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「憲宗 (朝鮮王)」の版間の差分

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'''憲宗'''(けんそう、ホンジョン、[[1827年]][[9月8日]] - [[1849年]][[7月25日]])は、[[李氏朝鮮]]の第24代国王(在位:[[1834年]] - [[1849年]])。[[諱]]は烉(かん、ファン)。[[字]]は文応。号は元軒。[[諡]]は荘粛体健継極中正光大至聖広徳弘運章化経文緯武明仁哲孝大王(清国からの諡号は荘粛王<ref name="chosun20070911"/>)。わずか8歳で即位し、病弱だったため、23歳で[[崩御]]した。[[純祖]]の孫で、[[孝明世子]]の息子。母は趙万永の娘の[[神貞王后|神貞王后趙氏]]。純祖の妃である純元王后が[[摂政]]となっていたが、安東金氏(純元王后の実家)と豊壌趙氏の勢力争いがあった。なお、[[正祖]]の血を引く王としては最後の王である。


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[[1845年]]には[[イギリス]]軍艦[[サマラン号]](Samarang)が朝鮮政府の許諾なしに[[済州島]]と西海岸を測量して帰る事件があり、[[1846年]]には[[フランス]]提督セシルが[[カトリック教会|カトリック]]弾圧(後述)を口実に、軍艦3隻を率いて国王に国書を受けとらせようとする事件が発生した。そして[[1848年]]には外国船が[[慶尚道]]・[[全羅道]]・[[黄海道]]などへ頻繁に出没し、民衆が大いに動揺した。まさにこの時から朝鮮は西欧列強から通商と門戸開放要求にあうようになったが、朝鮮は国際情勢に暗かったために何の対策も立てられず、重臣たちの権力闘争に明け暮れた。


憲宗時代には大規模な[[カトリック教会|カトリック]]弾圧があり、これを[[己亥迫害]]と呼ぶ。当時朝鮮におけるカトリックは[[1831年]]カトリック朝鮮大教区(現在[[カトリック・ソウル大教区]])が承認されるほど大きく成長したが、[[1839年]]の己亥迫害でモーバン(Maubant)神父らの[[パリ外方伝教会]]所属カトリック宣教師と[[劉進吉]]・[[丁夏祥]]らの一般信者たちが[[セナムト]]で一挙に処刑され、[[1845年]]には韓国教会史最初の[[韓国人]]カトリック[[司祭]]である[[金大建]]神父が[[殉教]]する事件があった。
憲宗時代には大規模な[[カトリック教会|カトリック]]弾圧があり、これを[[己亥迫害]]と呼ぶ。当時朝鮮におけるカトリックは[[1831年]]カトリック朝鮮大教区(現在[[カトリック・ソウル大教区]])が承認されるほど大きく成長したが、[[1839年]]の己亥迫害でモーバン(Maubant)神父らの[[パリ外方伝教会]]所属カトリック宣教師と[[劉進吉]]・[[丁夏祥]]らの一般信者たちが[[セナムト]]で一挙に処刑され、[[1845年]]には韓国教会史最初の[[大韓民国#国民|韓国人]]カトリック[[司祭]]である[[金大建]]神父が[[殉教]]する事件があった。


9年間の親政期間、[[安東金氏]]と[[豊壌趙氏]]の権力争いに巻き込まれた憲宗は、国内はもちろん、朝鮮周辺の状況が急激に変わっているという事実が分からず、朝鮮に近づく列強勢力に対する対応策も準備することができないまま、[[1849年]]6月、23歳(数え年)で薨去した。
9年間の親政期間、[[安東金氏]]と[[豊壌趙氏]]の権力争いに巻き込まれた憲宗は、国内はもちろん、朝鮮周辺の状況が急激に変わっているという事実が分からず、朝鮮に近づく列強勢力に対する対応策も準備することができないまま、[[1849年]]6月、23歳(数え年)で薨去した。


[[清]]から贈られた[[諡|諡号]]は、「荘粛王」である<ref name="chosun20070916" />。この諡号は、治世中の公式記録から徹底して取り除かれており、『[[朝鮮王朝実録]]』、朝鮮国王の行状、『[[陵誌文]]』といったほとんど全ての公式記録から取り除かれ、外交文書以外にはほとんど使用されなかった。『朝鮮王朝実録』は、清から諡号を授かった事実を記録するのみで贈られた諡号を記録していない。その理由は、「[[四夷|夷狄]]」とみなした清からの諡号を恥辱に感じていたからであり、表向きは清に対して[[朝貢]]・[[冊封]]の[[事大主義|事大]]をおこない、恭順の姿勢を装うが、清に対する反発が拭い難く根付いていた<ref name="chosun20070916" />。
== 家族関係 ==
=== 后妃 ===
*[[孝顕王后]](1828- 1843年、永興府院君金祖根の娘
*[[孝定王后]](1831- 1903年、益豊府院君洪在龍の娘
**公主(? - ?。早世)


=== 後宮 ===
== 家系 ==
* 祖父: [[純祖]](1790-1834)
*[[慶嬪金氏]](1832- 1907年)
* 祖母: [[純元王后]]金氏(1789-1857)
*淑儀金氏(1813年 - 1895年)
* 父: [[孝明世子]]李旲(1809-1830)
* 母: [[神貞王后]]趙氏(1809-1890)
* 正室: [[孝顕王后]]金氏(1828-1843)- 永興[[府院君]]金祖根の娘
** 子女なし
* 継室: [[孝定王后]]洪氏(1831-1904)- 益豊府院君洪在龍の娘
** 子女なし
* 後宮: [[慶嬪金氏]](1832-1907)
** 子女なし
* 後宮: {{仮リンク|淑儀金氏|ko|숙의 김씨 (헌종)}}(1813-1895)
**翁主(1848年 - 1848年。早世)
**翁主(1848年 - 1848年。早世)


憲宗の娘2人が早世し、男子も儲けることができなかったため、子孫はいない。また、曾祖父・正祖の男系子孫も憲宗の代で断絶することとなった。
憲宗の娘1人が早世し、男子も儲けることができなかったため、子孫はいない。また、曾祖父・正祖の男系子孫も憲宗の代で断絶することとなった。


== 系図 ==
== 系図 ==
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== 憲宗が登場する作品 ==
== 憲宗が登場する作品 ==
;映画
;映画
*[[風水師 王の運命を決めた男]]([[2018]]。演:[[イ・ウォングン]])
*[[風水師 王の運命を決めた男]](2018演:[[イ・ウォングン]])
*[[王の預言書]](2018年、演:[[チョン・ヘイン]])

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|<dl style="margin:0;padding:0"><dt style="margin:0;padding:0">[[李氏朝鮮]]の[[朝鮮の君主一覧|国王]]</dt><dd style="margin:0;padding:0">第24代:1834年 - 1849年</dd></dl>
|style="border-left: #ccc 1px solid;width:33%" |<dl style="margin:0;padding:0"><dt style="margin:0;padding:0">次代:</dt><dd style="margin:0;padding:0">[[哲宗 (朝鮮王)|哲宗]]</dd></dl>
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2023年7月10日 (月) 15:34時点における最新版

憲宗 李烉
李朝
第24代国王
1954年の火災で半分が消失してしまっている。顔はあまり把握できない。
王朝 李朝
在位期間 1834年12月13日 - 1849年7月25日
文応(ムヌン、문응)
元軒(ウォンホン、원헌)
諡号 体健継極中正光大至聖広徳弘運章化経文緯武明仁哲孝大王
荘粛王(清国による)[1][2]
廟号 憲宗
生年 道光7年7月18日
1827年9月8日
没年 道光29年6月6日
1849年7月25日
孝明世子
神貞王后趙氏
王后・王配 孝顕王后金氏
孝定王后洪氏
妃嬪 慶嬪金氏
淑儀金氏
子女 翁主(早世)
陵墓 景陵
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憲宗(けんそう、ホンジョン、1827年9月8日 - 1849年7月25日)は、李氏朝鮮の第24代国王(在位:1834年 - 1849年)。は烉(かん、ファン)。は文応。号は元軒。は荘粛体健継極中正光大至聖広徳弘運章化経文緯武明仁哲孝大王(清国からの諡号は荘粛王[1])。わずか8歳で即位し、病弱だったため、23歳で崩御した。純祖の孫で、孝明世子の息子。母は趙万永の娘の神貞王后趙氏。純祖の妃である純元王后が摂政となっていたが、安東金氏(純元王后の実家)と豊壌趙氏の勢力争いがあった。なお、正祖の血を引く王としては最後の王である。

陵は京畿道九里市にある景陵。

生涯

[編集]

孝明世子(後に翼宗に追尊)と神貞王后趙氏の息子として生まれ、王世孫に冊封された。1830年に孝明世子が世を去り、1834年に純祖が薨去すると、8歳(数え年)の年で即位した。年が幼いことから大王大妃の純元王后が7年間垂簾聴政をしたが、15歳になった年に親政を開始した。

憲宗が国を治めた時期は、朝鮮社会を支えてきた身分秩序と封建制度の崩壊があちこちで現われ始めた時だった。また水害と伝染病のため、生活が徐々に困難になり家を捨ててさすらう流民が急激に増加した。

このように社会の不安から国王の廃位をねらった謀反事件が2度にわたり発生した。1836年には忠清道にいた南膺中が、正祖の弟である恩彦君の孫を国王に推戴しようとし、1844年には閔晋鏞が再び恩彦君の孫を国王に推戴しようと画策したが、いずれも失敗に終わった。2度の謀反事件ともすべて、なんの政治的勢力もないはずの中人と没落した両班が起こしたもので、この時期には誰もが王権に挑戦することができるほど国王が軽んじられていた。

1845年にはイギリス軍艦サマラン号(Samarang)が朝鮮政府の許諾なしに済州島と西海岸を測量して帰る事件があり、1846年にはフランス提督セシルがカトリック弾圧(後述)を口実に、軍艦3隻を率いて国王に国書を受けとらせようとする事件が発生した。そして1848年には外国船が慶尚道全羅道黄海道などへ頻繁に出没し、民衆が大いに動揺した。まさにこの時から朝鮮は西欧列強から通商と門戸開放要求にあうようになったが、朝鮮は国際情勢に暗かったために何の対策も立てられず、重臣たちの権力闘争に明け暮れた。

憲宗時代には大規模なカトリック弾圧があり、これを己亥迫害と呼ぶ。当時朝鮮におけるカトリックは1831年カトリック朝鮮大教区(現在カトリック・ソウル大教区)が承認されるほど大きく成長したが、1839年の己亥迫害でモーバン(Maubant)神父らのパリ外方伝教会所属カトリック宣教師と劉進吉丁夏祥らの一般信者たちがセナムトで一挙に処刑され、1845年には韓国教会史最初の韓国人カトリック司祭である金大建神父が殉教する事件があった。

9年間の親政期間、安東金氏豊壌趙氏の権力争いに巻き込まれた憲宗は、国内はもちろん、朝鮮周辺の状況が急激に変わっているという事実が分からず、朝鮮に近づく列強勢力に対する対応策も準備することができないまま、1849年6月、23歳(数え年)で薨去した。

から贈られた諡号は、「荘粛王」である[2]。この諡号は、治世中の公式記録から徹底して取り除かれており、『朝鮮王朝実録』、朝鮮国王の行状、『陵誌文』といったほとんど全ての公式記録から取り除かれ、外交文書以外にはほとんど使用されなかった。『朝鮮王朝実録』は、清から諡号を授かった事実を記録するのみで贈られた諡号を記録していない。その理由は、「夷狄」とみなした清からの諡号を恥辱に感じていたからであり、表向きは清に対して朝貢冊封事大をおこない、恭順の姿勢を装うが、清に対する反発が拭い難く根付いていた[2]

家系

[編集]

憲宗の娘1人が早世し、男子も儲けることができなかったため、子孫はいない。また、曾祖父・正祖の男系子孫も憲宗の代で断絶することとなった。

系図

[編集]

憲宗の親類・近親・祖先の詳細

荘献世子━┳懿昭世孫
              ┃ 
           ┣22代正祖━23代純祖孝明世子(翼宗)━24代憲宗
       ┃
       ┣恩彦君全渓大院君━25代哲宗
       ┃
       ┣恩信君━南延君(養子)━興宣大院君━26代高宗
          ┃
          ┗恩全君


脚注

[編集]
  1. ^ a b “조선 후기 왕들, 청나라로부터 받은 시호 철저히 숨겼다”. 朝鮮日報. (2007年9月11日). オリジナルの2013年10月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131013094349/https://www.chosun.com/site/data/html_dir/2007/09/11/2007091100074.html 
  2. ^ a b c “清の諡号を隠した朝鮮後期の国王たち”. 朝鮮日報. (2007年9月16日). オリジナルの2007年10月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20071009174825/http://www.chosunonline.com/article/20070916000002 

憲宗が登場する作品

[編集]
映画
先代:
純祖
李氏朝鮮国王
第24代:1834年 - 1849年
次代:
哲宗