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'''ユーリー・マルトフ'''({{lang-ru|'''Ю́лий Ма́ртов'''}}、[[ラテン文字化|ラテン文字転写]]の例:{{lang|ru-Lat|'''Yuliy Martov'''}} [[1873年]][[11月24日]] - [[1923年]][[4月4日]])は[[ロシア (名称)|ロシア]]の[[社会運動|社会運動家]]。署名にはエリ・マルトフ {{lang|ru|'''Л.Мартов'''}} を用いた<!--ようです-->。本名は'''ユーリイ・オシポヴィチ・ツェデルバウム'''({{lang-ru-short|'''Ю́лий О́сипович Цедерба́ум'''}}、<!-- [[ロシア語|露]]:***(「ユリウス」のロシア語表記が不明です。ご教示求む), -->{{lang-en-short|'''Yuli Osipovič Zederbaum'''}})。 |
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1873年11月24日[[トルコ]]の[[イスタンブール]]に中流階級の、[[ユダヤ人]]の両親の間に生まれる。祖父のアレクサンドル([[1816年]]、[[ザモシチ]]{{snd}}[[1893年]])は、[[1860年]]から[[オデッサ]]でヘブライ語新聞『[[:en:Ha-Melitz|Ham-Mēlîtz]](主唱者)』を発行していた。父は、ロシア国籍の船会社で事務長を務めた人物。[[アレクサンドル・ゲルツェン]]の信奉者で、亡命先である[[ロンドン]]にゲルツェンを訪問するほどの自由主義的知識人であった。イスタンブールからオデッサに移り、[[1881年]]7歳の時、[[ポグロム]]に遭遇する。一家は襲撃からは免れたが、幼年時に体験した[[反ユダヤ主義]]は、マルトフを[[ツァーリズム]]に対する反逆へと駆り立てる契機となった。中学時代は、[[ヴィッサリオン・ベリンスキー|ベリンスキー]]に傾倒し、[[文学]]や社会問題に熱中した。その後、一家は[[ツァールスコエ・セロー]]に移る。この時期にマルトフは、父が主宰していた知識人と学生のサークルに出席を許可され、ゲルツェンの『過去と思索』に触れ、帝政に批判的になっていく。早熟なマルトフは、次第に[[ナロードニキ]]に共鳴するようになり、[[1889年]]には、中学校で学友とサークルを作り、[[フランス革命]]史に熱中し、[[ジョルジュ・ダントン|ダントン]]、[[マクシミリアン・ロベスピエール|ロベスピエール]]、[[ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト|サン=ジュスト]]らの演説や、[[ジャン=ポール・マラー|マラー]]、[[フランソワ=ノエル・バブーフ|グラックス・バブーフ]]の著作を耽読した。 |
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[[1890年]][[カール・マルクス]]の『[[共産党宣言]]』に衝撃を受け、[[マルクス主義]]に転じる。[[1891年]][[サンクトペテルブルク大学]][[理学部]]に入学する。翌[[1892年]]学内に社会民主主義のサークルを創設する。しかし、大学当局から非合法文献の頒布を理由に退学処分を受け、逮捕される。1年半の投獄生活の後、[[リトアニア]]の[[ヴィリニュス]]に追放された。リトアニアでは、[[ユダヤ人]]の労働運動に参加した。[[1895年]][[サンクトペテルブルク]]に戻り、[[ウラジーミル・レーニン]]と共に「[[労働者階級解放闘争同盟]]」に参加した。マルトフは[[1896年]]1月に逮捕され、[[1897年]][[ |
[[1890年]][[カール・マルクス]]の『[[共産党宣言]]』に衝撃を受け、[[マルクス主義]]に転じる。[[1891年]][[サンクトペテルブルク大学]][[理学部]]に入学する。翌[[1892年]]学内に社会民主主義のサークルを創設する。しかし、大学当局から非合法文献の頒布を理由に退学処分を受け、逮捕される。1年半の投獄生活の後、[[リトアニア]]の[[ヴィリニュス]]に追放された。リトアニアでは、[[ユダヤ人]]の労働運動に参加した。[[1895年]][[サンクトペテルブルク]]に戻り、[[ウラジーミル・レーニン]]と共に「[[労働者階級解放闘争同盟]]」に参加した。マルトフは[[1896年]]1月に逮捕され、[[1897年]][[東シベリア]]の[[トゥルハンスク]]に[[流罪|流刑]]となるが、3年間の流刑生活で[[結核]]に罹る。[[1900年]]刑期を終了し、西ヨーロッパに[[亡命]]した。 |
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[[1900年]]~[[1905年]]、国外でレーニンと共同で機関紙「[[イスクラ]]({{lang|ru|[[:ru:искра|искра]]}}, [[火花]])」<ref>[[1859年]]から[[1873年]]に、[[ペテルブルク]]で発行された[[民主主義]]的な[[風刺]][[雑誌]]に同名のものがある。</ref>の発行・編集に携わる。また[[パリ]]では、ロシア高級社会科学アカデミーで講義を行った。 |
[[1900年]]~[[1905年]]、国外でレーニンと共同で機関紙「[[イスクラ]]({{lang|ru|[[:ru:искра|искра]]}}, [[火花]])」<ref>[[1859年]]から[[1873年]]に、[[ペテルブルク]]で発行された[[民主主義]]的な[[風刺]][[雑誌]]に同名のものがある。</ref>の発行・編集に携わる{{Efn|新機関紙の綱領は1900年5月のプスコフ協議会で決定された<ref>{{Cite book|和書|author=J・マールトフ|year=1976|title=ロシア社会民主党史|publisher=新泉社|pages=P.58}}</ref>。}}。また[[パリ]]では、ロシア高級社会科学アカデミーで講義を行った。 |
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[[ロシア社会民主労働党]]第2回大会([[1903年]])ではレーニンと組織問題をめぐって対立し、以降は[[メンシェヴィキ]]派の指導者となった。[[1905年]]10月第一次ロシア革命が起こるとロシアに帰国しペテルブルク労働者[[ソビエト]]に参加するが、[[1906年]]2月、7月に逮捕され9月に再び亡命を余儀なくされる。[[1907年]]第5回ロシア社会民主労働党大会(ロンドン大会)と[[第二インターナショナル]]大会に参加。レーニン率いる[[ボリシェヴィキ]]とは、第一次革命期を除き、革命に対する戦術やモラルの面で対立が先鋭化し、危険視していた。[[1911年]]には党内にボリシェヴィキ、メンシェビキ両派の並立は困難とし、翌[[1912年]]ボリシェヴィキはプラハ党協議会で独自の政党である事を宣言するに至った。[[1917年]]の[[2月革命 (1917年)|二月革命]]後帰国したが、ソビエト政権に反対し[[1920年]]に亡命。 |
[[ロシア社会民主労働党]]第2回大会([[1903年]])ではレーニンと組織問題をめぐって対立し、以降は[[メンシェヴィキ]]派の指導者となった。[[1905年]]10月第一次ロシア革命が起こるとロシアに帰国しペテルブルク労働者[[ソビエト]]に参加するが、[[1906年]]2月、7月に逮捕され9月に再び亡命を余儀なくされる。[[1907年]]第5回ロシア社会民主労働党大会(ロンドン大会)と[[第二インターナショナル]]大会に参加。レーニン率いる[[ボリシェヴィキ]]とは、第一次革命期を除き、革命に対する戦術やモラルの面で対立が先鋭化し、危険視していた。[[1911年]]には党内にボリシェヴィキ、メンシェビキ両派の並立は困難とし、翌[[1912年]]ボリシェヴィキはプラハ党協議会で独自の政党である事を宣言するに至った。[[1917年]]の[[2月革命 (1917年)|二月革命]]後帰国したが、ソビエト政権に反対し[[1920年]]に亡命。 |
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亡命後は[[ベルリン]]に住み、「[[社会主義報知]] {{lang|ru|''[[:ru:Социалистический Вестник|Социалистический Вестник]]''}}」を発行した。[[バーデン]]のシェーンベルクで、[[結核]]のため死去。49歳。 |
亡命後は[[ベルリン]]に住み、「[[社会主義報知]] {{lang|ru|''[[:ru:Социалистический Вестник|Социалистический Вестник]]''}}」を発行した。[[バーデン共和国|バーデン]]のシェーンベルクで、[[結核]]のため死去。49歳。 |
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==著作== |
==著作== |
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*『ロシア社会民主党史 |
*『ロシア社会民主党史』{{lang|ru|История российской социал-демократии}}, 1923(加藤一郎訳、新泉社) |
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==注釈== |
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==参考文献== |
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*[[ニコライ・ヴァレンチノフ|N・ヴァレンチノフ]]『知られざるレーニン』(風媒社、1972年) |
*[[ニコライ・ヴァレンチノフ|N・ヴァレンチノフ]]『知られざるレーニン』門倉正美訳(風媒社、1972年) |
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*I.ゲツラー『マールトフとロシア革命』高橋馨訳([[河出書房新社]]、1975年) |
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== 外部リンク == |
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* {{ru icon}}[http://www.hrono.ru/biograf/martov.html ユーリー・オシポヴィチ・マルトフ] |
* {{ru icon}}[http://www.hrono.ru/biograf/martov.html ユーリー・オシポヴィチ・マルトフ] |
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2024年11月13日 (水) 02:39時点における最新版
ユーリー・マルトフ Юлий Мартов | |
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ユーリー・マルトフ | |
通称 |
ユリウス・マルトフ エリ・マルトフ(Л.Мартов) (本名)ユーリー・オシポヴィチ・ツェデルバウム(Юлий Осипович Цедербаум) |
生年 | 1873年11月24日 |
生地 | オスマン帝国 イスタンブール |
没年 | 1923年4月4日(49歳没) |
没地 | ドイツ国 バーデン、シェーンブルク |
思想 | ナロードニキ、共産主義、マルクス主義 |
活動 | 学生運動、労働運動、文筆活動 |
所属 | ロシア社会民主労働党、メンシェヴィキ |
母校 | サンクトペテルブルク大学理学部 |
ユーリー・マルトフ(ロシア語: Ю́лий Ма́ртов、ラテン文字転写の例:Yuliy Martov 1873年11月24日 - 1923年4月4日)はロシアの社会運動家。署名にはエリ・マルトフ Л.Мартов を用いた。本名はユーリイ・オシポヴィチ・ツェデルバウム(露: Ю́лий О́сипович Цедерба́ум、英: Yuli Osipovič Zederbaum)。
生涯
[編集]1873年11月24日トルコのイスタンブールに中流階級の、ユダヤ人の両親の間に生まれる。祖父のアレクサンドル(1816年、ザモシチ – 1893年)は、1860年からオデッサでヘブライ語新聞『Ham-Mēlîtz(主唱者)』を発行していた。父は、ロシア国籍の船会社で事務長を務めた人物。アレクサンドル・ゲルツェンの信奉者で、亡命先であるロンドンにゲルツェンを訪問するほどの自由主義的知識人であった。イスタンブールからオデッサに移り、1881年7歳の時、ポグロムに遭遇する。一家は襲撃からは免れたが、幼年時に体験した反ユダヤ主義は、マルトフをツァーリズムに対する反逆へと駆り立てる契機となった。中学時代は、ベリンスキーに傾倒し、文学や社会問題に熱中した。その後、一家はツァールスコエ・セローに移る。この時期にマルトフは、父が主宰していた知識人と学生のサークルに出席を許可され、ゲルツェンの『過去と思索』に触れ、帝政に批判的になっていく。早熟なマルトフは、次第にナロードニキに共鳴するようになり、1889年には、中学校で学友とサークルを作り、フランス革命史に熱中し、ダントン、ロベスピエール、サン=ジュストらの演説や、マラー、グラックス・バブーフの著作を耽読した。
1890年カール・マルクスの『共産党宣言』に衝撃を受け、マルクス主義に転じる。1891年サンクトペテルブルク大学理学部に入学する。翌1892年学内に社会民主主義のサークルを創設する。しかし、大学当局から非合法文献の頒布を理由に退学処分を受け、逮捕される。1年半の投獄生活の後、リトアニアのヴィリニュスに追放された。リトアニアでは、ユダヤ人の労働運動に参加した。1895年サンクトペテルブルクに戻り、ウラジーミル・レーニンと共に「労働者階級解放闘争同盟」に参加した。マルトフは1896年1月に逮捕され、1897年東シベリアのトゥルハンスクに流刑となるが、3年間の流刑生活で結核に罹る。1900年刑期を終了し、西ヨーロッパに亡命した。
1900年~1905年、国外でレーニンと共同で機関紙「イスクラ(искра, 火花)」[1]の発行・編集に携わる[注釈 1]。またパリでは、ロシア高級社会科学アカデミーで講義を行った。
ロシア社会民主労働党第2回大会(1903年)ではレーニンと組織問題をめぐって対立し、以降はメンシェヴィキ派の指導者となった。1905年10月第一次ロシア革命が起こるとロシアに帰国しペテルブルク労働者ソビエトに参加するが、1906年2月、7月に逮捕され9月に再び亡命を余儀なくされる。1907年第5回ロシア社会民主労働党大会(ロンドン大会)と第二インターナショナル大会に参加。レーニン率いるボリシェヴィキとは、第一次革命期を除き、革命に対する戦術やモラルの面で対立が先鋭化し、危険視していた。1911年には党内にボリシェヴィキ、メンシェビキ両派の並立は困難とし、翌1912年ボリシェヴィキはプラハ党協議会で独自の政党である事を宣言するに至った。1917年の二月革命後帰国したが、ソビエト政権に反対し1920年に亡命。
亡命後はベルリンに住み、「社会主義報知 Социалистический Вестник」を発行した。バーデンのシェーンベルクで、結核のため死去。49歳。
著作
[編集]- 『ロシア社会民主党史』История российской социал-демократии, 1923(加藤一郎訳、新泉社)