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{{基礎情報 過去の国
{{基礎情報 過去の国
|略名 = ブラジル
| 略名 = ブラジル
|日本語国名 = ブラジル帝国
| 日本語国名 = ブラジル帝国
|公式国名 = Império do Brasil
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| 先代1 = ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国
|先旗1 = Flag of the United Kingdom of Portugal, Brazil, and the Algarves.svg
| 先旗1 = Flag of the United Kingdom of Portugal, Brazil, and the Algarves (1815-1825).svg
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|旗2 = Flag of the United Kingdom of Portugal, Brazil, and the Algarves (1815-1825).svg
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| 国旗画像 = Bandeira do Império do Brasil com nó e cores corretos.svg
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| 位置画像 = First Brazilian Empire (orthographic projection) 1889.svg
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'''ブラジル帝国'''(ブラジルていこく、'''Império do Brasil''')は、[[1822年]]から[[1889年]]まで[[南アメリカ|南米]][[ブラジル]]を統治した[[立憲君主制]][[国家]]。[[1828年]]までは現在の[[ウルグアイ]]も含まれていた。
'''ブラジル帝国'''(ブラジルていこく、{{lang-pt|Império do Brasil}})は、[[1822年]]から[[1889年]]まで[[南アメリカ|南米]][[ブラジル]]を統治した[[立憲君主制]][[国家]]である。[[1828年]]までは現在の[[ウルグアイ]]も含まれていた。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
{{Main|ブラジル帝国の歴史}}
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[[1808年]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]の[[ブラガンサ王朝]]は[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]軍の侵攻を逃れて[[植民地]]ブラジルに逃れ、[[1809年]]に[[リオデジャネイロ]]に[[遷都]]した。ポルトガル宮廷のリオ滞在によってブラジルは人口も増え、[[文明]]も進歩した。この間、[[1815年]]に、それまで[[公国]]だったブラジルは植民地からポルトガルと対等な王国に昇格され、[[ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国]]に再編された。[[1821年]]、ポルトガル・ブラジル王ジョアン6世は[[リスボン]]帰還を果たし、ブラジル国王兼位のまま[[皇太子|王太子]][[ペドロ1世 (ブラジル皇帝)|ドン・ペドロ]]をブラジル[[摂政]]として残した。ポルトガルはブラジルの分離独立を恐れて、ブラジルにポルトガル軍を送り込んで統制を強化したが、これがかえってブラジル在地支配層の反感を買い、ポルトガル派とブラジル派の対立が激化した。[[1822年]]、ブラジル在地支配層は摂政ドン・ペドロを擁立して連合王国からの独立を宣言し、[[ペルナンブーコ]]などに駐屯していたポルトガル軍を破った。
[[1808年]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]の[[ブラガンサ王朝]]は[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]軍の[[半島戦争|侵攻]]を逃れて[[植民地]]ブラジルに逃れ、[[1809年]]に[[リオデジャネイロ]]に[[遷都]]した。ポルトガル宮廷のリオ滞在によってブラジルは人口も増え、[[文明]]も進歩した。この間、[[1815年]]に、それまで[[公国]]だったブラジルは植民地からポルトガルと対等な王国に昇格され、[[ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国]]に再編された。[[1821年]]、ポルトガル・ブラジル王ジョアン6世は[[リスボン]]帰還を果たし、ブラジル国王兼位のまま[[皇太子|王太子]][[ペドロ1世 (ブラジル皇帝)|ドン・ペドロ]]をブラジル[[摂政]]として残した。ポルトガルはブラジルの分離独立を恐れて、ブラジルにポルトガル軍を送り込んで統制を強化したが、これがかえってブラジル在地支配層の反感を買い、ポルトガル派とブラジル派の対立が激化した。[[1822年]]、ブラジル在地支配層は摂政ドン・ペドロを擁立して連合王国からの独立を宣言し、[[ペルナンブーコ]]などに駐屯していたポルトガル軍を破った。


ブラジルが君主を擁立して独立するとしても、何故「[[王国]]」ではなく「[[帝国]]」なのかであるが、これは広大なブラジル諸地域が[[イスパノアメリカ]]諸国のように分裂せず、統一を保つためには[[皇帝]]という求心軸が必要だったと解釈されている。
ブラジルが君主を擁立して独立するとしても、何故「[[王国]]」ではなく「[[帝国]]」なのかであるが、これは広大なブラジル諸地域が[[イスパノアメリカ]]諸国のように分裂せず、統一を保つためには[[皇帝]]という求心軸が必要だったと解釈されている。
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ポルトガル王太子ドン・ペドロはポルトガル王位継承権を保ったまま、ポルトガル本国の意に反してブラジル皇帝となった。[[1825年]]当時、ポルトガルに絶大な影響力をもつ[[イギリス]]がブラジルの独立を承認し、[[アメリカ合衆国]]の介入を警戒してポルトガルにもブラジルを承認させた。同年[[フアン・アントニオ・ラバジェハ]]の[[シスプラチナ州]]潜入により、1821年に併合した[[東方州]]はブラジルからの独立と、アルゼンチンへの編入を求めて独立戦争を開始し、[[ラ・プラタ連合]]もこれを支援した。この内乱はブラジルの宣戦布告により[[シスプラティーナ戦争]]へと発展し、戦争はアルゼンチン有利に進んだが、[[ラプラタ川|ラ・プラタ川]]の両岸をアルゼンチンが保有することを恐れたイギリスの仲介により、1828年に[[モンテビデオ条約]]が結ばれ、シスプラチナ州は[[ウルグアイ|ウルグアイ東方共和国]]としての独立が認められた。この敗戦は皇帝ドン・ペドロ1世の失脚の原因ともなった。
ポルトガル王太子ドン・ペドロはポルトガル王位継承権を保ったまま、ポルトガル本国の意に反してブラジル皇帝となった。[[1825年]]当時、ポルトガルに絶大な影響力をもつ[[イギリス]]がブラジルの独立を承認し、[[アメリカ合衆国]]の介入を警戒してポルトガルにもブラジルを承認させた。同年[[フアン・アントニオ・ラバジェハ]]の[[シスプラチナ州]]潜入により、1821年に併合した[[東方州]]はブラジルからの独立と、アルゼンチンへの編入を求めて独立戦争を開始し、[[ラ・プラタ連合]]もこれを支援した。この内乱はブラジルの宣戦布告により[[シスプラティーナ戦争]]へと発展し、戦争はアルゼンチン有利に進んだが、[[ラプラタ川|ラ・プラタ川]]の両岸をアルゼンチンが保有することを恐れたイギリスの仲介により、1828年に[[モンテビデオ条約]]が結ばれ、シスプラチナ州は[[ウルグアイ|ウルグアイ東方共和国]]としての独立が認められた。この敗戦は皇帝ドン・ペドロ1世の失脚の原因ともなった。


[[1826年]]にポルトガル本国でジョアン6世が死去すると、王位継承者であるドン・ペドロがブラジル皇帝となっていたので王位継承問題が発生した。本国の保守反動派はドン・ペドロの継承権無効を宣言して、ドン・ペドロの弟[[ミゲル1世 (ポルトガル王)|ドン・ミゲル]]の擁立を主張した。これに対してドン・ペドロは在ブラジルのままポルトガル王ペドロ4世として即位を宣言、ただちに長女[[マリア2世 (ポルトガル女王)|マリア・ダ・グロリア]]に譲位した。そしてマリア・ダ・グロリアを叔父ドン・ミゲルと結婚させ、ミゲルをポルトガル摂政とする妥協が図られた。一時はこの妥協が成立したが、[[1828年]]にドン・ミゲルは約束を破棄して即位を宣言、このためドン・ペドロは[[1831年]]ブラジル皇帝位を長男の[[ペドロ2世 (ブラジル皇帝)|ペドロ2世]]に譲位し、長女マリア・ダ・グロリアのポルトガル王位を主張してポルトガルに向かった。
[[1826年]]にポルトガル本国でジョアン6世が死去すると、王位継承者であるドン・ペドロがブラジル皇帝となっていたので王位継承問題が発生した。本国の保守反動派はドン・ペドロの継承権無効を宣言して、ドン・ペドロの弟[[ミゲル1世 (ポルトガル王)|ドン・ミゲル]]の擁立を主張した。これに対してドン・ペドロは在ブラジルのままポルトガル王ペドロ4世として即位を宣言、ただちに長女[[マリア2世 (ポルトガル女王)|マリア・ダ・グロリア]]に譲位した。そしてマリア・ダ・グロリアを叔父ドン・ミゲルと結婚させ、ミゲルをポルトガル摂政とする妥協が図られた。一時はこの妥協が成立したが、[[1828年]]にドン・ミゲルは約束を破棄して即位を宣言、このためドン・ペドロは[[1831年]]ブラジル皇帝位を長男の[[ペドロ2世 (ブラジル皇帝)|ペドロ2世]]に譲位し、長女マリア・ダ・グロリアのポルトガル王位を主張してポルトガルに向かった。


ブラジル新皇帝ペドロ2世は長期にわたって在位し、ブラジルによるウルグアイへの干渉から始まった[[三国同盟戦争]]を戦い抜き、[[パラグアイ]]を壊滅させるなど治世を安定させた。ペドロ2世はブラジルの[[奴隷制]]を廃止するなど[[自由主義]]的な君主であったが、[[糖尿病]]に侵されて次第に統治能力を失い、1888年の奴隷制廃止により大打撃を受けた保守支配層が[[1889年]]に企んだ軍部の[[クーデター]]によって廃位され([[ブラジル共和制革命]])、ブラジルは[[共和制]]となった。
ブラジル新皇帝ペドロ2世は長期にわたって在位し、ブラジルによるウルグアイへの干渉から始まった[[三国同盟戦争]]を戦い抜き、[[パラグアイ]]を壊滅させるなど治世を安定させた。ペドロ2世はブラジルの[[奴隷制]]を廃止するなど[[自由主義]]的な君主であったが、[[糖尿病]]に侵されて次第に統治能力を失い、1888年の奴隷制廃止により大打撃を受けた保守支配層が[[1889年]]に企んだ軍部の[[クーデター]]によって廃位され([[ブラジル共和制革命]])、ブラジルは[[共和制]]となった。


帝国が滅んだ後も、帝国時代を懐かしむ者は、ブラジル国内に[[保守]]層を中心に存在している。1993年、[[ブラジル]]では統治形態に関する[[国民投票]]が行われ、3分の2が[[共和制]]を選択する一方、13.2%は[[君主制]]を選択した<ref>{{cite news |title=ブラジル、混乱解決の切り札は「王制復活」? |newspaper=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]] |date=2016-6-26 |url=https://jp.wsj.com/articles/SB11084185715531594181404582141930824746956 |accessdate=2018-10-10|author= PAUL KIERNAN }}</ref>。
帝国が滅んだ後も、帝国時代を懐かしむ者は、ブラジル国内に[[保守]]層を中心に存在している。1993年、[[ブラジル]]では統治形態に関する[[国民投票]]が行われ、3分の2が[[共和制]]を選択する一方、13.2%は[[君主制]]を選択した([[:en:1993 Brazilian constitutional referendum]]も参照)<ref>{{cite news |title=ブラジル、混乱解決の切り札は「王制復活」? |newspaper=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]] |date=2016-6-26 |url=https://jp.wsj.com/articles/SB11084185715531594181404582141930824746956 |accessdate=2018-10-10|author= PAUL KIERNAN }}</ref>。


== 歴代皇帝 ==
== 歴代皇帝 ==
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*[[ブラジル王国]]
*[[ブラジル王国]]
*[[ブラジルの歴史]]
*[[ブラジルの歴史]]
*[[ブラジル君主一覧]]
*[[ブラジル皇太子]]
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2024年1月18日 (木) 19:21時点における最新版

ブラジル帝国
Império do Brasil (ポルトガル語)
ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国
ブラジル王国
1822年 - 1889年 ブラジル
ウルグアイ
ブラジルの国旗 ブラジルの国章
国旗国章
国の標語: Independência ou Morte!(ポルトガル語)
独立か死か!
国歌: Hino da Independência(ポルトガル語)
独立賛歌(1822年 - 1831年)
ブラジルの位置
ブラジル帝国の最大版図(1822年)
公用語 ポルトガル語
宗教 カトリック
首都 リオデジャネイロ
皇帝
1822年 - 1831年 ペドロ1世
1831年 - 1889年ペドロ2世
閣僚評議会議長英語版
1847年 - 1848年マヌエル・アルヴェス・ブランコポルトガル語版
1889年 - 1889年アフォンソ・セルソ・デ・アシス・フィゲイレドポルトガル語版
面積
1889年8,337,218km²
人口
1890年14,333,915人
変遷
ポルトガルより独立 1822年9月7日
ペドロ1世の即位1822年10月12日
ペドロ2世の即位1831年4月7日
奴隷制廃止1888年5月13日
共和国宣言、帝政廃止1889年11月15日
通貨レアル
現在ブラジルの旗 ブラジル
ウルグアイの旗 ウルグアイ

ブラジル帝国(ブラジルていこく、ポルトガル語: Império do Brasil)は、1822年から1889年まで南米ブラジルを統治した立憲君主制国家である。1828年までは現在のウルグアイも含まれていた。

歴史

[編集]
ブラジル帝国の各州

1808年ポルトガルブラガンサ王朝ナポレオン軍の侵攻を逃れて植民地ブラジルに逃れ、1809年リオデジャネイロ遷都した。ポルトガル宮廷のリオ滞在によってブラジルは人口も増え、文明も進歩した。この間、1815年に、それまで公国だったブラジルは植民地からポルトガルと対等な王国に昇格され、ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国に再編された。1821年、ポルトガル・ブラジル王ジョアン6世はリスボン帰還を果たし、ブラジル国王兼位のまま王太子ドン・ペドロをブラジル摂政として残した。ポルトガルはブラジルの分離独立を恐れて、ブラジルにポルトガル軍を送り込んで統制を強化したが、これがかえってブラジル在地支配層の反感を買い、ポルトガル派とブラジル派の対立が激化した。1822年、ブラジル在地支配層は摂政ドン・ペドロを擁立して連合王国からの独立を宣言し、ペルナンブーコなどに駐屯していたポルトガル軍を破った。

ブラジルが君主を擁立して独立するとしても、何故「王国」ではなく「帝国」なのかであるが、これは広大なブラジル諸地域がイスパノアメリカ諸国のように分裂せず、統一を保つためには皇帝という求心軸が必要だったと解釈されている。

ブラジル帝国の皇帝ドン・ペドロ1世

ポルトガル王太子ドン・ペドロはポルトガル王位継承権を保ったまま、ポルトガル本国の意に反してブラジル皇帝となった。1825年当時、ポルトガルに絶大な影響力をもつイギリスがブラジルの独立を承認し、アメリカ合衆国の介入を警戒してポルトガルにもブラジルを承認させた。同年フアン・アントニオ・ラバジェハシスプラチナ州潜入により、1821年に併合した東方州はブラジルからの独立と、アルゼンチンへの編入を求めて独立戦争を開始し、ラ・プラタ連合もこれを支援した。この内乱はブラジルの宣戦布告によりシスプラティーナ戦争へと発展し、戦争はアルゼンチン有利に進んだが、ラ・プラタ川の両岸をアルゼンチンが保有することを恐れたイギリスの仲介により、1828年にモンテビデオ条約が結ばれ、シスプラチナ州はウルグアイ東方共和国としての独立が認められた。この敗戦は皇帝ドン・ペドロ1世の失脚の原因ともなった。

1826年にポルトガル本国でジョアン6世が死去すると、王位継承者であるドン・ペドロがブラジル皇帝となっていたので王位継承問題が発生した。本国の保守反動派はドン・ペドロの継承権無効を宣言して、ドン・ペドロの弟ドン・ミゲルの擁立を主張した。これに対してドン・ペドロは在ブラジルのままポルトガル王ペドロ4世として即位を宣言、ただちに長女マリア・ダ・グロリアに譲位した。そしてマリア・ダ・グロリアを叔父ドン・ミゲルと結婚させ、ミゲルをポルトガル摂政とする妥協が図られた。一時はこの妥協が成立したが、1828年にドン・ミゲルは約束を破棄して即位を宣言、このためドン・ペドロは1831年にブラジル皇帝位を長男のペドロ2世に譲位し、長女マリア・ダ・グロリアのポルトガル王位を主張してポルトガルに向かった。

ブラジル新皇帝ペドロ2世は長期にわたって在位し、ブラジルによるウルグアイへの干渉から始まった三国同盟戦争を戦い抜き、パラグアイを壊滅させるなど治世を安定させた。ペドロ2世はブラジルの奴隷制を廃止するなど自由主義的な君主であったが、糖尿病に侵されて次第に統治能力を失い、1888年の奴隷制廃止により大打撃を受けた保守支配層が1889年に企んだ軍部のクーデターによって廃位され(ブラジル共和制革命)、ブラジルは共和制となった。

帝国が滅んだ後も、帝国時代を懐かしむ者は、ブラジル国内に保守層を中心に存在している。1993年、ブラジルでは統治形態に関する国民投票が行われ、3分の2が共和制を選択する一方、13.2%は君主制を選択した(en:1993 Brazilian constitutional referendumも参照)[1]

歴代皇帝

[編集]
名前 在位 備考
ペドロ1世 1822年 - 1831年 ポルトガル国王としてはペドロ4世
ペドロ2世 1831年 - 1889年

脚注

[編集]

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]