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'''上田 昭夫'''(うえだ あきお、 [[1952年]][[10月21日]] - [[2015年]][[7月23日]])は、[[日本]]の[[ラグビー]]選手(SH)及び指導者。元[[ラグビー日本代表]]でキャップ6。元[[慶應義塾體育會蹴球部]](以下、慶大)監督。[[フジテレビジョン]]社員として[[ニュースキャスター]]を務めたことでも知られる。身長160cm、体重60kg
'''上田 昭夫'''(うえだ あきお、 [[1952年]][[10月21日]] - [[2015年]][[7月23日]])は、[[日本]]の[[ラグビーユニオン|ラグビー]]選手(SH)及び指導者。元[[ラグビー日本代表|日本代表]]でキャップ6。元[[慶應義塾體育會蹴球部]](以下、慶大)監督。[[フジテレビジョン]]社員として[[ニュースキャスター]]を務めたことでも知られる。


== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
[[東京都]][[豊島区]][[目白]]<ref>[http://www.nikkansports.com/sports/news/1511582.html フジに入社しスポーツキャスターも/上田昭夫氏略歴  [日刊スポーツ 2015年7月23日12時59分]]</ref>出身。父親は[[慶應義塾大学院]]勤務の[[医師]]。[[慶應義塾幼稚舎]]、[[慶應義塾高等学校]]、[[慶應義塾大学]][[商学部]]卒業。幼稚舎2年次に発生した[[雅樹ちゃん誘拐殺人事件]]で犠牲になった児童は、上田の幼稚舎時代の同級生であった。幼稚舎5年次よりラグビーを始める。大学在学中は[[慶應義塾體育會蹴球部|蹴球部]](ラグビー部)所属4年生のときに主将を務めた。高校の同学年に[[作曲家]]の[[吉松隆]]がいる<ref>[http://yoshim.cocolog-nifty.com/tapio/2015/07/post-1.html 隠響堂日記 2015年7月26日 (日) 真夏の余談]</ref>。
[[東京都]][[豊島区]][[目白]]<ref>[https://www.nikkansports.com/sports/news/1511582.html フジに入社しスポーツキャスターも/上田昭夫氏略歴] 日刊スポーツ 2015年7月23日</ref>出身。父親は[[慶應義塾大学大学医学研究科・医学部|慶應義塾大学医学部]]出身<ref>{{Cite web|和書|title=上田 喜一とは|url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8A%E7%94%B0%20%E5%96%9C%E4%B8%80-1639459|website=コトバンク|accessdate=2021-06-19|language=ja|last=20世紀日本人名事典}}</ref>の[[医師]]・[[衛生学者]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tmg.or.jp/wp-content/uploads/2019/08/m3_20190805.pdf|title=医療グループ運営にラグビーの精神|accessdate=2022-02-10}}</ref>。[[慶應義塾幼稚舎]]、[[慶應義塾普通部]]、[[慶應義塾高等学校]]、[[慶應義塾大学大学院商学研究科・商学部|慶應義塾大学商学部]]卒業。幼稚舎2年次に発生した[[雅樹ちゃん誘拐殺人事件]]で犠牲になった児童は、上田の幼稚舎時代の同級生であった。幼稚舎5年次よりラグビーを始める。大学在学中は[[慶應義塾體育會蹴球部|蹴球部]](ラグビー部)所属し、4年生のに主将を務めた。高校の同に[[作曲家]]の[[吉松隆]]がいる<ref>[http://yoshim.cocolog-nifty.com/tapio/2015/07/post-1.html 隠響堂日記 2015年7月26日 (日) 真夏の余談]</ref>。


=== ラグビー選手時代 ===
=== ラグビー選手時代 ===
大学卒業後、東京海上火災保険(現・[[東京海上日動火災保険]])に入社。[[ラグビー日本代表]]選手として海外遠征をするなかで、競技生活を続ける決意をし入社後僅か半年でラグビー部のある[[トヨタ自動車|トヨタ自動車工業]](以下、トヨタ自工)へ転職。1978年(1977年度)にはトヨタ自工ラグビー部(現・[[トヨタ自動車ヴェルブリッツ]])で、境政義、田中伸典、高田司らとともに、[[全国社会人ラグビーフットボール大会]]及び、[[日本ラグビーフットボール選手権大会]](以下、日本選手権)制覇。ラグビー日本代表選手としては、1975年の対[[ラグビーウェールズ代表|ウェールズ代表]]戦が初キャップ試合。主に[[松尾雄治]]とハーフ団を組んだ。

大学卒業後、東京海上火災保険(現・[[東京海上日動火災保険]])に入社。[[ラグビー日本代表]]選手として海外遠征をするなかで、競技生活を続ける決意をし入社後僅か半年でラグビー部のある[[トヨタ自動車|トヨタ自動車工業]](以下、トヨタ自工)へ転職。1978年(1977年度)にはトヨタ自工ラグビー部(現・[[トヨタ自動車ヴェルブリッツ]])で、[[境政義]]、[[田中伸典]]、[[高田司]]らとともに、[[全国社会人ラグビーフットボール大会]]及び、[[日本ラグビーフットボール選手権大会]](以下、日本選手権)制覇。ラグビー日本代表選手としては、1975年の対[[ラグビーウェールズ代表|ウェールズ代表]]戦が初キャップ試合。主に[[松尾雄治]]とハーフ団を組んだ。


=== 慶大監督として日本一をもたらす ===
=== 慶大監督として日本一をもたらす ===
[[1984年]]、母校の慶大[[監督]]に就任。同年度の[[関東大学ラグビー対抗戦グループ|関東大学ラグビー対抗戦]](以下、対抗戦)で優勝に導く。その後、[[第21回全国大学ラグビーフットボール選手権大会|全国大学ラグビーフットボール選手権大会]](以下、大学選手権)では決勝に進出し、同大会3連覇を狙う[[同志社大学ラグビー部|同志社大学]]と対戦。同志社有利という下馬評の中、最後まで健闘したが、6-10で惜敗した。


翌1985年度は後に日本代表選手となる[[松永敏宏]]、[[村井大次郎]]に加え、[[玉塚元一]] (後の[[ローソン]]社長)らが卒業した影響もあり、対抗戦ではまさかの4位に甘んじ、かろうじて、大学選手権の出場権をかけた、[[関東大学ラグビーリーグ戦グループ|リーグ戦グループ]](以下、リーグ戦)との交流試合へと駒を進めた。すると、この試合で同年度のリーグ戦を制した[[日本大学ラグビー部|日本大学]]を破って大学選手権出場を決めると、大学選手権では[[大阪体育大学ラグビー部|大阪体育大学]]、[[早稲田大学ラグビー蹴球部|早稲田大学]]を破って決勝進出。決勝は同年度に対抗戦で優勝した[[明治大学ラグビー部|明治大学]]と対戦し、一進一退の攻防の末、12-12で引き分け。慶大として1968年度以来となる大学日本一を果たしたが、[[1986年]][[1月15日]]に行われる[[日本ラグビーフットボール選手権大会|日本選手権]]の出場権は、大学選手権決勝翌日の抽選の結果、慶大が出場権を得た。
[[1984年]]に、母校の慶大[[監督]]に31歳で就任。同年度の[[関東大学ラグビー対抗戦グループ|関東大学ラグビー対抗戦]](以下、対抗戦)で優勝に導く。その後、[[第21回全国大学ラグビーフットボール選手権大会|全国大学ラグビーフットボール選手権大会]](以下、大学選手権)では決勝に進出し、同大会3連覇を狙う[[同志社大学ラグビー部|同志社大学]]と対戦。同志社有利という下馬評の中、最後まで健闘したが、6-10で惜敗した。


迎えた日本選手権は、当時、上田自身がまだ在籍していたトヨタ自動車が相手。また、トヨタ自動車の当時の監督は、選手として上田とともに8年前の日本一を経験した境政義という、因縁尽くしの対戦となったが、18-13で制し、大学チームとしては、1975年度の明治大学以来、史上5校目となるラグビー日本一をもたらした。日本一となった試合の主な選手には、[[生田久貴]]、[[福澤克雄]] ([[TBSテレビ]]、[[テレビディレクター]]、[[映画監督]])などがいた。なお、日本一を決めた試合を最後に、上田は慶大監督を退任した。
翌1985年度は後に日本代表選手となる[[松永敏宏]]、[[村井大次郎]]に加え、[[玉塚元一]] (後の[[ローソン]]社長)らが卒業した影響もあり、対抗戦ではまさかの4位に甘んじ、かろうじて、大学選手権の出場権をかけた、[[関東大学ラグビーリーグ戦グループ|リーグ戦グループ]](以下、リーグ戦)との交流試合へと駒を進めた。すると、この試合で同年度のリーグ戦を制した[[日本大学ラグビー部|日本大学]]を破って大学選手権出場を決めると、大学選手権では[[大阪体育大学ラグビー部|大阪体育大学]]、[[早稲田大学ラグビー蹴球部|早稲田大学]]を破って決勝進出。決勝は同年度に対抗戦で優勝した[[明治大学ラグビー部|明治大学]]と対戦し、一進一退の攻防の末、12-12で引き分け。慶大として1968年度以来となる大学日本一を果たしたが、[[1986年]][[1月15日]]に行われる[[日本ラグビーフットボール選手権大会|日本選手権]]の出場権は、大学選手権決勝翌日の抽選の結果、慶大が出場権を得た。

迎えた日本選手権は、当時、上田自身がまだ在籍していたトヨタ自動車が相手。また、トヨタ自動車の当時の監督は、選手として上田とともに8年前の日本一を経験した境政義という、因縁尽くしの対戦となったが、18-13で制し、大学チームとしては、[[1975年]]度の明治大学以来、史上5校目となるラグビー日本一をもらたした。日本一となった試合の主な選手には、[[生田久貴]]、[[福澤克雄]] ([[TBSテレビ]]、[[テレビディレクター]]、[[映画監督]])などがいた。


=== ニュースキャスターへ転身 ===
=== ニュースキャスターへ転身 ===
その後、[[1987年]]に一芸入試でフジテレビに転職。政治部記者を経て、『[[FNN DATE LINE]]』『[[FNNスーパータイム]]』『[[FNN おはよう!サンライズ]]』などの番組で総合司会を歴任。『スーパータイム』では総合司会(メインキャスター)を務めたが、降板後にスポーツへの造詣の深さを買われ、スポーツ担当キャスターに転身している。その後、スポーツ局スポーツ業務推進センター・スポーツ業務部デスク担当部長、スポーツ局スポーツ業務推進センター・スポーツメディア事業部ゼネラルプロデューサーを経て、2012年10月に定年退職した。

その後、[[1987年]]に一芸入試でフジテレビに転職。政治部記者を経て、『[[FNN DATE LINE]]』『[[FNNスーパータイム]]』『[[FNN おはよう!サンライズ]]』などの番組でキャスターを歴任。『スーパータイム』ではメインキャスターを務めたが、降板後にスポーツへの造詣の深さを買われ、スポーツ担当キャスターに転身している。その後、スポーツ局スポーツ業務推進センター・スポーツ業務部デスク担当部長、スポーツ局スポーツ業務推進センター・スポーツメディア事業部ゼネラルプロデューサーを経て、2012年10月に定年退職した。


=== 再び大学日本一をもたらす ===
=== 再び大学日本一をもたらす ===
上田が監督を退いた後、慶大は対抗戦での成績不振が長引き、大学選手権にすら出場できない、どん底の状態が続いた。こうした惨状を受け、[[1994年]]、再び慶大監督に復帰。同時に、慶應義塾蹴球部総監督にも就任。小学校(幼稚舎)・中学校(中等部・普通部)・高等学校・大学の一貫した強化のため、マネジメントを担った。その一方で、上田は、他の強豪校に対抗するため、高校日本代表選手をはじめとする、全国の有力高校生に自ら手紙を書いて勧誘に当たった<ref>[https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2015/07/24/kiji/K20150724010794930.html 上田昭夫さん急死 ラグビー慶大監督で日本一、キャスターでも活躍 ―] スポニチ Sponichi Annex ラグビー 2015年7月24日</ref>。その結果、上田が監督就任5年目以降は、[[熊谷良]]、[[高田晋作]]、[[和田康二]]といった、付属以外の高校出身者が主将となってチームを牽引。一方で、[[野澤武史]]らの付属出身者も彼らをうまくサポートした。


熊谷が主将を務めた1998年度、慶大は日本一となった1985年度以来、13年ぶりとなる大学選手権出場を決め、準決勝に進出。その後、慶大は2018年度まで大学選手権出場が続いた。続いて、高田が主将を務めた1999年度において、15年ぶりとなる対抗戦優勝を果たした。続く大学選手権では[[法政大学ラグビー部|法政]]、日本、同志社を破り、決勝では2連覇中の[[関東学院大学ラグビー部|関東学院大学]]と対戦。27-7で快勝し、日本一を果たした1985年度以来、14年ぶり3度目の大学日本一を創部100周年の節目に果たした。和田が主将を務めた2000年度は対抗戦で連覇を達成したが、大学選手権では準決勝で敗退。野澤が主将を務めた2001年度も大学選手権では準決勝で敗退し、このシーズンをもって監督を退任した。
上田が監督を退いた後、慶大は対抗戦での成績不振が長引き、大学選手権にすら出場できない、どん底の状態が続いた。こうした惨状を受け、[[1994年]]、再び慶大監督に復帰。同時に、慶應義塾蹴球部総監督にも就任。小学校(幼稚舎)・中学校(中等部・普通部)・高等学校・大学の一貫した強化のため、マネジメントを担った。その一方で、上田は、他の強豪校に対抗するため、高校日本代表選手をはじめとする、全国の有力高校生に自ら手紙を書いて勧誘に当たった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2015/07/24/kiji/K20150724010794930.html 上田昭夫さん急死 ラグビー慶大監督で日本一、キャスターでも活躍 ― スポニチ Sponichi Annex ラグビー  2015年7月24日 05:30]</ref>。その結果、上田が監督就任5年目以降は、[[熊谷良]]、[[高田晋作]]、[[和田康二]]といった、付属以外の高校出身者が主将となってチームを牽引。一方で、[[野澤武史]]らの付属出身者も彼らをうまくサポートした。

熊谷が主将を務めた[[1998年]]度、慶大は日本一となった1985年度以来、13年ぶりとなる大学選手権出場を決め、準決勝に進出。その後、2014年度現在、慶大が大学選手権出場を逃した年度は一度もない。続いて、高田が主将を務めた[[1999年]]度において、15年ぶりとなる対抗戦優勝を果たした。続く大学選手権では[[法政大学ラグビー部|法政]]、日本、同志社を破り、決勝では2連覇中の[[関東学院大学ラグビー部|関東学院大学]]と対戦。27-7で快勝し、日本一を果たした1985年度以来、14年ぶり3度目の大学日本一を創部100周年の節目に果たした。和田が主将を務めた2000年度は対抗戦で連覇を達成したが、大学選手権では準決勝で敗退。野澤が主将を務めた2001年度も大学選手権では準決勝で敗退し、このシーズンをもって監督を退任した。


晩年はフジテレビ在籍のままで、慶大マネジメントアドバイザーを務める他、[[テレビ神奈川|tvk(テレビ神奈川)]]のラグビー解説者、FM放送の解説者として出演したほか、2009年には、日本で開かれた[[ラグビージュニア世界選手権|U20世界ラグビー選手権]]のトーナメントアンバサダーに就任、今大会のホストブロードキャスターである[[J SPORTS]]で解説も務めた。
晩年はフジテレビ在籍のままで、慶大マネジメントアドバイザーを務める他、[[テレビ神奈川|tvk(テレビ神奈川)]]のラグビー解説者、FM放送の解説者として出演したほか、2009年には、日本で開かれた[[ラグビージュニア世界選手権|U20世界ラグビー選手権]]のトーナメントアンバサダーに就任、今大会のホストブロードキャスターである[[J SPORTS]]で解説も務めた。
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生前は慶應義塾に対して非常に強い愛校心を持っていた。
生前は慶應義塾に対して非常に強い愛校心を持っていた。


[[ファイル:Rugby Keio University vs Doshisha University2.JPG|thumb|250px|第98回[[慶應義塾體育會蹴球部|慶應義塾]]・[[同志社大学ラグビー部|同志社]]のラグビー定期戦は上田昭夫氏追悼試合を兼ねて開催された。<ref>[https://kurfc.blogspot.com/2015/07/blog-post_27.html 上田昭夫氏追悼試合について]</ref>会場には半旗が掲げられた。(2015年9月・[[神奈川県立保土ヶ谷公園ラグビー場]])]]
2015年7月23日に逝去。62歳没。以前から[[アミロイドーシス]]の治療を行っていた<ref>{{cite web|url=http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2015/07/23/kiji/K20150723010791630.html|title=上田昭夫さん死去、62歳 慶大ラグビー部監督で日本一、フジキャスター|publisher=スポニチアネックス|date=2015-07-23|accessdate=2015-07-23}}</ref>。


=== 死去 ===
==主な出演番組==
2015年7月23日に死去。62歳没。以前から[[アミロイドーシス]]の治療を行っていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2015/07/23/kiji/K20150723010791630.html|title=上田昭夫さん死去、62歳 慶大ラグビー部監督で日本一、フジキャスター|publisher=スポニチアネックス|date=2015-07-23|accessdate=2015-07-23}}</ref>。
*「[[DATE LINE]]」メインニュースキャスター(1988年4月~1989年3月)

*「[[スーパータイム]]」メインニュースキャスター(1989年4月~1991年3月)
== 主な出演番組 ==
*「[[おはよう!サンライズ]]」メインニュースキャスター(1993年4月~1994年3月)
'''報道番組'''
*「[[スーパータイム]]」スポーツキャスター(1994年4月~1997年3月)
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller"
*「[[晴れたらイイねッ!]]」パーソナリティ(1996年4月~2002年12月)
!colspan=2|期間!!番組名!!役職!!担当日!!備考
*「[[ジャンクスポーツ]]」レギュラー(2001年度~2003年度)
|-
!1988年4月1日!!1989年3月31日
|[[FNN DATE LINE]]||rowspan=2|キャスター||rowspan=4|平日||
|-
!1989年4月3日!!1991年3月29日
|rowspan=2|[[FNNスーパータイム]]||キャスター起用以前の1988年11月に当時キャスターであった[[逸見政孝]]の代役で3日間出演したことがある、スポーツコーナーのパートナーキャスターを兼務
|-
!1994年4月1日!!1997年3月28日
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|-
!1993年4月1日!!1994年3月31日
|[[FNN おはよう!サンライズ]]||司会
|}

'''その他'''
*「[[晴れたらイイねッ!]]」パーソナリティ(1996年4月〜2002年12月)
*「[[ジャンクSPORTS]]」レギュラー(2001年度〜2003年度)


== 1985年度の日本一 ==
== 1985年度の日本一 ==
慶大は、1985年度の第23回[[日本ラグビーフットボール選手権大会]]([[1986年]][[1月15日]])で、[[トヨタ自動車ヴェルブリッツ|トヨタ自動車]]を18-13で破り初優勝を果たした。下記は日本一の試合時におけるフィフティーンである。
慶大は、1985年度の第23回[[日本ラグビーフットボール選手権大会]]([[1986年]][[1月15日]])で、[[トヨタ自動車ヴェルブリッツ|トヨタ自動車]]を18-13で破り初優勝を果たした。下記は日本一の試合時におけるフィフティーンである。


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! 番号 !! 選手名 !! 学年 !!出身校
! 番号 !! 選手名 !! 学年 !!出身校
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*[http://www.kurfc.com/season_list 資料室 慶應義塾體育會蹴球部]
*[http://www.kurfc.com/season_list 資料室 慶應義塾體育會蹴球部]
*[http://rugby-ueda.aspota.jp/2013/02/post_1399.html 大盛況な会! ] - 元キャスター、ラグビー・上田昭夫がスポーツを綴る スポーツひとりごと 2013年02月18日 08:10
*[http://rugby-ueda.aspota.jp/2013/02/post_1399.html 大盛況な会! ] - 元キャスター、ラグビー・上田昭夫がスポーツを綴る スポーツひとりごと 2013年02月18日 08:10
*[http://wedge.ismedia.jp/articles/-/5594 強い組織をつくる 上田昭夫のプライド(大元よしき・著/ウェッジ社刊)]


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* [http://rugby-ueda.aspota.jp/ 上田昭夫オフィシャルブログ|スポーツひとりごと]
* [http://blog.fujitv.co.jp/hitorigoto/index.html 上田昭夫のひ・と・り・ご・と](フジテレビWebサイト内のブログ)


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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*[[猪口拓]]
*[[猪口拓]]


== 外部リンク ==
* {{Wayback|url=http://blog.fujitv.co.jp/hitorigoto/index.html |title=上田昭夫のひ・と・り・ご・と |date=20090930055140}}(フジテレビWebサイト内のブログ)

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2024年7月2日 (火) 12:26時点における最新版

上田 昭夫
生年月日 (1952-10-21) 1952年10月21日
出身地 日本の旗 日本 東京都
没年月日 (2015-07-23) 2015年7月23日(62歳没)
死去地 日本の旗 日本 東京都
身長 160cm
体重 60kg
大学 慶應義塾大学商学部卒業
ラグビーユニオンでの経歴
ポジション スクラムハーフ
アマチュア経歴
チーム 出場 (得点)
慶應義塾蹴球部 ()
シニア経歴
チーム 出場 (得点)
トヨタ自工 ()
代表
チーム 出場 (得点)
 日本 6 ()

上田 昭夫(うえだ あきお、 1952年10月21日 - 2015年7月23日)は、日本ラグビー選手(SH)及び指導者。元日本代表でキャップ6。元慶應義塾體育會蹴球部(以下、慶大)監督。フジテレビジョン社員としてニュースキャスターを務めたことでも知られる。

来歴・人物

[編集]

東京都豊島区目白[1]出身。父親は慶應義塾大学医学部出身[2]医師衛生学者[3]慶應義塾幼稚舎慶應義塾普通部慶應義塾高等学校慶應義塾大学商学部卒業。幼稚舎2年次に発生した雅樹ちゃん誘拐殺人事件で犠牲になった児童は、上田の幼稚舎時代の同級生であった。幼稚舎5年次よりラグビーを始める。大学在学中は蹴球部(ラグビー部)に所属し、4年生の時に主将を務めた。高校の同期に作曲家吉松隆がいる[4]

ラグビー選手時代

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大学卒業後、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)に入社。ラグビー日本代表選手として海外遠征をするなかで、競技生活を続ける決意をし入社後僅か半年でラグビー部のあるトヨタ自動車工業(以下、トヨタ自工)へ転職。1978年(1977年度)にはトヨタ自工ラグビー部(現・トヨタ自動車ヴェルブリッツ)で、境政義、田中伸典、高田司らとともに、全国社会人ラグビーフットボール大会及び、日本ラグビーフットボール選手権大会(以下、日本選手権)制覇。ラグビー日本代表選手としては、1975年の対ウェールズ代表戦が初キャップ試合。主に松尾雄治とハーフ団を組んだ。

慶大監督として日本一をもたらす

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1984年、母校の慶大監督に就任。同年度の関東大学ラグビー対抗戦(以下、対抗戦)で優勝に導く。その後、全国大学ラグビーフットボール選手権大会(以下、大学選手権)では決勝に進出し、同大会3連覇を狙う同志社大学と対戦。同志社有利という下馬評の中、最後まで健闘したが、6-10で惜敗した。

翌1985年度は後に日本代表選手となる松永敏宏村井大次郎に加え、玉塚元一 (後のローソン社長)らが卒業した影響もあり、対抗戦ではまさかの4位に甘んじ、かろうじて、大学選手権の出場権をかけた、リーグ戦グループ(以下、リーグ戦)との交流試合へと駒を進めた。すると、この試合で同年度のリーグ戦を制した日本大学を破って大学選手権出場を決めると、大学選手権では大阪体育大学早稲田大学を破って決勝進出。決勝は同年度に対抗戦で優勝した明治大学と対戦し、一進一退の攻防の末、12-12で引き分け。慶大として1968年度以来となる大学日本一を果たしたが、1986年1月15日に行われる日本選手権の出場権は、大学選手権決勝翌日の抽選の結果、慶大が出場権を得た。

迎えた日本選手権は、当時、上田自身がまだ在籍していたトヨタ自動車が相手。また、トヨタ自動車の当時の監督は、選手として上田とともに8年前の日本一を経験した境政義という、因縁尽くしの対戦となったが、18-13で制し、大学チームとしては、1975年度の明治大学以来、史上5校目となるラグビー日本一をもたらした。日本一となった試合の主な選手には、生田久貴福澤克雄TBSテレビテレビディレクター映画監督)などがいた。なお、日本一を決めた試合を最後に、上田は慶大監督を退任した。

ニュースキャスターへ転身

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その後、1987年に一芸入試でフジテレビに転職。政治部記者を経て、『FNN DATE LINE』『FNNスーパータイム』『FNN おはよう!サンライズ』などの番組で総合司会を歴任。『スーパータイム』では総合司会(メインキャスター)を務めたが、降板後にスポーツへの造詣の深さを買われ、スポーツ担当キャスターに転身している。その後、スポーツ局スポーツ業務推進センター・スポーツ業務部デスク担当部長、スポーツ局スポーツ業務推進センター・スポーツメディア事業部ゼネラルプロデューサーを経て、2012年10月に定年退職した。

再び大学日本一をもたらす

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上田が監督を退いた後、慶大は対抗戦での成績不振が長引き、大学選手権にすら出場できない、どん底の状態が続いた。こうした惨状を受け、1994年、再び慶大監督に復帰。同時に、慶應義塾蹴球部総監督にも就任。小学校(幼稚舎)・中学校(中等部・普通部)・高等学校・大学の一貫した強化のため、マネジメントを担った。その一方で、上田は、他の強豪校に対抗するため、高校日本代表選手をはじめとする、全国の有力高校生に自ら手紙を書いて勧誘に当たった[5]。その結果、上田が監督就任5年目以降は、熊谷良高田晋作和田康二といった、付属以外の高校出身者が主将となってチームを牽引。一方で、野澤武史らの付属出身者も彼らをうまくサポートした。

熊谷が主将を務めた1998年度、慶大は日本一となった1985年度以来、13年ぶりとなる大学選手権出場を決め、準決勝に進出。その後、慶大は2018年度まで大学選手権出場が続いた。続いて、高田が主将を務めた1999年度において、15年ぶりとなる対抗戦優勝を果たした。続く大学選手権では法政、日本、同志社を破り、決勝では2連覇中の関東学院大学と対戦。27-7で快勝し、日本一を果たした1985年度以来、14年ぶり3度目の大学日本一を創部100周年の節目に果たした。和田が主将を務めた2000年度は対抗戦で連覇を達成したが、大学選手権では準決勝で敗退。野澤が主将を務めた2001年度も大学選手権では準決勝で敗退し、このシーズンをもって監督を退任した。

晩年はフジテレビ在籍のままで、慶大マネジメントアドバイザーを務める他、tvk(テレビ神奈川)のラグビー解説者、FM放送の解説者として出演したほか、2009年には、日本で開かれたU20世界ラグビー選手権のトーナメントアンバサダーに就任、今大会のホストブロードキャスターであるJ SPORTSで解説も務めた。

生前は慶應義塾に対して非常に強い愛校心を持っていた。

第98回慶應義塾同志社のラグビー定期戦は上田昭夫氏追悼試合を兼ねて開催された。[6]会場には半旗が掲げられた。(2015年9月・神奈川県立保土ヶ谷公園ラグビー場

死去

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2015年7月23日に死去。62歳没。以前からアミロイドーシスの治療を行っていた[7]

主な出演番組

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報道番組

期間 番組名 役職 担当日 備考
1988年4月1日 1989年3月31日 FNN DATE LINE キャスター 平日
1989年4月3日 1991年3月29日 FNNスーパータイム キャスター起用以前の1988年11月に当時キャスターであった逸見政孝の代役で3日間出演したことがある、スポーツコーナーのパートナーキャスターを兼務
1994年4月1日 1997年3月28日 スポーツキャスター
1993年4月1日 1994年3月31日 FNN おはよう!サンライズ 司会

その他

1985年度の日本一

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慶大は、1985年度の第23回日本ラグビーフットボール選手権大会1986年1月15日)で、トヨタ自動車を18-13で破り初優勝を果たした。下記は日本一の試合時におけるフィフティーンである。