コンテンツにスキップ

「黄錦周」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
39行目: 39行目:
== 証言の歴史的矛盾とその実状 ==
== 証言の歴史的矛盾とその実状 ==
*証言では吉林駅から離れた日本軍兵営内の慰安所で強姦されているが、黄がいたとされる[[吉林]]は[[歓楽街]]で慰安所は必要なかった。
*証言では吉林駅から離れた日本軍兵営内の慰安所で強姦されているが、黄がいたとされる[[吉林]]は[[歓楽街]]で慰安所は必要なかった。
*証言では慰安婦に雑役や看護婦の役目をやらせたとあるが、[[軍医]]も[[衛生兵]]もいる中で慰安婦が看病することなどありえないことである
*証言では慰安婦に雑役や看護婦の役目をやらせたとあるが、[[軍医]]も[[衛生兵]]もいる中で慰安婦が看病することなどありえないことである
*証言では多くの女性と一緒に列車に乗ったことがわかり、班長の要請は動員ではなく日本軍からの慰安婦供出の指示だったというものの朝鮮人女性に動員令が出たのは[[1944年]]であり[[1938年]]([[1939年]]?)の動員はありえないことである。
*証言では多くの女性と一緒に列車に乗ったことがわかり、班長の要請は動員ではなく日本軍からの慰安婦供出の指示だったというものの朝鮮人女性に動員令が出たのは[[1944年]]であり[[1938年]]([[1939年]]?)の動員はありえないことである。



2007年4月19日 (木) 16:35時点における版

黄錦周
各種表記
ハングル (不明)
漢字 黄錦周
発音: ファン・クムジュ
ローマ字 HwanKumJu
テンプレートを表示

黄錦周ファン・クムジュ、1922年生まれ)韓国人、元・慰安婦。出身地扶餅(詳細は下記に記述)。

従軍慰安婦として数々のメディアで慰安婦時代の証言をする。 しかし、証言の内容が歴史的に矛盾したり、前に答えたことと矛盾したりするなどで証言の信頼性について、一部の言論人から批判されている。 そうした批判が出てくるきっかけとしては漫画家小林よしのりの著書戦争論2のなかで彼女の証言の矛盾問題が取り上げられたことによるところが大きい。

略歴

「証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会 明石書店 1993」での本人の証言をもとに列記する。

  • 1922年扶餅生まれ。家は由緒正しいソンビだが経済的には苦しい
  • 1934年(13才)父が病気になり薬代の借金のため威興の催さんの養女に(実際は女中)
  • 1936年(15才)扱いの荒さに根をあげ催さんの本妻の家に移動、借金が増える、学校に行かせて貰う
  • 1941年(20才)村の班長が「1家で1人は日本の工場で働かねばいけない」と言われ養家の他の子供の身代わりになって志願。3年間の労働で借金が返せると期待。他の人と一緒に列車とトラックでついた場所(駅名は吉林)は日本軍のテントで3日に1回将校の部屋に呼ばれ強姦された。
  • 1941年(半月後)慰安所に移動、木造の簡単な小屋数棟で看板はない。食事も軍人と混じってとり完全な日本軍の支配下にある。
  • (?後)トラックと船で近傍の慰安所に移動。より厳しい状況、主に海軍軍人がきた
  • (8~9ヶ月後)移動する軍人について吉林の慰安所に戻る
  • 1945年8月(24才)終戦、将校はおらず自由にしろというメモだけ。下腹部が腫れ膿が出て歩けない同僚を残し歩いて兵舎の外へ。朝鮮に帰ったのは12月。

証言の数々

  • 「19歳の時、学校を卒業する25日前に日本軍に慰安婦にされた」(TBSここがヘンだよ日本人」)
  • 「生活は貧しく12歳の時100円で売られてソウルの金持ちの家で小間使い。1938年 に威興南道ハムン郡で女中をしていた時にその家の娘の身代わりとなって満州に連行され慰安婦となる」(「従軍慰安婦と戦後補償 高木健一」)
  • 「威興の女学校在学中の17歳の時1939年に国民徴用令で動員され軍需工場に行くと思っていたが着いた所は吉林の慰安所だった」(朝日新聞 1995年
  • 「村の班長(日本人)に『一家に一人は行かなくては』と脅かされ、1941年、朝鮮を離れたが、到着した場所は、慰安所だった。」(元日本軍「慰安婦」の証言を聞く集会)
  • 「17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に、日本軍の工場に働きに行くように命じ、私は労働者として徴用されたのだと思った。」 (国連・経済社会理事会クマラスワミ報告
  • 「14歳のとき、いわゆる「処女供出」で満州に連行され、皇軍兵士の道具にされた。」 (黄錦周さんの証言を聞く会 東京大学にて)
  • 「証拠がないわけがないだろう。私が証拠じゃない。これ以上どんな証拠を出せというの。」 (TBSここがヘンだよ日本人」、慰安婦問題には証拠がないという疑問に対して。小林よしのりの戦争論ではこの弁明を(ギャグ調にして)特に問題視している)
  • (「証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会」より吉林の慰安所で)

「1日に相手をした数は30~40人くらいでしたが、休日には軍人達がふんどし1枚で列を作るほど押し寄せました。まだ前の人がいるのにそのふんどしまでとってカーテンを開け押し入る軍人もいました。少しでも時間が余計にかかると外で『早く早く』という声がかかりました。戦場に出る前の軍人は特に荒々しく泣きながらする人もいました。」

「生理の時には脱脂綿のようなものを配給されました。1年程した頃からこの配給が途絶えたので他の人が洗って干しておいたものを盗んで使ったり、軍人達のゲートルを拾ってきて洗って使ったりしました。」「軍隊の中では慰安婦は人間としての扱いを受けることができなかったのです。殴られる事が日課でした。月を眺めているだけで何を考えているのかと殴られ、1人言を言えば文句を言ったと殴られました。幕舎の外に出ようとすると、どこにいくのかと足蹴にされたので、外を見ることもできませんでした。だから部隊名も軍人の顔も階級も覚えられませんでした。」

「子宮が腫れて血膿が出て兵隊の相手ができなかった日、ある将校がきて相手をできないなら代わりに自分の性器を口に含めと言いました。私はそんな事をするくらいなら『あんたのクソを食らうほうがまだましだ』と言い返しました。すると将校はこのやろう殺してやると言ってめちゃくちゃに殴る蹴るの暴行を加えました。気がついたとき4日もたったと小屋の同僚に言われました。」

証言の歴史的矛盾とその実状

  • 証言では吉林駅から離れた日本軍兵営内の慰安所で強姦されているが、黄がいたとされる吉林歓楽街で慰安所は必要なかった。
  • 証言では慰安婦に雑役や看護婦の役目をやらせたとあるが、軍医衛生兵もいる中で慰安婦が看病することなどありえないことである。
  • 証言では多くの女性と一緒に列車に乗ったことがわかり、班長の要請は動員ではなく日本軍からの慰安婦供出の指示だったというものの朝鮮人女性に動員令が出たのは1944年であり1938年1939年?)の動員はありえないことである。

証言の信頼性について

ソウル大学の安秉直教授は慰安婦として名乗り出た人の中には事実を歪曲している人もいた事を記し、この調査結果での黄錦周についてはそうした事はなく証言の信憑性についての確認に自信を持っていることを以下のように書いている。

『調査を検討する上で難しかったのは証言者の陳述がたびたび論理的に矛盾することであった。すでに50年前の事なので、記憶違いもあるだろうが証言したくない点を省略したり、適当に繕ったりごちゃ混ぜにしたりという事もあり、またその時代の事情が私たちの想像を越えている事もあるところから起こったことと考えられる。(略)私たちが調査を終えた19人の証言は私たちが自信をもって世の中に送り出すものである。(略)証言の論理的信憑性を裏付けるよう、証言の中で記録資料で確認できる部分はほとんど確認した。』
(証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会 明石書店 1993)

関連項目

外部リンク