「ペルシア戦争」の版間の差分
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2005年4月11日 (月) 16:47時点における版
ペルシャ戦争(The Greek and Persian Wars)は、紀元前492年から紀元前449年まで、アテナイおよびスパルタを中心としたギリシャ連合軍とアケメネス朝ペルシャが行った戦争。
原因
アケメネス朝ペルシャ王国は、キュロス2世の遠征によって紀元前547年に小アジア随一の強国リディアを占領し、更にダレイオス1世によってスキティア(黒海北西部)、トラキア(黒海西部、ボスポラス海峡からダーダネルス海峡一帯)、マケドニアをその国土の版図に納めた。紀元前518年にはリディアの首都であったサルディスに総督(サトラップ)を置き、小アジアの全土とレスボス島、キオス島、サモス島などのエーゲ海東部の島々を支配下においた。
当時のアテナイは積極的に陶器とオリーブ油の輸出を行い、人口増加にともなって、黒海沿岸から多量の穀物を輸入するようになったと考えられている。従って、エーゲ海の貿易路を確立しつつあったアテナイにとって、小アジアから黒海に至るペルシャ王国の影響は、商業海域を脅かす厄介な問題であった。このため、アテナイ民会は紀元前499年に勃発したイオニアの反乱を支援してペルシャ王国を牽制したが、領土を拡大したいペルシャ王国にとって、逆にこれはギリシャ本土征服の契機となった。
戦争の経過
マルドニオスの侵攻
ペルシャ国王ダレイオス1世は、イオニアの反乱の援助とサルディス侵攻に対する報復として、紀元前492年に、マルドニオス(Mardonios、ダレイオス1世の娘婿)率いる大艦隊と大規模な陸上部隊を派遣した。艦隊は、エーゲ海北部の海岸線に沿って侵攻し、途上、タソス島を陥落させたが、ヘロドトスによると、アトス山の岬を迂回する途中、暴風に遭って300隻の艦艇が岬に叩き付けられて破壊され、2万人の兵が失われた。陸上部隊は、マケドニアでブリュゴイ族の夜襲を受け、マルドニオス自身が手傷を負ったため、遠征軍は撤退した。
ダティスとアルタプレネスの侵攻
紀元前491年、ダレイオス1世はギリシャ各国に土と水を差し出し、服従を示すよう求め、島嶼部のポリスは殆どがこの要求を受け入れた。しかし、この対応をめぐって、サロニカ湾の航路を確立したいアテナイは、ペルシャ側の要求を受け入れたアイギナと紛争状態となり、スパルタもクレオメネス(Kleomenes)とデマラトス(Demaretos)の二人の王の確執をめぐる内紛によって、ギリシャ側の反応は混乱した。
紀元前490年、要求を呑まないギリシャ諸都市を攻略すべく、ダレイオス1世は、マルドニオスを解任して、新たにダティス(Datis、メディア人の将軍)とアルタプレネス(Artaphrenes、イオニアの反乱時にサルディスの総督を努めたアルタプレネスの子)を司令官とする600隻の三段櫂船団を派遣した。ペルシャ軍はナクソスとキクラデスの島々を陥落させると、エウボイア島に上陸、イオニアの反乱を支援したエレトリアに侵攻した。エレトリアはアテナイに援軍を求めたが、親ペルシャ派と交戦派の論争によって対応は混乱し、結果、アテナイの増援4000は母国に帰還した。しかし、ペルシャ軍の侵攻を受けて、エレトリアは抵抗の意志を固め、7日間ペルシャ軍の包囲に抵抗したが、市内の親ペルシャ派が城門を解放したため、都市はペルシャ軍に略奪され、破壊された。エウボイア島を攻略したペルシャ軍は、アテナイから追放されたヒッピアスの助言により、 アッティカ東岸のマラトンに上陸し、布陣した。アテナイの将軍ミルティアデス率いるアテナイとプラタイアの連合軍は、集団重装歩兵戦術(ファランクス) を駆使してこれを破った(マラトンの戦い)が、部隊を撤収したペルシャ軍は、アテナイを侵略すべくスニオン岬を迂回してファレロン沖に艦隊を展開した。しかし、アテナイ・プラタイア両軍が、ペルシャ軍の動きを察知してアテナイに移動したため、ペルシャ軍はアテナイ攻略を諦めて撤退した。
クセルクセス1世の侵略
ダレイオス1世は、直ちに再度侵攻の準備を進めたが、エジプトが反乱を起こし、また、紀元前486年 には彼自身が死んだためギリシャ出征は見送られた。王位を継いだクセルクセス1世はギリシャ遠征に乗り気ではなかったが、先の遠征の司令官を務めたマルドニオスの説得により、紀元前485年にエジプトを平定すると、ギリシャ遠征を決意した。紀元前481年、彼は王都スーサを発ち、全軍の集結地クリタラを経て小アジアのサルディスに入り、ギリシャの各ポリスに使者を送り服従を迫った。マルドニオスやメガビュゾス(Megabyzos)らに統括されたクセルクセスの遠征軍は、ヘロドトスの記述によれば528万3千以上の大軍(歩兵170万、騎兵8万、戦車部隊など2万、水軍約51万7千以上、三段櫂船1207隻、その他の戦艦、輸送船3000隻。これにヨーロッパ各地からの援軍を加えた兵数とする。実際は5万から20万の兵力と推定される)で、マケドニア、テーバイ等のポリスは従属の決定をくだしたが、アテナイ、スパルタにはペルシャ側の使者は送られなかった。
アテナイでは、ペルシャとの戦いについて預言されたデルポイの神託の解釈をめぐって論議が紛糾していたが、テミストクレスは、預言の中の「木の砦」を船と判じ、アッティカを捨てて待避するように諭した。また、彼はスパルタに働きかけてイストモスで会議を開き(紀元前480年)、ここで各ポリス間の和解と紛争終結(特にアテナイとアイギナ間の紛争処理)が宣言された。
ギリシャ側は、ペルシャ軍が来寇する数カ月前の紀元前480年5月頃にテッサリアのテンペ峡谷に約1万の兵を派遣したが、マケドニア王アレクサンドロス(Alexandros)の使者にペルシャ軍の強大さを説かれ撤退し、ギリシャ側に見放されたテッサリアはペルシャ側についた。この後、再びイストモス会議が開かれ、テルモピュライ・アルテミシオンに防衛線を築くことで合議した。同年夏、ギリシャ連合軍とペルシャ軍は両地で衝突。ギリシャ軍は防衛線からの撤退を余儀なくされ、テミストクレスの布告により、アテナイは防衛不可能とされて放棄され、住民はトロイゼン、アイギナ、サラミスに避難した。
避難する財力のない貧民(避難に際しての資金は全て自己負担である)と一部の聖職者は、アテナイのアクロポリスに籠城して対抗したが、防衛上の盲点を突かれて陥落し、アテナイは完全に占領された。アテナイ陥落の後、 テミストクレスはギリシャ海軍をまとめあげ、サラミスの海戦で地の利を生かしてサラミスに進軍してきたペルシャ海軍を破った。陸軍はアテナイを落とした後、ギリシャの総司令部のあるイストモスのポセイドン神殿に入ったが、ギリシャの防衛線に攻撃は行わず、踵を返してテッサリアからマケドニアまで退いた。クセルクセス1世はバビロニアの反乱を鎮めるため、そのまま帰国の途につき、マルドニオスがペルシャ軍の総司令官となった。
クセルクセス遠征以降
紀元前479年、マケドニアで体勢を整えたマルドニオス率いるペルシャ軍は、途上、テッサリアで兵を補充しつつ再びアテナイに入った。彼は、避難したアテナイ議会に服従を要求したが、アテナイ人は逆上し、使者を撃ち殺した。このためマルドニオスはアテナイ市街を完膚なきまでに破壊し尽くし、騎馬戦に有利なテーバイまで後退した。これに対して、スパルタ軍と他のペロポネソス諸国の連合軍は、コリントスを経てキタイロン山麓に陣を敷き、ペルシャ軍の出陣を待った。
マルドニオスは、ギリシャ軍の動揺を誘うため騎兵隊を差し向けたが、メガラ軍とアテナイ軍は指揮官マシスティオス(Masistios)を討取って戦意高揚し、全軍が山地を下ってプラタイアに進軍した。ギリシャ連合軍約11万 は、スパルタの重装歩兵陣(ファランクス)の活躍によってペルシャ軍を敗退させ、ペルシャ側の総司令官マルドニオスは戦死した(プラタイアの戦い)。ペルシャ軍はテーバイに逃げて籠城したが、アルタバゾス(Artabazos)率いる4万のペルシャ増援部隊は、プラタイアから敗走する自軍を見てテーバイを放棄し、テッサリアからマケドニアを経て、アジアに撤退した。戦いに勝利したギリシャ軍はすぐにテバイ攻略にとりかかり、ヘロドトスによれば25万7千のペルシャ、テバイ兵を殺戮した。
プラタイアの戦いと同じころ、ミュカレの戦いでギリシャ側は決定的勝利をつかみ、ペルシャ勢力を、北部はヘレスポントス(黒海)まで、南部はキプロスまで押し返した。さらに小競り合いが長く続いたが、両者ともに決定的な戦果を上げることなく、紀元前448年に和睦が成立した。
戦いの影響
戦争の当初は、エーゲ海におけるペルシャとアテナイの商業権益の問題であったが、ペルシャがギリシャ本土の完全征服を目論んだため、ヘレネス(ギリシャ)対バルバロイ(異国人)の問題としてとらえられ、一時的ではあるが、各ポリス間の調停が計られた。しかしながら、水面下では有力ポリス間の覇権争いは継続しており、特に戦後はアテナイとスパルタの権力闘争が表面化した。
イオニアからペルシャ勢力を駆逐したアテナイは、一連の戦争の中で陸軍国から強力な海軍力を擁する海上貿易国家へ成長することに成功し、アイギナを抑えてエーゲ海東海岸を勢力下に納め、全盛時代を迎えた。対ペルシャ戦争の為にアテナイ主導で締結されたデロス同盟では、各ポリスから一定の資金が軍資金として集められたが、経済的結束によって同盟関係は強化されつつも、実態としてはアテナイによるポリスの併合という側面が強かった。事実、紀元前470年頃に同盟を脱退したナクソスは、アテナイ軍に包囲されて強制的に同盟に再加入させられ、また、同盟国からの徴収金はアテナイの国庫に流用されるようになり、後には金庫そのものがアテナイに置かれアクロポリス再建にも使用された。
これに対して、ペルシャ戦争に貢献のあったスパルタなど農業中心のポリスには、戦勝による恩恵がほとんどなかった。また、アテナイがテッサリア、メガラに次いでスパルタの敵対国アルゴスとの同盟を結んだことによって両者の間に軋轢を生じ、エーゲ海交易の主導権を握られたコリントス、アイギナとともにアテナイに敵対するに至った。これが後にペロポネソス戦争へと発展していくことになる。