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'''ジョン・パトリック'''(John Patrick、[[1968年]][[2月29日]] - )は、アメリカ合衆国のプロ[[バスケットボール]]指導者、元バスケットボール選手である。現在は[[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|B.LEAGUE]]の[[千葉ジェッツふなばし|千葉ジェッツ]]ヘッドコーチ
'''ジョン・パトリック'''(John Patrick、[[1968年]][[2月29日]] - )は、アメリカ合衆国のプロ[[バスケットボール]]指導者、元バスケットボール選手である。


== 来歴 ==
== 来歴 ==
[[シドウェル・フレンズ・スクール]]から[[スタンフォード大学]]に進み、卒業後の1991年に[[近畿大学]]に留学し、1992年に[[ジャパンエナジーグリフィンズ|ジャパンエナジー]]に入社<ref>{{Cite news |title=“日本語ペラペラ”の千葉ジェッツ新指揮官  J・パトリックの知られざる経歴と縁 |url=https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/2022070700001-spnavi?p=2 |newspaper=Sportsnavi |date=2022-07-07 |accessdate=2022-12-29 }}</ref>。本来はポイントガードだったが、チーム事情のためフォワードにコンバートされ、通訳とアシスタントコーチを兼任し、当時のオン・ザ・コートは1枠に制限されていたため目立った活躍はなかった。その間、[[NBA]]、[[ゴールデンステート・ウォリアーズ]]のトライアウトも受けていた。
[[シドウェル・フレンズ・スクール]]から[[スタンフォード大学]]に進み、卒業後の1991年に[[近畿大学]]に留学し、1992年に[[ジャパンエナジーグリフィンズ|ジャパンエナジー]]に入社<ref>{{Cite news |title=“日本語ペラペラ”の千葉ジェッツ新指揮官  J・パトリックの知られざる経歴と縁 |url=https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/2022070700001-spnavi?p=2 |newspaper=Sportsnavi |date=2022-07-07 |accessdate=2022-12-29 }}</ref>。{{要出典範囲|本来はポイントガードだったが、チーム事情のためフォワードにコンバートされ、通訳とアシスタントコーチを兼任し、当時のオン・ザ・コートは1枠に制限されていたため目立った活躍はなかった。その間、[[NBA]]、[[ゴールデンステート・ウォリアーズ]]のトライアウトも受けていた。|date=2024年6月}}


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{{要出典範囲|その後、[[丸紅トレーダーズ|丸紅]]に移籍して2シーズンプレーし、1998-99シーズンに1試合平均22.4点を記録し、日本リーグ2部得点王となった。|date=2024年6月}}


1999年からは[[ボッシュブルーウィンズ|ボッシュ(旧ゼクセル)]]のコーチを務めたが、2002年に廃部。
1999年からは[[ボッシュブルーウィンズ|ボッシュ(旧ゼクセル)]]のコーチを務めたが、2002年に廃部。


2003年から2005年まではドイツProAのGottingenでヘッドコーチを務める。
2003年から2005年までは[[ドイツ]][[バスケットボール・ブンデスリーガ|ProA]]{{仮リンク|BCゲッティンゲン|en|BG Göttingen}}でヘッドコーチを務める。


2005-06シーズンは[[アルバルク東京|トヨタ自動車]]のヘッドコーチを務め、[[JBLスーパーリーグ|スーパーリーグ]]優勝に導くとともにコーチ・オブ・ザ・イヤーを受賞した。
2005-06シーズンは[[アルバルク東京|トヨタ自動車]]のヘッドコーチを務め、[[JBLスーパーリーグ|スーパーリーグ]]優勝に導くとともに{{要出典範囲|コーチ・オブ・ザ・イヤーを受賞した。|date=2024年6月}}


2006年以降はドイツに戻り、Gottingens.Oliver Wurzburg、MHP Riesen Ludwigsburgのヘッドコーチを歴任し、コーチ・オブ・ザ・イヤーを5度受賞した。
2006年以降はドイツに戻り、[[BCゲッティンゲン]]{{仮リンク|エスオリバー・バスケッツ|en|Würzburg Baskets}}、MHPリーゼン・ルートヴィヒスブルク{{仮リンク|MHPリーゼン・ルートヴィヒスブルク|en|Riesen Ludwigsburg}}のヘッドコーチを歴任し、{{要出典範囲|コーチ・オブ・ザ・イヤーを5度受賞した。|date=2024年6月}}


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2022年、[[千葉ジェッツふなばし|千葉ジェッツ]]のヘッドコーチに就任<ref>{{Cite news |title=千葉ジェッツの新ヘッドコーチにジョン・パトリックが就任「エネルギーに溢れたプレーを魅せたい」 |url=https://basket-count.com/article/detail/115066 |newspaper=バスケット・カウント |date=2022-07-06- |accessdate=2022-12-29 }}</ref>。2024年5月31日、退任が発表され<ref>{{Cite web |url=https://chibajets.jp/news/detail/id=22709 |title=2023-24シーズン ジョン・パトリックHC契約満了のお知らせ |access-date=2024-05-31 |publisher=千葉ジェッツふなばし}}</ref>、6月13日にはルートヴィヒスブルクのヘッドコーチに2年契約で就任すると発表された<ref>{{Cite web |url=https://www.eurohoops.net/en/fiba-champions-league/1684724/john-patrick-returns-to-ludwigsburg-basketball-champions-league/ |title=John Patrick signs a two-year contract to reunite with Ludwigsburg |access-date=2024-06-13 |publisher=eurohoops.net}}</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2024年6月15日 (土) 01:14時点における版

ジョン・パトリック
John Patrick
MHPリーゼン・ルートヴィヒスブルク HC
役職 ヘッドコーチ
所属リーグ B.LEAGUE
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1968-02-29) 1968年2月29日(56歳)
身長(現役時) 193cm (6 ft 4 in)
キャリア情報
高校 シドウェル・フレンズ・スクール
大学 スタンフォード大学
指導者期間 1999年–現在

ジョン・パトリック(John Patrick、1968年2月29日 - )は、アメリカ合衆国のプロバスケットボール指導者、元バスケットボール選手である。

来歴

シドウェル・フレンズ・スクールからスタンフォード大学に進み、卒業後の1991年に近畿大学に留学し、1992年にジャパンエナジーに入社[1]本来はポイントガードだったが、チーム事情のためフォワードにコンバートされ、通訳とアシスタントコーチを兼任し、当時のオン・ザ・コートは1枠に制限されていたため目立った活躍はなかった。その間、NBAゴールデンステート・ウォリアーズのトライアウトも受けていた。[要出典]

その後、丸紅に移籍して2シーズンプレーし、1998-99シーズンに1試合平均22.4点を記録し、日本リーグ2部得点王となった。[要出典]

1999年からはボッシュ(旧ゼクセル)のコーチを務めたが、2002年に廃部。

2003年から2005年まではドイツProABCゲッティンゲン英語版でヘッドコーチを務める。

2005-06シーズンはトヨタ自動車のヘッドコーチを務め、スーパーリーグ優勝に導くとともにコーチ・オブ・ザ・イヤーを受賞した。[要出典]

2006年以降はドイツに戻り、BCゲッティンゲンエスオリバー・バスケッツ英語版、MHPリーゼン・ルートヴィヒスブルクMHPリーゼン・ルートヴィヒスブルク英語版のヘッドコーチを歴任し、コーチ・オブ・ザ・イヤーを5度受賞した。[要出典]

2022年、千葉ジェッツのヘッドコーチに就任[2]。2024年5月31日、退任が発表され[3]、6月13日にはルートヴィヒスブルクのヘッドコーチに2年契約で就任すると発表された[4]

脚注

外部リンク