コンテンツにスキップ

「僖宗」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
 
(10人の利用者による、間の16版が非表示)
1行目: 1行目:
{{出典の明記| date = 2024年4月}}
{{基礎情報 中国君主
{{基礎情報 中国君主
|名 =僖宗 李儇
|名 =僖宗 李儇
|代数 =第21代
|代数 =第21代
|呼称 =皇帝
|呼称 =皇帝
|画像 =
|画像 =[[File:TangXizong.jpg|180px]]
|説明 =
|説明 =
|王朝 =唐
|王朝 =唐
|在位期間 =[[873年]][[8月16日]] - [[888年]][[4月20日]]
|在位期間 =[[咸通]]14年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]] - [[文徳 (唐)|文徳]]元年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]]<br>([[873年]][[8月16日]] - [[888年]][[4月20日]]
|都城 =
|都城 =[[長安]]→[[成都]]→長安
|諱 =李儼→李儇
|諱 =李儼→李儇
|字 =
|字 =
16行目: 17行目:
|没年 =[[文徳 (唐)|文徳]]元年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]]<br>([[888年]][[4月20日]])
|没年 =[[文徳 (唐)|文徳]]元年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]]<br>([[888年]][[4月20日]])
|父 =[[懿宗 (唐)|懿宗]]
|父 =[[懿宗 (唐)|懿宗]]
|母 =恵安皇后
|母 =[[恵安皇后|王貴妃]]
|皇后 =ない
|皇后 =ない
|陵墓 =靖陵
|陵墓 =靖陵
25行目: 26行目:


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[咸通]]14年([[873年]])、懿宗が崩御すると12歳で[[宦官]]たちに擁立されて即位した。在位期間中は宦官の[[田令孜]]に朝政を一任し、自らは享楽にふけった生活を送った。特に馬球を好み、側近の[[石野猪]]に対し「もし馬球の[[科挙]]があれば自ら[[状元]]となるであろう」と言った記録が『[[資治通鑑]]』に残されている。在位中は連年自然災害が続き、民衆の生活が困窮していた。
[[咸通]]14年([[873年]])、懿宗が崩御すると12歳で[[宦官]]たちに擁立されて即位した。在位期間中は宦官の[[田令孜]]に朝政を一任し、自らは享楽にった生活を送った。特に馬球を好み、側近の石野猪に対し「もし馬球の[[科挙]]があれば自ら[[状元]]となるであろう」と言った記録が『[[資治通鑑]]』に残されている。在位中は連年自然災害が続き、民衆の生活が困窮していた。


[[乾符]]元年([[874年]])、濮州で[[王仙芝]]が叛乱を起こした。また翌年には[[黄巣]]も冤句(現在の[[山東省]][[カ沢市|菏沢市]][[牡丹区]]で決起、後に両者は合流し、大規模な農民叛乱(黄巣の乱)となる。王仙芝が死亡した後は黄巣が指導者となり浙東を攻撃、福建や広州を陥とした後に北上し潭州江陵を次々と陥落させ中原へと軍を進めた。[[広明 (唐)|広明]]元年([[880年]])11月、黄巣軍は遂に[[洛陽]]を落とし、12月には[[長安]]を占拠した。
[[乾符]]元年([[874年]])、[[濮州]]で[[王仙芝]]が叛乱を起こした。また翌年には[[黄巣]]も[[牡丹区|冤句]]で決起、後に両者は合流し、大規模な農民叛乱([[黄巣の乱]])となる。王仙芝が死亡した後は黄巣が指導者となり浙東を攻撃、福建や[[広州 (広東省)|広州]]を陥とした後に北上し[[潭州]]・[[荊州|江陵]]を次々と陥落させ中原へと軍を進めた。[[広明 (唐)|広明]]元年([[880年]])11月、黄巣軍は遂に[[洛陽]]を落とし、12月には[[長安]]を占拠した。


朝廷では宰相[[盧携]]が自殺し、僖宗は田令孜と共に500の神策軍を率いて[[四川省|蜀]]へと逃亡した。逃亡した僖宗は[[沙陀族]]の[[李克用]]に救援を要請、李克用は黄巣軍を田陂にて破り、関中より黄巣軍を撤退させる。[[中和 (唐)|中和]]4年([[884年]])、叛乱に失敗した黄巣が自殺(部下による殺害説もある)、3月に僖宗は長安へと帰還するが、当時は地方で軍閥が割據し、朝廷の統治権が及ばない状況となっており、唐は実質的に河西山南剣南嶺南西道数十州を統治する地方政権となっていた。
朝廷では宰相[[盧携]]が自殺し、僖宗は田令孜と共に500の神策軍を率いて[[成都府|蜀]]へと逃亡した。逃亡した僖宗は[[沙陀族]]の[[李克用]]に救援を要請、李克用は黄巣軍を田陂にて破り、関中より黄巣軍を撤退させる。[[中和 (唐)|中和]]4年([[884年]])、叛乱に失敗した黄巣が自殺(部下による殺害説もある)、中和5([[885年]])3月に僖宗は長安へと帰還するが、当時は地方で軍閥が割據し、朝廷の統治権が及ばない状況となっており、唐は実質的に河西山南剣南嶺南西道数十州を統治する地方政権となっていた。


中和5年([[885]])3月、田令孜と河中節度使[[王重栄]]の対立から、王重栄が李克用へ支援を要請、その要請を容れた李克用は長安へと迫った。田令孜は再び僖宗と共に鳳翔(現在の[[陝西省]][[宝鶏市]][[鳳翔]]へと逃亡、皇帝が逃亡した長安に諸道兵馬が進駐し、宮殿の大半が焼き討ちに遭って「宮闕蕭条、鞠為茂草」と形容されるに至った。
中和5年(885年)3月、田令孜と河中[[節度使]]の[[王重栄]]の対立から、王重栄が[[李克用]]へ支援を要請、その要請を容れた李克用は長安へと迫った。田令孜は再び僖宗と共に[[鳳翔府|鳳翔]]へと逃亡、皇帝が逃亡した長安に諸道兵馬が進駐し、宮殿の大半が焼き討ちに遭って「宮闕蕭条、鞠為茂草」と形容されるに至った。


この混乱に乗じ、邠州節度使の[[朱バイ|朱玫]]は[[粛宗 (唐)|粛宗]]の孫であった襄王[[李ウン|李熅]]を皇帝に擁立した。僖宗が皇位を簒奪するものと非難、王重栄と李克用に朱玫討伐を命じた。また朱玫の寵臣[[王行瑜]]にも朱玫の密勅を下し、この攻撃により朱玫及びその一派数百人が惨殺された。
この混乱に乗じ、[[邠州]]節度使の[[朱玫]]は[[粛宗 (唐)|粛宗]]の子の襄王李僙の曾孫であった襄王[[李熅]]を皇帝に擁立した。僖宗が皇位を簒奪するものと非難、王重栄と李克用に朱玫討伐を命じた。また朱玫の寵臣[[王行瑜]]にも朱玫の密勅を下し、この攻撃により朱玫及びその一派数百人が惨殺された。


戦乱が収まった光啓4年([[888年]])2月、僖宗は長安に帰還したが、朝政の実権は宦官の[[楊復恭]]が掌握していた。改元直後の[[文徳 (唐)|文徳]]元年(888年)3月6日に崩御した。
戦乱が収まった[[光啓]]4年([[888年]])2月、僖宗は長安に帰還したが、朝政の実権は宦官の[[楊復恭]]が掌握していた。改元直後の[[文徳 (唐)|文徳]]元年(888年)3月6日に崩御した。


僖宗が長安を放棄して蜀に遷都したとき、一女官から非難されて返答することもできなかったという逸話が残されているが、これは僖宗の惰弱な性格を強調したものと考えられている。その陵は発掘調査されたが、墳丘の規模に比して石室はきわめて貧弱で、壁画なども粗末であった。
僖宗が長安を放棄して蜀に遷都したとき、一女官から非難されて返答することもできなかったという逸話が残されているが、これは僖宗の惰弱な性格を強調したものと考えられている。その陵は発掘調査されたが、墳丘の規模に比して石室はきわめて貧弱で、壁画なども粗末であった。
41行目: 42行目:
== 宗室 ==
== 宗室 ==
=== 子女 ===
=== 子女 ===
* 男子
* 男子:建王[[李震]]、益王[[]]
** 建王[[李震 (唐)|]]
* 女子:唐興公主、永平公主
** 益王[[李陞]]
* 女子
** 唐興公主
** 永平公主


{{唐の皇帝|873年 - 888年|第21代}}
{{唐の皇帝|873年 - 888年|第21代}}


{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きそう}}
{{DEFAULTSORT:きそう}}
[[Category:唐の皇帝]]
[[Category:唐の皇帝]]

2024年4月2日 (火) 08:05時点における最新版

僖宗 李儇
第21代皇帝
王朝
在位期間 咸通14年7月20日 - 文徳元年3月6日
873年8月16日 - 888年4月20日
都城 長安成都→長安
姓・諱 李儼→李儇
諡号 恵聖恭定孝皇帝
廟号 僖宗
生年 咸通3年5月8日
862年6月8日
没年 文徳元年3月6日
888年4月20日
懿宗
王貴妃
后妃 ない
陵墓 靖陵
年号 咸通 : 873年 - 874年
乾符 : 874年 - 879年
広明 : 880年 - 881年
中和 : 881年 - 885年
光啓 : 885年 - 888年
文徳 : 888年

僖宗(きそう)は、唐朝の第21代皇帝懿宗の五男。

生涯

[編集]

咸通14年(873年)、懿宗が崩御すると12歳で宦官たちに擁立されて即位した。在位期間中は宦官の田令孜に朝政を一任し、自らは享楽に耽った生活を送った。特に馬球を好み、側近の石野猪に対し「もし馬球の科挙があれば自ら状元となるであろう」と言った記録が『資治通鑑』に残されている。在位中は連年自然災害が続き、民衆の生活が困窮していた。

乾符元年(874年)、濮州王仙芝が叛乱を起こした。また翌年には黄巣冤句で決起、後に両者は合流し、大規模な農民叛乱(黄巣の乱)となる。王仙芝が死亡した後は黄巣が指導者となり浙東を攻撃、福建や広州を陥とした後に北上し潭州江陵を次々と陥落させ中原へと軍を進めた。広明元年(880年)11月、黄巣軍は遂に洛陽を落とし、12月には長安を占拠した。

朝廷では宰相の盧携が自殺し、僖宗は田令孜と共に500の神策軍を率いてへと逃亡した。逃亡した僖宗は沙陀族李克用に救援を要請、李克用は黄巣軍を田陂にて破り、関中より黄巣軍を撤退させる。中和4年(884年)、叛乱に失敗した黄巣が自殺(部下による殺害説もある)、中和5年(885年)3月に僖宗は長安へと帰還するが、当時は地方で軍閥が割據し、朝廷の統治権が及ばない状況となっており、唐は実質的に河西・山南・剣南・嶺南西道数十州を統治する地方政権となっていた。

中和5年(885年)3月、田令孜と河中節度使王重栄の対立から、王重栄が李克用へ支援を要請、その要請を容れた李克用は長安へと迫った。田令孜は再び僖宗と共に鳳翔へと逃亡、皇帝が逃亡した長安に諸道兵馬が進駐し、宮殿の大半が焼き討ちに遭って「宮闕蕭条、鞠為茂草」と形容されるに至った。

この混乱に乗じ、邠州節度使の朱玫粛宗の子の襄王李僙の曾孫であった襄王李熅を皇帝に擁立した。僖宗が皇位を簒奪するものと非難、王重栄と李克用に朱玫討伐を命じた。また朱玫の寵臣の王行瑜にも朱玫の密勅を下し、この攻撃により朱玫及びその一派数百人が惨殺された。

戦乱が収まった光啓4年(888年)2月、僖宗は長安に帰還したが、朝政の実権は宦官の楊復恭が掌握していた。改元直後の文徳元年(888年)3月6日に崩御した。

僖宗が長安を放棄して蜀に遷都したとき、一女官から非難されて返答することもできなかったという逸話が残されているが、これは僖宗の惰弱な性格を強調したものと考えられている。その陵は発掘調査されたが、墳丘の規模に比して石室はきわめて貧弱で、壁画なども粗末であった。

宗室

[編集]

子女

[編集]
  • 男子
  • 女子
    • 唐興公主
    • 永平公主