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== 人物 == |
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[[伊勢氏]]は元は室町幕府の[[政所]][[執事]](頭人)を務めた家柄であり、[[伊勢貞宗|貞宗]]・[[伊勢貞陸|貞陸]]の代には[[山城国|山城]][[守護]]であったが、祖父の貞孝と父の貞良が[[永禄]]5年([[1562年]])に[[三好氏]]との抗争に敗れ戦死して以来、伊勢氏の力は山城国内にわずかな勢力を残すのみとなるまでに衰退していた。貞興は次男であったが、兄が病身となったために伊勢氏の家督を継いだとされるが、異説もある(後述)。 |
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義輝が[[三好三人衆]]に討たれた後の動向は顕かではないが、兄の虎福丸(貞為)が三好三人衆 |
義輝が[[三好三人衆]]に討たれた後の動向は顕かではないが、兄の虎福丸(貞為)が三好三人衆に14代将軍に擁立された[[足利義栄]]に仕えて幕府[[御供衆]]名簿を作成・提出している<ref>永禄11年2月18日付幕府供参衆参勤触廻文案(『大日本古文書』蜷川家文書811号)</ref>。ところが、程なく義輝の弟である[[足利義昭]]が[[織田信長]]と共に上洛して15代将軍に任命されてしまう。義昭は義栄に仕えた幕臣たちの責任を追及して解任しており、伊勢氏における貞為から貞興への当主交代も義昭による貞為の追放による対応したものとする説もある<ref name="kinoshita-a">木下昌規「永禄の政変後の足利義栄と将軍直臣団」(初出:天野忠幸 他編『論文集二 戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会、2012年/所収:木下『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-875-2)</ref>。 |
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15代将軍となった義昭に御供衆として仕えた貞興は元亀2年 |
15代将軍となった義昭に御供衆として仕えた貞興は、[[元亀]]2年([[1570年]])11月1日になって政所役(頭人・執事)に任じられて織田信長からも承認された<ref>元亀2年11月1日付織田信長書状(「本法寺文書」)</ref>。もっとも、実際には信長が貞興の若年を理由に政所に代わって京都市中からの[[段銭]]徴収を行っていること、先の祖父・父の戦死の際に一族・家臣の多くを失い、更に執事を補佐する政所代([[執事代]])の[[蜷川親長]]も京都を離れていたことから、幼かった貞興が実際に政所の執務を行う状況にはなく、京都市中の実際の統治は信長とその家臣が政所の業務を一時的に代行していたとみられている<ref name="kinoshita-b">木下昌規「京都支配から見る足利義昭期室町幕府と織田権力」『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書店、2014年 ISBN 978-4-87294-875-2 (原論文:2010年・2012年)</ref><ref group="注釈">木下昌規は元亀2年の織田信長書状の内容などから、伊勢貞興は足利義昭から政所執事に任命され、貞興の成人までの間は織田信長がその職務を代行する予定であったが、義昭の没落によって話が立ち消えたとみる。</ref>。 |
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義昭と信長が敵対するようになると、義昭の命で[[三淵藤英]]と共に[[二条 |
[[天正]]元年([[1573年]])7月、義昭と信長が敵対するようになると、義昭の命で[[三淵藤英]]や[[日野輝資]]・[[高倉永相]]などの[[昵近衆|昵近公家衆]]と共に[[二条御所]]を守ったが、織田軍に城を囲まれると三淵藤英を一人残して、8日に降伏して退場した。義昭が信長により京都から追放され[[備後国]]に下向すると、貞興はこれに随行せず他の幕臣と一緒に明智光秀に仕えた。義昭の追放後、京都の市中の統治は明智光秀と[[村井貞勝]]が中心になって行われていたが、次第に貞勝の専任へと移行し、長年その任にあたっていた幕臣は京都市中の統治から排除されることになった。これは義昭が毛利氏を頼って備後国に落ち着いたことを知った幕臣の中には京都を脱出して義昭に合流する者がいて人材不足に拍車をかけたことに加え、政所などで行われてきたこれまでの行政が[[荘園公領制|荘園制]]などを前提にしたもので、信長の方針と合致しなかったことなどが考えられる。一方、幕臣たちの所領の多くが[[丹波国]]など光秀の支配地に属しており、政所の機能やそれに伴う権益の復活が望めない以上は、光秀に仕えて幕府から与えられていた所領の[[安堵]]を求めることを重視する意識が貞興や他の幕臣の間にあったからとみられている<ref name=kinoshita-b/>。 |
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貞興は若いが智勇に優れ、行政能力や武家故実に優れるなど軍事にも精通していたために、光秀の厚い信任を得た。一説には光秀の娘婿となったとされている。明智光秀の配下として丹波攻略やその他の戦役に活躍し、[[明智氏|明智家]]中では[[斎藤利三]]と並ぶ戦巧者として名を馳せ重臣としての地位を確立した。 |
貞興は若いが智勇に優れ、行政能力や武家故実に優れるなど軍事にも精通していたために、光秀の厚い信任を得た。一説には光秀の娘婿となったとされている。明智光秀の配下として丹波攻略やその他の戦役に活躍し、[[明智氏|明智家]]中では[[斎藤利三]]と並ぶ戦巧者として名を馳せ、重臣としての地位を確立した{{要出典|date=2024年4月|title=それらが記録された史料が不明}}。 |
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天正10年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]](1582年[[6月21日]])の[[本能寺の変]]の際、貞興は麾下の2千の精鋭を率いて信長の長男でその後継者である[[織田信忠]]を二条 |
天正10年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]](1582年[[6月21日]])の[[本能寺の変]]の際、貞興は麾下の2千の精鋭を率いて信長の長男でその後継者である[[織田信忠]]を[[二条新御所]]で攻め、自らも槍を振るって奮戦し大勝した{{要出典|date=2024年4月|title=それらが記録された史料が不明}}。 |
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同年6月13日(1582年7月2日)の昼ごろから始まった[[山崎の戦い]]では、明智光秀軍と織田信長の弔い合戦を挑む[[織田信孝|神戸信孝]]([[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]・[[丹羽長秀]]など)の軍勢が[[大山崎町|山崎]]の地でにらみ合い、ついに日が傾き始めたころ、合戦が始まった。信孝軍の[[中川清秀]]隊3,500余に伊勢貞興隊2,000余が攻撃を開始したのが最初の激突であった。精強な伊勢隊は兵数に勝る中川隊を直押しし、信孝軍の[[高山右近|高山重友]]隊などが中川隊を救援しようとしたが、これに明智方の斎藤利三隊が横槍を入れたために両軍入り乱れての乱戦となった。しかし、総兵力に劣る明智軍は敗れ、貞興は |
同年6月13日(1582年7月2日)の昼ごろから始まった[[山崎の戦い]]では、明智光秀軍と織田信長の弔い合戦を挑む[[織田信孝|神戸信孝]]([[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]・[[丹羽長秀]]など)の軍勢が[[大山崎町|山崎]]の地でにらみ合い、ついに日が傾き始めたころ、合戦が始まった。信孝軍の[[中川清秀]]隊3,500余に伊勢貞興隊2,000余が攻撃を開始したのが最初の激突であった。精強な伊勢隊は兵数に勝る中川隊を直押しし、信孝軍の[[高山右近|高山重友]](右近)隊などが中川隊を救援しようとしたが、これに明智方の斎藤利三隊が横槍を入れたために両軍入り乱れての乱戦となった。しかし、総兵力に劣る明智軍は敗れ、貞興は[[黒田孝高]](官兵衛)・[[豊臣秀長|羽柴秀長]]隊の後方から奇襲を受け、戦死した{{要出典|date=2024年4月|title=それらが記録された史料が不明}}。 |
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なお、伊勢氏の家督は兄・貞為の子・[[伊勢貞衡|貞衡]]が継ぎ、[[江戸幕府]]に仕え、大身の[[旗本]]となって明治まで存続した。 |
なお、伊勢氏の家督は兄・貞為の子・[[伊勢貞衡|貞衡]]が継ぎ、[[江戸幕府]]に仕え、大身の[[旗本]]となって[[明治時代|明治]]まで存続した。 |
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== 脚注 == |
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2024年4月1日 (月) 05:19時点における最新版
伊勢貞興(華開院所蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 永禄5年(1562年) |
死没 | 天正10年6月13日(1582年7月2日) |
改名 | 熊千代→貞興 |
別名 | 通称:与三郎 |
官位 | 伊勢守 |
幕府 | 室町幕府政所執事 |
主君 | 足利義輝→義昭→明智光秀 |
氏族 | 伊勢氏 |
父母 | 父:伊勢貞良 |
兄弟 | 貞為、貞興、阿古御局 |
伊勢 貞興(いせ さだおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。室町幕府幕臣、のち明智光秀の家臣。幼名は熊千代。通称は与三郎。伊勢守。祖父は伊勢貞孝。父は伊勢貞良。兄弟に貞為、阿古御局(異説あり)。
伊勢流の有職故実の探究者。武家故実の書として『伊勢貞興返答書』を記述した。
人物
[編集]伊勢氏は元は室町幕府の政所執事(頭人)を務めた家柄であり、貞宗・貞陸の代には山城守護であったが、祖父の貞孝と父の貞良が永禄5年(1562年)に三好氏との抗争に敗れ戦死して以来、伊勢氏の力は山城国内にわずかな勢力を残すのみとなるまでに衰退していた。貞興は次男であったが、兄が病身となったために伊勢氏の家督を継いだとされるが、異説もある(後述)。
義輝が三好三人衆に討たれた後の動向は顕かではないが、兄の虎福丸(貞為)が三好三人衆に14代将軍に擁立された足利義栄に仕えて幕府御供衆名簿を作成・提出している[1]。ところが、程なく義輝の弟である足利義昭が織田信長と共に上洛して15代将軍に任命されてしまう。義昭は義栄に仕えた幕臣たちの責任を追及して解任しており、伊勢氏における貞為から貞興への当主交代も義昭による貞為の追放による対応したものとする説もある[2]。
15代将軍となった義昭に御供衆として仕えた貞興は、元亀2年(1570年)11月1日になって政所役(頭人・執事)に任じられて織田信長からも承認された[3]。もっとも、実際には信長が貞興の若年を理由に政所に代わって京都市中からの段銭徴収を行っていること、先の祖父・父の戦死の際に一族・家臣の多くを失い、更に執事を補佐する政所代(執事代)の蜷川親長も京都を離れていたことから、幼かった貞興が実際に政所の執務を行う状況にはなく、京都市中の実際の統治は信長とその家臣が政所の業務を一時的に代行していたとみられている[4][注釈 1]。
天正元年(1573年)7月、義昭と信長が敵対するようになると、義昭の命で三淵藤英や日野輝資・高倉永相などの昵近公家衆と共に二条御所を守ったが、織田軍に城を囲まれると三淵藤英を一人残して、8日に降伏して退場した。義昭が信長により京都から追放され備後国に下向すると、貞興はこれに随行せず他の幕臣と一緒に明智光秀に仕えた。義昭の追放後、京都の市中の統治は明智光秀と村井貞勝が中心になって行われていたが、次第に貞勝の専任へと移行し、長年その任にあたっていた幕臣は京都市中の統治から排除されることになった。これは義昭が毛利氏を頼って備後国に落ち着いたことを知った幕臣の中には京都を脱出して義昭に合流する者がいて人材不足に拍車をかけたことに加え、政所などで行われてきたこれまでの行政が荘園制などを前提にしたもので、信長の方針と合致しなかったことなどが考えられる。一方、幕臣たちの所領の多くが丹波国など光秀の支配地に属しており、政所の機能やそれに伴う権益の復活が望めない以上は、光秀に仕えて幕府から与えられていた所領の安堵を求めることを重視する意識が貞興や他の幕臣の間にあったからとみられている[4]。
貞興は若いが智勇に優れ、行政能力や武家故実に優れるなど軍事にも精通していたために、光秀の厚い信任を得た。一説には光秀の娘婿となったとされている。明智光秀の配下として丹波攻略やその他の戦役に活躍し、明智家中では斎藤利三と並ぶ戦巧者として名を馳せ、重臣としての地位を確立した[要出典]。
天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の際、貞興は麾下の2千の精鋭を率いて信長の長男でその後継者である織田信忠を二条新御所で攻め、自らも槍を振るって奮戦し大勝した[要出典]。
同年6月13日(1582年7月2日)の昼ごろから始まった山崎の戦いでは、明智光秀軍と織田信長の弔い合戦を挑む神戸信孝(羽柴秀吉・丹羽長秀など)の軍勢が山崎の地でにらみ合い、ついに日が傾き始めたころ、合戦が始まった。信孝軍の中川清秀隊3,500余に伊勢貞興隊2,000余が攻撃を開始したのが最初の激突であった。精強な伊勢隊は兵数に勝る中川隊を直押しし、信孝軍の高山重友(右近)隊などが中川隊を救援しようとしたが、これに明智方の斎藤利三隊が横槍を入れたために両軍入り乱れての乱戦となった。しかし、総兵力に劣る明智軍は敗れ、貞興は黒田孝高(官兵衛)・羽柴秀長隊の後方から奇襲を受け、戦死した[要出典]。
なお、伊勢氏の家督は兄・貞為の子・貞衡が継ぎ、江戸幕府に仕え、大身の旗本となって明治まで存続した。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 木下昌規は元亀2年の織田信長書状の内容などから、伊勢貞興は足利義昭から政所執事に任命され、貞興の成人までの間は織田信長がその職務を代行する予定であったが、義昭の没落によって話が立ち消えたとみる。
出典
[編集]- ^ 永禄11年2月18日付幕府供参衆参勤触廻文案(『大日本古文書』蜷川家文書811号)
- ^ 木下昌規「永禄の政変後の足利義栄と将軍直臣団」(初出:天野忠幸 他編『論文集二 戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会、2012年/所収:木下『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-875-2)
- ^ 元亀2年11月1日付織田信長書状(「本法寺文書」)
- ^ a b 木下昌規「京都支配から見る足利義昭期室町幕府と織田権力」『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書店、2014年 ISBN 978-4-87294-875-2 (原論文:2010年・2012年)