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2009年8月2日 (日) 07:40時点における版

露梁海戦
戦争慶長の役
年月日1598年11月18日(明暦11月19日)
場所:朝鮮国慶尚道露梁津
結果:双方が勝利を報告
交戦勢力
日本左軍(西部方面軍) 朝鮮連合水軍
指導者・指揮官
島津義弘
立花宗茂
宗義智
高橋直次
寺沢正成
明軍
陳リン陳蠶トウ子龍
朝鮮軍
李舜臣李純信
戦力
約500隻 約500隻
損害
約200隻喪失
喪失数不明 李舜臣、明軍副将鄧子龍他指揮官クラスの死亡あり
文禄・慶長の役

露梁海戦(ろりょうかいせん)は、慶長の役における海戦の一つ。慶長三年(1598年)十一月十八日(和暦/以下同)に順天城守備の小西行長らの撤退を支援するために海路出撃した島津軍を中心とした日本軍と明・朝鮮水軍との間に露梁津で起こった海戦であり、朝鮮の役での最後の大規模海戦である。朝鮮水軍の主将李舜臣はこの戦いで戦死した。韓国では露梁大捷と呼ばれ朝鮮・明連合水軍が日本軍に大勝した戦いとされる。露梁津南海島と半島本土との間の海峡である。(右表の両軍戦力および損害については不詳の点が多く隻数については異説あり)

海戦の背景

慶長三年(1598年)、日本軍最左翼の要衝である順天城守備の小西行長らは南下してきた明・朝鮮軍の九月十九日から十月四日にわたる陸海からの攻撃をいったんは退けたが、豊臣秀吉死去の報を受け釜山へ撤退することとなった。明・朝鮮水軍が拠点であった古今島へ退いたのをみて、十一月十日、船団を仕立てて退去を図るも、やはり秀吉の死亡を知った明・朝鮮水軍に退路を遮断され順天城へ引き返さざるを得なくなった。既に撤退のため巨済島に集結を終えていた島津義弘宗義智立花宗茂(当時の名乗りは親成)、高橋直次らの左軍諸将や撤退の差配に出向いていた寺沢正成はそれを知り、急遽五百隻(三百隻とも言う)の兵船を仕立て、救援のため十七日の夜、順天へと向かった。これを知った明・朝鮮水軍も迎撃するため封鎖を解き露梁津へと東進する。

戦闘の経過

十八日未明、露梁津を抜けようとした日本軍は南海島北西の小島、竹島の陰に潜んだ明水軍と同じく南海島北西の湾、観音浦に潜んだ朝鮮水軍とに出口で待ち伏せされ、南北から挟撃される形で戦闘が始まった。日本軍前衛は被害を出しつつも明・朝鮮水軍先鋒を観音浦へ押し戻し[1]、先鋒が撃退されたのをみて押し出して来た明水軍主力と島津本隊および後続他家入り乱れての混戦となる。先陣を切っていた島津軍に損害が大きく、島津の将樺山久高率いる一隊は、海峡突破に成功したものの本隊と分断され、当初に朝鮮水軍の潜んでいた観音浦に逆に押し込められて浅瀬に座礁して船を失い、徒歩で南海島を横断して東岸へ脱出せざるを得ないという状況にもなった。主将の島津義弘の乗船も潮に流されて後落し、敵船から熊手などを掛けられ切り込まれそうになる窮地に陥り、他家の救援も得てようやく脱出できたと伝えられる。このように戦況は日本軍に不利であり、夜が明けるころには大勢は決し、日本側の撤退により戦闘は終結した。 [2]

朝鮮側の記録『宣祖実録』には「日本船百隻捕捉、二百隻焼破、斬首五百、捕虜百八十余、溺者数知れず」とある。だが、明軍の副将トウ子龍、朝鮮軍の主将李舜臣といった将官が戦死し、一時突出した明軍の主将陳リンも日本軍の包囲から危うく逃れたとされ、海戦後に明・朝鮮水軍が退却する日本軍を追撃したり、あるいは再び順天を封鎖することは適わなかった。

海戦後の経緯

順天の小西軍は封鎖が解けたのを見て、十九日早朝、順天を発し海戦の生じた南海島北部のルートを避け、南海島の南を大きく迂回して翌二十日無事巨済島に到着する。同じく二十日、南海島に残った樺山ら約五百の島津兵も収容し、西部方面の日本軍は撤退を完了する。

評価

海戦は明・朝鮮側が勝利したが、日本側は目的である小西軍の撤兵を成功させた。しかし、既に和議がなった後の戦いであり、いずれにせよ戦局への影響は少ない。

参加兵力についての考察

日本側は五百隻とも三百隻とも言われるが、どちらも日本側史料によるものではなくその実数や構成・兵数は不詳である。参考としては、五家の動員定数は一万七千ほど(島津一万、立花五千、宗一千、高橋五百、寺沢不明[3])であったが、実際の動員数はその八割程度とする見方があり[4]、さらにそれまでの損耗と後方警備・撤退準備などのために巨済島等に残置した兵力もあるであろうと考えると、日本側の兵力は多く見積もっても一万を超えることはなかったのではないかと推測される。また、参加諸将は水軍の将ではないため、正規の軍船主体ではなく、各家の保有していた大小様々な兵站用の運送船を流用したものと考えるのが妥当と思われる。当時の和船は船体の構造的には軍船と運送船との大きな違いはなかったが、当然ながら上部の楯板などの装甲の有無という違いがある。この海戦では明・朝鮮軍の使用する投擲火器の効果が大であったとされており、その点も運送船の軍船流用を示しているように考えられる。なお、損失は二百隻とされる場合が多いが、これも日本側の記録によるものではない。島津家の公式記録『征韓録』には、船舶の損害について「夥し」とあるものの具体的な数字は上げられておらず、戦死者も二六名の名を挙げ「其外戦死の人々多し」とあるのみである。

明・朝鮮水軍についても具体的な参加兵力は不詳であるが、明水軍については『明史』に派遣の際に陳璘に与えられた兵力として兵一万三千余、戦艦数百とあり、さらに『乱中日記』に順天城攻めの最中に明水軍遊撃将王元周らが百余隻を率いて着到した記述がある。(ただし、これが当初の兵数に含まれるのか増援なのかは不明である。)他方、日本側史料に海戦時のものとして明船五六百隻、朝鮮船百隻との数字を上げたもの[5]があり、参謀本部編纂の『日本戦史 朝鮮役』では合わせて五百隻の数字を採っている。朝鮮水軍については同時代史料である『懲毖録』に順天の戦い以前の兵数として八千余人とあり、また、近年の日本の書籍[6]に出典は示されていないものの同時期の兵数として七千三百とある。明・朝鮮軍を合わせると、順天での損耗を差し引いても本会戦の参加兵力は一万数千から二万程度になり、日本軍の兵力に対し概ね二倍程度の優位にあったことになろう。なお、明・朝鮮軍の喪失数は、明・朝鮮側史料にあるのは戦果報告ばかりのため不詳だが、日本側史料には『征韓録』に朝鮮船四隻、明船二隻を切り捕らえたとする記述がある。

参照

  1. ^ 朝鮮側史料『乱中雑録』に”賊兵殊死血戦、勢不能支、乃退入観音浦”とある。
  2. ^ 参謀本部編纂『日本戦史 朝鮮役』本編418頁。また一次資料である『征韓録』に、日本側の被害について「大明の舟よりは大石火壺を投入、日本の舟共を打破焼沈めなどする事夥し」、日本側が撤退を図ったことについては「去程に島津、寺沢、宗、高橋の軍兵は合戦を止、唐島に至て引退んとする」、さらに明船に取り付かれそれを撃退した義弘の乗船につき「此故に漸く唐島に至て引退く」と重ねての記述がある。
  3. ^ 寺沢正成は八万石であり、一万石あたり250人の軍役賦課の原則に従えば二千となるが、兵站を担当しており名護屋・壱岐・対馬・釜山などに分駐した。
  4. ^ 『文禄・慶長の役』中野等/吉川弘文館 137頁 文禄の役において動員定数一万の小早川隆景軍の実数が八千ほどであった例が示されている。
  5. ^ 『朝鮮征伐記』 鹿児島大学蔵
  6. ^ 『文禄・慶長の役』中野等/吉川弘文館(2008) 241頁