石氏は良い政治家なのだから、大石氏が言うことをそのまま受けとるのが良い。そういう見解がある。それとはちがい、意図とはちがうことを大石氏が言っているのだとする見解もまた可能だ。色々な見解の持ち方がなり立つ。

 範ちゅうと価値の二つをふ分けしてみると、うら金の範ちゅうの中でも、色々な価値をもつ。与党である自由民主党の政治家によるうら金は悪い価値だ。野党のれいわの大石氏は良い政治家なのだから、うら金は良い価値をもつ。裏金を作っていたけど、悪くはなかったのである。同じうら金でも、価値のちがいをもつ。

 もともと逆説のところがあるのがうら金だ。良いものなのがうら金だったけど、それがとちゅうから悪いものに転じた。もとから悪いものなのがうら金だったのだとしたら、自民党の政治家がせっせとうら金を作るはずがない。自民党の中で多くの政治家がせっせと裏金を作っていたのは、はじめはうら金が良い価値を持っていたことを示す。

 ずっと一定の価値だったのではなくて、正から負へと価値がとちゅうで変動したのがうら金だろう。自民党における、宗教の統一教会との関わりもそうだ。統一教会と関わるのははじめは正の価値だったけど、それがとちゅうで負の価値に変動した。

 大石氏を良しとするのは、信頼することを示す。信頼できる政治家が裏金を作っていたのだとすれば、そこまで悪くはない。許容することがなり立つ。

 信頼できない政治家は、価値を共有できない。不信やさいぎをもたざるをえない政治家が裏金を作っていたら、そのうら金は悪い。許容できないことだ。

 少しでも政治家が悪いことをやったら、反対派からぶっ叩かれる。心理として悪いことは一般化されやすいからである。Bad news travels fast.と言われる。悪い知らせはすばやく伝わるのだ。

 自民党の政治家たちが作っていたうら金は、悪いことだけど、その再発の防止の策がとられていない。いまだに再発の防止の策がとられていないから、これから先に二度とうら金を作らないことの保証がない。

 よい政治家であるのにもかかわらず、うら金を作っていたとされかねないことをしたのが大石氏だ。たんなる不注意にすぎず、うら金だったのではないのにしても、再発の防止の策はとるべきだろう。

 説明の責任(accountability)もなくて、再発の防止の策もないのが、自民党で裏金を作っていた政治家たちだ。よい政治家なのが大石氏なのだから、自民党の政治家とはちがい、説明の責任をはたす。再発の防止の策をとって行く。それで信頼をつくり上げる。そうできたらのぞましい。

 大石氏へのまちがったかばい方になってしまうかもしれないが、完ぺきに純粋にきれいであることは、現実の政治ではむずかしいことだろう。きれいなのと汚いのとの二つのもので現実の政治はなり立つ。汚さはあるていどは避けられないのが現実の政治だが、それにしても自民党は汚さがひどい。汚さがうんとあって、きれいさが少なすぎるのである。

 理想論としては完ぺきにきれいな政治がなり立つ。現実論としては多かれ少なかれ汚さをともなってしまう。現実論において完ぺきにきれいな政治をなすのだとするのは、悪い意味あいにおいての修辞(rhetoric)だ。美しくかざり立てた言葉である。実質をともなわないうわべだけの言葉だ。

 東洋の陰陽の思想では、陽と陰の二つの極がある。きれいなのが陽だとすると、陽がきわまれば陰へ転じる。逆もそうであり、陰がきわまれば陽へと転じる。陽と陰の二つの極が混ざり合ったものが現実の政治だろう。

 いくら良いものであるのだとしても、それによりすぎるとかえって良くない。論理によるのが良いことなのだとしても、あまりに論理によりすぎると必ずしも良くない。お笑いなんかでは、すごいつまらないものが、いちばん面白いとされるのがある。中にはそうしたものがある。お笑い芸人の松本人志氏による。

 汚すぎていて、きれいさが少ない自民党をかばうのはあんまり良くないけど、どの政党やどの政治家であったとしても、きれいさだけではやって行きづらい。きれいさだけなのは表だけだ。政治では表だけではなくて裏もある。表の政治と裏の政治だ。自民党は裏の政治によりすぎているのは確かだ。そうはいっても、どの政党やどの政治家であったとしても、裏があり、汚さはあるものだろう。

 参照文献 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕(にしなりかつひろ) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優(まさる) 井戸まさえ 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『現代哲学事典』山崎正一(まさかず)、市川浩(ひろし)編 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『政治家を疑え』高瀬淳一 『うたがいの神様』千原ジュニア 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組 体は自覚なき肯定主義の時代に突入した』須原一秀(すはらかずひで) 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』森博嗣(ひろし)

悪魔の証明:自民党と立憲民主党の本質のちがい

 与党と野党は、どちらも同じなのだろうか。どちらも茶番なのだろうか。

 自由民主党と、立憲民主党は同じである。いや、同じではない。ちがう。同じなのかちがうのかがある中で、同じではないことの証明を試みたい。

 何々ではないことを証明する。悪魔の証明だ。間接の証明である。

 悪魔の証明は、じかには証明できないけど、間接には証明することがなり立つ。

 自民党立憲民主党が同じではないことはじかには証明できないから、間接にやってみる。背理法である。

 かりに、自民党立憲民主党が同じであるとの仮説を立ててみる。もしも自民党立憲民主党が同じであるとするならば、自民党と同じくらいに立憲民主党も甘やかされているはずだ。

 甘えの構造によるのが自民党だ。もしも立憲民主党自民党と同じであるならば、立憲民主党もまた甘えの構造にあることになるが、その構造の内にあるとはできそうにない。どちらかといえばその構造の外に置かれているのが立憲民主党だ。

 報道においてかなり甘やかされているのが自民党だけど、立憲民主党はそこまで甘やかされていない。報道においてすごい持ち上げられているのが自民党である。自民党ほどにはすごく持ち上げられることはなくて、ややきびし目の報道がなされているのが立憲民主党である。野党はだらしない。野党は頼りない。批判ばかりしていて仕事をやっていないのだとされている。

 すごい持ち上げられているのが自民党であり、それが逆に災いする。内発の動機づけがすごい下がってしまう。内発の動機づけとは、自発性によるものだ。外発の動機づけがうんと大きいのが自民党であり、お金や票だけで動く。外発の動機づけとは、具体の利益とか、ほめられることなどだ。

 すごいよくやっているとはあまりされないのが立憲民主党だ。自民党はよくやっているけど、野党はろくに仕事をしていない。野党はだらしがないとされていて、叩かれることが多い。

 反対の勢力(opposition)である立憲民主党は、あんまりよい評価を受けていないのがあり、それがかえって幸いしているところがある。甘めではなくてきびし目に報道される方が、その政党にかえって幸いするところがあり、内発の動機づけを保ちやすいのである。内発の動機づけが下がりづらい。

 日本の政党の中でもっとも内発の動機づけが大きいものの一つなのが、野党の日本共産党だろう。共産党はけっこう内発の動機づけが高いのがあり、それと対極にあるのが自民党だ。共産党と対極のものは、野党における第二自民党を含む。日本維新の会や国民民主党などだ。

 日本の政党の中ではうんと内発の動機づけが高いのが共産党であり、それと対極とまでは言えないのが立憲民主党だ。共産党と肩を並べるとまでは行かないけど、そうかといって自民党ほどにはひどくはないのが立憲民主党だろう。立憲民主党は良いのと悪いのとの中間のところがあり、そこそこに、ほどほどに内発の動機づけがある。

 悪魔の証明である、何々ではないことの、同じではないことの証明にいどんでみると、自民党立憲民主党は、ちがうと言えばちがいをもつ。ぴったりと同じとまでは行かない。

 いかようにも線を引くことができるのが政治だ。同じものとちがうものの間に、どういうふうに線を引くこともなり立つ。線を引く人によって、あるものどうしを同じとすることもできるし、ちがうものとすることもできる。

 客観ではなくて主観によるものではあるけど、同じところを持ちつつも、ちがうものどうしなのが自民党立憲民主党なのだとすることがなり立つ。かりに自民党立憲民主党が同じものなのだとする仮説を立ててみると、その仮説はぜったいに確かな真理とできるほどに正しくはない。仮説にたいする反例をいくつか見つけることがなり立つ。

 同じものどうしだとする仮説にいくつかの反例を見つけられることから、自民党立憲民主党は完ぺきに同じものどうしだとすることはできづらい。どちらの政党も茶番によるところはあるが、それぞれで少しちがいをもつ。

 大きなところ(macro)では似たようなものであり同じようなものだけど、小さいところ(micro)に目を向けてみる。細部に着眼してみると、ところどころがちがう。協調し合うところがありつつ、対立し合うところをもつ。対立がなければ政治は無いけど、対立だけではなくて協調もいるのが現実の政治だ。協調もいるとはいっても、それによりすぎると茶番といえば茶番になってしまう。

 自民党ほどには持ち上げられていなくて、甘やかされていないことが、かえって立憲民主党に幸いしているところがあるのである。ややきびし目にあつかわれていることがかえってよく働く。

 甘えの構造のどまん中にいて、報道なんかで甘やかされまくっていることで、内発の動機づけがうんと下がりまくっているのが自民党であり、それが災いしている。お金と票でしか動かない。外発の動機づけにしかよらないあり方だ。政治の退廃(decadence)である。

 日本の政治において排除されているのが共産党だけど、自民党は包摂されまくっていて、たるみまくっている。だるだるにゆるみ切っているのである。どんな負のことをやっても許される。

 参照文献 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス』戸田山和久カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『境界線の政治学杉田敦(あつし) 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『アイデンティティ(identity) / 他者性(otherness) 思考のフロンティア』細見和之(ほそみかずゆき) 『学ぶ意欲の心理学』市川伸一 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『政治の見方』岩崎正洋 西岡晋(すすむ) 山本達也 『現代政治理論』川崎修(おさむ)、杉田敦(あつし)編 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫(かおる) 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや)

野党の共闘の秘訣:政党名から考察する

 なんで野党どうしで共闘し合えていないのだろうか。

 どうやったら野党どうしで共闘し合いやすくなるだろうか。まとまりやすくなるだろうか。

 どこに目をつけるのかで、政党の名前に目をつけてみたい。そこに着眼してみる。

 どういう政党が政権をとりやすいのかがある。

 政権をとりづらい政党は、名前が無難なものではない。当たりさわりがないものではない。

 だれも文句をつけられないような名前の政党は、政権をとりやすいのである。

 みんなが良しとするような、誰もけちをつけないような政党の名前だと、政権をとることができる。

 いまの与党は自由民主党だ。自民党は、自由と民主と名のっている。自由や民主は、当たりさわりがない。無難さがある。誰もけちを付けないものである。

 たとえ自由や民主を名のっていても、じっさいにできていない。実行ができていない。名のっていることができていないのはあるけど、これは日本が抱えるまずさも関わる。

 自民党ではなくて、名前が裏金党だとする。うら金党だったら自民党の実際のありようだ。じっさいのありようではあるけど、うら金とは何ごとだとなる。多くの人々に受け入れられるものではない。お金がすべての拝金党とか、お金と票がすべての金票党なんかでもさしさわりがある。冷笑(cynicism)党なんかも駄目だ。

 冷笑主義が悪いのは、独裁につながるからである。独裁をうながす。批判党なんかはよい。批判がどしどしなされるのはよいことだけど、批判が否定されがちなのが日本の政治である。あらゆる政治家や政党は、他からの批判に開かれていることがいる。

 批判党といえば、野党のれいわ新選組は批判の力が高いけど、皮肉のところもある。皮肉党のところがあり、そこはあまりよくない。皮肉を言うのであるよりも、与党の自民党をどしどし批判して行く。それと共に、あらゆる政治家や政党は、他からの批判に開かれているようにして、批判をこばまないようにしたい。他からの適した批判は値うちをもつ。

 日本が抱えているまずさでは、抽象論が遠いのがある。自由や民主は具体論ではなくて抽象論のものだけど、それが遠い。日常から遠いものになってしまう。日常に近くない。

 日常から遠くなってしまうのが抽象論である。自由や民主は抽象論によるものだけど、それが日常に根ざしていない。抽象論が日常に近くなって、日常に根ざすようになればよいけど、遠さがあるのである。

 具体論によるのであるよりも、抽象論による方が、まとまりやすい。そのしょうこに、政党の名前に抽象論によるものが使われていることが多い。自民党の自由と民主は抽象論だ。これだと当たりさわりがなくて無難さがあるから、政治家どうしがまとまりやすいのである。

 野党どうしがまとまり合うために、抽象論を使ったらどうだろう。政党の名前をもち出す。使えるものとしては、自民党の自由と民主がある。野党では、立憲民主党立憲主義がある。

 日本維新の会は、使えない。日本は特殊なものだし、維新もそうだ。

 国民民主党は、民主のところは使える。国民はくくりがちょっと大ざっぱであり、外国の人などを排除してしまうから(一見すると良さそうではあるけど)必ずしもよくない。

 日本共産党の共産は使えない。共産主義だと左すぎる。右の人が良しとしないだろう。

 社会民主党は使える。社会民主主義(social democracy)だったら、左派の政治家どうしはまとまり合えるだろう。左派の政党どうしでまとまり合える。日本は社会民主主義が弱いのがあり、それをもっと強めて行くことがいる。社会民主主義はおだやかな左である。極端なのや過激なものではない。

 しっかりと民主主義が根づいている国は、抽象論が日常に近い。抽象論が日常から遠くない。抽象の語が、日常に根づいていて、日常でも使われる。

 いまの日本は民主主義がしっかりと根づいているとはできそうにない。日本の民主主義は、つまり戦後の民主主義だ。戦後の民主主義がかなり危機におちいっているのがいまの日本の政治だろう。

 なんで野党どうしで共闘し合えなくてまとまり合えないのか。体系(system)としてそれを分析してみると色々な要因がありそうだ。一つの要因だけにしぼれないだろうけど、その中の一つの要因としては、抽象論が日常から遠いのが日本にはある。

 せっかく抽象の語が政党の名前に使われることが多いのに、それが生きていない。じっさいに実行できていないのである。あんまり実行できていないのはあるけど、野党どうしが共闘し合い、まとまり合うために、政党に付けられている抽象の語を活用するのはどうだろう。

 いまの野党の第一党は立憲民主党だけど、立憲主義の野党どうしでまとまり合う。立憲主義だったら論争がおきない。一人勝ちになるようなものだったら論争がおきないからお互いに共闘し合える。まとまり合える。一人勝ちとは、多くの人が認めるようなものだ。

 政党の名前だったら、たとえば消費税(減税、廃止)党だとお互いにまとまりづらい。論争がおきてしまう。一人勝ちになかなかならないから、政治家どうしや政党どうしがまとまり合うことには不適当だ。

 具体論によるのだと論争がおきてしまう。民主主義において論争がおきるのは良いことだけど、政治家どうしや政党どうしがまとまり合うためには上位(meta)によるのが適している。たとえば消費税党だったら論争がおきてしまうから、それよりも上位にするようにして、一人勝ちになるようにして行く。

 より上位のものとしては、すでに政党の名前として使われているものがよい。自由や民主や立憲主義などだ。下位のものでまとまりづらいのだったら、それを上位にしてしまう。部屋でいえば、立憲民主党が一つの部屋だとしたら、部屋の壁をとり払う。

 抽象論である立憲主義をもち出すようにして、部屋の壁をとり払い、部屋どうしをつなげる。部屋の改築みたいなことを行なう。大部屋にする。小部屋になってしまっているのがいまの日本の政治のありようだ。

 論争がおきていて、小部屋にとどまっている。それがいまの日本の政治である。改築されていない。たとえば消費税党みたいにしてしまうと、大部屋にならなくて、小部屋にとどまってしまう。

 大部屋にするためには、抽象論の政党の名前なんかを使うのは手だろう。いまは力が弱まっているけど、野党の社民党の、社会とか社会民主主義なんかはかなり大事だ。いまは力が落ちているから目だたなくて目を向けられていないけど、そうした中で社民党に目を向けてみたい。

 社民党は力が弱いけど、そのいっぽうで、社会や社会民主主義の重みはけっこう重い。社会がこわれてしまっているのがいまの日本にはあるから、社会を重んじて行くことがいる。社会に危機がおきているのがあるから、社会に着眼して、そこにもっと目を向けるようにしたい。

 参照文献 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『大学受験に強くなる教養講座』横山雅彦 『社会(the social) 思考のフロンティア』市野川容孝(いちのかわやすたか) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『「戦争と知識人」を読む 戦後日本思想の原点』加藤周一 凡人会 『社会認識の歩み』内田義彦(よしひこ) 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸 『本当にわかる現代思想』岡本裕一朗

れいわ新選組と政権交代:理想論や正義論と大義

 政権交代したほうがよいのだろうか。

 どの政党が政権交代するかがある。それによって値うちがちがってくる。

 野党のれいわ新選組が中心になって政権交代したら、すごい値うちがある。れいわの支持者の人はそう見なす。

 あんまり値うちがないのが、いまの野党の第一党である立憲民主党による政権交代だ。

 なんでそんなに値うちがないのかといえば、立憲民主党自民党とそこまでちがわないからだ。与党である自由民主党と似たりよったりなのだ。

 自民党をたおす。やっつける。自民党をたおすことにすごい値うちがあるのだったら、野党どうしがまとまり合える。野党の共闘がなり立つ。

 どうしても自民党をたおすことがいる。どうしても政権の交代がいる。政権の交代が大義になるとすれば、野党どうしでまとまり合えて、共闘がなりたつ。

 れいわ新選組が中心になって政権の交代をするのなら、大義になる。れいわの支持者であればそう見なす。

 どの政党が中心になるのかで、立憲民主党による政権の交代であれば、あんまり大義にならない。

 政権の交代が大義になるのであれば、みんなにとってすごい良いことなのを示す。立憲民主党だとそれがなりたちづらい。れいわの支持者の人が不満をいだく。満足できない。

 現実論と理想論にふ分けしてみると、現実論の政権の交代なのが立憲民主党によるものだ。理想論の政権の交代はれいわによるものである。

 とんでもなく良くなることが望めるのが、れいわによる政権の交代だ。理想論による政権の交代である。

 そんなに良くなることが望めないのが、立憲民主党による政権の交代だ。理想論ではなくて現実論によるものだからである。

 あなたが総理になって、いったい日本の何が変わるのか。菅直人元首相の夫人による問いかけだ。それと同じように、立憲民主党による政権交代で、いったい日本の何が変わるのか、と問いかけることがなり立つ。

 どこまでの望みを政権の交代に抱けるのかがある。れいわが中心になるのだったら、(れいわの支持者にとっては)大義になるから、とんでもなく望みを抱ける。すごい高い望みをもてるのである。

 そこまで政権の交代に望みをもてない。どの政党か(れいわか、立憲民主党か)によってちがいが起きるのであるよりも、むしろ政権の交代そのものにそこまで望みを持てないのである。どの政党が中心になるのであれ、政権の交代をしたところで、そこまで変わらないのである。

 望みを持てたり持てなかったりするのであるよりも、それを持てない現実をつきつけられる。日本の現実を見てみると、望みを持ちづらいのがあって、その現実をつきつける働きをするのが立憲民主党だ。現実から目をそむけないで、現実から逃げないようにするのなら、あんまり望みを持てないことになる。

 だから何なんだ(so what?)となるのが、立憲民主党による政権の交代である。あんまり自民党と変わらないのであれば、政権の交代をしたところで、だから何なんだとなる。

 なんで政権の交代をしても、(おおすごいなとはならないで)だから何なんだとなるのかといえば、日本の政治の不信が根深いからなのがある。政治への不信や猜疑(さいぎ)が強い。政治を信頼できない。そうかんたんに、政治への不信がなくならない。

 政権の交代をしても、政治への不信はそうたやすくは無くならないから、立憲民主党による政権の交代は、大義になりづらい。だから何なんだにならざるをえないのである。だから何なんだになってしまうのはあるけど、逆にいえば、そうなったほうが良いのもある。

 なんで政権の交代が大義にならないほうが良いのかといえば、現実はそんなものだからである。現実論によるのだとすれば、期待をそこまで持てないのが日本の現実だ。期待が大きければ大きいほど、うら切られたときに受ける打撃も大きいから、あんまり期待しないほうがうら切られづらい。

 思った通りになるのなら良いけど、そうならない。思っていたのとちがう。期待がうら切られてしまう。確かなのではなくて不確かさがある。不確実性だ。確実にこうだとは言い切れないのがいまの時代である。断言できづらい。先行きが不透明だ。未曾有(みぞう)である。

 すごい不信がおきているのがいまの日本の政治だから、そんじょそこらのことではそれが無くならない。並みたいていのことでは改まらないのである。すごい不信があるのが、うって変わってすごい信頼できるようになったら、日本ばなれしている。日本の政治ではないみたいだ。

 不信や猜疑があったほうが日本の政治らしい。乱ざつさ(entropy)がすごくたまっていて、負によっているのが日本の政治だ。日本らしからぬものなのが、信頼できる政治だ。信頼の社会へ移ることがいるのがいまの日本だけど、めどがまったく立っていないのが現状である。

 参照文献 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『論理的な思考法を身につける本 議論に負けない、騙(だま)されない!』伊藤芳朗(よしろう) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男 『政治家を疑え』高瀬淳一 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『うその倫理学』亀山純生(すみお) 『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』山岸俊男現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編

民主主義の二大政党制とはいったい何か : 自民党と立憲民主党の比較

 立憲は、自民党と同じなのか。それともちがうものなのだろうか。

 野党の第一党である立憲民主党は、与党と同じだ。与党である自由民主党とそう変わりはない。似たものどうしだというのである。

 数でいえば、少なくとも二つのものがいるのが民主主義だ。二つのものはないとならない。与党と野党だ。

 二つなければならないけど、一つだけしかない。立憲民主党自民党が同じようなものなのであれば、一つだけしかないことになる。見せかけの二大政党制であり、じっさいには一大政党制なのである。

 しっかりと二大政党制ができていれば数が二つだ。一大政党制だと一つしかないからまずい。

 現実の政治では、しっかりとした二大政党制はなりたちづらい。二大政党制と一大政党制のあいだのようになってしまう。

 アメリカでは共和党民主党の二つがあるけど、しっかりとした二大政党制ではなくて、一・五大政党制のようである。共和党民主党は、お互いに似てきてしまう。似たところがおきてしまい、そこまで大きな差がなくなる。

 二つの政党が競い合っているアメリカであっても、二大政党制であるよりは一・五大政党制のようになる。

 すごい良い政党とすごい悪い政党だったら、水準や次元がちがうから、ぶつかり合いにならない。お互いに似かよっていて水準や次元が同じくらいだからこそぶつかり合う。二であるよりは一・五くらいだからこそ、おたがいに争いになるのである。

 すごいかしこい者とすごいおろかな者どうしだったら水準や次元がちがうからけんかになりづらい。人(やその集団)はたいていはばかである。とくに集団だとばかになりやすい。人でも集団でも、虚栄心にかられてつっ走って行く。自然の状態(natural state)だとそうなる。戦争の状態だ。社会契約論による。

 アメリカと同じように日本でも立憲民主党自民党が似たものどうしのようになってしまうのはあるていどはしかたがないことかもしれない。一・五大政党制のようになる。どうしても似たところがおきてしまうのである。

 一つしか数がなくて一大政党制であったとしても、その一つのものが良いものであることがある。一つのものが悪いのだったらよくないけど、良いものだったとしたらどうだろうか。

 たとえば野党のれいわ新選組が政権をとったとして、れいわによる一大政党制をなす。れいわは良いものだとすると、れいわによる一大政党制は良いものなのだとできなくはない。

 たとえ良い政党であったとしても、その政党による一大政党制になると、民主主義ではなくなってしまう。民主主義では少なくとも二つのものがいる。一つだけしかないと民主主義はなりたたない。

 いまの日本の政治を見てみると、二つのものがなりたっていない。アメリカだったら、共和党民主党で二つあるけど、じっさいには一・五だ。

 アメリカは一・五のようになっているが、日本はそれにすらなっていない。民主主義がなりたっていない。日本は一つだけしかない。自民党専制や独裁である。一強のあり方だ。

 自民党の一強であるとともに、野党はばらばらだ。野党はまとまることができていなくて、共闘できていないのが日本である。

 野党どうしで共闘できていないと、複雑すぎる。色々な小さい政党が乱立していると、拡散することになる。あるていど収縮させることがいり、与党と野党で大きな二つの政党にするとたんじゅん化することがなりたつ。

 自民党に立ち向かうために、ばらばらな野党が一つにまとまって行く。野党どうしで共闘することができれば、与党と野党で二つになるから、民主主義がなりたつ。

 野党が共闘してまとまるとなると、たんじゅん化しすぎることになり、二つであるどころか一つになってしまう。自民党だけのあり方だ。自民党と似たものどうしになってしまう。二つにしようとすると、それが行きすぎて一つになってしまうのがあり、それを批判しているのがれいわ新選組だろう。

 さいていでも二つのものがいるのだから、一つしかないあり方を批判して行く。自民党の一つだけしかないあり方を批判するさいに、じゃあ二つのあり方にしようとすると、二つが行きすぎて一つになってしまうのが批判される。二つにしようとしても、じっさいにはせいぜい一・五にしかならないから、一つのあり方に近いところはある。

 うまいぐあいに拡散しているのを収縮させるのがむずかしい。一つだけしかないと収縮させすぎであり単純化しすぎになる。そうかといっていまの日本の政治のように野党がまとまれなくて共闘できないのもよくない。野党がばらばらだと拡散しすぎている。

 一つだけのあり方なのは収縮しすぎだから、それを批判すると、拡散しすぎてしまう。拡散しすぎているのを批判すると、収縮しすぎてしまう。二つのものがいるのが民主主義なのだとはいっても、うまいぐあいに二つにならなくて、じっさいには一・五ぐらいが限界だ。せめて二つのものがないと、国の中にいる色々な人たちの色々な声を十分にすくい切れない。色々な声がある中で、とり落としができてしまう。

 良いものが一つだけあればそれで十分だ。自民党は良い政党なのだから、それが一つだけあれば良いとする見かたがあるかもしれないけど、それだと収縮させすぎだ。野党に目を向けてみると、野党どうしがばらばらになっていると拡散しすぎている。

 野党どうしをまとめようとして、収縮させようとすると、収縮しすぎになり、二にするのが行きすぎて一・五とか一とかになりかねないのである。そこのところがむずかしい。なかなかちょうどよくつり合いを取りづらいのがあり、収縮させすぎであり、かつ(野党においては)拡散しすぎでもあるのがいまの日本の政治だろう。

 かくあるべきの当為(とうい)は一つであり、かくあるの実在は二より以上である。かくあるの実在だと二より以上だから、それを収縮して行く。拡散しすぎているのを収縮するのがいるけど、行きすぎると一つだけのあり方になってしまう。かくあるべきの当為だ。

 かくあるべきの当為によるのだと、一つだけしかないから、収縮しすぎであり、かくあるの実在をとり落とす。かくあるの実在には色々な人の色々な声があり、それが大事なのがあるけど、色々な声がありすぎて拡散してしまう。かくあるの実在のところを重んじつつも、拡散しているのをあるていど収縮したほうが良いのがある。

 絶対論ではなくて相対論によるのが民主主義だ。政治における相対論の表現なのが民主主義である。日本の政治では、野党どうしがまとまって共闘できたほうが良いのがあるけど、それは相対の正しさにとどまる。

 たとえ野党どうしが共闘するべきだとはいっても、かくあるべきの当為だと一つだけになってしまうから、かくあるの実在のところを見て行くことがいる。かくあるの実在では、れいわ新選組なんかは野党の共闘に積極ではなくて消極だから、かくあるの実在には色々な声があるのは確かだ。

 参照文献 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『「縮み」志向の日本人』李御寧(いーおりょん) 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『法哲学入門』長尾龍一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『子どものための哲学対話』永井均(ひとし)

消費税とアベノミクスの成否 : 状況の分析から見えてくる真相

 消費税に、状況をもち出す。状況をくみ入れてみる。

 状況の思考によって消費税をとらえてみるとどういったことが分かるだろうか。

 なんでアベノミクスは失敗したのかがある。なぜ安倍晋三元首相のアベノミクスは失敗してしまったのかで、消費税を上げたからだとされるのがある。

 消費税を上げたうえで、そのうえで消費税をとり巻く状況をよくする。アベノミクスがもしも成功していれば、消費税をとり巻く状況がうんと良くなっていたはずである。

 上げなければよかったものなのが消費税なのだとはできそうにない。アベノミクスが成功するかしないかは、消費税を上げるか上げないかにかかっていたのではない。消費税を上げたうえで、さらにそれをはねのけるくらいに状況を良くすることができる。それくらいのすごいことが、アベノミクスには期待されたのである。

 縮みと広がりの二つをもち出してみると、広がりによっていたのがアベノミクスだ。広がりとは、消費税をとり巻く状況をうんと良くできるものだ。消費税を上げることによっておきる負のところを、ふき飛ばす。消費税によってもたらされる負のところをうわ回るような正をもたらす。

 広がりによるのではなくて縮みによってアベノミクスをとらえることもなりたつ。縮みによるのであれば、状況を良くできない。消費税をとり巻く状況を良くすることができないから、消費税を上げたら負のことがおきてしまい、それが重くのしかかる。負が、正をうわ回ってしまう。

 縮みによるのではなくて、広がりによっていたのがアベノミクスだ。広がりを目ざすものだったけど、期待がうら切られた。成功すればよかったけど、失敗してしまったので、その失敗をごまかすために、縮みがもち出されているのである。もともと広がりによっていたのが、縮みにすり替えられている。

 成功できずに失敗してしまったのがアベノミクスだけど、状況を良くすることはやりようによってはできるかもしれない。

 広がりによるような、うんと経済を良くしたり成長させたりすることができれば、消費税によっておきる負のところをはねのけられる。それだけではなくて、状況を良くするためには、ほかのやり方もある。

 財務省は、すごいきらわれている。不信や猜疑(さいぎ)を持たれているのである。緊縮の財政を教義(dogma)にする。教条主義の宗教だ。ざいむ真理教とも言われているのがあるから、財務省と人々とが、共に対話して行く。おたがいに交通(communication)し合う。合意を目ざす対話をして行く。交通の行動だ。

 政治において、統治(governance)が悪いのがわざわいしているのが日本である。統治についてを問いかけてみると、悪くなっている。そのことが、消費税に悪く働いている。人々の租税(そぜい)への抵抗がよけいに強まる。もともと日本人は租税への抵抗が強いとされているけど、それがなおさら強まってしまう。租税の抵抗とは、税金を払うのをきらうことだ。

 よい統治だったら、日本は良くなる。人々が生きて行きやすい。幸福になりやすい。不幸になりづらくなる。よく生きて行くこと(welfare)がなりたつ。

 目に見えないものなのが社会関係資本(social capital)だ。社会関係資本が厚ければ、状況を良くできる。消費税をとり巻く状況を良くしやすいけど、厚みがうすい。安倍元首相は経済ではアベノミクスをやったけど、それ以外の政治においては、社会関係資本の厚みをめちゃくちゃうすくしてしまった。

 アベノミクスが失敗したのに加えて、経済ではないそれ以外のところで、安倍元首相の政権は、状況を悪くした。社会関係資本の厚みをうすくしてしまい、消費税をとり巻く状況が悪くなった。

 それそのものではなくて、その周りのところである、消費税をとり巻く状況をとり上げてみると、状況が悪い。状況が悪いから、消費税がすごいとんでもなく悪い税みたいに見なされている。とてつもなく悪い法(法律)であるかのようにされている。不正な制度のようにされている。

 それそのものを改めるのでも良いけど、それとはちがうものとして、状況を良くして行く。状況を良くすることが目ざされていたのがアベノミクスだ。そのように見なしてみたい。そう見なしてみた上で、状況を良くすることができなかった。アベノミクスは失敗したのである。

 参照文献 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『環境 思考のフロンティア』諸富徹(もろとみとおる) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『こうして組織は腐敗する 日本一やさしいガバナンス入門書』中島隆信 『「縮み」志向の日本人』李御寧(イー・オリョン) 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹 『十八歳からの格差論 日本に本当に必要なもの』井手英策(えいさく) 『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』山岸俊男 『入門 パブリック・リレーションズ 双方向コミュニケーションを可能にする新広報戦略』井之上喬(たかし)編 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし)

期待をあまり持てないものとしての立憲民主党:自民党との共通点と相違点

 なんで、自民党と立憲は、同じだと見なされてしまうのだろうか。

 与党である自由民主党と、野党の第一党である立憲民主党は、同じようなものなのか、それともちがいがあるのだろうか。

 野党であるれいわ新選組だったら、はっきりと、消費税の減税や消費税をなくすことをかかげている。消費税にかんして自民党とのちがいがある。自民党は消費税を下げたりなくしたりすることには消極である。

 政党としては、消費税を下げたりなくしたりすることをはっきりと示してはいないのが立憲民主党である。そこから、自民党とそうちがいはないのだと見なされてしまう。自民党と同じようなものだ。

 明と暗のように対照になっているととらえやすい。離散(digital)のありようだ。反対となるものがあれば物のりんかくがはっきりとする。政治では、味方と敵に分ける。友敵の理論だ。味方と敵のあいだにしっかりと線を引く。二分法だ。

 うす明るいとかうす暗いようだととらえづらい。連続(analog)のありようだ。連続だと対照ではないから連なっているようである。つながり合う。分節されない。両義性(ambiguity)である。

 いまの日本の政治は自民党が力をもっている。そのありようを世界だとしてみたい。世界の中に、立憲民主党が含まれるかどうかがある。含まれれば自民党とちがいはない。含まれなければ自民党とはちがいをもつ。

 世界は、自民党が力をもつありようだ。そこに含まれないものとしては、野党のれいわや日本共産党をあげられる。れいわや共産党は、反世界である。世界の中からは排除されている。

 いまの日本の政治において何がいるのかといえば、消費税を下げたりなくしたりすることであるよりは、反世界がいる。世界から、反世界に転じて行く。

 自民党が力をもつ世界のありようが客観や本質に悪いとはできないけど、それが保たれつづけることで、乱ざつさ(entropy)がたまりまくっている。乱ざつさを外に吐き出せなくなっている。乱ざつさを外に吐き出すためには世界を反世界に転じて行く。

 はたして世界なのか反世界なのかがびみょうなのが立憲民主党だ。同じようにびみょうなのが、野党の日本維新の会や国民民主党である。維新の会や国民民主党は、世界に含まれているのだととらえることがなりたつ。第二自民党だ。

 いろいろに線を引くことができるのが政治だから、立憲民主党は世界に含まれている、つまり自民党と同じようなものだとすることがなりたつ。それだけではなくてちがう線の引き方もできて、立憲民主党は世界には含まれていない、つまり反世界なのだとすることもできなくはない。

 かつての日本の江戸時代でいえば、世界のありようは幕府がつづくことである。立憲民主党は幕府の中に含まれるのだとしたら、立憲民主党が力をもったところで、第何代の幕府がつづくことになる。幕府が倒れるわけではない。

 幕府を倒すのだったら、世界から反世界に転じることになる。あんまり立憲民主党に望みを持てないのは、立憲民主党が力をもったところで、幕府がたおれず、幕府がずっと続きそうだからだろう。

 なにがいるのかといえば、世界から反世界に転じることだ。反世界に転じることによって、世界にたまっている乱ざつさを外に吐き出すことがなりたつ。世界にたまっている汚れをそうじできる。

 大そうじをしないとならないのがいまの日本の政治だ。何が何でも消費税を下げたりなくしたりすることにこだわらないのであれば、大そうじをして行くことを重んじることがなりたつ。世界にたまっている汚れを、そうじすることによってきれいにして行く。

 そうじの役をになうのは、世界に含まれていない、つまり反世界のものだ。そうじの役をになえるのかになえないのかがびみょうなのが立憲民主党なのである。維新の会や国民民主党もびみょうだ。

 維新の会なんかは、むしろ関西においては汚れをためていっている。関西で力をもっているのが維新の会であり、そうじをするどころか、関西をどんどん汚くしていっていて、乱ざつさをためまくっている。きびしく見ればそう見なすことがなりたつ。

 明らかにそうじの役をになえないのだと断言はできないのが立憲民主党だ。いっさいそうじすることができないとまでは強調できない。もしかしたら、世界のありようの中にたまっている汚れをそうじできるかもしれない。

 ふ分けをしてみると、消費税を下げたりなくしたりすることと、そうじすることを分けてとらえることがなりたつ。消費税を下げたりなくしたりすることはうんと言われているけど、そうじすることはあまり言われていない。

 そこまで重んじられていないのが、世界のありようを掃除することだ。消費税を下げたりなくしたりすることがうんと言われすぎているけど、そうではなくて、それよりも世界のありようをそうじすることのほうがより重要だ。世界を反世界に転じて行く。世界に含まれていると、自民党と同じようなものだから、そうじの役をになえない。

 動機づけ(incentive)の持ち方しだいでは、そうじの役をになえるのが立憲民主党だろう。たとえ世界には含まれていなくて反世界にあるからといって、そうじへの動機づけ(motivation)が高いとはかぎらない。

 野党であるれいわなんかは世界に含まれていなくて反世界にあるけど、そうじへの動機づけはそこまで高くはなくて、それよりも消費税を下げたりなくしたりすることへの動機づけが高くなってしまっている。

 れいわは、動機づけの持ち方を変えて、消費税を下げたりなくしたりすることよりも、世界のありようをそうじすることへの動機づけを高くするほうが良い。(消費税を下げたりなくしたりすることに比べると)そこまでそうじすることへの動機づけが高くはないのがれいわだけど、自民党への批判や、日本の政治への批評では、けっこう良いこと(するどいこと)を言っているのはたしかだ。

 れいわにはうんと希望をもてるけど、立憲民主党には希望をもてない。絶望をいだく。消費税を下げたりなくしたりすることに積極なのがれいわだから希望をもてるけど、立憲民主党自民党と同じで消極だから絶望をいだいてしまう。希望と絶望ではそうしたふうにもできるけど、中国の文学者の魯迅(ろじん)はこういう。希望は虚妄であり、絶望もまた虚妄であるという。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『法哲学入門』長尾龍一原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『境界線の政治学杉田敦(あつし) 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『リーダーは半歩前を歩け 金大中(きむでじゅん)というヒント』姜尚中(かんさんじゅん) 『デジタル思考とアナログ思考』吉田夏彦 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『はじめての批評 勇気を出して主張するための文章術』川崎昌平(しょうへい) 『希望のつくり方』玄田有史(げんだゆうじ) 『魯迅に学ぶ批判と抵抗 佐高信の反骨哲学』佐高信(さたかまこと) 『国体論 菊と星条旗白井聡(さとし) 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利

抗争しあう知事と役人:兵庫県の内部告発と正義論

 知事と役人がぶつかり合う。争い合う。

 知事と役人とのあいだで対立がおきたとしたら、知事が正しいのだろうか。役人がまちがっているのだろうか。

 民間人は正しいけど、役人はまちがっている。役人のことをだめだとする。学者や知識人をたたく。非民間人ならば、価値が低い。野党である日本維新の会のあり方だ。

 兵庫県では、役人が内部告発をして、知事を批判した。知事と役人が争い合う。地位は知事のほうが上だから、役人に圧力をかけた。圧力をかけられたこともあり、これまでに役人の中で二人の自殺者が出ている。

 内部告発をされて、二人の自殺者が出てはいるけど、知事をかばう声もある。正しいことをやっているのが知事だ。既得の権益とたたかう。悪いものと戦っているのがあり、それで知事は批判にさらされているのだという。悪いものから攻撃を受けている。

 三つの点から、知事と役人のぶつかり合いを見てみたい。主体と手段と争点の三つの点だ。

 主体としては、二人いる。知事と役人だ。手段としては、知事は権力の乱用をした疑いがある。自分の地位を不当に使った。それで下の役人に圧力をかけたのである。

 悪い手段を使ったわけではないのが役人だ。使っても良い手段を使ったのがあり、内部告発の制度を使ったのである。合法だ。切り札としての権利を使ったのである。

 悪いことをした疑いがあるのが知事だ。それで役人から内部告発されたのである。知事が悪いことをかげでしていたのかどうかが争点だ。

 どういうことを知事はやるべきだったのかがある。批判をしてきた役人をおもてなしする。役人を客むかえ(hospitality)する。承認して行く。否認するのだと良くない。

 もとから役人のことを否認していたのが知事だろう。役人のことを承認していなかった。関西で力をもつ維新の会は、役人のことを叩いている。民間人に比べてひどく劣っているのが役人なのだとしている。民間人はえらいけど、役人は悪いのだと見なす。学者や知識人は悪い。偏見である。

 民間人よりも劣っているどころか、すごく見こみがあるのが、知事を批判した役人だろう。民間人であったとしても、だらしがない人は少なくない。上の地位の人を批判しない。上の地位の人が悪いことをやっていたとしても、見て見ぬふりをしてしまう。

 もともと役人は民間人よりも劣っているのがあり、その上、知事のことを批判する役人はなおさら悪い。兵庫県の知事は、そのように見なしたのかもしれない。はじめから、役人にたいして偏見を持っていたのが災いしたのである。

 まちがった偏見をもたないようにしたい。民間人に比べて役人は劣っているのだとはしないようにして、そのうえで、役人のあり方に悪いところがあればそこを批判するのはあってよいことだ。

 役人が批判されるだけではなくて、知事も批判されなければならない。知事に悪いところがあるのだとすれば、どんどん批判して行く。ばしばし上の地位の政治家を批判して行く。

 批判にたいして開かれていないとならないのが知事だ。役人もまた、批判に開かれていることがいる。批判をこばむのは良くないのがあり、他からの批判にたいして開かれているのがいる。

 とくに悪い手段を用いたのではないのが役人なのだから、知事は役人からの批判を受けとめて行く。役人をおもてなしする。争点を片づけるようにして行く。切り札となる権利を使っただけなのが役人なのだから、許容されることがいる。

 いっさい内部告発することはいらないのだったら、制度がもとから作られていないはずだ。内部告発して、知事を批判することがいることがあるから、制度が作られている。必要があることなのだから、許容されないとならない。知事への批判は必要がないことだったのだとはできづらい。知事と役人のどちらの主体についても、批判に開かれていることがいるのだから、批判が許容されることがいる。

 じかに知事が悪かったのだとはできづらい。じかのよし悪しは実質だ。実質はいきなりはわからないから、形式をふんで行く。内部告発の制度は形式の一つだ。形式をふんでいるのであれば、形式による支えをもつ。形式を抜きにしてじかに実質をとるのだと支えがないから弱い。形式によりつつ、実質をとるようにすれば、形式による支えがあるから、強さをもつ。じかにいきなり実質をとるとよし悪しがもう一つわからないから、法の決まりなどの形式を重んじるようにしたい。

 参照文献 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『一三歳からの法学部入門』荘司雅彦 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『問題解決力を鍛える 事例でわかる思考の手順とポイント』稲崎宏治(いなざきこうじ) 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房法哲学入門』長尾龍一 『考える技術』大前研一橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹 『これが「教養」だ』清水真木(まき) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし)