「松浦久信 (平戸藩主)」の版間の差分
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{{基礎情報 武士 |
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'''松浦 久信'''(まつら ひさのぶ、[[元亀]]2年([[1571年]]) - [[慶長]]7年[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]([[1602年]][[10月14日]]))は、[[安土桃山時代]]、[[江戸時代]]前期の[[大名]]。[[肥前国|肥前]][[平戸藩]]の第2代藩主。 |
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| 画像説明 = 松浦久信像([[松浦史料博物館]]蔵) |
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| 死没 = [[慶長]]7年[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]([[1602年]][[10月14日]]) |
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| 改名 = |
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| 神号 = |
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| 戒名 = 豊心院殿前肥州太守泰嶽常安居士 |
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| 氏族 = [[松浦氏]] |
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| 特記事項 = |
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'''松浦 久信'''(まつら ひさのぶ)は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]。[[肥前国]][[平戸藩]]2代藩主。[[官位]]は[[従五位|従五位下]]・[[肥前国#武家官位としての肥前守|肥前守]]。[[松浦氏#平戸松浦氏|平戸松浦氏]]27代当主。 |
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初代藩主・[[松浦鎮信 (法印)|松浦鎮信]]の長男。母は[[西郷純隆]]の娘。正室は[[キリシタン大名]]として著名な[[大村純忠]]の娘(メンシア/[[松東院]])。子は[[松浦隆信 (宗陽)|松浦隆信]](長男)、松浦信清(次男)、松浦信辰(三男)、娘(松浦信正室)、娘(松浦忠広室)、娘(松浦信正継室)。官位は[[従五位下]]、[[肥前国|肥前守]]。 |
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== 略歴 == |
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慶長7年(1602年)、32歳で急死。[[徳川家康]]より帰国を許されず京に留め置かれたために将来を悲観して切腹した、という説もある。久信の跡は長男・隆信が継いだ。 |
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父から家督を継いだ時期は判然としないが、長命であった祖父[[松浦隆信|隆信]]が亡くなった慶長4年([[1599年]])から関ヶ原の戦いの翌年([[1601年]])までの間ぐらいだと考えられている。 |
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慶長7年([[1602年]])、江戸に赴く途中、伏見で病に倒れた。鎮信は平戸の印山寺の僧に祈祷させて治癒を願ったが、久信はそのまま急死した。享年32。これに激怒した鎮信が、印山寺の僧を殺そうとしたため、僧侶が皆逃げ出して葬儀ができなくなったので、[[壱岐国]]から[[安国寺 (壱岐市)|安国寺]]の僧が平戸に来て葬儀を行ったという。 |
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久信の跡は長男の[[松浦隆信 (平戸藩主)|隆信]]が継いだ。 |
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== 系譜 == |
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*父:[[松浦鎮信]](1549年 - 1614年) |
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*母:[[西郷純堯]]の娘 |
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*正室:[[松東院]](1575年 - 1657年)、その、メンシア - [[大村純忠]]の五女 |
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**長男:[[松浦隆信 (平戸藩主)|松浦隆信]](1592年 - 1637年) |
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**男子:[[松浦信清]] - 家臣[[松浦信実]]の養子 |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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2022年12月21日 (水) 12:45時点における最新版
松浦久信像(松浦史料博物館蔵) | |
時代 | 安土桃山時代 |
生誕 | 元亀2年(1571年) |
死没 | 慶長7年8月29日(1602年10月14日) |
別名 | 源三郎、肥前守(通称) |
戒名 | 豊心院殿前肥州太守泰嶽常安居士 |
墓所 |
東京都墨田区吾妻橋の天祥寺 長崎県壱岐市芦辺町の安国寺[1] |
官位 | 従五位下・肥前守 |
氏族 | 松浦氏 |
父母 | 松浦鎮信、西郷純堯娘 |
兄弟 |
久信、日高信喜室、信正、後藤広明室、 西郷純成室、桃野某室、南総某室、 角左衛門、三四郎 |
妻 | 大村純忠娘松東院 |
子 |
隆信、松浦信正室、信清、信辰、 松浦忠広室、松浦信正継室 |
松浦 久信(まつら ひさのぶ)は、安土桃山時代の武将。肥前国平戸藩2代藩主。官位は従五位下・肥前守。平戸松浦氏27代当主。
略歴
[編集]元亀2年(1571年)、大名松浦鎮信の長男として誕生した。天正14年(1586年)頃、大村純忠の五女(後の松東院)と祝言をあげた。
文禄元年(1592年)、文禄の役で父と共に朝鮮へ出征した。慶長の役にも従軍し、駐留期間は計7年。各地を転戦し、平安道で敵の包囲を突破して父を救ったことがある。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、大坂にあって西軍に与して、伏見城攻めと伊勢国安濃津城攻めに参陣した。しかし父鎮信が肥前神集島で開かれた去就会議に参加して東軍に加わることを決めたため、久信は戦後に処罰を受けることもなく、所領を安堵された。
父から家督を継いだ時期は判然としないが、長命であった祖父隆信が亡くなった慶長4年(1599年)から関ヶ原の戦いの翌年(1601年)までの間ぐらいだと考えられている。
慶長7年(1602年)、江戸に赴く途中、伏見で病に倒れた。鎮信は平戸の印山寺の僧に祈祷させて治癒を願ったが、久信はそのまま急死した。享年32。これに激怒した鎮信が、印山寺の僧を殺そうとしたため、僧侶が皆逃げ出して葬儀ができなくなったので、壱岐国から安国寺の僧が平戸に来て葬儀を行ったという。
久信の跡は長男の隆信が継いだ。
系譜
[編集]- 父:松浦鎮信(1549年 - 1614年)
- 母:西郷純堯の娘
- 正室:松東院(1575年 - 1657年)、その、メンシア - 大村純忠の五女
- 生母不明の子女
- 女子:松浦信正室
- 女子:松浦忠広室
- 女子:松浦信正継室
脚注
[編集]- ^ 拝所。久信夫妻の供養塔。
参考文献
[編集]- 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜. 第3輯』國民圖書、1923年 。