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{{Infobox baseball player
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| 選手名 = 木戸 克彦
| 選手名 = 木戸 克彦
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* 阪神タイガース (1996 - 2005, 2008 - 2011)
* 阪神タイガース (1996 - 2005, 2008 - 2011)
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'''木戸 克彦'''(きど かつひこ、[[1961年]][[2月1日]] - )は、[[大阪府]][[堺市]][[西区 (堺市)|西区]]<ref name=jinmei>プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、186ページ</ref>出身の元[[プロ野球選手]]([[捕手]])・[[プロ野球コーチ|コーチ]]・[[二軍監督|監督]]、[[野球解説者|解説者]]・[[野球評論家|評論家]]。
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== 経歴 ==
== 経歴 ==
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中学時代に捕手となり<ref name=jinmei />、{{by|1976年}}に進学した[[PL学園中学校・高等学校|PL学園高]]では[[山本泰|鶴岡泰]]監督の指導を受けた。1年次の同年秋から正捕手となり、1年上の[[米村明]]とバッテリーを組むが、甲子園には届かなかった。3年次の{{by|1978年}}には同期の[[西田真二]]とバッテリーを組み、甲子園に春夏連続出場<ref name=jinmei />。[[第50回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]は準々決勝で[[和歌山県立箕島高等学校|箕島高]]の[[木村竹志|石井毅]]に完封を喫するが、[[第60回全国高等学校野球選手権大会|夏の選手権]]準決勝では[[中京大学附属中京高等学校|中京高]]と対戦し、9回裏に4点差を追いつき、延長12回の熱戦の末に勝利。決勝でもエース[[森浩二]]を擁する[[高知市立高知商業高等学校|高知商業高]]に9回裏逆転サヨナラ勝ちで優勝を飾り<ref name=jinmei />、奇跡的な勝利から『'''[[逆転のPL]]'''』と呼ばれた。
中学時代に捕手となり<ref name=jinmei />、{{by|1976年}}に進学した[[PL学園中学校・高等学校|PL学園高]]では[[山本泰|鶴岡泰]]監督の指導を受けた。1年次の同年秋から正捕手となり、1年上の[[米村明]]とバッテリーを組むが、甲子園には届かなかった。3年次の{{by|1978年}}には同期の[[西田真二]]とバッテリーを組み、甲子園に春夏連続出場<ref name=jinmei />。[[第50回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]は準々決勝で[[和歌山県立箕島高等学校|箕島高]]の[[木村竹志|石井毅]]に完封を喫するが、[[第60回全国高等学校野球選手権大会|夏の選手権]]準決勝では[[中京大学附属中京高等学校|中京高]]と対戦し、9回裏に4点差を追いつき、延長12回の熱戦の末に勝利。決勝でもエース[[森浩二]]を擁する[[高知市立高知商業高等学校|高知商業高]]に9回裏逆転サヨナラ勝ちで優勝を飾り<ref name=jinmei />、奇跡的な勝利から『'''[[逆転のPL]]'''』と呼ばれた。


高校卒業後の{{by|1979年}}、西田と共に[[法政大学野球部|法政大学]]へ進学し、[[東京六大学野球連盟|東京六大学野球リーグ]]では在学中3度の優勝を経験。和田護([[日産自動車硬式野球部|日産自動車]])・[[田中富生]]らとバッテリーを組み、リーグ通算76試合出場、274打数84安打、打率.307, 5本塁打、33打点を記録。2年次の{{by|1980年}}秋季リーグから5季連続で[[ベストナイン]]に選出され、4年次の{{by|1982年}}には主将も務めた。3年次の{{by|1981年}}から2年連続で[[日米大学野球選手権大会]]日本代表に選出されている。
高校卒業後の{{by|1979年}}、西田と共に[[法政大学野球部|法政大学]]へ進学し、[[東京六大学野球連盟|東京六大学野球リーグ]]では在学中3度の優勝を経験。1年下の和田護([[日産自動車硬式野球部|日産自動車]])・同期[[田中富生]]らとバッテリーを組み、リーグ通算76試合出場、274打数84安打、打率.307, 5本塁打、33打点を記録。2年次の{{by|1980年}}秋季リーグから5季連続で[[ベストナイン]]に選出され、4年次の{{by|1982年}}には主将も務めた。3年次の{{by|1981年}}から2年連続で[[日米大学野球選手権大会]]日本代表に選出されている。大学同期に西田、田中、[[神長英一]]、手嶋浩らがいた。1年下にPLの後輩でもある[[小早川毅彦]]、[[銚子利夫]]、和田護と樽井徹両投手、1年上に控えの[[川端順]]や[[池田親興]]両投手がいた


=== 現役時代 ===
=== 現役時代 ===
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{{by|1989年}}には巨人戦で[[原辰徳]]との本塁クロスプレーで左[[踵]]を[[剥離骨折]]しただけでなく、[[眼鏡]]のレンズが割れて顔面に刺さって、眼に影響はなかったが全治4週間の大怪我を負った<ref name="猛虎フィーバー85年の正捕手" />。
{{by|1989年}}には巨人戦で[[原辰徳]]との本塁クロスプレーで左[[踵]]を[[剥離骨折]]しただけでなく、[[眼鏡]]のレンズが割れて顔面に刺さって、眼に影響はなかったが全治4週間の大怪我を負った<ref name="猛虎フィーバー85年の正捕手" />。


練習中の油断したプレーで仲間から厳しい言葉を掛けられ、[[イップス]]になった際、[[辻恭彦]]バッテリーコーチのトスを捕ってネットに向かってスローさせるのを繰り返す練習で克服<ref>{{Cite web|和書|title=連載ダンプ辻コラム 第69回「僕はこうしてイップスを治しました」 {{!}} 野球コラム |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=002-20210913-94 |website=週刊ベースボールONLINE |access-date=2023-09-27 |language=ja |date=2021-09-08}}</ref>。{{by|1990年}}まで定位置を守ったが、慢性的な右肩の故障もあり、[[1990年代]]は[[山田勝彦]]や[[関川浩一]]に捕手の1番手を譲った<ref name="猛虎フィーバー85年の正捕手" />。
練習中の油断したプレーで仲間から厳しい言葉を掛けられ、[[イップス]]になった際、[[辻恭彦]]バッテリーコーチのトスを捕ってネットに向かってスローさせるのを繰り返す練習で克服<ref>{{Cite web|和書|title=連載ダンプ辻コラム 第69回「僕はこうしてイップスを治しました」 {{!}} 野球コラム |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=002-20210913-94 |website=週刊ベースボールONLINE |access-date=2023-09-27 |language=ja |date=2021-09-08}}</ref>。{{by|1990年}}まで定位置を守ったが、慢性的な右肩の故障もあり、[[1990年代]]は[[山田勝彦 (野球)|山田勝彦]]や[[関川浩一]]に捕手の1番手を譲った<ref name="猛虎フィーバー85年の正捕手" />。


{{by|1992年}}は、[[7月30日]]の対巨人戦で[[石毛博史]]からサヨナラ四球を選ぶというのもあったが、全体的に打撃が低調であった。日本プロ野球史上最長試合となった9月11日対ヤクルト戦では、最終延長15回裏二死1,2塁のチャンスで打者[[トーマス・オマリー]](次打者は[[山脇光治]])だったが、「代打を送るにも、残る野手は木戸しかいない」<ref>朝日新聞1992年9月12日23面</ref>という理由で敬遠策を採られるほどであった(結局代打として送られず、山脇が三振で引き分けとなった)。最終的に、打率.101であったが、オフに発売された[[スーパーファミスタ2]]では、この年から選手は漢字実名、成績も実際の成績を反映させたものになったが、木戸の打率は[[カンスト]]して.357となっていた。
{{by|1992年}}は、[[7月30日]]の対巨人戦で[[石毛博史]]からサヨナラ四球を選ぶというのもあったが、全体的に打撃が低調であった。日本プロ野球史上最長試合となった9月11日対ヤクルト戦では、最終延長15回裏二死1,2塁のチャンスで打者[[トーマス・オマリー]](次打者は[[山脇光治]])だったが、「代打を送るにも、残る野手は木戸しかいない」<ref>朝日新聞1992年9月12日23面</ref>という理由で敬遠策を採られるほどであった(結局代打として送られず、山脇が三振で引き分けとなった)。最終的に、打率.101であったが、オフに発売された[[スーパーファミスタ2]]では、この年から選手は漢字実名、成績も実際の成績を反映させたものになったが、木戸の打率は[[カンスト]]して.357となっていた。
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{{by|2012年}}からは球団フロントの編成本部付(次長待遇)となったが、同年[[9月5日]]付で次長待遇のまま[[ゼネラルマネージャー]]補佐となり、[[中村勝広]]ゼネラルマネージャーの急逝に伴う編成変更で{{by|2015年}}[[10月1日]]付で球団本部付次長となる。
{{by|2012年}}からは球団フロントの編成本部付(次長待遇)となったが、同年[[9月5日]]付で次長待遇のまま[[ゼネラルマネージャー]]補佐となり、[[中村勝広]]ゼネラルマネージャーの急逝に伴う編成変更で{{by|2015年}}[[10月1日]]付で球団本部付次長となる。


{{by|2017年}}[[10月]]、球団本部部長(プロスカウト担当)を務めながら、[[女子野球日本代表|女子日本代表]]ヘッドコーチに就任<ref>{{Cite web|和書|title=元阪神・木戸氏、「マドンナジャパン」のヘッドコーチ就任 |url=https://www.sanspo.com/article/20171002-BVF3RQ6C4ZL5DM6M5TFFDLSSYU/ |website=サンスポ |date=2017-10-02 |access-date=2023-09-27 |language=ja}}</ref>。以降女子野球の振興に関わるようになり、[[全国高等学校女子硬式野球選手権大会]]決勝戦の甲子園開催実現にも尽力した<ref>{{Cite web|和書|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/848352|title= 高校女子野球の甲子園開催を「正面から反対したのは私です」 25年前、高野連が下した「女子大会の開催は時期尚早」という判断 |publisher=number web|author=飯沼素子|date=2021-06-09|accessdate=2022-06-18}}</ref>。
{{by|2017年}}[[10月]]、球団本部部長(プロスカウト担当)を務めながら、[[女子野球日本代表|女子日本代表]]ヘッドコーチに就任<ref>{{Cite web|和書|title=元阪神・木戸氏、「マドンナジャパン」のヘッドコーチ就任 |url=https://www.sanspo.com/article/20171002-BVF3RQ6C4ZL5DM6M5TFFDLSSYU/ |website=サンスポ |date=2017-10-02 |access-date=2023-09-27 |language=ja}}</ref>。以降女子野球の振興に関わるようになり、[[全国高等学校女子硬式野球選手権大会]]決勝戦の甲子園開催実現にも尽力した<ref>{{Cite web|和書|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/848352|title= 高校女子野球の甲子園開催を「正面から反対したのは私です」 25年前、高野連が下した「女子大会の開催は時期尚早」という判断 |publisher=number web|author=飯沼素子|date=2021-06-09|accessdate=2022-06-18}}</ref>。その後も国際試合の際にコーチとして帯同し、高校女子野球の強化試合(対[[イチロー]]神戸智辯)でヘッドコーチを務めるなど女子野球へ尽力している<ref>{{Cite web|和書|url=https://hochi.news/articles/20211219-OHT1T51167.html?page=1|title=元阪神・木戸克彦HCが女子野球の発展に手応え「さらに流れを作りたい」|publisher=スポーツ報知|date=2021-12-19|accessdate=2023-12-20}}</ref>。

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== エピソード ==
== エピソード ==
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2024年12月9日 (月) 08:21時点における最新版

木戸 克彦
阪神タイガース Women 監督 兼 統括 #70
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府堺市西区
生年月日 (1961-02-01) 1961年2月1日(63歳)
身長
体重
178 cm
91 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1982年 ドラフト1位
初出場 1983年4月24日
最終出場 1996年10月9日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

木戸 克彦(きど かつひこ、1961年2月1日 - )は、大阪府堺市西区[1]出身の元プロ野球選手捕手)・コーチ監督解説者評論家。2024年から阪神タイガース Womenの監督を務める。TW統括とプロスカウトを兼務。

経歴

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プロ入りまで

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堺リトルリーグ出身[1]。小学6年時には堺市の小学6年生が集まって毎年行われている連合運動会でソフトボール投げに出場し、当時の最高記録を樹立。長らくその記録は破られなかった。その後破られ、今の最高記録は木戸ではない。『週刊ベースボール』の江夏豊の連載によれば、堺市立浜寺中学校出身の阿野鉱二和田徹・木戸の元プロ野球選手3人を「浜寺の3選手」と呼び、野球界では有名な呼び名だと書いている。

中学時代に捕手となり[1]1976年に進学したPL学園高では鶴岡泰監督の指導を受けた。1年次の同年秋から正捕手となり、1年上の米村明とバッテリーを組むが、甲子園には届かなかった。3年次の1978年には同期の西田真二とバッテリーを組み、甲子園に春夏連続出場[1]春の選抜は準々決勝で箕島高石井毅に完封を喫するが、夏の選手権準決勝では中京高と対戦し、9回裏に4点差を追いつき、延長12回の熱戦の末に勝利。決勝でもエース森浩二を擁する高知商業高に9回裏逆転サヨナラ勝ちで優勝を飾り[1]、奇跡的な勝利から『逆転のPL』と呼ばれた。

高校卒業後の1979年、西田と共に法政大学へ進学し、東京六大学野球リーグでは在学中3度の優勝を経験。1年下の和田護(日産自動車)・同期田中富生らとバッテリーを組み、リーグ通算76試合出場、274打数84安打、打率.307, 5本塁打、33打点を記録。2年次の1980年秋季リーグから5季連続でベストナインに選出され、4年次の1982年には主将も務めた。3年次の1981年から2年連続で日米大学野球選手権大会日本代表に選出されている。大学同期に西田、田中、神長英一、手嶋浩らがいた。1年下にPLの後輩でもある小早川毅彦銚子利夫、和田護と樽井徹両投手、1年上に控えの川端順池田親興両投手がいた。

現役時代

[編集]

1982年のドラフト1位で阪神タイガースに入団[1]。大学の先輩である田淵幸一西武へ移籍して以来4年間空番になっていた背番号「22」が与えられるが、1年目の1983年はプレッシャーもあって腰痛が悪化して戦線離脱[2]和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の勝浦温泉病院で3ヶ月間、連日4時間のリハビリ治療を受ける[3][4]。入院中は1分間体操を中心に患部を鍛える運動が続いたが、激痛は走り、疲労困憊であった。1ヶ月が経過しても苛立ちは募るばかりで、リハビリをする部屋からは紀勢本線が見え、その内に上り下りを往き来する電車によって時間が分かるようになった[3]。固いベッドがひとつの殺風景な狭い部屋で悶々とした日々が続いたが、途中から交通事故を起こして入院してきた若い一般女性の姿を見て、自分を見つめ直した木戸は気持ちを切りかえ、リハビリに打ち込んだ[3]。同年は笠間雄二が正捕手に固定され、木戸は二軍生活が続き、一軍では8試合出場に終わる。

1984年山川猛が正捕手に固定され、26試合出場であった。入団から2年間は二軍とブルペン生活が続いたが、柴田猛一軍バッテリーコーチから時に鉄拳制裁も与えられるほどの厳しい指導で鍛えられた[5][6]。木戸が二軍の試合で投手が打たれた後にベンチへ戻ると、柴田は鬼の形相で待っていたため、そのままトイレに駆け込み、柴田の怒りが収まるのを待つことが常套手段となっていた[5]。木戸は「100%の準備をするために球場には一番早く来る。」「どんな場面でも最高と最低を同時に考える。」など、柴田からいくつもの教訓を学んだ[5]。シーズン終盤の4試合では先発マスクを被る。

1985年吉田義男が監督に就任すると、開幕から山川に代わり正捕手に抜擢される[7]。3年目とは思えない理詰めのリードと冴えた勝負勘[8]、二塁への安定感あるスローイングなどのサポートぶりで、ベテランから若手まで投手陣から信頼を集めた[2]。一方の打撃では、ニューダイナマイト打線の8番打者という下位の打順も思い切りの良さにつながる[2]。クリーンアップの『バックスクリーン3連発』がリーグ優勝への起爆剤となったシーズンであったが、木戸も6月15日大洋戦(甲子園)では2回裏に金沢次男、5回裏に堀井幹夫、そして7回裏に青木秀夫から、いずれも左翼席へ3打席連続本塁打を記録[2]。終盤こそ失速したが、6月までに9本塁打を放っている[2]規定打席未満ながら自己最多で唯一の2桁となる13本塁打を放ったが[9]、13本はほとんど左翼方向への本塁打で、時には右翼方向にもシュアな打撃を見せた。特に巨人戦に強く、13本塁打のうち7本塁打、32打点のうち15打点を巨人から記録[2]。リードには木戸独自の哲学があり、ストライクゾーンを通った球ではなく、空振りやファウルがストライクで、ボールは安打にしにくい球であり、追い込んだらボール球を投げさせて空振りを奪うのが一番だと考えた。投手が投げたい球も考えてそれを察知するのがバッテリーの理想的な関係で、投手を勝たせるのが良い捕手というものであった[2]1985年の日本シリーズ第2戦ではランディ・バースの捕殺を完成し、走者秋山幸二を憤死させる見事なブロックを見せた。21年ぶりのリーグ優勝と球団史上初の日本一に貢献し、ダイヤモンドグラブ賞も受賞[8]

1986年嶋田宗彦と激しいレギュラー争いを演じるが、同年から阪神の失速と比例するように打撃も失速[2]

1988年には自己最多の121試合に出場し、自身唯一の規定打席(リーグ24位、打率.254)に到達。正捕手の座は譲らなかったが[2]、12個のパスボールを喫した。

1989年には巨人戦で原辰徳との本塁クロスプレーで左剥離骨折しただけでなく、眼鏡のレンズが割れて顔面に刺さって、眼に影響はなかったが全治4週間の大怪我を負った[2]

練習中の油断したプレーで仲間から厳しい言葉を掛けられ、イップスになった際、辻恭彦バッテリーコーチのトスを捕ってネットに向かってスローさせるのを繰り返す練習で克服[10]1990年まで定位置を守ったが、慢性的な右肩の故障もあり、1990年代山田勝彦関川浩一に捕手の1番手を譲った[2]

1992年は、7月30日の対巨人戦で石毛博史からサヨナラ四球を選ぶというのもあったが、全体的に打撃が低調であった。日本プロ野球史上最長試合となった9月11日対ヤクルト戦では、最終延長15回裏二死1,2塁のチャンスで打者トーマス・オマリー(次打者は山脇光治)だったが、「代打を送るにも、残る野手は木戸しかいない」[11]という理由で敬遠策を採られるほどであった(結局代打として送られず、山脇が三振で引き分けとなった)。最終的に、打率.101であったが、オフに発売されたスーパーファミスタ2では、この年から選手は漢字実名、成績も実際の成績を反映させたものになったが、木戸の打率はカンストして.357となっていた。

湯舟敏郎とは特に相性が良く[2]1992年6月14日広島戦(甲子園)では「まだ俺はノーヒットノーランの球を受けたことがないから、お前、絶対に打たれるな」と二軍落ちの直前であった先発の湯舟にハッパをかけ、ノーヒットノーランを達成させている[2]。若手投手には試合中にベンチ裏で気合いを入れたこともあり、グラウンドに戻ると見違えるような投球をした投手は少なくなかった[8]

1996年に現役を引退。同年10月9日中日戦(甲子園)で引退試合が行われ、自身は8番・捕手で先発出場し、同年限りで退団が決まっていた中西清起とバッテリーを組んだ。現役時代は中西・平田勝男・木戸の3人で「NHKトリオ」と呼ばれていた。

現役引退後

[編集]

引退後も阪神に残り、一軍バッテリーコーチ(1997年 - 1998年, 2001年 - 2002年)、二軍バッテリーコーチ(1999年)、一軍ブルペンコーチ(2000年)、二軍監督(2003年 - 2005年)を務めた。コーチ1期目は投手、捕手陣のハートを掴む良き兄貴分として熱血指導し[12]、リリーフ投手の調子を冷静に分析して野村克也監督の継投策をサポート[13]。2001年には野村から通常は投手コーチの役割である、ピンチの場面や投手交代時にマウンドに駆けつける役も任せられた。2001年オフに野村の推挙で秋季キャンプのみヘッドコーチに就任したが、野村が監督を辞任したことにより、一軍バッテリーコーチに再転換された。二軍監督時代には2度のウエスタン・リーグ優勝(2003年, 2005年)に導いたが、島野育夫一軍総合コーチの二軍監督就任に伴い退任。

退団後は朝日放送サンテレビ解説者・日刊スポーツ評論家(2006年 - 2007年)を務め、同年度下半期、毎週土曜日に自らの冠番組虎バン主義。木戸克彦 だからやっぱりタイガース→虎街道まっしぐら』を担当。

2008年に一軍作戦兼バッテリーコーチとして阪神に復帰したが、朝日放送・サンテレビ・日刊スポーツとの契約が3月まで残っていたため、コーチ業の傍ら番組にも出演し、春季キャンプの状況を報告していた。キャンプでは狩野恵輔が紅白戦でミスを犯し、さらにはバッターと会話したことに激怒して怒鳴りつけるなど、選手に対し厳しい指導を行ったが、狩野に対しては怒る一方でフォローもしていた。

2009年からはヘッドコーチに昇格したが、2011年限りで辞任[14]

2012年からは球団フロントの編成本部付(次長待遇)となったが、同年9月5日付で次長待遇のままゼネラルマネージャー補佐となり、中村勝広ゼネラルマネージャーの急逝に伴う編成変更で2015年10月1日付で球団本部付次長となる。

2017年10月、球団本部部長(プロスカウト担当)を務めながら、女子日本代表ヘッドコーチに就任[15]。以降女子野球の振興に関わるようになり、全国高等学校女子硬式野球選手権大会決勝戦の甲子園開催実現にも尽力した[16]。その後も国際試合の際にコーチとして帯同し、高校女子野球の強化試合(対イチロー神戸智辯)でヘッドコーチを務めるなど女子野球へ尽力している[17]

2023年からスカウトとタイガースWomen(以下、Women)の統括を兼務しており[18][19]、2024年からWomenの監督に就任すると発表された[20][21][22]。背番号は70。現在の統括とプロスカウトも引き続き兼務する。

エピソード

[編集]
  • 巨人時代の清原和博が唯一といっていいほど逆らえなかった人物。阪神戦で清原が危険球などで投手に向かっていっても、木戸が出てくれば収まることが何度かあった[2]。木戸は清原のPL学園高校入学の前年にプロ入りしており、野球部全盛期でOB崇拝も強かった同校においては雲上人であった。またPL時代、西田があまりにも不感心な言動をとったのに耐えかね、西田に鉄拳を見舞ったとの逸話が伝えられている。しかし西田とは一期下の小早川毅彦を交え、法大卒業まで私生活でも親交は深かったという。
  • 1985年8月12日、阪神球団社長中埜肇が犠牲になった日本航空123便墜落事故の当日、この事故機(JA8119)が123便として羽田で折り返す前の、福岡羽田行き366便に遠征のため搭乗していたという逸話を持つ。チームは前日の11日平和台中日戦、13日から後楽園で巨人戦が組まれていたため、事故発生当日は福岡から東京への移動日だった。また木戸の妻は123便に搭乗予定だったが直前にキャンセルしており難を逃れた。
  • 妻との間には一女があり、娘の出生を公表時、命名はどうするのかと質問したマスコミに、姓が「木戸」なので「ルナ(=気取るな)にしようかと考えている」と駄洒落を交えたジョークを飛ばした。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1983 阪神 8 9 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 0 3 0 .000 .333 .000 .333
1984 26 28 23 2 5 2 0 0 7 2 0 0 3 0 1 0 1 5 2 .217 .280 .304 .584
1985 103 358 295 34 71 5 1 13 117 32 0 0 18 2 41 9 2 41 8 .241 .335 .397 .732
1986 95 237 203 16 46 12 0 5 73 23 0 0 10 2 22 2 0 32 10 .227 .300 .360 .659
1987 101 275 235 26 56 9 0 6 83 18 1 1 11 1 26 8 2 27 10 .238 .318 .353 .671
1988 121 408 351 34 89 14 1 6 123 38 0 1 19 2 35 6 1 62 8 .254 .321 .350 .672
1989 93 317 280 22 69 14 1 6 103 32 3 1 13 2 21 1 1 49 7 .246 .299 .368 .667
1990 102 264 230 19 54 7 0 5 76 30 0 1 7 2 21 3 4 49 7 .235 .307 .330 .638
1991 80 185 163 14 37 7 1 5 61 24 0 2 4 0 18 3 0 36 6 .227 .304 .374 .678
1992 63 99 89 8 9 1 0 2 16 10 1 0 3 0 7 0 0 21 3 .101 .167 .180 .346
1993 49 125 112 8 25 8 0 1 36 6 1 0 3 0 10 0 0 25 5 .223 .287 .321 .608
1994 34 73 67 5 19 5 0 1 27 1 0 0 1 0 5 0 0 8 0 .284 .333 .403 .736
1995 50 108 91 4 16 2 0 0 18 6 1 0 2 1 14 1 0 22 4 .176 .283 .198 .481
1996 40 52 47 7 9 3 1 1 17 4 1 1 1 0 4 1 0 13 2 .191 .255 .362 .617
通算:14年 965 2538 2192 199 505 89 5 51 757 226 8 7 95 12 228 34 11 393 72 .230 .305 .345 .650

年度別守備成績

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捕手










1983 阪神 8 13 9 4 .308
1984 25 15 10 5 .333
1985 102 114 74 40 .351
1986 93 71 50 21 .296
1987 101 68 47 21 .309
1988 121 109 78 31 .284
1989 93 95 65 30 .316
1990 97 93 65 28 .301
1991 76 63 45 18 .286
1992 61 31 24 7 .226
1993 49 34 27 7 .206
1994 30 25 18 7 .280
1995 47 33 22 11 .333
1996 40 28 19 9 .321
通算 943 792 553 239 .302

表彰

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記録

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初記録
その他の記録

背番号

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  • 22(1983年 - 1996年)
  • 70(1997年 - 2005年、2010年 - 2011年)
  • 91(2008年 - 2009年)

関連情報

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出演番組

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朝日放送テレビ
朝日放送ラジオ
サンテレビ

書籍

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脚注

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  1. ^ a b c d e f プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、186ページ
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 木戸克彦 “猛虎フィーバー”85年の正捕手/プロ野球1980年代の名選手 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE (2019年3月24日). 2023年9月27日閲覧。
  3. ^ a b c 47人目 木戸克彦 虎一筋三十余年 今を支える苦難の日々”. 阪神タイガースの球団発行誌「月刊タイガース」. 2023年9月27日閲覧。
  4. ^ 平田勝男2軍監督が“NHKトリオ”と呼ばれていた頃…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<30>”. スポーツ報知 (2022年4月1日). 2023年9月27日閲覧。
  5. ^ a b c 鈴木忠平 (2015年11月20日). “「打たれたら捕手のせい」は本当か。落合と木戸が語る正捕手育成法。”. Number Web - ナンバー. 2023年9月27日閲覧。
  6. ^ 木戸克彦”. VICTORY ALL SPORTS NEWS. 2023年9月27日閲覧。
  7. ^ 吉田義男著『阪神タイガース』(新潮新書、2003年 ISBN 9784106100314)、154頁
  8. ^ a b c 『怖い女房役』木戸克彦 ドラフト1位で入団…:1985 阪神日本一 写真特集”. 時事ドットコム. 2023年9月27日閲覧。
  9. ^ 所沢の山賊超え!? 水爆にダイナマイト! 西武打線とプロ野球の歴代最強打線を比較してみた・前編”. 週刊野球太郎 (2018年5月31日). 2023年9月27日閲覧。
  10. ^ 連載ダンプ辻コラム 第69回「僕はこうしてイップスを治しました」 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE (2021年9月8日). 2023年9月27日閲覧。
  11. ^ 朝日新聞1992年9月12日23面
  12. ^ 阪神タイガース98陣容”. 大阪日刊スポーツ (1998年5月30日). 1998年5月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月27日閲覧。
  13. ^ 阪神タイガース2000陣容”. なにわWEB. 大阪日刊スポーツ. 2000年10月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月27日閲覧。
  14. ^ コーチの退団について|球団ニュース|ニュース”. 阪神タイガース公式サイト (2011年10月25日). 2023年9月27日閲覧。
  15. ^ 元阪神・木戸氏、「マドンナジャパン」のヘッドコーチ就任”. サンスポ (2017年10月2日). 2023年9月27日閲覧。
  16. ^ 飯沼素子 (2021年6月9日). “高校女子野球の甲子園開催を「正面から反対したのは私です」 25年前、高野連が下した「女子大会の開催は時期尚早」という判断”. number web. 2022年6月18日閲覧。
  17. ^ 元阪神・木戸克彦HCが女子野球の発展に手応え「さらに流れを作りたい」”. スポーツ報知 (2021年12月19日). 2023年12月20日閲覧。
  18. ^ 【阪神】元西武スコアラーの千原淳弘氏がスコアラーに就任 1月1日付の人事異動を発表”. 日刊スポーツ (2022年12月27日). 2024年1月6日閲覧。
  19. ^ 2023年1月1日付:球団本部部長(プロスカウト担当) 兼 事業本部振興部部長(女子野球統括担当
  20. ^ 【阪神】木戸克彦氏がタイガースWomen監督に就任 侍ジャパン女子代表ヘッドコーチ 4選手が新入団”. スポーツ報知 (2023年12月20日). 2023年12月20日閲覧。
  21. ^ 【阪神】新社長に粟井一夫氏、現役引退の望月惇志氏がアカデミーコーチ/人事異動一覧”. 日刊スポーツ (2023年12月22日). 2024年1月6日閲覧。
  22. ^ 2024年1月1日付:球団本部部長(プロスカウト担当) 兼 事業本部振興部部長(女子野球統括担当及び女子野球監督

関連項目

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外部リンク

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