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'''ビクトル・チーホノフ'''('''Viktor Tikhonov'''、[[1930年]][[6月4日]] - [[2014年]][[11月24日]]<ref>[https://www.nikkansports.com/sports/news/f-sp-tp0-20141125-1400699.html 五輪3連覇の名将死去 Iホッケー旧ソ連] 日刊スポーツ 2014年11月25日</ref>)は、[[ソビエト連邦]]の[[アイスホッケー]]指導者。1984年の[[1984年サラエボオリンピックのアイスホッケー競技|サラエボオリンピック]]、1988年の[[1988年カルガリーオリンピックのアイスホッケー競技|カルガリーオリンピック]]でソ連代表を率いて、1992年の[[1992年アルベールビルオリンピックのアイスホッケー競技|アルベールビルオリンピック]]で[[オリンピックのEUN選手団|EUN]]を率いて金メダルを獲得した<ref name="thn"/>。 |
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現役引退後、ディナモ・モスクワのアシスタントコーチを経て、1968年の[[1968年グルノーブルオリンピックのアイスホッケー競技|グルノーブルオリンピック]]のアシスタントコーチに就任、その後、ディナモ・リガや[[ラトビア]]でヘッドコーチを務めた<ref name="iihf"/>。 |
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1980年の[[1980年レークプラシッドオリンピック|レークプラシッドオリンピック]]では決勝リーグで地元アメリカに敗れて銀メダルに終わった。{{Main|氷上の奇跡}} |
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彼の孫の[[ビクトル・チーホノフ (1988年生)|ビクトル]]は、2014年の[[2014年ソチオリンピックのアイスホッケー競技|ソチオリンピック]]に出場した<ref name="iihf"/>。 |
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2014年11月24日、モスクワの病院で亡くなった。84歳であった<ref name="thn">{{cite web|url=http://www.thehockeynews.com/blog/iconic-russian-coach-viktor-tikhonov-dies-at-age-84/ |title=Russian coach Viktor Tikhonov dies at age 84 |publisher=thehockeynews.com |author=Adam Proteau |date=2014-11-24 |accessdate=2015-01-14 }}</ref>。 |
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ビクトル・チーホノフが亡くなった日、彼がかつてヘッドコーチを務めたCSKAモスクワのアイスアリーナでは |
ビクトル・チーホノフが亡くなった日、彼がかつてヘッドコーチを務めたCSKAモスクワのアイスアリーナではCSKAモスクワと[[SKAサンクトペテルブルク]]の試合が開催された。彼の孫のビクトル・チーホノフJrはSKAサンクトペテルブルクのフォワードであり、この試合に出場した。CSKAモスクワとSKAサンクトペテルブルクはどちらも軍系統のチームであり、この2チームの対戦はアーミー・ダービーと言われチケットが高騰する好カードだった。さらに両チームは当時KHLのリーグ全体の首位争いをしていたため、試合は白熱することが予想された。試合開始前には亡くなったチーホノフを偲んで黙祷が捧げられ、通常ならプレーが中断するたびに流れる音楽もこの日は流れることがなかった。CSKAのサポーターはチーホノフの似顔絵が描かれた横断幕を振ってチームを応援した。試合はCSKAが5対3で勝利したが、ビクトル・チーホノフJrは亡くなった祖父に捧げるかのような気迫あふれるプレーを見せ、2ゴール1アシストを決めてこの試合のMVPとなった。<ref>http://en.khl.ru/game/266/41993/resume/</ref> |
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獲得メダル | ||
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ビクトル・チーホノフ | ||
アイスホッケー | ||
オリンピック | ||
ソビエト連邦 | ||
銀 | 1980 レークプラシッド | 団体 |
金 | 1984 サラエボ | 団体 |
金 | 1988 カルガリー | 団体 |
EUN | ||
金 | 1992 アルベールビル | 団体 |
ビクトル・チーホノフ(Viktor Tikhonov、1930年6月4日 - 2014年11月24日[1])は、ソビエト連邦のアイスホッケー指導者。1984年のサラエボオリンピック、1988年のカルガリーオリンピックでソ連代表を率いて、1992年のアルベールビルオリンピックでEUNを率いて金メダルを獲得した[2]。
経歴
[編集]1930年にモスクワで生まれた。
現役時代は、ソビエト空軍チームやHCディナモ・モスクワでプレーしたディフェンスマンであった[3]。
現役引退後、ディナモ・モスクワのアシスタントコーチを経て、1968年のグルノーブルオリンピックのアシスタントコーチに就任、その後、ディナモ・リガやラトビアでヘッドコーチを務めた[3]。
1976年にオリンピックを控えていたため、ベストメンバーではなかったソ連チームをボリス・クラーギンに代わって初めて率いてカナダ、チェコスロバキアに次いで3位となった。1977年にはHC CSKAモスクワ及びソ連代表のヘッドコーチとなった[3]。それ以降17年に渡り、ソ連代表ヘッドコーチを務めた。CSKAでは1977年から1989年までソビエトリーグで13連覇を果たすとともに、1978年から1990年まで13年連続でヨーロピアンカップで優勝した[3]。
プラハで行われた世界選手権で、予選ラウンドでは敗れた相手、地元チェコスロバキアを破り、自身初優勝を果たし、それ以降1992年までオリンピックや世界選手権で数々のメダルを獲得した[3]。
アイスホッケーソビエト連邦代表を率いて、オリンピックで3回金メダルを獲得、1979年から1992年までの間、アイスホッケー世界選手権で優勝8回、1991年のカナダカップでも優勝した[3]。
1980年のレークプラシッドオリンピックでは決勝リーグで地元アメリカに敗れて銀メダルに終わった。
1992年のアルベールビルオリンピックでは独立国家共同体チームを率いた[3]。
1998年に国際アイスホッケー連盟殿堂入りを果たした[3]。
彼の孫のビクトルは、2014年のソチオリンピックに出場した[3]。
2014年11月24日、モスクワの病院で亡くなった。84歳であった[2]。 ビクトル・チーホノフが亡くなった日、彼がかつてヘッドコーチを務めたCSKAモスクワのアイスアリーナではCSKAモスクワとSKAサンクトペテルブルクの試合が開催された。彼の孫のビクトル・チーホノフJrはSKAサンクトペテルブルクのフォワードであり、この試合に出場した。CSKAモスクワとSKAサンクトペテルブルクはどちらも軍系統のチームであり、この2チームの対戦はアーミー・ダービーと言われチケットが高騰する好カードだった。さらに両チームは当時KHLのリーグ全体の首位争いをしていたため、試合は白熱することが予想された。試合開始前には亡くなったチーホノフを偲んで黙祷が捧げられ、通常ならプレーが中断するたびに流れる音楽もこの日は流れることがなかった。CSKAのサポーターはチーホノフの似顔絵が描かれた横断幕を振ってチームを応援した。試合はCSKAが5対3で勝利したが、ビクトル・チーホノフJrは亡くなった祖父に捧げるかのような気迫あふれるプレーを見せ、2ゴール1アシストを決めてこの試合のMVPとなった。[4]
脚注
[編集]- ^ 五輪3連覇の名将死去 Iホッケー旧ソ連 日刊スポーツ 2014年11月25日
- ^ a b Adam Proteau (2014年11月24日). “Russian coach Viktor Tikhonov dies at age 84”. thehockeynews.com. 2015年1月14日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “Remembering Tikhonov”. 国際アイスホッケー連盟 (2014年11月24日). 2015年1月14日閲覧。
- ^ http://en.khl.ru/game/266/41993/resume/