コンテンツにスキップ

「イナボレス」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
 
(22人の利用者による、間の42版が非表示)
1行目: 1行目:
{{競走馬
{{競走馬
|名 = イナボレス
|名 = イナボレス
|画 =
|画 = no
|性 = 牡
|性 = [[馬|牡]]
|色 = [[栗毛]]
|色 = [[栗毛]]
|種 = [[サラブレッド系種]]
|種 = [[サラブレッド系種]]
|生 = [[1969年]][[5月30日]]
|生 = [[1969年]][[5月30日]]
|死 =
|死 =
|父 = ヘリオス
|父 = [[ヘリオス (競走馬)|ヘリオス]]
|母 = ボーレスクイン
|母 = ボーレスクイン
|母父 = カバーラップ二世
|母父 = [[カバーラップ二世]]
|産 = 長尾力吉
|産 = 長尾力吉
|国 = {{JPN}}<br />[[北海道]][[静内郡]][[静内町]]
|国 = {{JPN}}<br />[[北海道]][[静内郡]][[静内町]]
16行目: 16行目:
|績 = 76戦8勝
|績 = 76戦8勝
|金 = 1億5764万4000円
|金 = 1億5764万4000円
|鞍 = [[オールカマー]](1972年)<br />[[中山金杯|金杯(東)]](1974年)<br />[[目黒記念|目黒記念(秋)]](1974年)<br />[[愛知杯]](1975年)
}}
}}


'''イナボレス'''([[1969年]][[5月30日]] - ?)は、[[日本中央競馬会]]に所属していた[[競走馬]]・[[誘導馬]]。「'''[[花の47年組]]'''」の一頭で、中央競馬重賞最多出走記録保持馬。
'''イナボレス'''([[1969年]][[5月30日]] - ?)は、[[日本中央競馬会]]に所属していた[[競走馬]]・[[誘導馬]]。「'''[[花の47年組]]'''」の一頭で、中央競馬重賞最多出走記録保持馬<ref>「[[優駿]]」2000年12月号、p48</ref>


別名「'''走る労働者'''」。
別名「'''走る労働者'''」。

[[馬齢]]は[[2000年]]以前に使用されていた旧表記([[数え年]])を用いる。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
純粋な[[サラブレッド]]ではなく、[[サラブレッド系種]]である。
純粋な[[サラブレッド]]ではなく、[[サラブレッド系種]]である。父のヘリオスは重賞4勝を挙げた名スプリンターで、[[ハイペリオン]]系のサラブレッドであったが、母のボーレスクインの母系を遡ると、[[江戸幕府]]第13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家茂]]に[[フランス皇帝]]・[[ナポレオン3世]]が送った[[アングロアラブ]]の[[高砂 (馬)|高砂]]に辿り着く。


父の[[ヘリオス (競走馬)|ヘリオス]]は重賞4勝([[1960年]]・[[1961年]][[京都記念|京都記念 (秋)]]、1960年[[京都新聞杯|京都盃]]、1961年[[阪神大賞典]])を挙げ、1960年と1961年には2年連続で[[JRA賞最優秀短距離馬|最良スプリンター]]に選出された[[ハイペリオン (競走馬)|ハイペリオン]]系のサラブレッドであったが、母のボーレスクインの母系を辿っていくと、曾祖母の父に[[ハクシヨウ (1924年生)|初代ハクシヨウ]]がおり、最後には[[江戸幕府]]第13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家茂]]に[[フランス皇帝]]・[[ナポレオン3世]]が贈った[[アングロアラブ]]の[[高砂 (馬)|高砂]]に辿り着く。この一族のイナボレス以外の代表馬には、[[1956年]]から[[1958年]]にかけて[[鳴尾記念]]を3連覇した[[セカイオー]]がいる。
[[抽選馬]]であったが、当時[[民社党]]所属の[[衆議院議員]]であった[[稲富稜人]]がオーナーとなり、[[東京競馬場|東京]]・[[大久保末吉]]厩舎に入厩。

[[抽選馬]]であったが、当時[[民社党]]所属の[[衆議院議員]]であった[[稲富稜人]]がオーナーとなり、[[東京競馬場|東京]]・[[大久保末吉]]<ref>調教師の[[大久保洋吉]]は実子。</ref>厩舎に入厩。


=== 戦績 ===
=== 戦績 ===
[[1971年]](3歳)[[8月]]に[[中山競馬場|中山]]芝1000mの新馬戦でデビューし、2着に終わったが、2週間後の未勝利戦では1番人気に推されて初勝利を挙げる。その後は勝星を挙げることこそ出来なかったが、2着2回を含めて[[競馬場 #掲示板|掲示板]]を一度も外さなかった。最終戦の寒菊賞(100万下)では[[イシノヒカル]]の5着に敗れるが、この頃から堅実さと頑丈さを見せていた。
[[1971年]][[8月]]の[[中山競馬場|中山]]芝1000mの新馬戦でデビューし、2着に終わったが、2週間後の未勝利戦では1番人気に推されて初勝利を挙げる。その後は勝星を挙げることは出来なかったが、2着2回を含めて[[競馬場|掲示板]]を一度も外さなかった。最終戦の寒菊賞では5着に敗れているが、勝ったのは同期で後に[[JRA賞|年度代表馬]]にも輝く[[イシノヒカル]]だった。この頃から堅実さと頑丈さを見せていた。[[1972年]]は[[5月]]に始動して条件戦を使いまくり、クローバー賞(200万下)と鹿島灘特別(400万下)を制し、[[10月]]に東京で行われた[[オールカマー]]に出走。700万条件の身であったため11頭中9番人気の低評価であったが、[[ハクホオショウ]]・[[オンワードガイ]]ら有力馬を抑えて勝利し、デビュー17戦目で重賞初挑戦・初制覇となった。その後は[[カブトヤマ記念]]7着、[[愛知杯]]・[[CBC賞]]4着だった。[[1973年]]は始動戦の[[中山金杯|金杯(東)]]6着を皮切りに10連敗を喫し、掲示板に載ったのも[[金鯱賞]]・[[京成杯オータムハンデキャップ|京王杯AH]]5着の2戦だけと散々なものだった。10月の府中特別(700万下)で1番人気に応え、2着に4馬身差をつける快勝で連敗を脱出。1年ぶりの勝利でシーズン全敗を阻止。[[1974年]]は前年同様で金杯から始動し、前年の不振もあって17頭中12番人気であったが、クビ差で勝利して2年ぶりの重賞2勝目を飾った。続く[[東京新聞杯]]は11着に大敗したが、その後は安定して掲示板に載り続け、[[6月]]に[[大井競馬場|大井]]で行われた[[地方競馬招待競走|中央招待]]では[[ゴールドイーグル]]([[愛知県競馬組合|愛知]])の2着に入り、中央馬最先着となった。[[11月]]の[[目黒記念|目黒記念(秋)]]では[[カミノテシオ]]・[[スガノホマレ]]・[[イチフジイサミ]]ら強力馬を抑え、重賞3勝目を挙げた。[[1975年]]はダートのオープン戦2着と上々の滑り出しを見せ、[[アルゼンチン共和国杯]]3着の後、[[宝塚記念]]では4番人気で4着と健闘。[[函館記念]]3着・目黒記念3着を経て、[[天皇賞(秋)]]では12着と大敗。さすがに「もう限界か」と思われたが、シーズン最終戦の愛知杯で6番人気ながら1馬身半離して重賞4勝目を挙げた。13戦目での勝利で結局これが最後の勝利となった。[[1976年]]は金杯から始動し、2・3週間に1走という例年以上の超ハイペースで出走を続け、春秋天皇賞や[[安田記念]]にも出走。愛知杯5着がラストランとなり、同年をもって現役を引退。

[[1972年]](4歳)は[[5月]]に始動して条件戦を使いまくり、クローバー賞(200万下)<ref>現在[[札幌競馬場]]で行われている同名のレースとは別。</ref>と鹿島灘特別(400万下)を制し、[[10月]]に東京で行われた[[オールカマー]]に出走。700万条件の身であったため11頭中9番人気の低評価であったが、[[ハクホオショウ]]・[[オンワードガイ]]ら有力馬を抑えて勝利し、デビュー17戦目にして重賞初挑戦・初制覇となった。オールカマーで手にした賞金1000万円は稲富の選挙資金に大いに活用され、稲富は[[12月]]に行われた[[第33回衆議院議員総選挙|衆院選]]で当選を果たした。その後は[[カブトヤマ記念]]7着、[[愛知杯]]・[[CBC賞]]4着であった。

[[1973年]](5歳)は始動戦の[[中山金杯|金杯 (東)]]6着を皮切りに10連敗を喫し、掲示板に載ったのも[[金鯱賞]]・[[京成杯オータムハンデキャップ|京王杯AH]]5着の2戦だけと散々なものであった。10月の府中特別(700万下)で1番人気に応え、2着に4馬身差をつける快勝で連敗を脱出し、1年ぶりの勝利でシーズン全敗を阻止。

[[1974年]](6歳)は前年同様で金杯から始動し、前年の不振もあって17頭中12番人気であったが、クビ差で勝利して2年ぶりの重賞2勝目を飾った。続く[[東京新聞杯]]は11着に大敗したが、その後は安定して掲示板に載り続け、[[6月]]には[[大井競馬場|大井]]で行われた[[地方競馬招待競走|第1回中央招待]]に出走。当日は7万6000人のファンがスタンドに詰めかけ、締め切りを過ぎても馬券の発売を求める人々が列をなし、発走が35分も遅れた。レースでは[[ゴールドイーグル]]([[愛知県競馬組合|愛知]])の2着に入り、中央馬最先着となった。

その後は[[種子骨]][[靭帯|直靭帯]]を痛め、そのまま[[函館競馬場|函館]]に入厩。[[球節]]と[[蹄 #ウマの蹄|蹄冠部]]の間、本来なら窪みのある部分が[[木材|丸太]]のように丸くカチカチに硬くなっていたが、イナボレスは函館で[[湿布]]療法を受ける<ref name="装蹄師―競走馬に夢を打つp149">柿元純司「装蹄師―競走馬に夢を打つ」[[PHP研究所]]、[[1994年]][[12月1日]]、ISBN 4569546269、p149。</ref>。この療法は[[鍋]]に湿布を2キャップ、[[塩]]を片手に一杯、[[水]]を3、4升を入れて[[焜炉|電気コンロ]]にかけて温め、それに[[タオル|バスタオル]]を浸して焚き、バスタオルをしっかり絞って患部に巻くというものであった<ref name="装蹄師―競走馬に夢を打つp149" />。イナボレスは朝の調教後に20分ずつ2回湿布して、乾いてから腫れを前に出すように[[包帯]]をきっちり巻き、こうした治療を繰り返しながら、現役を続行。ファンの目からは酷使されていると映り、可哀想にといった同情もあって「'''オイボレス'''」と呼ばれたりもした<ref name="装蹄師―競走馬に夢を打つp149" />。

[[11月]]の[[目黒記念 #目黒記念(秋)|目黒記念 (秋)]]では[[カミノテシオ]]・[[スガノホマレ]]・[[イチフジイサミ]]ら強力馬を抑え、重賞3勝目を挙げた。イナボレスが2重賞を制した同年に大久保厩舎は年間43勝を挙げ、最多勝利調教師となった。

[[1975年]](7歳)はダートのオープン戦2着と上々の滑り出しを見せ、[[アルゼンチン共和国杯]]3着の後、[[第16回宝塚記念]]では4番人気で[[ナオキ]]の4着と健闘。夏は北海道シリーズに初めて参戦し、大雪ハンデ8着・巴賞7着の後、[[函館記念]]で[[ツキサムホマレ]]・[[ウラカワチェリー]]の3着に入る。連覇を狙った目黒記念では13頭中11番人気ながら[[トウコウエルザ]]・イチフジイサミ・カミノテシオに先んじる3着に入ったが、続く[[天皇賞(秋)]]は12着と大敗。さすがに「もう限界か」と思われたが、シーズン最終戦の愛知杯で6番人気ながら1馬身半離して重賞4勝目を挙げ、13戦目での勝利で結局これが最後の勝利となった。

[[1976年]](8歳)は[[衆議院]]が任期満了で[[第34回衆議院議員総選挙|総選挙]]が決まっていたため、選挙資金が必要なため現役を続行。金杯から始動し、2・3週間に1走という例年以上の超ハイペースで出走を続け、春秋天皇賞や[[安田記念]]・[[高松宮記念 (競馬)|高松宮杯]]にも出走。稲富はこの選挙も当選し、10期目を務めることになった。選挙終了後の愛知杯5着がラストランとなり、同年をもって現役を引退。


=== 引退後 ===
=== 引退後 ===
本来なら[[種牡馬]]になってもおかしくない成績だが、サラ系という血統面で大きなハンデを背負っていたために断念。美しい馬体を活かし東京競馬場の[[誘導馬]]として[[1980年代]]後半まで活躍。その後は不明。
本来なら[[種牡馬]]になってもおかしくない成績だが、サラ系という血統面で大きなハンデを背負っていたために断念。[[栗毛]]の[[馬のマーキング|四白流星]]<ref name="装蹄師―競走馬に夢を打つp149" />という美しい馬体を活かし東京競馬場の[[誘導馬]]として[[1980年代]]後半まで活動していたが、その後は不明。

== 競走成績 ==
* 1971年(7戦1勝)
** 2着 - 3歳抽せん馬特別、尾花賞
* 1972年(13戦3勝)
** 1着 - [[オールカマー]]、クローバー賞、鹿島灘特別
** 2着 - 新涼賞
* 1973年(14戦1勝)
** 1着 - 府中特別
** 2着 - トパーズステークス
* 1974年(11戦2勝)
** 1着 - [[金杯|金杯(東)]]、[[目黒記念|目黒記念(秋)]]
** 2着 - [[地方競馬招待競走|中央競馬招待競走]]
** 3着 - 目黒記念(春)、[[ダイヤモンドステークス]]
* 1975年(13戦1勝)
** 1着 - [[愛知杯]]
** 3着 - [[アルゼンチン共和国杯]]、[[函館記念]]、目黒記念(秋)
* 1976年(19戦0勝)
** 3着 - 巴賞

== 血統表 ==
{{競走馬血統表
|name = イナボレス
|ref1 = <ref name="JBIS_pedigree">{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000031263/pedigree/|title=血統情報:5代血統表|イナボレス|JBISサーチ(JBIS-Search)|work=JBISサーチ |publisher=[[公益社団法人]][[日本軽種馬協会]] |accessdate=2018-10-16}}</ref>
|mlin = [[プリンスローズ系]]
|ref2 = <ref name="netkeiba.com">{{Cite web|和書|url=http://db.netkeiba.com/horse/ped/000a010228/|title= イナボレスの血統表 | 競走馬データ - netkeiba.com|publisher=netkeiba.com|accessdate=2018-10-16}}</ref>
|flin =
|FN =
|ref3 = <ref name="JBIS_pedigree"/><ref name="netkeiba.com"/>
|inbr = Hyperion 4×5=9.38%<br />[[ブランドフォード (競走馬)|Blandford]] 5×5=6.25%
|ref4 = <ref name="JBIS_pedigree"/>
|f = [[ヘリオス (競走馬)|ヘリオス]]<br />1957 栗毛
|m = ボーレスクイン<br />1960 黒鹿毛
|ff = *[[ブッフラー]]<br />Bouffleur<br />1952 栗毛
|fm = *ミスハイペリオン<br />Miss Hyperion<br />1950 栗毛
|mf = *[[カバーラップ二世]]<br />Cover Up II<br />1952 黒鹿毛
|mm = ハツピウイン<br />1952 栃栗毛
|fff = Prince Chevalie
|ffm = Monsoon
|fmf = [[カーレッド|Khaled]]
|fmm = Mad Joss
|mff = Cover Up
|mfm = Betty Martin
|mmf = [[タチカゼ]]
|mmm = 月盛
|ffff = [[プリンスローズ|Prince Rose]]
|fffm = Chevalerie
|ffmf = Umidwar
|ffmm = Heavenly Wind
|fmff = [[ハイペリオン (競走馬)|Hyperion]]
|fmfm = Eclair
|fmmf = Bunting
|fmmm = Jostle
|mfff = [[アリバイ (競走馬)|Alibhai]]
|mffm = Bel Amour
|mfmf = Hollyrood
|mfmm = Rhoda F.
|mmff = *[[プリメロ]]
|mmfm = 第参パプース
|mmmf = [[ハクシヨウ (1924年生)|ハクシヨウ]]
|mmmm = 瑞盛
}}

== 参考文献 ==
* 荒井和生『競馬陽炎座 - 時代の真ん中を走れなかった馬たち』([[日経ラジオ社|日本短波放送]]、[[1996年]])ISBN 978-4931367067

== 脚注 ==
{{reflist}}


{{デフォルトソート:いなほれす}}
{{デフォルトソート:いなほれす}}

2024年1月26日 (金) 22:01時点における最新版

イナボレス
品種 サラブレッド系種
性別
毛色 栗毛
生誕 1969年5月30日
ヘリオス
ボーレスクイン
母の父 カバーラップ二世
生国 日本の旗 日本
北海道静内郡静内町
生産者 長尾力吉
馬主 稲富稜人
(有)イナトミ
調教師 大久保末吉東京
競走成績
生涯成績 76戦8勝
獲得賞金 1億5764万4000円
勝ち鞍 オールカマー(1972年)
金杯(東)(1974年)
目黒記念(秋)(1974年)
愛知杯(1975年)
テンプレートを表示

イナボレス1969年5月30日 - ?)は、日本中央競馬会に所属していた競走馬誘導馬。「花の47年組」の一頭で、中央競馬重賞最多出走記録保持馬[1]

別名「走る労働者」。

馬齢2000年以前に使用されていた旧表記(数え年)を用いる。

経歴

[編集]

純粋なサラブレッドではなく、サラブレッド系種である。

父のヘリオスは重賞4勝(1960年1961年京都記念 (秋)、1960年京都盃、1961年阪神大賞典)を挙げ、1960年と1961年には2年連続で最良スプリンターに選出されたハイペリオン系のサラブレッドであったが、母のボーレスクインの母系を辿っていくと、曾祖母の父に初代ハクシヨウがおり、最後には江戸幕府第13代将軍徳川家茂フランス皇帝ナポレオン3世が贈ったアングロアラブ高砂に辿り着く。この一族のイナボレス以外の代表馬には、1956年から1958年にかけて鳴尾記念を3連覇したセカイオーがいる。

抽選馬であったが、当時民社党所属の衆議院議員であった稲富稜人がオーナーとなり、東京大久保末吉[2]厩舎に入厩。

戦績

[編集]

1971年(3歳)8月中山芝1000mの新馬戦でデビューし、2着に終わったが、2週間後の未勝利戦では1番人気に推されて初勝利を挙げる。その後は勝星を挙げることこそ出来なかったが、2着2回を含めて掲示板を一度も外さなかった。最終戦の寒菊賞(100万下)ではイシノヒカルの5着に敗れるが、この頃から堅実さと頑丈さを見せていた。

1972年(4歳)は5月に始動して条件戦を使いまくり、クローバー賞(200万下)[3]と鹿島灘特別(400万下)を制し、10月に東京で行われたオールカマーに出走。700万条件の身であったため11頭中9番人気の低評価であったが、ハクホオショウオンワードガイら有力馬を抑えて勝利し、デビュー17戦目にして重賞初挑戦・初制覇となった。オールカマーで手にした賞金1000万円は稲富の選挙資金に大いに活用され、稲富は12月に行われた衆院選で当選を果たした。その後はカブトヤマ記念7着、愛知杯CBC賞4着であった。

1973年(5歳)は始動戦の金杯 (東)6着を皮切りに10連敗を喫し、掲示板に載ったのも金鯱賞京王杯AH5着の2戦だけと散々なものであった。10月の府中特別(700万下)で1番人気に応え、2着に4馬身差をつける快勝で連敗を脱出し、1年ぶりの勝利でシーズン全敗を阻止。

1974年(6歳)は前年同様で金杯から始動し、前年の不振もあって17頭中12番人気であったが、クビ差で勝利して2年ぶりの重賞2勝目を飾った。続く東京新聞杯は11着に大敗したが、その後は安定して掲示板に載り続け、6月には大井で行われた第1回中央招待に出走。当日は7万6000人のファンがスタンドに詰めかけ、締め切りを過ぎても馬券の発売を求める人々が列をなし、発走が35分も遅れた。レースではゴールドイーグル愛知)の2着に入り、中央馬最先着となった。

その後は種子骨直靭帯を痛め、そのまま函館に入厩。球節蹄冠部の間、本来なら窪みのある部分が丸太のように丸くカチカチに硬くなっていたが、イナボレスは函館で湿布療法を受ける[4]。この療法はに湿布を2キャップ、を片手に一杯、を3、4升を入れて電気コンロにかけて温め、それにバスタオルを浸して焚き、バスタオルをしっかり絞って患部に巻くというものであった[4]。イナボレスは朝の調教後に20分ずつ2回湿布して、乾いてから腫れを前に出すように包帯をきっちり巻き、こうした治療を繰り返しながら、現役を続行。ファンの目からは酷使されていると映り、可哀想にといった同情もあって「オイボレス」と呼ばれたりもした[4]

11月目黒記念 (秋)ではカミノテシオスガノホマレイチフジイサミら強力馬を抑え、重賞3勝目を挙げた。イナボレスが2重賞を制した同年に大久保厩舎は年間43勝を挙げ、最多勝利調教師となった。

1975年(7歳)はダートのオープン戦2着と上々の滑り出しを見せ、アルゼンチン共和国杯3着の後、第16回宝塚記念では4番人気でナオキの4着と健闘。夏は北海道シリーズに初めて参戦し、大雪ハンデ8着・巴賞7着の後、函館記念ツキサムホマレウラカワチェリーの3着に入る。連覇を狙った目黒記念では13頭中11番人気ながらトウコウエルザ・イチフジイサミ・カミノテシオに先んじる3着に入ったが、続く天皇賞(秋)は12着と大敗。さすがに「もう限界か」と思われたが、シーズン最終戦の愛知杯で6番人気ながら1馬身半離して重賞4勝目を挙げ、13戦目での勝利で結局これが最後の勝利となった。

1976年(8歳)は衆議院が任期満了で総選挙が決まっていたため、選挙資金が必要なため現役を続行。金杯から始動し、2・3週間に1走という例年以上の超ハイペースで出走を続け、春秋天皇賞や安田記念高松宮杯にも出走。稲富はこの選挙も当選し、10期目を務めることになった。選挙終了後の愛知杯5着がラストランとなり、同年をもって現役を引退。

引退後

[編集]

本来なら種牡馬になってもおかしくない成績だが、サラ系という血統面で大きなハンデを背負っていたために断念。栗毛四白流星[4]という美しい馬体を活かし、東京競馬場の誘導馬として1980年代後半まで活動していたが、その後は不明。

競走成績

[編集]

血統表

[編集]
イナボレス血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 プリンスローズ系
[§ 2]

ヘリオス
1957 栗毛
父の父
*ブッフラー
Bouffleur
1952 栗毛
Prince Chevalie Prince Rose
Chevalerie
Monsoon Umidwar
Heavenly Wind
父の母
*ミスハイペリオン
Miss Hyperion
1950 栗毛
Khaled Hyperion
Eclair
Mad Joss Bunting
Jostle

ボーレスクイン
1960 黒鹿毛
*カバーラップ二世
Cover Up II
1952 黒鹿毛
Cover Up Alibhai
Bel Amour
Betty Martin Hollyrood
Rhoda F.
母の母
ハツピウイン
1952 栃栗毛
タチカゼ *プリメロ
第参パプース
月盛 ハクシヨウ
瑞盛
5代内の近親交配 Hyperion 4×5=9.38%
Blandford 5×5=6.25%
[§ 3]
出典
  1. ^ [5]
  2. ^ [6]
  3. ^ [5]


参考文献

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 優駿」2000年12月号、p48
  2. ^ 調教師の大久保洋吉は実子。
  3. ^ 現在札幌競馬場で行われている同名のレースとは別。
  4. ^ a b c d 柿元純司「装蹄師―競走馬に夢を打つ」PHP研究所1994年12月1日ISBN 4569546269、p149。
  5. ^ a b 血統情報:5代血統表|イナボレス|JBISサーチ(JBIS-Search)”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2018年10月16日閲覧。
  6. ^ イナボレスの血統表”. netkeiba.com. 2018年10月16日閲覧。