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[[ファイル:samuel houston.jpg|thumb|サミュエル・ヒューストン]]
|人名=サミュエル・ヒューストン
'''サミュエル・ヒューストン'''('''Samuel Houston''', [[1793年]][[3月2日]] - [[1863年]][[7月26日]])は、19世紀[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の軍人、政治家。[[テキサス州]][[ヒューストン]]の名の由来となった。
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|就任日=[[1859年]][[12月21日]]<ref name="isbn0-671-88071-3">{{Citation |author=Williams, John H. |title=Sam Houston: Life and Times of Liberator of Texas an Authentic American Hero |publisher=Touchstone |location=New York, NY |year=1994 |page=316 |isbn=0-671-88071-3 |oclc= |doi= |accessdate=}}</ref>
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|職名2=[[テキサス州]]選出[[アメリカ合衆国上院|上院]]議員
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|退任日2=[[1859年]][[3月4日]]
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|職名3=[[テキサス共和国大統領|大統領]]
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|出生日={{生年月日と年齢|1793|3|2|no}}
|生地={{USA1777}}、[[バージニア州]][[ロックブリッジ郡 (バージニア州)|ロックブリッジ郡]]
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}}
'''サミュエル・"サム"・ヒューストン'''({{lang-en|Samuel "Sam" Houston}}, [[1793年]][[3月2日]] - [[1863年]][[7月26日]])は、19世紀の[[アメリカ合衆国]]の軍人、政治家。アメリカ史上唯一、[[テネシー州]]と[[テキサス州]]という二つの異なった州で知事を務めた人物である。


== 概要 ==
[[バージニア州]]ロックブリッジ郡に生まれる。[[1818年]]に軍を退役したのち、[[弁護士]]となる。[[1823年]]からアメリカ合衆国の下院議員、[[1827年]]から[[テネシー州知事]]をつとめる。[[1835年]]からのテキサス独立戦争では、テキサス軍を率いてメキシコと戦い、1836年4月には[[サンタ・アナ]]将軍を捕らえて独立を認めさせた。同年成立した[[テキサス共和国]]の初代大統領に選ばれた。1838年には一旦落選したが、1841年には再び大統領の座に就いている。[[1845年]]テキサスが[[テキサス併合|アメリカに併合]]されると、州選出の上院議員を13年間つとめ、[[1859年]]には[[テキサス州知事]]となった。
[[バージニア州]][[シェナンドー谷]]の[[ティンバー・リッジ]]で生まれ、{{仮リンク|スコットランド=アイルランド系アメリカ人|en|Scotch-Irish American}}の出であった。テキサスの歴史における重要人物であり、初代および第3代[[テキサス共和国大統領]]を務め、テキサスが合衆国に加わった後は州選出上院議員、最後はテキサス州知事を務めた。テキサス州が合衆国を脱退すると、[[アメリカ連合国|連合国]]への忠誠を拒否して知事を辞職した<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=m1untS_OEKUC&pg=PA70&dq=sam+houston+governor+texas+resigned&hl=en&ei=FzRxTYi1Mcactwep9NH2Dg&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q=sam%20houston%20governor%20texas%20resigned&f=false Magazine article, The Biggest Texan: A Profile of Sam Houston], by Margaret Coit, Boys' Life Magazine, April, 1963</ref>。流血を避けるため彼は[[北軍|ユニオン軍]]による南部同盟の反乱鎮圧の申し出を拒否した。代わりに[[南北戦争]]の終わりまで[[ハンツビル (テキサス州)|ハンツビル]]に退き、そこで死去した。

その前半生には、バージニアからテネシーへの転居、[[チェロキー|チェロキー・ネイション]]での時間(後に彼は国民として認められ、妻を娶った)、[[米英戦争]]での兵役、テネシー政界での成功が含まれる。

1827年、ヒューストンは[[ジャクソン流民主主義]]者として[[テネシー州知事]]に選出された<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=nycc4POjolMC&pg=PA21&dq=sam+houston+governor+tennessee&hl=en&ei=hjdxTZaeIciUtwea3bz4Dg&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q=sam%20houston%20governor%20tennessee&f=false Sam Houston's Wife: A Biography of Margaret Lea Houston], by William Seale, 1992, page 21</ref>。1829年に知事を辞職、[[アーカンソー準州]]に転居する<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=-14gbMQftG0C&pg=PA83&dq=sam+houston+resigned+governor+tennessee&hl=en&ei=cThxTd-cDc6EtgfY5_iEDw&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q=sam%20houston%20resigned%20governor%20tennessee&f=false Representing Texas], by Ben R. Guttery, 2008, page 83</ref>。その後まもなくテキサスに移り住み、続いてメキシコの州に移動、[[テキサス革命]]の指導者となった<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=fMCAuw4JifYC&pg=PA158&dq=sam+houston+leader+texas+revolution&hl=en&ei=YjlxTeCiMcfPgAeT5d1E&sa=X&oi=book_result&ct=result&sqi=2&redir_esc=y#v=onepage&q=sam%20houston%20leader%20texas%20revolution&f=false Texas Cemeteries], by Bill Harvey, 2003, page 158</ref>。彼はアメリカ合衆国の[[テキサス併合]]を支援した<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=scHi0mVNoS8C&pg=PA268&dq=sam+houston+supported+annexation+texas&hl=en&ei=8TlxTZDKBJSEtgfMrNCIDw&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false Our Nation's Archive: The History of the United States in Documents], by Erik A. Bruun, 1999, page 268</ref>。1832年には連邦下院議員との口論に関与し、裁判で注目を浴びた<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=uTSD2w4SIVQC&pg=PA6&dq=sam+houston+governor+tennessee+resigned+fight+congressman&hl=en&ei=RjVxTY-cB9LAtgeB-_D-Dg&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false Sam Houston's Texas], by Sue Flanagan, 1964, page 6</ref>。[[テキサス州]][[ヒューストン]]は彼の功績に因んで命名された。ヒューストンの名声はその死後に高まり、その功績をたたえて記念博物館、陸軍基地、国有林、歴史公園、大学、そしてアメリカ人として最大の立像などが作られた<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=EPJ_0i9zNS8C&pg=PA216&dq=sam+houston+statue+free+standing&hl=en&ei=SzpxTYDoFs6gtgfe6LDwDg&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false Oddball Texas: A Guide to Some Really Strange Places], by Jerome Pohlen, 2006, page 216</ref>。

==生い立ちおよび家族==
[[Image:Houstonbirthplacemarker.jpg|thumbnail|left|[[バージニア州]][[ロックブリッジ郡 (バージニア州)|ロックブリッジ郡]]の生誕地を示す碑]]
サミュエル・ヒューストン少佐とエリザベス・パクストン夫妻の息子として生まれた。ヒューストンの祖先は、17世紀後半にスコットランドで家督を築き上げた高祖父のジョン・ヒューストン卿までたどることができる。ヒューストン卿の2番目の息子、ジョン・ヒューストンは[[グレートブリテン王国|イギリス]]の[[プランテーション]]時代に[[アイルランド王国|アイルランド]]の[[アルスター]]に移住した。[[長子相続]]制の下では地所を引き継ぐことができなかった。アイルランドで数年を過ごした後、ジョンは1735年に家族と共に北アメリカの植民地に移住、ペンシルベニアに入植した。[[ルーテル教会|ルター派]]の[[ドイツ人|ドイツ]]系移民が増え、ジョンは一家と他のスコットランド=アイルランド系移民と共に移住を決め、[[バージニア州]]の[[シェナンドー谷]]へ移り住んだ<ref name=Haley>[https://books.google.co.uk/books?id=y3uHDkltcIQC&pg=PA5&dq=sam+houston+scotland&cd=1&hl=en James L. Haley, ''Sam Houston''], Norman, OK: University of Oklahoma Press, 2004</ref>。

シェナンドー谷には多くのスコットランド=アイルランド系移民の農場が所在した。新参者の中にはラルー・エリアのライル家も含まれ、ティンバー・リッジで[[長老派教会]]を設立するのに尽力した。ヒューストンの一家はその近くに住み着いた。ジョンは徐々に土地を開拓し、[[奴隷]]を購入した<ref name="Haley" /> 。息子のロバートがその土地を引き継いだ。5人の息子の末子がサミュエル・ヒューストンであった。

[[File:Wiki samhouston.JPG|thumb|right|180px|<center>'''''~ サム・ヒューストン ~'''''</center><center>1963年発行の記念切手</center>]]
サミュエル・ヒューストンは[[第11バージニア連隊|モーガンライフル旅団]]に入隊し、[[アメリカ独立戦争]]の間に少佐に任命された。当時は民兵の士官が自身の費用を支払うこととなっていた。彼はエリザベス・パクストンと結婚し父親の農園を引き継いだが、管理の才能に欠け軍役の為に借金をすることとなった<ref name=Haley/>。夫妻の子供はティンバー・リッジ教会近くの農園で生まれ、サムは1793年3月2日に生まれた。サムは9人いた子供の5番目であり、5番目の息子であった。

負債を解消するために転居を計画し、サミュエル・ヒューストンはテネシー州東部の親類の近く、[[ブラウント郡 (テネシー州)|ブラウント郡]]の郡庁所在地である[[メアリービル (テネシー州)|メアリービル]]への転居を決めた。彼は1807年に死去し、その死は家族との転居が完了する前であった。エリザベスは5人の息子と3人の娘を連れて新居に移り住んだ<ref name="Haley" />。家族がメアリービルに転居したときサムは14歳で、辺境において基礎的な教育を受けただけであった<ref name="Neely, Jack 1995">Neely, Jack. ''Knoxville's Secret History'', Scruffy City Publishing, 1995.</ref>。1809年、16歳のサムは兄の店で店員として働くことに不満を持ち家出した。

彼は南西部に向かい、[[ハイワシー川]]のハイワシー島に住む、アフルデギ率いるチェロキー族に加わり数年を過ごした。アフルデギは後に{{仮リンク|ジョン・ジョリー (チェロキー族)|label=ジョン・ジョリー|en|John Jolly}}として知られた。ジョン・ジョリーはヒューストンの養父となり、彼にチェロキーの名「''Colonneh''」を与えた。その意味は「渡りガラス」であった<ref name=hbot>{{Handbook of Texas|id=fho73|name=Samuel Houston}}</ref>。ヒューストンは流暢なチェロキーの言葉を学び、その一方数ヶ月おきにメアリービルの家族を訪問した。1812年、19歳の時にメアリービルの家族の元に帰り、メアリービルと[[ノックスビル (テネシー州)|ノックスビル]]の間に教室が一つの学校を設立した<ref name=Haley/>。これはテネシーで初めて設立された小学校であった。

==米英戦争==
1812年、ヒューストンはノックスビルの訓練キャンプに入営し<ref name="Neely, Jack 1995"/>、[[第39歩兵連隊]]に入隊、[[米英戦争]]に従軍する。その年の12月、彼は歩兵から軍曹へ昇進した。1814年3月の[[ホースシュー・ベンドの戦い]]で彼は[[クリーク族]]の矢で負傷した。彼は傷に包帯を巻いてすぐに戦いに加わった。[[アンドリュー・ジャクソン]]が{{仮リンク|レッド・スティックス|en|Red Sticks}}攻撃の志願兵を募ったとき、ヒューストンはこれに応募したが、この攻撃で彼は肩と腕に銃弾を受けた。彼は軍務で障害を受けてメアリービルに帰還したが、陸軍による無料の治療の申し出を受けて[[ニューオーリンズ]]の病院で治療を受けた<ref>Neely, Jack, ''Knoxville's Secret History'', Scruffy City Publishing, 1995</ref>

ヒューストンはジャクソンの知遇を得る。1817年にジャクソンはテネシー東部(現在のアーカンソー州)からチェロキー族を掃討するのに関してヒューストンを副代理人に指名した。彼は[[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]の[[ジョン・カルフーン]]と意見の相違があり、カルフーンはヒューストンが会議に際してチェロキーの服を着てきたことをたしなめた。さらに、ヒューストンが管理するインディアンへの供給物の金額に関しての問い合わせが行われた。ヒューストンはこれに怒り、1818年に辞職した<ref name="eb1911">{{Cite EB1911|wstitle=Houston, Sam}}</ref>。

==テネシー州政界==
ジェームズ・トリンブル判事のオフィスで6か月間法律を学んだ後、ヒューストンは[[ナッシュビル]]での司法試験に合格し、[[テネシー州]][[レバノン (テネシー州)|レバノン]]で研修を受けた<ref name=tour>{{cite web |url=http://www.wilsoncountycvb.com/images/tour.pdf |title=Lebanon, Tennessee: A Tour of Our City |format=PDF |publisher= Lebanon/Wilson County Chamber of Commerce |accessdate=February 5, 2007 }} {{リンク切れ|date=September 2010|bot=H3llBot}}</ref>。1818年後半に[[ナッシュビル]]地区の検事総長に任命され、また州市民軍の司令官にも任命された。

1822年、ヒューストンはテネシー州で連邦下院議員に選出される。彼は仲間のテネシー人と共に民主党員[[アンドリュー・ジャクソン]]の忠実な支持者であった。インディアンに対する施策に関する考えには大きな隔たりがあったものの、彼はジャクソンからの政治的保護を受けていると広く考えられた。ヒューストンは、1823年から1827年まで下院議員を務め、1824年に改選されている。

1827年にヒューストンは再選のための出馬を断った。替わりにテネシー州知事選に立候補し、元知事の[[ウィリアム・キャロル]]を破って当選した。1828年に再選のための出馬を計画していたものの、最初の妻との離婚の後に知事を辞職した。

==テキサス==
{{節スタブ}}
[[1835年]]からのテキサス独立戦争では、テキサス軍を率いてメキシコと戦い、1836年4月には[[アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ|サンタ・アナ]]将軍を捕らえて独立を認めさせた。同年成立した[[テキサス共和国]]の初代大統領に選ばれた。1838年には一旦落選したが、1841年には再び大統領の座に就いている。[[1845年]]テキサスが[[テキサス併合|アメリカに併合]]されると、州選出の上院議員を13年間つとめ、[[1859年]]には[[テキサス州知事]]となった。


1861年、[[南北戦争]]の勃発に先立ち、テキサス州のアメリカ合衆国離脱及び南部13州からなる[[アメリカ連合国]]への加盟に反対し、知事の座を退いた。
1861年、[[南北戦争]]の勃発に先立ち、テキサス州のアメリカ合衆国離脱及び南部13州からなる[[アメリカ連合国]]への加盟に反対し、知事の座を退いた。


== 関連項 ==
== 関連項 ==
*[[テキサス州の歴史]]
*[[テキサス州の歴史]]
*[[スティーブン・オースティン]]
*[[スティーブン・オースティン]]

==参照==
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{commonscat|Sam Houston}}
{{CongBio|H000827}}
* {{Handbook of Texas|id=fho73|name=Samuel Houston}}
*[http://www.thealamofilm.com/roosevelt-sam-houston.shtml Roosevelt and Sam Houston] - story about President Roosevelt's experience with Sam Houston
*[http://www.thealamofilm.com/roosevelt-sam-houston.shtml Roosevelt and Sam Houston] - story about President Roosevelt's experience with Sam Houston
*[http://bioguide.congress.gov/scripts/biodisplay.pl?index=H000827 Congressional biography]
*[http://bioguide.congress.gov/scripts/biodisplay.pl?index=H000827 Congressional biography]
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*[http://www.texasbob.com/texdoc10.html Sam Houston's Obituary - The Tri Weekly Telegraph, Houston, Texas July 29, 1863] - TexasBob.com
*[http://www.texasbob.com/texdoc10.html Sam Houston's Obituary - The Tri Weekly Telegraph, Houston, Texas July 29, 1863] - TexasBob.com
*[http://www.samhoustonhistoricschoolhouse.org/ Sam Houston Historic Schoolhouse] in Maryville, TN USA
*[http://www.samhoustonhistoricschoolhouse.org/ Sam Houston Historic Schoolhouse] in Maryville, TN USA
* [http://tennesseeencyclopedia.net/imagegallery.php?EntryID=H081 Tennessee Encyclopedia entry]
* [http://www.tennessee.gov/tsla/history/govpapers/findingaids/gp8.pdf Tennessee State Library & Archives, Papers of Governor Sam Houston, 1827-1829]
* [http://texasheritagesociety.org/Sam-Houston-Rode-a-Gray-Horse.html Sam Houston Rode a Gray Horse]
* [http://www.lib.utexas.edu/taro/ttusw/00229/tsw-00229.html Houston Family Papers, 1836-1869 and undated, in the Southwest Collection/Special Collections Library at Texas Tech University]


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2024年7月18日 (木) 22:01時点における最新版

サミュエル・ヒューストン
Samuel Houston


任期 1859年12月21日[1]1861年3月18日
副知事 エドワード・クラーク

任期 1846年2月21日1859年3月4日

任期 1841年12月13日1844年12月9日

任期 1836年10月22日1838年12月10日

任期 1827年10月1日1829年4月16日
副知事 ウィリアム・ホール

出生 (1793-03-02) 1793年3月2日
アメリカ合衆国バージニア州ロックブリッジ郡
死去 (1863-07-26) 1863年7月26日(70歳没)
アメリカ連合国テキサス州ハンツビル
政党 民主党
配偶者 エリザ・アレン
署名

サミュエル・"サム"・ヒューストン英語: Samuel "Sam" Houston, 1793年3月2日 - 1863年7月26日)は、19世紀のアメリカ合衆国の軍人、政治家。アメリカ史上唯一、テネシー州テキサス州という二つの異なった州で知事を務めた人物である。

概要

[編集]

バージニア州シェナンドー谷ティンバー・リッジで生まれ、スコットランド=アイルランド系アメリカ人英語版の出であった。テキサスの歴史における重要人物であり、初代および第3代テキサス共和国大統領を務め、テキサスが合衆国に加わった後は州選出上院議員、最後はテキサス州知事を務めた。テキサス州が合衆国を脱退すると、連合国への忠誠を拒否して知事を辞職した[2]。流血を避けるため彼はユニオン軍による南部同盟の反乱鎮圧の申し出を拒否した。代わりに南北戦争の終わりまでハンツビルに退き、そこで死去した。

その前半生には、バージニアからテネシーへの転居、チェロキー・ネイションでの時間(後に彼は国民として認められ、妻を娶った)、米英戦争での兵役、テネシー政界での成功が含まれる。

1827年、ヒューストンはジャクソン流民主主義者としてテネシー州知事に選出された[3]。1829年に知事を辞職、アーカンソー準州に転居する[4]。その後まもなくテキサスに移り住み、続いてメキシコの州に移動、テキサス革命の指導者となった[5]。彼はアメリカ合衆国のテキサス併合を支援した[6]。1832年には連邦下院議員との口論に関与し、裁判で注目を浴びた[7]テキサス州ヒューストンは彼の功績に因んで命名された。ヒューストンの名声はその死後に高まり、その功績をたたえて記念博物館、陸軍基地、国有林、歴史公園、大学、そしてアメリカ人として最大の立像などが作られた[8]

生い立ちおよび家族

[編集]
バージニア州ロックブリッジ郡の生誕地を示す碑

サミュエル・ヒューストン少佐とエリザベス・パクストン夫妻の息子として生まれた。ヒューストンの祖先は、17世紀後半にスコットランドで家督を築き上げた高祖父のジョン・ヒューストン卿までたどることができる。ヒューストン卿の2番目の息子、ジョン・ヒューストンはイギリスプランテーション時代にアイルランドアルスターに移住した。長子相続制の下では地所を引き継ぐことができなかった。アイルランドで数年を過ごした後、ジョンは1735年に家族と共に北アメリカの植民地に移住、ペンシルベニアに入植した。ルター派ドイツ系移民が増え、ジョンは一家と他のスコットランド=アイルランド系移民と共に移住を決め、バージニア州シェナンドー谷へ移り住んだ[9]

シェナンドー谷には多くのスコットランド=アイルランド系移民の農場が所在した。新参者の中にはラルー・エリアのライル家も含まれ、ティンバー・リッジで長老派教会を設立するのに尽力した。ヒューストンの一家はその近くに住み着いた。ジョンは徐々に土地を開拓し、奴隷を購入した[9] 。息子のロバートがその土地を引き継いだ。5人の息子の末子がサミュエル・ヒューストンであった。

~ サム・ヒューストン ~
1963年発行の記念切手

サミュエル・ヒューストンはモーガンライフル旅団に入隊し、アメリカ独立戦争の間に少佐に任命された。当時は民兵の士官が自身の費用を支払うこととなっていた。彼はエリザベス・パクストンと結婚し父親の農園を引き継いだが、管理の才能に欠け軍役の為に借金をすることとなった[9]。夫妻の子供はティンバー・リッジ教会近くの農園で生まれ、サムは1793年3月2日に生まれた。サムは9人いた子供の5番目であり、5番目の息子であった。

負債を解消するために転居を計画し、サミュエル・ヒューストンはテネシー州東部の親類の近く、ブラウント郡の郡庁所在地であるメアリービルへの転居を決めた。彼は1807年に死去し、その死は家族との転居が完了する前であった。エリザベスは5人の息子と3人の娘を連れて新居に移り住んだ[9]。家族がメアリービルに転居したときサムは14歳で、辺境において基礎的な教育を受けただけであった[10]。1809年、16歳のサムは兄の店で店員として働くことに不満を持ち家出した。

彼は南西部に向かい、ハイワシー川のハイワシー島に住む、アフルデギ率いるチェロキー族に加わり数年を過ごした。アフルデギは後にジョン・ジョリー英語版として知られた。ジョン・ジョリーはヒューストンの養父となり、彼にチェロキーの名「Colonneh」を与えた。その意味は「渡りガラス」であった[11]。ヒューストンは流暢なチェロキーの言葉を学び、その一方数ヶ月おきにメアリービルの家族を訪問した。1812年、19歳の時にメアリービルの家族の元に帰り、メアリービルとノックスビルの間に教室が一つの学校を設立した[9]。これはテネシーで初めて設立された小学校であった。

米英戦争

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1812年、ヒューストンはノックスビルの訓練キャンプに入営し[10]第39歩兵連隊に入隊、米英戦争に従軍する。その年の12月、彼は歩兵から軍曹へ昇進した。1814年3月のホースシュー・ベンドの戦いで彼はクリーク族の矢で負傷した。彼は傷に包帯を巻いてすぐに戦いに加わった。アンドリュー・ジャクソンレッド・スティックス英語版攻撃の志願兵を募ったとき、ヒューストンはこれに応募したが、この攻撃で彼は肩と腕に銃弾を受けた。彼は軍務で障害を受けてメアリービルに帰還したが、陸軍による無料の治療の申し出を受けてニューオーリンズの病院で治療を受けた[12]

ヒューストンはジャクソンの知遇を得る。1817年にジャクソンはテネシー東部(現在のアーカンソー州)からチェロキー族を掃討するのに関してヒューストンを副代理人に指名した。彼は陸軍長官ジョン・カルフーンと意見の相違があり、カルフーンはヒューストンが会議に際してチェロキーの服を着てきたことをたしなめた。さらに、ヒューストンが管理するインディアンへの供給物の金額に関しての問い合わせが行われた。ヒューストンはこれに怒り、1818年に辞職した[13]

テネシー州政界

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ジェームズ・トリンブル判事のオフィスで6か月間法律を学んだ後、ヒューストンはナッシュビルでの司法試験に合格し、テネシー州レバノンで研修を受けた[14]。1818年後半にナッシュビル地区の検事総長に任命され、また州市民軍の司令官にも任命された。

1822年、ヒューストンはテネシー州で連邦下院議員に選出される。彼は仲間のテネシー人と共に民主党員アンドリュー・ジャクソンの忠実な支持者であった。インディアンに対する施策に関する考えには大きな隔たりがあったものの、彼はジャクソンからの政治的保護を受けていると広く考えられた。ヒューストンは、1823年から1827年まで下院議員を務め、1824年に改選されている。

1827年にヒューストンは再選のための出馬を断った。替わりにテネシー州知事選に立候補し、元知事のウィリアム・キャロルを破って当選した。1828年に再選のための出馬を計画していたものの、最初の妻との離婚の後に知事を辞職した。

テキサス

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1835年からのテキサス独立戦争では、テキサス軍を率いてメキシコと戦い、1836年4月にはサンタ・アナ将軍を捕らえて独立を認めさせた。同年成立したテキサス共和国の初代大統領に選ばれた。1838年には一旦落選したが、1841年には再び大統領の座に就いている。1845年テキサスがアメリカに併合されると、州選出の上院議員を13年間つとめ、1859年にはテキサス州知事となった。

1861年、南北戦争の勃発に先立ち、テキサス州のアメリカ合衆国離脱及び南部13州からなるアメリカ連合国への加盟に反対し、知事の座を退いた。

関連項目

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参照

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  1. ^ Williams, John H. (1994), Sam Houston: Life and Times of Liberator of Texas an Authentic American Hero, New York, NY: Touchstone, p. 316, ISBN 0-671-88071-3 
  2. ^ Magazine article, The Biggest Texan: A Profile of Sam Houston, by Margaret Coit, Boys' Life Magazine, April, 1963
  3. ^ Sam Houston's Wife: A Biography of Margaret Lea Houston, by William Seale, 1992, page 21
  4. ^ Representing Texas, by Ben R. Guttery, 2008, page 83
  5. ^ Texas Cemeteries, by Bill Harvey, 2003, page 158
  6. ^ Our Nation's Archive: The History of the United States in Documents, by Erik A. Bruun, 1999, page 268
  7. ^ Sam Houston's Texas, by Sue Flanagan, 1964, page 6
  8. ^ Oddball Texas: A Guide to Some Really Strange Places, by Jerome Pohlen, 2006, page 216
  9. ^ a b c d e James L. Haley, Sam Houston, Norman, OK: University of Oklahoma Press, 2004
  10. ^ a b Neely, Jack. Knoxville's Secret History, Scruffy City Publishing, 1995.
  11. ^ Samuel Houston from the Handbook of Texas Online
  12. ^ Neely, Jack, Knoxville's Secret History, Scruffy City Publishing, 1995
  13. ^ Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Houston, Sam" . Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
  14. ^ Lebanon, Tennessee: A Tour of Our City” (PDF). Lebanon/Wilson County Chamber of Commerce. February 5, 2007閲覧。 [リンク切れ]

外部リンク

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アメリカ合衆国下院
先代
無し
テネシー州選出下院議員
テネシー州7区

1823年3月4日 - 1827年3月4日
次代
ジョン・ベル
公職
先代
ウィリアム・キャロル
テネシー州知事
1827年 - 1829年
次代
ウィリアム・ホール
先代
デヴィッド・バーネット
(代行)
テキサス共和国大統領
1836年 - 1838年
次代
ミラボー・B・ラマー
先代
ミラボー・B・ラマー
テキサス共和国大統領
1841年 - 1844年
次代
アンソン・ジョンズ
先代
ハーディン・ラネルズ
テキサス州知事
1859年 - 1861年
次代
エドワード・クラーク
アメリカ合衆国上院
先代
無し
アメリカ合衆国の旗 テキサス州選出上院議員(第2部)
1846年2月21日 - 1859年3月4日
同職:トーマス・J・ラスク, J・ピンクニー・ヘンダーソン, マティアス・ワード
次代
ジョン・ヘンプヒル