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== 戦闘前 ==
== 戦闘前 ==
[[1704年]]に[[ブレンハイムの戦い]]でイングランド軍総司令官[[マールバラ公]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]は[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]([[神聖ローマ帝国]])の将軍[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]と共にフランス・バイエルン連合軍を撃破して[[ドナウ川]]・[[ライン川]]流域を奪還、ドイツ戦線を立て直したが、翌[[1705年]]、フランスから[[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール|ヴィラール公]]が[[モーゼル川]]方面に派遣され、モーゼル川に向かったマールバラ公の進軍を妨害、6月に[[フランソワ・ド・ヌフヴィル (ヴィルロワ公)|ヴィルロワ公]]が[[南ネーデルラント]](ベルギー)からオランダを襲撃したためマールバラ公はモーゼル川から引き返さざるを得なかった。ネーデルラントでは退却するヴィルロワを追撃しながら[[ブラバント]]を転戦していたが、決戦という時に同盟国オランダが回避を主張したため止むを得ず攻撃を中止、成果を出せなかった。
[[1704年]]に[[ブレンハイムの戦い]]でイングランド軍総司令官[[マールバラ公]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]は[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]([[神聖ローマ帝国]])の将軍[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]と共にフランス・バイエルン連合軍を撃破して[[ドナウ川]]・[[ライン川]]流域を奪還、ドイツ戦線を立て直したが、翌[[1705年]]、フランスから[[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール|ヴィラール公]]が[[モーゼル川]]方面に派遣され、モーゼル川に向かったマールバラ公の進軍を妨害、6月に[[フランソワ・ド・ヌフヴィル (ヴィルロワ公)|ヴィルロワ公]]が[[南ネーデルラント]](ベルギー)からオランダを襲撃したためマールバラ公はモーゼル川から引き返さざるを得なかった。ネーデルラントでは[[アントウェルペン|アントワープ]]から[[ナミュール]]に広がる防衛線を突破([[エリクセムの戦い]])、退却するヴィルロワを追撃しながら[[ブラバント]]を転戦していたが、決戦という時に同盟国オランダが回避を主張したため止むを得ず攻撃を中止、成果を出せなかった。


モーゼル川からライン川に南下したヴィラールはライン川支流の[[モーデル川]]流域の都市[[アグノー]]を同盟側の将軍[[バーデン (領邦)|バーデン辺境伯]][[ルートヴィヒ・ヴィルヘルム (バーデン=バーデン辺境伯)|ルートヴィヒ・ヴィルヘルム]]に奪われ[[アルザス地域圏|アルザス]]に後退したが、イタリア戦線は[[ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン|ヴァンドーム公]]が攻勢に出て[[ミランドラ]]を陥とし、オイゲンの動きを封じて優位に立ったため、1705年は総じて同盟軍に不利な状況となった。
モーゼル川からライン川に南下したヴィラールはライン川支流の[[モーデル川]]流域の都市[[アグノー]]を同盟側の将軍[[バーデン (領邦)|バーデン辺境伯]][[ルートヴィヒ・ヴィルヘルム (バーデン=バーデン辺境伯)|ルートヴィヒ・ヴィルヘルム]]に奪われ[[アルザス地域圏|アルザス]]に後退したが、イタリア戦線は[[ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン|ヴァンドーム公]]が攻勢に出て[[ミランドラ]]を陥とし、[[カッサーノの戦い]]でオイゲン率いるオーストリア軍に勝利、オイゲンの動きを封じて優位に立ったため、1705年は総じて同盟軍に不利な状況となった<ref>友清、P137 - P145。</ref>


1706年になると状況は悪化、4月にヴァンドームがオーストリア軍を破って[[チロル]]付近に追い込み、5月にヴィラールも行動を起こし、アグノーを奪還して他のモーデル川流域の都市も奪いモーデル河畔を平定、北上してライン川支流の[[ラウテル川]]流域も奪い、ドイツ戦線もフランス側有利に転じた。ネーデルラントでもヴィルロワがフランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の指示で攻勢に移り、[[5月19日]]に[[ルーヴェン]]から[[デイレ川]]を渡り東の[[ティーネン]]に向かった。マールバラ公は[[5月9日]]に[[デン・ハーグ|ハーグ]]を出発、[[5月17日|17日]]に[[トンゲレン]]で待機したが、ヴィルロワのこの動きを知るとすぐに迎え撃つ方針を固め、南西に向かい、先にフランス軍がブラバントのラミイに布陣したことを知るとすぐさま戦闘を開始した。
1706年になると状況は悪化、4月にヴァンドームが[[カルチナートの戦い]]でオーストリア軍を破[[チロル]]付近に追い込み、5月にヴィラールも行動を起こし、アグノーを奪還して他のモーデル川流域の都市も奪いモーデル河畔を平定、北上してライン川支流の[[ラウテル川]]流域も奪い、ドイツ戦線もフランス側有利に転じた。


ネーデルラントでもヴィルロワがフランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の指示で攻勢に移り、[[5月19日]]に[[ルーヴェン]]から[[デイレ川]]を渡り東の[[ティーネン]]に向かった。マールバラ公は[[5月9日|9日]]に[[デン・ハーグ|ハーグ]]を出発、[[5月17日|17日]]に[[トンゲレン]]で待機したが、ヴィルロワのこの動きを知るとすぐに迎え撃つ方針を固め、南西に向かい、先にフランス軍がブラバントのラミイに布陣したことを知るとすぐさま戦闘を開始した。
両軍は[[小ヘート川]]を挟んで対峙、フランス軍左翼は小ヘート川左岸の村オートル・エグリーズに配置、中央はオフュという村にヴィルロワと[[バイエルン選帝侯領|バイエルン選帝侯]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世]]が待機、右翼は小ヘート川源流付近のラミイから更に南の[[ムエーニュ川]]北岸の村タヴィエールまで広範囲に布陣した。対するイングランド・オランダ連合軍も小ヘート川右岸からムエーニュ川北岸まで軍を広げ、左翼は[[デンマーク]]騎兵・オランダ歩兵がタヴィエールから東のフランクネー付近に布陣、ムエーニュ川と小ヘート川源流の間の街道はオランダの部将[[ヘンドリック・・ナッサウ (アウウェルケルク卿)|アウウェルケルク卿]]がオランダ騎兵を率いて待機していた。中央はマールバラ公が、右翼はイングランドの部将オークニー卿、[[ヘンリー・ラムリー|ラムリー]]が布陣していた。


両軍は[[小ヘート川]]を挟んで対峙、フランス軍左翼は小ヘート川左岸の村オートル・エグリーズに配置、中央はオフュという村にヴィルロワと[[バイエルン選帝侯領|バイエルン選帝侯]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世]]が待機、右翼は小ヘート川源流付近のラミイから更に南の[[ムエーニュ川]]北岸の村タヴィエールまで広範囲に布陣した。対するイングランド・オランダ連合軍も小ヘート川右岸からムエーニュ川北岸まで軍を広げ、左翼は[[デンマーク]]騎兵・オランダ歩兵がタヴィエールから東のフランクネー付近に布陣、ムエーニュ川と小ヘート川源流の間の街道はオランダの部将[[ヘンドリック・ファン・ナッサウアウウェルケルク|アウウェルケルク卿]]がオランダ騎兵を率いて待機していた。中央はマールバラ公が、右翼はイングランドの部将[[ジョージ・ダグラス=ハミルトン (初代オークニー伯)|オークニー卿]]、[[ヘンリー・ラムリー|ラムリー]]が布陣していた。
開戦前にマールバラ公は左右両翼に騎兵を配置したが、部将達は反対した。左翼は障害物の無い平原なので問題ないが、右翼の小ヘート川両岸は湿地帯で馬の通行が出来ないことが理由だったが、マールバラ公は聞き入れず配置を変更しなかった。

開戦前にマールバラ公は左右両翼に騎兵を配置したが、部将達は反対した。左翼は障害物の無い平原なので問題ないが、右翼の小ヘート川両岸は湿地帯で馬の通行が出来ないことが理由だったが、マールバラ公は聞き入れず配置を変更しなかった<ref>友清、P161 - P163。</ref>


== 開戦 ==
== 開戦 ==
1時過ぎに砲撃戦が開始、マールバラ公は右翼に進軍を命令、オークニー卿はラムリーの騎兵部隊を受けつつ小ヘート川を渡りオートル・エグリーズを攻撃した。ヴィルロワはマクシミリアン2世と共に中央から左翼に移動、合わせて右翼から軍勢の一部を割いて左翼に回して増強を行った。
1時過ぎに砲撃戦が開始、マールバラ公は右翼に進軍を命令、オークニー卿はラムリーの騎兵の援護を受けつつ小ヘート川を渡りオートル・エグリーズを攻撃した。ヴィルロワはマクシミリアン2世と共に中央から左翼に移動、合わせて右翼から軍勢の一部を割いて左翼に回して増強を行った。


だが、それはマールバラ公の罠だった。マールバラ公は敵右翼を警戒し、陽動として左翼を攻撃して右翼の分散を図ったのである。結果、右翼は手薄となり、イングランド軍左翼のオランダ歩兵がフランクネーとタヴィエールを占拠、奪回しようと向かってきたフランス軍を返り討ちにした上、デンマーク騎兵が右翼を突破、逆に右翼に回り込むまでになった。マールバラ公とアウウェルケルク卿も進撃してフランス軍と激戦を繰り広げた。
だが、それはマールバラ公の罠だった。マールバラ公は敵右翼を警戒し、陽動として左翼を攻撃して右翼の分散を図ったのである。結果、右翼は手薄となり、イングランド軍左翼のオランダ歩兵がフランクネーとタヴィエールを占拠、奪回しようと向かってきたフランス軍を返り討ちにした上、デンマーク騎兵が右翼を突破、逆に右翼に回り込むまでになった。マールバラ公とアウウェルケルク卿も進撃してフランス軍と激戦を繰り広げた。


更にマールバラ公はオークニー卿に後退を命令、右翼に控えていた騎兵を左翼に回して平原に戦力を集中した。対するヴィルロワは左翼に気を取られてタヴィエールを奪われた上、右翼を破られ側面を危機に追い込んでしまった。左翼の騎兵を移動させなかったことも平原に戦力を分散させる結果に繋がった。
更にマールバラ公は部下の[[ウィリアム・カドガン (初代カドガン伯)|カドガン]]を通してオークニー卿に後退を命令、右翼に控えていた騎兵を左翼に回して平原に戦力を集中した。対するヴィルロワは左翼に気を取られてタヴィエールを奪われた上、右翼を破られ側面を危機に追い込んでしまった。左翼の騎兵を移動させなかったことも平原に戦力を分散させる結果に繋がった。


[[Image:Ramillies 1706, breakthrough and pursuit.PNG|thumb|250px|戦闘経過]]
[[Image:Ramillies 1706, breakthrough and pursuit.PNG|thumb|250px|戦闘経過]]
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中央ではフランスの近衛騎兵隊が奮戦、左翼右端を押し出し、救援に来たマールバラ公の本隊突撃も跳ね返した。この戦闘はかなりの激戦となり、マールバラ公が混乱の中落馬する一幕もあった。だが、イングランド軍騎兵隊の増強で平原の戦力差が開き、近衛騎兵隊も相次ぐ敵の増援で徐々に疲弊していった。
中央ではフランスの近衛騎兵隊が奮戦、左翼右端を押し出し、救援に来たマールバラ公の本隊突撃も跳ね返した。この戦闘はかなりの激戦となり、マールバラ公が混乱の中落馬する一幕もあった。だが、イングランド軍騎兵隊の増強で平原の戦力差が開き、近衛騎兵隊も相次ぐ敵の増援で徐々に疲弊していった。


そして、近衛騎兵隊の攻撃が止んだことを知ったマールバラ公は平原に集結した騎兵隊を整列させ、北に進撃させて右翼を破った。ヴィルロワとマクシミリアン2世は勝敗が決まったことを悟り撤退、左翼の騎兵を防衛に回したが、イングランド騎兵隊の前に敗走、一度後退したオークニー卿らイングランド軍右翼も追撃に移り夜中まで攻撃、フランス軍に大損害を与えた。同盟軍の死傷者は3500、フランス軍の死傷者は降伏した兵も合わせて20000に上った。
そして、近衛騎兵隊の攻撃が止んだことを知ったマールバラ公は平原に集結した騎兵隊を整列させ、北に進撃させて右翼を破った。ヴィルロワとマクシミリアン2世は勝敗が決まったことを悟り撤退、左翼の騎兵を防衛に回したが、イングランド騎兵隊の前に敗走、一度後退したオークニー卿らイングランド軍右翼も追撃に移り夜中まで攻撃、フランス軍に大損害を与えた。同盟軍の死傷者は3500、フランス軍の死傷者は降伏した兵も合わせて20000に上った<ref>友清、P164 - P167。</ref>


== 戦後 ==
== 戦後 ==
ヴィルロワは北のルーヴェンに敗走、次いで西の[[ブリュッセル]]へ逃れたが、マールバラ公は追撃して[[5月25日]]にルーヴェンを降伏させ、[[5月28日]]にブリュッセルに入り、ヴィルロワを追撃しながらネーデルラント各地を転戦した。[[5月30日|30日]]の[[ヘント]]陥落を始めに[[ブルッヘ]]、[[アントウェルペン|アントワープ]]、[[アウデナールデ]]、[[オーステンデ|オステンド]]、[[コルトレイク]]、[[メーネン]]、[[デンデルモンデ]]といったネーデルラント諸都市を6月から9月にかけて次々と落とし、[[10月2日]]に[[アト (ベルギー)|アト]]が陥落したことでネーデルラントは同盟側の手に入った。
ヴィルロワは北のルーヴェンに敗走、次いで西の[[ブリュッセル]]へ逃れたが、マールバラ公は追撃して[[5月25日|25日]]にルーヴェンを降伏させ、[[5月28日|28日]]にブリュッセルに入り、ヴィルロワを追撃しながらネーデルラント各地を転戦した。[[5月30日|30日]]の[[ヘント]]陥落を始めに[[ブルッヘ]]、アントワープ、[[アウデナールデ]]、[[オーステンデ|オステンド]]、[[コルトレイク]]、[[メーネン]]、[[デンデルモンデ]]といったネーデルラント諸都市を6月から9月にかけて次々と落とし、[[10月2日]]に[[アト (ベルギー)|アト]]が陥落したことでネーデルラントは同盟側の手に入った。


[[Image:Ramillies campaign 1706 - Allied gains.png|thumb|300px|right|ラミイ戦後の1706年のネーデルラント戦役]]
[[Image:Ramillies campaign 1706 - Allied gains.png|thumb|300px|right|ラミイ戦後の1706年のネーデルラント戦役]]


ラミイの戦いにおける影響は重大であり、ドイツ戦線のヴィラールはヴィルロワに増援を送ったため攻勢に出れず、6月中旬にヴィルロワが更迭されイタリアからヴァンドームが後任として引き継いだが、フランス軍の戦意は低下しており[[ヴァランシエンヌ]]から身動きが取れなかった。イタリア戦線はヴァンドームの代わりに[[フェルディナン・ド・マルサン|マルサン]]と[[オルレアン公]][[フィリップ2世 (オルレアン公)|フィリップ2世]](ルイ14世の甥)がイタリアに派遣されたが、[[9月7日]]の[[トリノの戦い]]でオイゲンに敗れマルサンは戦死、フィリップ2世はフランスへ逃れ北イタリアはオイゲンが奪取した。
ラミイの戦いにおける影響は重大であり、ドイツ戦線のヴィラールはヴィルロワに増援を送ったため攻勢に出れず、6月中旬にヴィルロワが更迭されイタリアからヴァンドームが後任として引き継いだが、フランス軍の戦意は低下しており[[ヴァランシエンヌ]]から身動きが取れなかった。イタリア戦線はヴァンドームの代わりに[[フェルディナン・ド・マルサン|マルサン]]と[[オルレアン公]][[フィリップ2世 (オルレアン公)|フィリップ2世]](ルイ14世の甥)がイタリアに派遣されたが、[[9月7日]]の[[トリノの戦い]]でオイゲンに敗れマルサンは戦死、フィリップ2世はフランスへ逃れ北イタリアはオイゲンが奪取した<ref>友清、P168 - P177。</ref>


ネーデルラントと北イタリアの平定で1706年は一転して同盟側が優勢になったが、翌[[1707年]]にヴィラールの反撃とオランダの消極的な姿勢でなおも同盟軍は停滞を余儀なくされた。状況の打開は[[1708年]][[7月11日]]の[[アウデナールデの戦い]]まで待たなければならなかった。
ネーデルラントと北イタリアの平定で1706年は一転して同盟側が優勢になったが、翌[[1707年]]にヴィラールの反撃とオランダの消極的な姿勢でなおも同盟軍は停滞を余儀なくされた。状況の打開は[[1708年]][[7月11日]]の[[アウデナールデの戦い]]まで待たなければならなかった。

== 脚注 ==
<references/>


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [[友清理士]]『スペイン継承戦争 {{smaller|マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史}}』[[彩流社]]、2007年。
* [[友清理士]]『スペイン継承戦争 {{smaller|マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史}}』[[彩流社]]、2007年。


== 関連項目 ==
* [[ロイヤル・キャサリン (戦列艦・初代)]]

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2022年8月3日 (水) 11:52時点における最新版

ラミイの戦い

戦争スペイン継承戦争
年月日1706年5月23日
場所ベルギーブラバン・ワロン州ラミイ
結果:イングランド・オランダ同盟軍の勝利
交戦勢力
イングランド王国
ネーデルラント連邦共和国
フランス王国
バイエルン選帝侯領
指導者・指揮官
マールバラ公ジョン・チャーチル
アウウェルケルク卿ヘンドリック・ファン・ナッサウ
ヴィルロワ公フランソワ・ド・ヌフヴィル
マクシミリアン2世
戦力
歩兵62,000人
大砲90門
歩兵60,000人
大砲62門
損害
死者1,000人
負傷2,500人
死者・捕虜20,000人

ラミイの戦い(ラミイのたたかい、The Battle of Ramillies)は、スペイン継承戦争における戦闘の1つで1706年5月23日に現在のベルギーブラバン・ワロン州ラミイでイングランドオランダ同盟軍とフランスバイエルン軍が衝突した。ラミリーの戦いともいわれる。

戦闘前

[編集]

1704年ブレンハイムの戦いでイングランド軍総司令官マールバラ公ジョン・チャーチルオーストリア神聖ローマ帝国)の将軍プリンツ・オイゲンと共にフランス・バイエルン連合軍を撃破してドナウ川ライン川流域を奪還、ドイツ戦線を立て直したが、翌1705年、フランスからヴィラール公モーゼル川方面に派遣され、モーゼル川に向かったマールバラ公の進軍を妨害、6月にヴィルロワ公南ネーデルラント(ベルギー)からオランダを襲撃したためマールバラ公はモーゼル川から引き返さざるを得なかった。ネーデルラントではアントワープからナミュールに広がる防衛線を突破(エリクセムの戦い)、退却するヴィルロワを追撃しながらブラバントを転戦していたが、決戦という時に同盟国オランダが回避を主張したため止むを得ず攻撃を中止、成果を出せなかった。

モーゼル川からライン川に南下したヴィラールはライン川支流のモーデル川流域の都市アグノーを同盟側の将軍バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムに奪われアルザスに後退したが、イタリア戦線はヴァンドーム公が攻勢に出てミランドラを陥とし、カッサーノの戦いでオイゲン率いるオーストリア軍に勝利、オイゲンの動きを封じて優位に立ったため、1705年は総じて同盟軍に不利な状況となった[1]

1706年になると状況は悪化、4月にヴァンドームがカルチナートの戦いでオーストリア軍を破りチロル付近に追い込み、5月にヴィラールも行動を起こし、アグノーを奪還して他のモーデル川流域の都市も奪いモーデル河畔を平定、北上してライン川支流のラウテル川流域も奪い、ドイツ戦線もフランス側有利に転じた。

ネーデルラントでもヴィルロワがフランス王ルイ14世の指示で攻勢に移り、5月19日ルーヴェンからデイレ川を渡り東のティーネンに向かった。マールバラ公は9日ハーグを出発、17日トンゲレンで待機したが、ヴィルロワのこの動きを知るとすぐに迎え撃つ方針を固め、南西に向かい、先にフランス軍がブラバントのラミイに布陣したことを知るとすぐさま戦闘を開始した。

両軍は小ヘート川を挟んで対峙、フランス軍左翼は小ヘート川左岸の村オートル・エグリーズに配置、中央はオフュという村にヴィルロワとバイエルン選帝侯マクシミリアン2世が待機、右翼は小ヘート川源流付近のラミイから更に南のムエーニュ川北岸の村タヴィエールまで広範囲に布陣した。対するイングランド・オランダ連合軍も小ヘート川右岸からムエーニュ川北岸まで軍を広げ、左翼はデンマーク騎兵・オランダ歩兵がタヴィエールから東のフランクネー付近に布陣、ムエーニュ川と小ヘート川源流の間の街道はオランダの部将アウウェルケルク卿がオランダ騎兵を率いて待機していた。中央はマールバラ公が、右翼はイングランドの部将オークニー卿ラムリーが布陣していた。

開戦前にマールバラ公は左右両翼に騎兵を配置したが、部将達は反対した。左翼は障害物の無い平原なので問題ないが、右翼の小ヘート川両岸は湿地帯で馬の通行が出来ないことが理由だったが、マールバラ公は聞き入れず配置を変更しなかった[2]

開戦

[編集]

1時過ぎに砲撃戦が開始、マールバラ公は右翼に進軍を命令、オークニー卿はラムリーの騎兵の援護を受けつつ小ヘート川を渡りオートル・エグリーズを攻撃した。ヴィルロワはマクシミリアン2世と共に中央から左翼に移動、合わせて右翼から軍勢の一部を割いて左翼に回して増強を行った。

だが、それはマールバラ公の罠だった。マールバラ公は敵右翼を警戒し、陽動として左翼を攻撃して右翼の分散を図ったのである。結果、右翼は手薄となり、イングランド軍左翼のオランダ歩兵がフランクネーとタヴィエールを占拠、奪回しようと向かってきたフランス軍を返り討ちにした上、デンマーク騎兵が右翼を突破、逆に右翼に回り込むまでになった。マールバラ公とアウウェルケルク卿も進撃してフランス軍と激戦を繰り広げた。

更にマールバラ公は部下のカドガンを通してオークニー卿に後退を命令、右翼に控えていた騎兵を左翼に回して平原に戦力を集中した。対するヴィルロワは左翼に気を取られてタヴィエールを奪われた上、右翼を破られ側面を危機に追い込んでしまった。左翼の騎兵を移動させなかったことも平原に戦力を分散させる結果に繋がった。

戦闘経過

中央ではフランスの近衛騎兵隊が奮戦、左翼右端を押し出し、救援に来たマールバラ公の本隊突撃も跳ね返した。この戦闘はかなりの激戦となり、マールバラ公が混乱の中落馬する一幕もあった。だが、イングランド軍騎兵隊の増強で平原の戦力差が開き、近衛騎兵隊も相次ぐ敵の増援で徐々に疲弊していった。

そして、近衛騎兵隊の攻撃が止んだことを知ったマールバラ公は平原に集結した騎兵隊を整列させ、北に進撃させて右翼を破った。ヴィルロワとマクシミリアン2世は勝敗が決まったことを悟り撤退、左翼の騎兵を防衛に回したが、イングランド騎兵隊の前に敗走、一度後退したオークニー卿らイングランド軍右翼も追撃に移り夜中まで攻撃、フランス軍に大損害を与えた。同盟軍の死傷者は3500、フランス軍の死傷者は降伏した兵も合わせて20000に上った[3]

戦後

[編集]

ヴィルロワは北のルーヴェンに敗走、次いで西のブリュッセルへ逃れたが、マールバラ公は追撃して25日にルーヴェンを降伏させ、28日にブリュッセルに入り、ヴィルロワを追撃しながらネーデルラント各地を転戦した。30日ヘント陥落を始めにブルッヘ、アントワープ、アウデナールデオステンドコルトレイクメーネンデンデルモンデといったネーデルラント諸都市を6月から9月にかけて次々と落とし、10月2日アトが陥落したことでネーデルラントは同盟側の手に入った。

ラミイ戦後の1706年のネーデルラント戦役

ラミイの戦いにおける影響は重大であり、ドイツ戦線のヴィラールはヴィルロワに増援を送ったため攻勢に出られず、6月中旬にヴィルロワが更迭されイタリアからヴァンドームが後任として引き継いだが、フランス軍の戦意は低下しておりヴァランシエンヌから身動きが取れなかった。イタリア戦線はヴァンドームの代わりにマルサンオルレアン公フィリップ2世(ルイ14世の甥)がイタリアに派遣されたが、9月7日トリノの戦いでオイゲンに敗れマルサンは戦死、フィリップ2世はフランスへ逃れ北イタリアはオイゲンが奪取した[4]

ネーデルラントと北イタリアの平定で1706年は一転して同盟側が優勢になったが、翌1707年にヴィラールの反撃とオランダの消極的な姿勢でなおも同盟軍は停滞を余儀なくされた。状況の打開は1708年7月11日アウデナールデの戦いまで待たなければならなかった。

脚注

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  1. ^ 友清、P137 - P145。
  2. ^ 友清、P161 - P163。
  3. ^ 友清、P164 - P167。
  4. ^ 友清、P168 - P177。

参考文献

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  • 友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史彩流社、2007年。

関連項目

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