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このころ、[[キリスト教]]受容の壁が厚かった新潟では[[アメリカン・ボード]]を中心とする伝道活動が困難を極めており、成瀬は組合から[[新潟]]での伝道を依頼される。成瀬はこれを拒むが、病床の沢山から新潟への赴任を懇願されると新潟へ移り、[[1886年]]([[明治]]19年)には新潟第一基督教会(新潟教会)を設立。女子の就学状況が不振であった新潟で女学校の設立案が出されると成瀬はこれに参加し、翌[[1887年]]([[明治]]20年)に私立新潟英学校を基礎に設立された新潟女学校の校長となる。同じく英学塾を基礎に設立された男子中等教育期間である北越学館にも関わり、教師として招かれた[[内村鑑三]]が生徒の支持を得て分離する動きを見せると、成瀬らは内村に反論し、解任を求めた(北越学館事件)。内村が去った後には旧知の[[松村介石]]や[[麻生正蔵]]らが招かれた。 |
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生家跡は[[1934年]]([[昭和]]9年)に山口在住の卒業生有志によって、成瀬公園として整備された。 |
2007年4月22日 (日) 12:46時点における版
成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、1858年 - 1919年)は、明治から大正の教育者である。日本女子大学(日本女子大学校)の創設者として知られる。
略歴
周防国吉敷郡吉敷村(現山口県山口市吉敷大形)に生まれる。成瀬家はそれまで河崎姓で、父の小左衛門の代で成瀬姓を名乗る。小左衛門は長州藩毛利家の一門吉敷毛利家に仕える下級士族で仁蔵は長男、母は隣村大歳村出身の藩士秦家の娘歌子。
幼少時は藩校の郷校の憲章館に学び、維新後の1874年(明治7年)には調剤師として医科に住み込む。この年には父の小左衛門が死去し、山口の教員養成所の二期生となる。1876年(明治9年)に卒業し、小学校教員となる。翌年にはアメリカでキリスト教宣教師となった同郷の沢山保羅の感化を受けて山口を離れ、1878年(明治11年)に大阪の浪花教会で入信する。組合教会の運動で1878年(明治11年)に設立された梅花女学校で主任教師を務め、翌1879年(明治12年)には浪花教会に属し、女学校生徒でもあった旧福井藩士の娘と結婚。私財を投じて学校経営の維持を図るなど教職には熱心であったが、伝道活動への意思が強く、1882年(明治15年)に卒業生を送ると教職を辞し、牧師としての活動をはじめる。沢山の浪花教会を拠点に、翌1883年(明治16年)には奈良県大和郡山市の出張伝道所へ移る。翌年には郡山教会の独立を許され初代牧師となり、牧師として布教活動する一方で女子教育を研究する。
このころ、キリスト教受容の壁が厚かった新潟ではアメリカン・ボードを中心とする伝道活動が困難を極めており、成瀬は組合から新潟での伝道を依頼される。成瀬はこれを拒むが、病床の沢山から新潟への赴任を懇願されると新潟へ移り、1886年(明治19年)には新潟第一基督教会(新潟教会)を設立。女子の就学状況が不振であった新潟で女学校の設立案が出されると成瀬はこれに参加し、翌1887年(明治20年)に私立新潟英学校を基礎に設立された新潟女学校の校長となる。同じく英学塾を基礎に設立された男子中等教育期間である北越学館にも関わり、教師として招かれた内村鑑三が生徒の支持を得て分離する動きを見せると、成瀬らは内村に反論し、解任を求めた(北越学館事件)。内村が去った後には旧知の松村介石や麻生正蔵らが招かれた。
1890年(明治23年)にはアメリカへ渡る。アンドーバー神学校、クラーク大学で教育学や社会学、キリスト教などを学び、各種社会施設も視察して女子教育研究を行い、1894年(明治27年)に帰国。梅花女学校校長を務め、女子高等教育機関の設立に着手し、1901年(明治34年)には日本女子大学を創設する。2006年に日本女子大学附属豊明幼稚園・小学校は百周年を迎えた。
生家跡は1934年(昭和9年)に山口在住の卒業生有志によって、成瀬公園として整備された。
著作
- 『女子教育』
- 『進歩と教育』