「チャールズ・ヨーク」の版間の差分
編集の要約なし |
テンプレート整理、一部訳語修正 |
||
(2人の利用者による、間の2版が非表示) | |||
18行目: | 18行目: | ||
|term_end = 1770年1月20日 |
|term_end = 1770年1月20日 |
||
|predecessor = [[チャールズ・プラット (初代カムデン伯爵)|カムデン男爵]] |
|predecessor = [[チャールズ・プラット (初代カムデン伯爵)|カムデン男爵]] |
||
|successor = 空位(次の在任者は[[ヘンリー・バサースト (第2代バサースト伯爵)|アプスリー |
|successor = 空位(次の在任者は[[ヘンリー・バサースト (第2代バサースト伯爵)|アプスリー男爵]]) |
||
}} |
}} |
||
'''チャールズ・ヨーク'''({{lang-en|Charles Yorke}} {{post-nominals|country=GBR|PC}}、[[1722年]][[12月30日]] - [[1770年]][[1月20日]])は、[[グレートブリテン王国]]の法律家。1770年1月に[[大法官]]に任命されたが<ref name="London Gazette">{{ |
'''チャールズ・ヨーク'''({{lang-en|Charles Yorke}} {{post-nominals|country=GBR|PC}}、[[1722年]][[12月30日]] - [[1770年]][[1月20日]])は、[[グレートブリテン王国]]の法律家。1770年1月に[[大法官]]に任命されたが<ref name="London Gazette">{{London Gazette|issue=11010|page=1|date=16 January 1770}}</ref>、その3日後に自殺したことで知られる。 |
||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
[[フィリップ・ヨーク (初代ハードウィック伯爵)|初代ハードウィック伯爵フィリップ・ヨーク]]の次男として[[ロンドン]]で生まれ、[[ケンブリッジ大学]]{{仮リンク|コーパス・クリスティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|en|Corpus Christi College, Cambridge|label=コーパス・クリスティ・カレッジ}}で教育を受けた<ref>{{ |
[[フィリップ・ヨーク (初代ハードウィック伯爵)|初代ハードウィック伯爵フィリップ・ヨーク]]の次男として[[ロンドン]]で生まれ、[[ケンブリッジ大学]]{{仮リンク|コーパス・クリスティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|en|Corpus Christi College, Cambridge|label=コーパス・クリスティ・カレッジ}}で教育を受けた<ref>{{Acad|id=YRK739C|name=Yorke, Charles}}</ref>。1740年代初期に兄[[フィリップ・ヨーク (第2代ハードウィック伯爵)|フィリップ]]とともに『{{仮リンク|アシニアン・レターズ|en|Athenian Letters}}』を共作、文学での才能を示した。1745年、[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]を犯した者の{{仮リンク|資産没収|en|Asset forfeiture}}法についての論文を書き、[[カロデンの戦い]]の後に父がスコットランドの[[ジャコバイト]]貴族に与えた刑罰を弁護した。翌年、弁護士資格免許を得た<ref name="eb">{{Cite EB1911|wstitle=Yorke, Charles|volume=28|page=930}}</ref>。 |
||
父が大法官を務めていたこともあり、ヨークは1747年に{{仮リンク|大法官府裁判所|en|Court of Chancery}}に閑職を得て、同年に{{仮リンク|ライゲート選挙区|en|Reigate (UK Parliament constituency)}}で当選して[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員になった。その後、1768年までライゲート選挙区の議員を務めた後、同年に{{仮リンク|ケンブリッジ大学選挙区|en|Cambridge University (UK Parliament constituency)}}に鞍替えした。彼は庶民院で父による婚姻法改革(後の{{仮リンク|1753年婚姻法|en|Marriage Act 1753}}につながる改革)を支持する演説をした<ref name="eb"/>。1750年12月13日、[[王立協会フェロー]]に選出された<ref>{{FRS|code=NA4988|title=Yorke; Charles (1722 - 1770)|access-date=19 June 2021}}</ref>。 |
父が大法官を務めていたこともあり、ヨークは1747年に{{仮リンク|大法官府裁判所|en|Court of Chancery}}に閑職を得て、同年に{{仮リンク|ライゲート選挙区|en|Reigate (UK Parliament constituency)}}で当選して[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員になった。その後、1768年までライゲート選挙区の議員を務めた後、同年に{{仮リンク|ケンブリッジ大学選挙区|en|Cambridge University (UK Parliament constituency)}}に鞍替えした。彼は庶民院で父による婚姻法改革(後の{{仮リンク|1753年婚姻法|en|Marriage Act 1753}}につながる改革)を支持する演説をした<ref name="eb"/>。1750年12月13日、[[王立協会フェロー]]に選出された<ref>{{FRS|code=NA4988|title=Yorke; Charles (1722 - 1770)|access-date=19 June 2021}}</ref>。 |
||
1751年、[[イギリス東インド会社]]の法律顧問になり、1756年に{{仮リンク| |
1751年、[[イギリス東インド会社]]の法律顧問になり、1756年に{{仮リンク|法務次官 (イギリス)|en|Solicitor General for England and Wales|label=法務次官}}に任命された。彼は在任期間を通して[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|大ピット]]の外交政策を支持した<ref name="eb" />。 |
||
1761年に大ピットとともに辞任したが、1762年の[[ビュート伯爵内閣]]で[[ |
1761年に大ピットとともに辞任したが、1762年の[[ビュート伯爵内閣]]で[[法務長官 (イギリス)|法務長官]]に就任した。続く[[グレンヴィル内閣]](1763年 - 1765年)では[[ジョン・ウィルクス]]の『{{仮リンク|ノース・ブリトン|en|The North Briton}}』紙で提起された問題について政府に助言を与え、『ノース・ブリトン』紙の誹謗中傷を反逆罪にあたらず微罪にすぎないとした。1763年11月に法務総裁を辞任すると、大ピットはヨークを野党に引き込もうとした。ヨークはウィルクスの件について、大ピットと同じく一般逮捕状を批判したものの、{{仮リンク|議会特権|en|Parliamentary privilege}}が誹謗罪に適用できないと演説して大ピットの誘いを退けた。この演説は[[ホレス・ウォルポール]]から大いに賞賛された。それ以降、ヨークは{{仮リンク|ロッキンガム派|en|Rockingham Whigs}}の一員になり、1764年にドーヴァー市裁判所判事に選出された後1765年に[[第1次ロッキンガム侯爵内閣]]で再び法務総裁に就任、内閣の政策形成に貢献した。彼は[[1765年印紙法|印紙法]]廃止と{{仮リンク|宣言法 (1766年)|en|Declaratory Act|label=宣言法}}制定を支持したほか、[[ケベック]]に関する憲法を起草、後の1774年[[ケベック法]]につながった<ref name="eb" />。 |
||
1766年に[[チャタム伯爵内閣]]が成立して[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|チャタム伯爵]]と[[オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)|グラフトン公爵]]が権力を握ると、ヨークは辞任して、以降の4年間に議会での弁論にほとんど関わらなかった。1770年、大法官[[チャールズ・プラット (初代カムデン伯爵)|カムデン男爵]]が罷免されると、グラフトン公爵から大法官就任を要請されたが、ヨークはそれ以前にロッキンガム派にグラフトン公爵の下で公職に就かないことを誓っていた。しかし、国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]が今就任しなければ以降大法官になる機会が2度と訪れないと圧力をかけると、ヨークは圧力に屈し<ref name="eb" />、1770年1月17日に大法官と[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]に任命された<ref name="London Gazette" />。同日に兄の邸宅に向かい、野党の指導部に会うと、ヨークは恥辱を感じて自宅に飛び帰り、3日後の1770年1月20日に自殺した。ヨークをモーデン男爵に叙する特許状はすでに起草されていたが、彼は死の直前に特許状の正式化を拒否した<ref name="eb" />。 |
1766年に[[チャタム伯爵内閣]]が成立して[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|チャタム伯爵]]と[[オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)|グラフトン公爵]]が権力を握ると、ヨークは辞任して、以降の4年間に議会での弁論にほとんど関わらなかった。1770年、大法官[[チャールズ・プラット (初代カムデン伯爵)|カムデン男爵]]が罷免されると、グラフトン公爵から大法官就任を要請されたが、ヨークはそれ以前にロッキンガム派にグラフトン公爵の下で公職に就かないことを誓っていた。しかし、国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]が今就任しなければ以降大法官になる機会が2度と訪れないと圧力をかけると、ヨークは圧力に屈し<ref name="eb" />、1770年1月17日に大法官と[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]に任命された<ref name="London Gazette" />。同日に兄の邸宅に向かい、野党の指導部に会うと、ヨークは恥辱を感じて自宅に飛び帰り、3日後の1770年1月20日に自殺した。ヨークをモーデン男爵に叙する特許状はすでに起草されていたが、彼は死の直前に特許状の正式化を拒否した<ref name="eb" />。 |
||
36行目: | 36行目: | ||
[[ファイル:Tyttenhanger House, from, A series of picturesque views of seats of the noblemen and gentlemen of Great Britain and Ireland (1840).jpg|thumb|タイテンハンガー・ハウス、1840年。]] |
[[ファイル:Tyttenhanger House, from, A series of picturesque views of seats of the noblemen and gentlemen of Great Britain and Ireland (1840).jpg|thumb|タイテンハンガー・ハウス、1840年。]] |
||
ヨークは2度結婚した<ref name="eb"/>。1755年5月19日、ヨークはキャサリン・ブラウント・フリーマン({{lang|en|Katherine Blount Freeman}})と結婚、1男をもうけた。 |
ヨークは2度結婚した<ref name="eb"/>。1755年5月19日、ヨークはキャサリン・ブラウント・フリーマン({{lang|en|Katherine Blount Freeman}})と結婚、1男をもうけた。 |
||
* |
*[[フィリップ・ヨーク (第3代ハードウィック伯爵)|フィリップ]](1757年 - 1834年) - 第3代ハードウィック伯爵 |
||
1762年12月30日、アグネタ・ジョンソン({{lang|en|Agneta Johnson}})と結婚して、2男1女をもうけた。 |
1762年12月30日、アグネタ・ジョンソン({{lang|en|Agneta Johnson}})と結婚して、2男1女をもうけた。 |
||
49行目: | 49行目: | ||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
*{{HistoryofParliament|1754|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1754-1790/member/yorke-hon-charles-1722-70|title=YORKE, Hon. Charles (1722-70), of Tittenhanger, Herts.|last=Cannon|first=J. A.}} |
|||
*Cannon, J. (1964) "Yorke, Charles", in L.Namier and J.Brooke (eds.) [1964](1985) ''The History of Parliament: The House of Commons, 1754–1790'', vol.3 new ed., London:Secker & Warburg, {{ISBN2|0-436-30420-1}} |
|||
* |
*{{Cite ODNB|id=30237|title=Yorke, Charles (1722–1770)}} {{DNBfirst|wstitle=Yorke, Charles (1722-1770)|volume=63|pages=337–340}} |
||
*{{cite |
*{{cite book2 |language=en | title=The Life and Correspondence of Philip Yorke, Earl of Hardwicke, Lord High Chancellor of Great Britain | isbn=0-374-98837-4 | publisher=Octagon | last=Yorke |first=P. C. | orig-year=1913 | year=1977 }} |
||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
{{ |
{{Commonscat}} |
||
*{{Internet Archive author|name=Charles Yorke}} |
*{{Internet Archive author|name=Charles Yorke}} |
||
⚫ | |||
*{{OL author}} |
*{{OL author}} |
||
⚫ | |||
{{s-start}} |
{{s-start}} |
||
{{s-par|gb}} |
{{s-par|gb}} |
||
63行目: | 63行目: | ||
{{s-bef|before={{仮リンク|エドワード・フィンチ (外交官)|en|Edward Finch (diplomat)|label=エドワード・フィンチ}}|before2=[[トマス・タウンゼンド (イギリス庶民院議員)|トマス・タウンゼンド]]}} |
{{s-bef|before={{仮リンク|エドワード・フィンチ (外交官)|en|Edward Finch (diplomat)|label=エドワード・フィンチ}}|before2=[[トマス・タウンゼンド (イギリス庶民院議員)|トマス・タウンゼンド]]}} |
||
{{s-ttl|title=[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員({{仮リンク|ケンブリッジ大学選挙区|en|Cambridge University (UK Parliament constituency)}}選出)|with=[[トマス・タウンゼンド (イギリス庶民院議員)|トマス・タウンゼンド]]|years=1768年 - 1770年}} |
{{s-ttl|title=[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員({{仮リンク|ケンブリッジ大学選挙区|en|Cambridge University (UK Parliament constituency)}}選出)|with=[[トマス・タウンゼンド (イギリス庶民院議員)|トマス・タウンゼンド]]|years=1768年 - 1770年}} |
||
{{s-aft|after=[[ウィリアム・ |
{{s-aft|after=[[ウィリアム・ド・グレイ (初代ウォルシンガム男爵)|サー・ウィリアム・ド・グレイ]]|after2=[[トマス・タウンゼンド (イギリス庶民院議員)|トマス・タウンゼンド]]}} |
||
{{s-legal}} |
{{s-legal}} |
||
{{succession box | title={{仮リンク|法務次官 (イギリス)|en|Solicitor General for England and Wales|label=法務次官}} | before={{仮リンク|リチャード・ロイド (1761年没)|en|Richard Lloyd (died 1761)|label=サー・リチャード・ロイド}} | after=[[フレッチャー・ノートン (初代グラントリー男爵)|サー・フレッチャー・ノートン]] | years=1756年 - 1762年}} |
{{succession box | title={{仮リンク|法務次官 (イギリス)|en|Solicitor General for England and Wales|label=法務次官}} | before={{仮リンク|リチャード・ロイド (1761年没)|en|Richard Lloyd (died 1761)|label=サー・リチャード・ロイド}} | after=[[フレッチャー・ノートン (初代グラントリー男爵)|サー・フレッチャー・ノートン]] | years=1756年 - 1762年}} |
||
{{succession box | title=[[ |
{{succession box | title=[[法務長官 (イギリス)|法務長官]] | before = [[チャールズ・プラット (初代カムデン伯爵)|サー・チャールズ・プラット]]|after = [[フレッチャー・ノートン (初代グラントリー男爵)|サー・フレッチャー・ノートン]]|years=1762年 - 1763年}} |
||
{{succession box | title=[[ |
{{succession box | title=[[法務長官 (イギリス)|法務長官]] | before=[[フレッチャー・ノートン (初代グラントリー男爵)|サー・フレッチャー・ノートン]]|after=[[ウィリアム・ド・グレイ (初代ウォルシンガム男爵)|サー・ウィリアム・ド・グレイ]]|years=1765年 - 1766年}} |
||
{{s-off}} |
{{s-off}} |
||
{{S-bef|before=[[チャールズ・プラット (初代カムデン伯爵)|カムデン男爵]]}} |
{{S-bef|before=[[チャールズ・プラット (初代カムデン伯爵)|カムデン男爵]]}} |
||
83行目: | 83行目: | ||
[[Category:ハードウィック伯ヨーク家|ちやあるす]] |
[[Category:ハードウィック伯ヨーク家|ちやあるす]] |
||
[[Category:フィリップ・ヨーク|ちやあるす]] |
[[Category:フィリップ・ヨーク|ちやあるす]] |
||
[[Category:ケンブリッジ大学出身の人物]] |
[[Category:ケンブリッジ大学コーパス・クリスティ・カレッジ出身の人物]] |
||
[[Category:1722年生]] |
[[Category:1722年生]] |
||
[[Category:1770年没]] |
[[Category:1770年没]] |
2024年10月25日 (金) 11:44時点における最新版
The Right Honourable チャールズ・ヨーク PC | |
---|---|
トマス・ハドソンによる肖像画、1756年頃 | |
大法官 | |
任期 1770年1月17日 – 1770年1月20日 | |
君主 | ジョージ3世 |
首相 | グラフトン公爵 |
前任者 | カムデン男爵 |
後任者 | 空位(次の在任者はアプスリー男爵) |
個人情報 | |
生誕 | 1722年12月30日 グレートブリテン王国、ロンドン |
死没 | 1770年1月20日 グレートブリテン王国、ロンドン |
国籍 | イギリス |
出身校 | コーパス・クリスティ・カレッジ |
チャールズ・ヨーク(英語: Charles Yorke PC、1722年12月30日 - 1770年1月20日)は、グレートブリテン王国の法律家。1770年1月に大法官に任命されたが[1]、その3日後に自殺したことで知られる。
生涯
[編集]初代ハードウィック伯爵フィリップ・ヨークの次男としてロンドンで生まれ、ケンブリッジ大学コーパス・クリスティ・カレッジで教育を受けた[2]。1740年代初期に兄フィリップとともに『アシニアン・レターズ』を共作、文学での才能を示した。1745年、大逆罪を犯した者の資産没収法についての論文を書き、カロデンの戦いの後に父がスコットランドのジャコバイト貴族に与えた刑罰を弁護した。翌年、弁護士資格免許を得た[3]。
父が大法官を務めていたこともあり、ヨークは1747年に大法官府裁判所に閑職を得て、同年にライゲート選挙区で当選して庶民院議員になった。その後、1768年までライゲート選挙区の議員を務めた後、同年にケンブリッジ大学選挙区に鞍替えした。彼は庶民院で父による婚姻法改革(後の1753年婚姻法につながる改革)を支持する演説をした[3]。1750年12月13日、王立協会フェローに選出された[4]。
1751年、イギリス東インド会社の法律顧問になり、1756年に法務次官に任命された。彼は在任期間を通して大ピットの外交政策を支持した[3]。
1761年に大ピットとともに辞任したが、1762年のビュート伯爵内閣で法務長官に就任した。続くグレンヴィル内閣(1763年 - 1765年)ではジョン・ウィルクスの『ノース・ブリトン』紙で提起された問題について政府に助言を与え、『ノース・ブリトン』紙の誹謗中傷を反逆罪にあたらず微罪にすぎないとした。1763年11月に法務総裁を辞任すると、大ピットはヨークを野党に引き込もうとした。ヨークはウィルクスの件について、大ピットと同じく一般逮捕状を批判したものの、議会特権が誹謗罪に適用できないと演説して大ピットの誘いを退けた。この演説はホレス・ウォルポールから大いに賞賛された。それ以降、ヨークはロッキンガム派の一員になり、1764年にドーヴァー市裁判所判事に選出された後1765年に第1次ロッキンガム侯爵内閣で再び法務総裁に就任、内閣の政策形成に貢献した。彼は印紙法廃止と宣言法制定を支持したほか、ケベックに関する憲法を起草、後の1774年ケベック法につながった[3]。
1766年にチャタム伯爵内閣が成立してチャタム伯爵とグラフトン公爵が権力を握ると、ヨークは辞任して、以降の4年間に議会での弁論にほとんど関わらなかった。1770年、大法官カムデン男爵が罷免されると、グラフトン公爵から大法官就任を要請されたが、ヨークはそれ以前にロッキンガム派にグラフトン公爵の下で公職に就かないことを誓っていた。しかし、国王ジョージ3世が今就任しなければ以降大法官になる機会が2度と訪れないと圧力をかけると、ヨークは圧力に屈し[3]、1770年1月17日に大法官と枢密顧問官に任命された[1]。同日に兄の邸宅に向かい、野党の指導部に会うと、ヨークは恥辱を感じて自宅に飛び帰り、3日後の1770年1月20日に自殺した。ヨークをモーデン男爵に叙する特許状はすでに起草されていたが、彼は死の直前に特許状の正式化を拒否した[3]。
家族
[編集]ヨークは2度結婚した[3]。1755年5月19日、ヨークはキャサリン・ブラウント・フリーマン(Katherine Blount Freeman)と結婚、1男をもうけた。
- フィリップ(1757年 - 1834年) - 第3代ハードウィック伯爵
1762年12月30日、アグネタ・ジョンソン(Agneta Johnson)と結婚して、2男1女をもうけた。
- チャールズ・フィリップ(1764年 - 1834年) - 政治家
- キャロライン(1765年8月29日 - 1818年7月26日) - 初代セント・ジャーマンズ伯爵ジョン・エリオットと結婚
- ジョセフ・シドニー・ヨーク(1768年 - 1831年) - 海軍提督
キャサリンはハートフォードシャーのセント・オールバンズ近くのタイテンハンガー・ハウスの相続人だった。
脚注
[編集]- ^ a b "No. 11010". The London Gazette (英語). 16 January 1770. p. 1.
- ^ "Yorke, Charles (YRK739C)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ a b c d e f g Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 28 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 930.
- ^ "Yorke; Charles (1722 - 1770)". Record (英語). The Royal Society. 2021年6月19日閲覧。
参考文献
[編集]- Cannon, J. A. (1964). "YORKE, Hon. Charles (1722-70), of Tittenhanger, Herts.". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust.
- "Yorke, Charles (1722–1770)". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/30237。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。) この文章の初版はウィキソースの記事にある: Lee, Sidney, ed. (1900). . Dictionary of National Biography (英語). Vol. 63. London: Smith, Elder & Co. pp. 337–340.
- Yorke, P. C. (1977) [1913]. The Life and Correspondence of Philip Yorke, Earl of Hardwicke, Lord High Chancellor of Great Britain (英語). Octagon. ISBN 0-374-98837-4。
外部リンク
[編集]- Charles Yorkeに関連する著作物 - インターネットアーカイブ
- チャールズ・ヨークの著作 - インターネットアーカイブ内のOpen Library
- "チャールズ・ヨークの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
グレートブリテン議会 | ||
---|---|---|
先代 ロイストン子爵 |
庶民院議員(ライゲート選挙区選出) 1747年 - 1768年 |
次代 ジョン・ヨーク |
先代 エドワード・フィンチ トマス・タウンゼンド |
庶民院議員(ケンブリッジ大学選挙区選出) 1768年 - 1770年 同職:トマス・タウンゼンド |
次代 サー・ウィリアム・ド・グレイ トマス・タウンゼンド |
司法職 | ||
先代 サー・リチャード・ロイド |
法務次官 1756年 - 1762年 |
次代 サー・フレッチャー・ノートン |
先代 サー・チャールズ・プラット |
法務長官 1762年 - 1763年 |
次代 サー・フレッチャー・ノートン |
先代 サー・フレッチャー・ノートン |
法務長官 1765年 - 1766年 |
次代 サー・ウィリアム・ド・グレイ |
公職 | ||
先代 カムデン男爵 |
大法官 1770年 |
委員会制 次代の在位者 アプスリー男爵
|