「防共挺身隊」の版間の差分
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*三代目を引き継いだ[[對馬則政]]は、中野会系の舎弟、山健組・健竜会系の舎弟を経て[[二代目弘道会]][[浜健組]]の舎弟となり舎弟頭に迎えられる。 |
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2010年8月25日 (水) 16:20時点における版
防共挺身隊(ぼうきょうていしんたい)は、六代目山口組二代目弘道会浜健組(政治結社高健社)傘下の右翼標榜暴力団。
概観
昭和期
- 福田素顕の長男で、大日本愛国党城南支部長を務めていた福田進(当時防共新聞社社員)と、同じ大日本愛国党本部員の浅沼美智雄(参与)、吉村法俊[1](青年行動隊長)、中堂利夫[2](『愛国新聞』編集長)、岡田尚平[3](情報宣伝局長)らによって結成された事からも自明な通り、1955年の発足当初には大日本愛国党の別動隊的、防共新聞社の青年隊的性格が強かった。
- 浅沼稲次郎暗殺事件の山口二矢も、福田進、吉村、中堂らと大日本愛国党を離党後、共に『全アジア反共青年連盟』を組織していた。当該事件の捜査過程では、殺人教唆の疑いで福田進と吉村が、赤尾敏と共に別件逮捕されている。
- 60年安保闘争への対応を期に、赤尾敏・福田素顕と、児玉誉士夫との関係が更に険悪化し、「任侠右翼」とも付き合いを保つ防共挺身隊は、「純正右翼」を標榜して侠客の介入に嫌悪感を露にした赤尾敏と福田素顕から離れ、次第に児玉一派に傾倒して行く。この一件で福田進は福田家から勘当され、防共新聞社からも破門される。
- 1963年の第30回衆議院議員総選挙には、防共挺身隊自ら確認団体として、中堂ら構成員を大量に擁立。『背番号』(肥後亨事務所)、『議会主義政治擁護国民同盟』(清水亘、杉本一夫)らと徒党を組み、革新勢力への言論封殺、選挙妨害、減票工作に狂奔する。
- 「行動右翼のパイオニア」と称し、機動隊特殊車両を摸した街宣車から、大音量の軍歌をBGMにがなり立てる街宣スタイルを確立したのは、彼ら防共挺身隊であると自任。
- 暴走族を傘下に置き、そこから隊員を勧誘。芸人になる以前のつまみ枝豆が防共挺身隊に所属していたのも、この経緯による。
- 特殊株主界でも著名。
- 菊守青年同盟・亜細亜義塾・大日本誠流社など、幾つかの行動右翼団体を派生した。
平成期
- 特定の任侠団体の配下に納まらず、国粋会の森田政治と懇意にする等、一本独鈷な立場にあった初代福田進が、昭和天皇の崩御を期に引退。
- 福田進から二代目に指名された早坂光夫は、南一家・中野会との関係を深め、引退後南一家入りしたが絶縁処分となる。
- 三代目を引き継いだ對馬則政は、中野会系の舎弟、山健組・健竜会系の舎弟を経て二代目弘道会浜健組の舎弟となり舎弟頭に迎えられる。
2009年12月8日に對馬が肝細胞ガン破裂で死亡。