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「ヘッセン=カッセル方伯領」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2018年10月}}
[[ファイル:Wappen-HK.png|thumb|ヘッセン=カッセル方伯の紋章]]
{{基礎情報 過去の国
[[ファイル:HRR 1789 Landgrafschaft Hessen-Kassel.png|thumb|1789年のヘッセン=カッセル(焦茶色で示された地域)]]
| 略名 =
'''ヘッセン=カッセル方伯領'''('''Landgrafschaft Hessen-Kassel''')は、[[神聖ローマ帝国]]の[[領邦]]国家。[[1567年]]の[[ヘッセン方伯]][[フィリップ1世 (ヘッセン方伯)|フィリップ1世]]の死に伴う[[ヘッセン方伯|ヘッセン方伯領]]の分割相続によって成立した。フィリップ1世の長男[[ヴィルヘルム4世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム4世]]がヘッセン方伯領の北半地域を相続分として確保し、首都を[[カッセル]]に置いたためこの名称で呼ばれる。ヴィルヘルム4世の3人の弟達はそれぞれ[[ヘッセン=マールブルク方伯領|ヘッセン=マールブルク]]、[[ヘッセン=ラインフェルス方伯領|ヘッセン=ラインフェルス]]([[:de:Hessen-Rheinfels|Hessen-Rheinfels]])、[[ヘッセン=ダルムシュタット方伯領|ヘッセン=ダルムシュタット]]の3つの方伯領を創設している。
| 日本語国名 = ヘッセン=カッセル方伯領<br>(1567年ー1803年)<br>ヘッセン選帝侯領<br>(1803年ー1866年)
| 公式国名 = Landgrafschaft Hessen-Kassel<br> Kurfürstentum Hessen
| 建国時期 = 1567年
| 亡国時期 = 1866年
| 先代1 = テューリンゲン公国
| 先旗1 = Grunwald Brunszwik.svg
| 先代2 =
| 先旗2 =
| 次代1 = ヴェストファーレン王国
| 次旗1 = Flag of the Kingdom of Westphalia.svg
| 次代2 = プロイセン王国
| 次旗2 = Flag of the Kingdom of Prussia (1803-1892).svg
| 国旗画像 = Hessen KS flag.svg
| 国旗リンク = <!-- リンクを手動で入力する場合に指定 -->
| 国旗幅 =
| 国旗縁 = <!-- no と入力すると画像に縁が付かない -->
| 国章画像 = Grosses Wappen-HK (1815-1866).svg
| 国章リンク =
| 国章幅 =
| 標語 =
| 標語追記 =
| 国歌 =
| 国歌追記 =
| 位置画像 = HRR 1789 Landgrafschaft Hessen-Kassel.png
| 位置画像説明 = 1789年のヘッセン=カッセル(焦茶色で示された地域)
| 位置画像幅 = <!-- 初期値250px -->
| 公用語 =
| 宗教 =
| 首都 = [[カッセル]]
| 元首等肩書 = [[方伯]]/[[選帝侯]]
| 元首等年代始1 = 1567年
| 元首等年代終1 = 1592年
| 元首等氏名1 = [[ヴィルヘルム4世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム4世]]
| 元首等年代始2 = 1730年
| 元首等年代終2 = 1751年
| 元首等氏名2 = [[フレドリク1世 (スウェーデン王)|フリードリヒ1世]]
| 元首等年代始3 = 1760年
| 元首等年代終3 = 1785年
| 元首等氏名3 = [[フリードリヒ2世 (ヘッセン=カッセル方伯)|フリードリヒ2世]]
| 元首等年代始4 = 1785年
| 元首等年代終4 = 1803年
| 元首等氏名4 = [[ヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)|ヴィルヘルム9世]]<br>(1803年より選帝侯)
| 元首等年代始5 = 1785年
| 元首等年代終5 = 1866年
| 元首等氏名5 = [[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]
| 面積測定時期1 =
| 面積値1 =
| 面積測定時期2 =
| 面積値2 =
| 人口測定時期1 =
| 人口値1 =
| 人口測定時期2 =
| 人口値2 =
| 変遷1 = 成立
| 変遷年月日1 = 1567年
| 変遷2 = [[選帝侯]]国に昇格
| 変遷年月日2 = 1803年
| 通貨 =
| 通貨追記 =
| 時間帯 =
| 夏時間 =
| 時間帯追記 =
| 変遷3 = 滅亡
| 変遷年月日3 = 1866年
| 変遷3 = 滅亡
}}
[[File:Wappen-HK.png|thumb|160px|ヘッセン選帝侯の紋章]]
'''ヘッセン=カッセル方伯領'''('''Landgrafschaft Hessen-Kassel''')は、[[神聖ローマ帝国]]の[[領邦]]国家。[[1567年]]の[[ヘッセン方伯]][[フィリップ1世 (ヘッセン方伯)|フィリップ1世]]の死に伴う[[ヘッセン方伯|ヘッセン方伯領]]の分割相続によって成立した。フィリップ1世の長男[[ヴィルヘルム4世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム4世]]がヘッセン方伯領の北半地域を相続分として確保し、首都を[[カッセル]]に置いたためこの名称で呼ばれる。ヴィルヘルム4世の3人の弟達はそれぞれ[[ヘッセン=マールブルク方伯領|ヘッセン=マールブルク]]、[[ヘッセン=ラインフェルス方伯領|ヘッセン=ラインフェルス]]、[[ヘッセン=ダルムシュタット方伯領|ヘッセン=ダルムシュタット]]の3つの方伯領を創設している。


ヘッセン=カッセル方伯領は[[1803年]]に'''ヘッセン選帝侯国'''([[:de:Kurfürstentum Hessen|Kurfürstentum Hessen]])に改名した。しかし選帝侯国は[[ナポレオン戦争]]中に[[フランス第一帝政|フランス]]軍に占領され、その領土はフランスの衛星国である[[ヴェストファーレン王国]]に組み込まれた。ヘッセン選帝侯は[[1813年]]にその地位と領土を回復し、[[ドイツ連邦]]に加盟した。[[普墺戦争]]後の[[1866年]]にヘッセン選帝侯国は[[プロイセン王国]]に併合され、ヘッセン=ナッサウ県{{enlink|Hesse-Nassau|a=on}}を構成した。
ヘッセン=カッセル方伯領は[[1803年]]に'''ヘッセン選帝侯国'''([[:de:Kurfürstentum Hessen|Kurfürstentum Hessen]])に改名した。しかし選帝侯国は[[ナポレオン戦争]]中に[[フランス第一帝政|フランス]]軍に占領され、その領土はフランスの衛星国である[[ヴェストファーレン王国]]に組み込まれた。ヘッセン選帝侯は[[1813年]]にその地位と領土を回復し、[[ドイツ連邦]]に加盟した。[[普墺戦争]]後の[[1866年]]にヘッセン選帝侯国は[[プロイセン王国]]に併合され、{{ill|ヘッセン=ナッサウ県|de|Hessen-Nassau|en|Province of Hesse-Nassau}}を構成した。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[ヘッセン家]]の人々はわずかな例外を除き、[[宗教改革]]初期以来の敬虔な[[プロテスタント]]信徒の家系であった。[[フィリップ1世 (ヘッセン方伯)|フィリップ1世]]、[[モーリッツ (ヘッセン=カッセル方伯)|モーリッツ]]、[[ヴィルヘルム5世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム5世]]はいずれも[[フス派]]の[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]][[イジー・ス・ポェブラト]]の血を引く女性と結婚している。また[[ヴィルヘルム6世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム6世]]以後、歴代のヘッセン=カッセル家の当主の母親は、全員が[[改革派教会|カルヴァン派]]信徒で[[八十年戦争]]を開戦期に指導した[[オラニエ公]][[ウィレム1世 (オラニエ公)|ウィレム1世]](沈黙公)の子孫である。
[[ヘッセン家]]の人々はわずかな例外を除き、[[宗教改革]]初期以来の敬虔な[[プロテスタント]]信徒の家系であった。[[フィリップ1世 (ヘッセン方伯)|フィリップ1世]]、[[モーリッツ (ヘッセン=カッセル方伯)|モーリッツ]]、[[ヴィルヘルム5世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム5世]]はいずれも[[フス派]]の[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]][[イジー (ボヘミア王)|イ]]の血を引く女性と結婚している。また[[ヴィルヘルム6世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム6世]]以後、歴代のヘッセン=カッセル家の当主の母親は、全員が[[改革派教会|カルヴァン派]]信徒で[[八十年戦争]]を開戦期に指導した[[オラニエ公]][[ウィレム1世 (オラニエ公)|ウィレム1世]](沈黙公)の子孫である。


ヘッセン=カッセル方伯モーリッツは[[1604年]]、嗣子のないまま死んだ叔父の[[ルートヴィヒ4世 (ヘッセン=マールブルク方伯)|ルートヴィヒ4世]]から[[ヘッセン=マールブルク方伯領]]を相続し、ヘッセン=カッセルの領域を大きく拡げた。しかし、強引な領土相続に従弟の[[ヘッセン=ダルムシュタット方伯領|ヘッセン=ダルムシュタット方伯]][[ルートヴィヒ5世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)|ルートヴィヒ5世]]が反感を抱き、これが紛争の幕開けとなった。[[1627年]]にモーリッツが退位、領土の一部を割譲して一旦決着が着いた。
ヘッセン=カッセル方伯モーリッツは[[1604年]]、嗣子のないまま死んだ叔父の[[ルートヴィヒ4世 (ヘッセン=マールブルク方伯)|ルートヴィヒ4世]]から[[ヘッセン=マールブルク方伯領]]を相続し、ヘッセン=カッセルの領域を大きく拡げた。しかし、強引な領土相続に従弟の[[ヘッセン=ダルムシュタット方伯領|ヘッセン=ダルムシュタット方伯]][[ルートヴィヒ5世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)|ルートヴィヒ5世]]が反感を抱き、これが紛争の幕開けとなった。[[1627年]]にモーリッツが退位、領土の一部を割譲して一旦決着が着いた。
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[[1730年]]から[[1751年]]の間、方伯[[フレドリク1世 (スウェーデン王)|フリードリヒ1世]]がスウェーデン王位にあったため、ヘッセン=カッセルとスウェーデンは[[同君連合|人的同君連合]]の関係にあった。フリードリヒ1世は治世中スウェーデンにいたため、ヘッセン=カッセルを実際に統治していたのは弟の摂政[[ヴィルヘルム8世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム8世]](兄の死後に方伯を継ぐ)であった。
[[1730年]]から[[1751年]]の間、方伯[[フレドリク1世 (スウェーデン王)|フリードリヒ1世]]がスウェーデン王位にあったため、ヘッセン=カッセルとスウェーデンは[[同君連合|人的同君連合]]の関係にあった。フリードリヒ1世は治世中スウェーデンにいたため、ヘッセン=カッセルを実際に統治していたのは弟の摂政[[ヴィルヘルム8世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム8世]](兄の死後に方伯を継ぐ)であった。


ドイツ諸侯が他の諸侯に自邦の軍隊を貸与することは一般的な慣習だったが、17世紀から18世紀のヘッセン=カッセル方伯は軍隊を[[傭兵]]として貸し出すことで悪名を高くした。18世紀を通じ、ヘッセン=カッセルの人口の7%以上が軍務に就いていた。ヘッセン=カッセル方伯の軍隊は他のヨーロッパ諸国の傭兵市場の供給源となっていた。方伯[[フリードリヒ2世 (ヘッセン=カッセル方伯)|フリードリヒ2世]]は、義理の甥にあたる[[イギリス君主一覧|イギリス王]][[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]に[[アメリカ独立戦争]]に投入するためのヘッセン=カッセル傭兵軍を貸し出したことで有名である。このためアメリカ人は[[アメリカ独立戦争におけるドイツ|イギリス政府に雇われたドイツ人傭兵たち]]を「ヘシアン」{{enlink|Hessian (soldiers)|Hessian}}と呼ぶようになった。フリードリヒ2世はイギリス政府に傭兵を貸与して得た報酬で豪勢な暮らしを送た。
ドイツ諸侯が他の諸侯に自邦の軍隊を貸与することは一般的な慣習だったが、17世紀から18世紀のヘッセン=カッセル方伯は軍隊を[[傭兵]]として貸し出すことで悪名を高くした。18世紀を通じ、ヘッセン=カッセルの人口の7%以上が軍務に就いていた。ヘッセン=カッセル方伯の軍隊は他のヨーロッパ諸国の傭兵市場の供給源となっていた。方伯[[フリードリヒ2世 (ヘッセン=カッセル方伯)|フリードリヒ2世]]は、義理の甥にあたる[[ハノーファー選帝侯]]兼[[イギリス君主一覧|イギリス王]][[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]に[[アメリカ独立戦争]]に投入するためのヘッセン=カッセル傭兵軍を貸し出したことで有名である。このためアメリカ人は[[アメリカ独立戦争におけるドイツ|イギリス政府に雇われたドイツ人傭兵たち]]を「ヘシアン」{{enlink|Hessian (soldiers)|Hessian}}と呼ぶようになった。フリードリヒ2世はイギリス政府に傭兵を貸与して得た報酬で豪勢な暮らしを送り、次代の[[ヴィルヘルム1世_(ヘッセン選帝侯)|ヴィルヘルム9世]]はこの巨富の運用を[[マイアー・アムシェル・ロートシルト]]に任せたことで[[ロスチャイルド家]]の発展の礎が築かれた。


17世紀中、分割相続制の伝統を維持するヘッセン=カッセルには、領邦内にいくつかの分領が成立したが、これらの分領は独立した領邦ではなかった。
17世紀中、分割相続制の伝統を維持するヘッセン=カッセルには、領邦内にいくつかの分領が成立したが、これらの分領は独立した領邦ではなかった。
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[[1968年]]に[[ヘッセン=ダルムシュタット家]]が断絶すると、ヘッセン=カッセル家家長は[[ヘッセン家]]全体の家長となった。なお、現在のヘッセン家家長は、ヘッセン=カッセル家分家であったヘッセン=ルンペンハイム家当主である。
[[1968年]]に[[ヘッセン=ダルムシュタット家]]が断絶すると、ヘッセン=カッセル家家長は[[ヘッセン家]]全体の家長となった。なお、現在のヘッセン家家長は、ヘッセン=カッセル家分家であったヘッセン=ルンペンハイム家当主である。


== ヘッセン=カッセル方伯 ==
== ヘッセン=カッセルの統治者 ==
=== ヘッセン=カッセル方伯 ===
*[[ヴィルヘルム4世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム4世]](在位:1568年 - 1592年)
*[[ヴィルヘルム4世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム4世]](在位:1568年 - 1592年)
*[[モーリッツ (ヘッセン=カッセル方伯)|モーリッツ]](在位:1592年 - 1627年)
*[[モーリッツ (ヘッセン=カッセル方伯)|モーリッツ]](在位:1592年 - 1627年)
45行目: 114行目:
*[[ヴィルヘルム8世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム8世]](在位:1751年 - 1760年)
*[[ヴィルヘルム8世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム8世]](在位:1751年 - 1760年)
*[[フリードリヒ2世 (ヘッセン=カッセル方伯)|フリードリヒ2世]](在位:1760年 - 1785年)
*[[フリードリヒ2世 (ヘッセン=カッセル方伯)|フリードリヒ2世]](在位:1760年 - 1785年)
*[[ヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)|ヴィルヘルム9世]](在位:1785年 - 1821年、1803年よりヘッセン選帝侯フリードリヒ1世)
*[[ヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)|ヴィルヘルム9世]](在位:1785年 - 1821年、1803年よりヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世)

=== ヘッセン選帝侯 ===
*[[ヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)|ヴィルヘルム1世]](在位:1803年 - 1821年)
*[[ヴィルヘルム2世 (ヘッセン選帝侯)|ヴィルヘルム2世]](在位:1821年 - 1847年)
*[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]](在位:1847年 - 1866年)

=== ヘッセン=カッセル家家長 ===
*[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]](在位:1847年 - 1875年)
*[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=カッセル|フリードリヒ・ヴィルヘルム(2世)]](在位:1875年 - 1884年)
*[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン (1854-1888)|フリードリヒ・ヴィルヘルム(3世)]](在位:1884年 - 1888年)
*[[アレクサンダー・フリードリヒ・フォン・ヘッセン|アレクサンダー・フリードリヒ]](在位:1888年 - 1925年)
*[[フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン|フリードリヒ・カール]](在位:1925年 - 1940年)
*[[フィリップ・フォン・ヘッセン|フィリップ]](在位:1940年 - 1980年)
*[[モーリッツ・フォン・ヘッセン|モーリッツ]](在位:1980年 - 2013年) - 1968年よりヘッセン大公家家長
*[[ハインリヒ・ドナトゥス・フォン・ヘッセン|ハインリヒ・ドナトゥス]](在位:2013年 - ) - ヘッセン家家長


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[ヘッセンの統治者一覧]]
*[[ヘッセンの統治者一覧]]


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[[Category:神聖ローマ帝国の領邦国家]]
[[Category:神聖ローマ帝国の領邦国家]]

2024年4月21日 (日) 10:51時点における最新版

ヘッセン=カッセル方伯領
(1567年ー1803年)
ヘッセン選帝侯領
(1803年ー1866年)
Landgrafschaft Hessen-Kassel
Kurfürstentum Hessen
テューリンゲン公国 1567年 - 1866年 ヴェストファーレン王国
プロイセン王国
ヘッセン=カッセル方伯領 (1567年ー1803年) ヘッセン選帝侯領 (1803年ー1866年)の国旗 ヘッセン=カッセル方伯領 (1567年ー1803年) ヘッセン選帝侯領 (1803年ー1866年)の国章
(国旗) (国章)
ヘッセン=カッセル方伯領 (1567年ー1803年) ヘッセン選帝侯領 (1803年ー1866年)の位置
1789年のヘッセン=カッセル(焦茶色で示された地域)
首都 カッセル
方伯選帝侯
1567年 - 1592年 ヴィルヘルム4世
1730年 - 1751年フリードリヒ1世
1760年 - 1785年フリードリヒ2世
1785年 - 1803年ヴィルヘルム9世
(1803年より選帝侯)
1785年 - 1866年フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
変遷
成立 1567年
選帝侯国に昇格1803年
滅亡1866年
ヘッセン選帝侯の紋章

ヘッセン=カッセル方伯領Landgrafschaft Hessen-Kassel)は、神聖ローマ帝国領邦国家。1567年ヘッセン方伯フィリップ1世の死に伴うヘッセン方伯領の分割相続によって成立した。フィリップ1世の長男ヴィルヘルム4世がヘッセン方伯領の北半地域を相続分として確保し、首都をカッセルに置いたためこの名称で呼ばれる。ヴィルヘルム4世の3人の弟達はそれぞれヘッセン=マールブルクヘッセン=ラインフェルスヘッセン=ダルムシュタットの3つの方伯領を創設している。

ヘッセン=カッセル方伯領は1803年ヘッセン選帝侯国Kurfürstentum Hessen)に改名した。しかし選帝侯国はナポレオン戦争中にフランス軍に占領され、その領土はフランスの衛星国であるヴェストファーレン王国に組み込まれた。ヘッセン選帝侯は1813年にその地位と領土を回復し、ドイツ連邦に加盟した。普墺戦争後の1866年にヘッセン選帝侯国はプロイセン王国に併合され、ヘッセン=ナッサウ県ドイツ語版英語版を構成した。

歴史

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ヘッセン家の人々はわずかな例外を除き、宗教改革初期以来の敬虔なプロテスタント信徒の家系であった。フィリップ1世モーリッツヴィルヘルム5世はいずれもフス派ボヘミア王イジーの血を引く女性と結婚している。またヴィルヘルム6世以後、歴代のヘッセン=カッセル家の当主の母親は、全員がカルヴァン派信徒で八十年戦争を開戦期に指導したオラニエ公ウィレム1世(沈黙公)の子孫である。

ヘッセン=カッセル方伯モーリッツは1604年、嗣子のないまま死んだ叔父のルートヴィヒ4世からヘッセン=マールブルク方伯領を相続し、ヘッセン=カッセルの領域を大きく拡げた。しかし、強引な領土相続に従弟のヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ5世が反感を抱き、これが紛争の幕開けとなった。1627年にモーリッツが退位、領土の一部を割譲して一旦決着が着いた。

三十年戦争中、カルヴァン派領邦であるヘッセン=カッセルは、ドイツ諸邦の中で最もスウェーデンに忠実な同盟者であった。ヴィルヘルム5世、そして1637年にヴィルヘルム5世の死後に摂政となった未亡人アマーリエ・エリーザベト(Amalie Elisabeth von Hanau-Münzenberg)は、プロテスタントの大義とそれを擁護するフランス、スウェーデンを支持し、ヘッセン=カッセルをカトリックの皇帝軍に占領されながらも、軍隊を保持して数多くの要塞で防戦を行った。ヘッセン=マールブルク方伯領の問題にも介入、ヘッセン=ダルムシュタット方伯ゲオルク2世ヘッセン戦争を起こし、1648年に改めてヘッセン=マールブルク方伯領を分割、獲得した。

1730年から1751年の間、方伯フリードリヒ1世がスウェーデン王位にあったため、ヘッセン=カッセルとスウェーデンは人的同君連合の関係にあった。フリードリヒ1世は治世中スウェーデンにいたため、ヘッセン=カッセルを実際に統治していたのは弟の摂政ヴィルヘルム8世(兄の死後に方伯を継ぐ)であった。

ドイツ諸侯が他の諸侯に自邦の軍隊を貸与することは一般的な慣習だったが、17世紀から18世紀のヘッセン=カッセル方伯は軍隊を傭兵として貸し出すことで悪名を高くした。18世紀を通じ、ヘッセン=カッセルの人口の7%以上が軍務に就いていた。ヘッセン=カッセル方伯の軍隊は他のヨーロッパ諸国の傭兵市場の供給源となっていた。方伯フリードリヒ2世は、義理の甥にあたるハノーファー選帝侯イギリス王ジョージ3世アメリカ独立戦争に投入するためのヘッセン=カッセル傭兵軍を貸し出したことで有名である。このためアメリカ人はイギリス政府に雇われたドイツ人傭兵たちを「ヘシアン」 (Hessianと呼ぶようになった。フリードリヒ2世はイギリス政府に傭兵を貸与して得た報酬で豪勢な暮らしを送り、次代のヴィルヘルム9世はこの巨富の運用をマイアー・アムシェル・ロートシルトに任せたことでロスチャイルド家の発展の礎が築かれた。

17世紀中、分割相続制の伝統を維持するヘッセン=カッセルには、領邦内にいくつかの分領が成立したが、これらの分領は独立した領邦ではなかった。

こうした分領は相続人が絶えると、本家のヘッセン=カッセル方伯領に回収された。しかしヘッセン選帝侯国の消滅する1866年まで存続した分領も存在した。

1803年のドイツ領邦の陪臣化に伴ってドイツ諸国家が再編されていく中で、ヘッセン=カッセル方伯はヘッセン選帝侯に昇格し、方伯ヴィルヘルム9世は選帝侯ヴィルヘルム1世となった。新しく成立した選帝侯領は「クーアヘッセン」(Kurhessen)とも呼ばれたが、一般的には以前の呼称であるヘッセン=カッセルで呼ばれていた。

1806年、ヴィルヘルム1世はプロイセン王国を支援した罰としてナポレオンに領国を没収され、カッセルはナポレオンの末弟ジェローム・ボナパルトが統治する新国家ヴェストファーレン王国の首都になった。ヴィルヘルム1世はナポレオンが失脚した1813年に復位することができた。この時には既に神聖ローマ帝国が消滅していたが、ヴィルヘルム1世は選帝侯の称号のままで通し、ヘッセン大公の称号を得た旧ヘッセン=ダルムシュタット方伯の下位に甘んじた。1815年以後、ヘッセン選帝侯国はドイツ連邦に参加した。

ヘッセン選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム1世普墺戦争で敗れたオーストリア帝国の側に就き、ヘッセン選帝侯国は1866年にプロイセンに併合された。ヘッセン選帝侯国は同時にプロイセンに併合されたナッサウ公国フランクフルト自由市とともにプロイセン領ヘッセン=ナッサウ県を構成した。

1918年、ヘッセン=カッセル方伯家の一員でドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の義弟であるヘッセン=ルンペンハイム家フリードリヒ・カールは、親独的なフィンランド政府の下でフィンランド王に選出されたが、実際に統治することは叶わなかった。

同じ1918年、ドイツの共和制移行に伴ってヘッセン=ナッサウを含むプロイセン王国領はプロイセン自由州となった。1944年から1945年の短い期間、ナチス・ドイツ政府はプロイセン州を細かく分割し、旧ヘッセン=カッセル地域をクーアヘッセン県 (enとしていた。1946年より、ヘッセン=カッセルはドイツ連邦共和国(西ドイツ)のヘッセン州の一部になった。

1968年ヘッセン=ダルムシュタット家が断絶すると、ヘッセン=カッセル家家長はヘッセン家全体の家長となった。なお、現在のヘッセン家家長は、ヘッセン=カッセル家分家であったヘッセン=ルンペンハイム家当主である。

ヘッセン=カッセルの統治者

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ヘッセン=カッセル方伯

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ヘッセン選帝侯

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ヘッセン=カッセル家家長

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関連項目

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