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「二階堂時綱」の版間の差分

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'''二階堂 時綱'''(にかいどう ときつな)は、[[鎌倉時代]]後期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[武士]]。[[室町幕府]]初代[[政所#室町幕府の政所|政所執事]]。
'''二階堂 時綱'''(にかいどう ときつな)は、[[鎌倉時代]]後期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[武士]]。[[鎌倉将軍府]](後の[[鎌倉府]])及び[[室町幕府]]初代[[政所#室町時代の政所|政所執事]]。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[二階堂盛綱]]の子。[[応長]]元年(1311年)に出家し、法名は行諲。当初は[[鎌倉幕府]]で[[評定衆]]を務め、[[元弘]]3年(1333年)に[[建武の新政]]下で政所執事に補任されたのをはじめ、[[室町幕府]]では[[康永]]3年/[[興国]]5年(1344年)[[引付方]]を務め、[[貞和]]2年/[[正平]]元年(1346年)、貞和4年(1348)、[[観応]]元年(1350)の4度にわたって政所執事に再任された。[[観応の擾乱]]では[[足利直義]]に与した。
[[二階堂盛綱]]の子。[[応長]]元年(1311年)に出家し、法名は行諲。当初は[[鎌倉幕府]]で[[評定衆]]を務め、[[元弘]]3年(1333年)に[[建武の新政]]下で[[鎌倉将軍府]](後の[[鎌倉府]])政所執事に補任されたのをはじめ、[[室町幕府]]では[[康永]]3年/[[興国]]5年(1344年)[[引付方]]を務め、[[貞和]]2年/[[正平 (日本)|正平]]元年(1346年)、貞和4年(1348)、[[観応]]元年(1350)の4度にわたって政所執事に再任された。[[観応の擾乱]]では[[足利直義]]に与した。
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2024年2月8日 (木) 14:14時点における最新版

 
二階堂時綱
時代 鎌倉時代後期
生誕 弘安3年(1280年)
死没 不詳
官位 左衛門尉三河守
幕府 鎌倉幕府室町幕府
氏族 藤原南家乙麻呂二階堂氏
父母 父:二階堂盛綱
佐々木道誉正室、きた(法名・留阿)、ミま
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二階堂 時綱(にかいどう ときつな)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武士鎌倉将軍府(後の鎌倉府)及び室町幕府初代政所執事

生涯

[編集]

二階堂盛綱の子。応長元年(1311年)に出家し、法名は行諲。当初は鎌倉幕府評定衆を務め、元弘3年(1333年)に建武の新政下で鎌倉将軍府(後の鎌倉府)政所執事に補任されたのをはじめ、室町幕府では康永3年/興国5年(1344年)引付方を務め、貞和2年/正平元年(1346年)、貞和4年(1348)、観応元年(1350)の4度にわたって政所執事に再任された。観応の擾乱では足利直義に与した。 娘は佐々木道誉の正室であり、時綱は佐々木道誉の義父である[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

脚注

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  1. ^ 森 1994, p. 166.
  2. ^ 森 1994, pp. 167–168.
  3. ^ 森 1994, p. 168.
  4. ^ 森 1994, pp. 169–170.
  5. ^ 森 1994, p. 170.
  6. ^ 森 1994, p. 171.
  7. ^ 森 1994, pp. 171–172.
  8. ^ 森 1994, pp. 172–173.
  9. ^ 森 1994, p. 173.
  10. ^ 森 1994, pp. 215–217.
  11. ^ 『滋賀県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系25〉、1991年。 

出典

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  • 安田元久 編『鎌倉室町人名事典』 452頁 新人物往来社、1990年
  • 『日本人名大辞典』 講談社、2001年