「ヘッセン=カッセル方伯領」の版間の差分
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ヘッセン家の人々はわずかな例外を除き、[[宗教改革]]初期以来の敬虔な[[プロテスタント]]信徒の家系であった。[[フィリップ1世 (ヘッセン方伯)|フィリップ1世]]、[[モーリッツ (ヘッセン=カッセル方伯)|モーリッツ]]、[[ヴィルヘルム5世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム5世]]はいずれも[[フス派]]の[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]][[イジー・ス・ポジェブラト]]の血を引く女性と結婚している。また[[ヴィルヘルム6世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム6世]]以後、歴代のヘッセン=カッセル家の当主の母親は、全員が[[改革派教会|カルヴァン派]]信徒で[[オランダ独立戦争]]を指導した[[オラニエ公]][[ウィレム1世 (オラニエ公)|ウィレム1世]](沈黙公)の子孫である。 |
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ヘッセン=カッセル方伯モーリッツは[[1604年]]、嗣子のないまま死んだ叔父の[[ルートヴィヒ4世 (ヘッセン=マールブルク方伯)|ルートヴィヒ4世]]から[[ヘッセン=マールブルク方伯領]]を相続し、ヘッセン=カッセルの領域を大きく拡げた。 |
ヘッセン=カッセル方伯モーリッツは[[1604年]]、嗣子のないまま死んだ叔父の[[ルートヴィヒ4世 (ヘッセン=マールブルク方伯)|ルートヴィヒ4世]]から[[ヘッセン=マールブルク方伯領]]を相続し、ヘッセン=カッセルの領域を大きく拡げた。しかし、強引な領土相続に従弟の[[ヘッセン=ダルムシュタット方伯領|ヘッセン=ダルムシュタット方伯]][[ルートヴィヒ5世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)|ルートヴィヒ5世]]が反感を抱き、これが紛争の幕開けとなった。[[1627年]]にモーリッツが退位、領土の一部を割譲して一旦決着が着いた。 |
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[[三十年戦争]]中、カルヴァン派領邦であるヘッセン=カッセルは、ドイツ諸邦の中で最も[[スウェーデン]]に忠実な同盟者であった。 |
[[三十年戦争]]中、カルヴァン派領邦であるヘッセン=カッセルは、ドイツ諸邦の中で最も[[スウェーデン]]に忠実な同盟者であった。ヴィルヘルム5世、そして[[1637年]]にヴィルヘルム5世が死んだ後摂政となった未亡人アマーリエ・エリーザベト([[:de:Amalie Elisabeth von Hanau-Münzenberg|Amalie Elisabeth von Hanau-Münzenberg]])は、プロテスタントの大義とそれを擁護する[[フランス王国|フランス]]、スウェーデンを支持し、ヘッセン=カッセルを[[カトリック教会|カトリック]]の皇帝軍に占領されながらも、軍隊を保持して数多くの要塞で防戦を行った。ヘッセン=マールブルク方伯領の問題にも介入、ヘッセン=ダルムシュタット方伯[[ゲオルク2世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)|ゲオルク2世]]と[[ヘッセン戦争]]を起こし、[[1648年]]に改めてヘッセン=マールブルク方伯領を分割、獲得した。 |
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[[1730年]]から[[1751年]]の間、方伯[[フレドリク1世 (スウェーデン王)|フリードリヒ1世]]がスウェーデン王位にあったため、ヘッセン=カッセルとスウェーデンは[[ヘッセン王朝|人的同君連合]]の関係にあった。フリードリヒ1世は治世中スウェーデンにいたため、ヘッセン=カッセルを実際に統治していたのは弟の摂政[[ヴィルヘルム8世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム8世]]であった。 |
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1803年の[[帝国代表者会議主要決議|ドイツ領邦の陪臣化]]に伴ってドイツ諸国家が再編されていく中で、ヘッセン=カッセル方伯はヘッセン[[選帝侯]]に昇格し、時の方伯ヴィルヘルム9世は選帝侯[[ヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)|ヴィルヘルム1世]]となった。新しく成立した選帝侯領は「クーアヘッセン(Kurhessen)」の呼び名で知られたが、一般的には以前の呼称であるヘッセン=カッセルで呼ばれていた。 |
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[[1806年]]、ヴィルヘルム1世は[[プロイセン王国]]を支援した罰として[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]に領国を没収され、カッセルはナポレオンの末弟[[ジェローム・ボナパルト]]が統治する新国家[[ヴェストファーレン王国]]の首都になった。ヴィルヘルム1世はナポレオンが失脚した1813年には復位することができた。この時には既に[[神聖ローマ帝国]]が消滅していたが、ヴィルヘルム1世は選帝侯の称号のままで通し、[[ヘッセン大公国|ヘッセン大公]]の称号を得た分家筋のヘッセン=ダルムシュタット方伯の下位に甘んじた。[[1815年]]以後、ヘッセン選帝侯領は[[ドイツ連邦]]に参加した。 |
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ヘッセン選帝侯[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]は[[普墺戦争]]で敗者の[[オーストリア帝国]]の側につき、ヘッセン選帝侯領は1866年にプロイセンに併合された。ヘッセン選帝侯領は同時にプロイセンに併合された[[ナッサウ公国]]、[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト自由市]]とともにプロイセン領ヘッセン=ナッサウ県を構成した。 |
ヘッセン選帝侯[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]は[[普墺戦争]]で敗者の[[オーストリア帝国]]の側につき、ヘッセン選帝侯領は1866年にプロイセンに併合された。ヘッセン選帝侯領は同時にプロイセンに併合された[[ナッサウ公国]]、[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト自由市]]とともにプロイセン領ヘッセン=ナッサウ県を構成した。 |
2010年9月13日 (月) 02:55時点における版
ヘッセン=カッセル方伯領(Landgrafschaft Hessen-Kassel)は、神聖ローマ帝国の領邦国家。1567年のヘッセン方伯フィリップ1世の死に伴うヘッセン方伯領の分割相続によって成立した。フィリップ1世の長男ヴィルヘルム4世がヘッセン方伯領の北半地域を相続分として確保し、首都をカッセルに置いたためこの名称で呼ばれる。ヴィルヘルム4世の3人の弟達はそれぞれヘッセン=マールブルク、ヘッセン=ラインフェルス(Hessen-Rheinfels)、ヘッセン=ダルムシュタットの3つの方伯領を創設している。
ヘッセン=カッセル方伯領は1803年にヘッセン選帝侯領(Kurfürstentum Hessen)に陞格した。しかし選帝侯領はナポレオン戦争中にフランス軍に占領され、その領土はフランスの衛星国であるヴェストファーレン王国に組み込まれた。ヘッセン選帝侯は1813年にその地位と領土を回復し、ドイツ連邦に加盟した。普墺戦争後の1866年にヘッセン選帝侯領はプロイセン王国に併合され、ヘッセン=ナッサウ県 (en) を構成した。
歴史
ヘッセン家の人々はわずかな例外を除き、宗教改革初期以来の敬虔なプロテスタント信徒の家系であった。フィリップ1世、モーリッツ、ヴィルヘルム5世はいずれもフス派のボヘミア王イジー・ス・ポジェブラトの血を引く女性と結婚している。またヴィルヘルム6世以後、歴代のヘッセン=カッセル家の当主の母親は、全員がカルヴァン派信徒でオランダ独立戦争を指導したオラニエ公ウィレム1世(沈黙公)の子孫である。
ヘッセン=カッセル方伯モーリッツは1604年、嗣子のないまま死んだ叔父のルートヴィヒ4世からヘッセン=マールブルク方伯領を相続し、ヘッセン=カッセルの領域を大きく拡げた。しかし、強引な領土相続に従弟のヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ5世が反感を抱き、これが紛争の幕開けとなった。1627年にモーリッツが退位、領土の一部を割譲して一旦決着が着いた。
三十年戦争中、カルヴァン派領邦であるヘッセン=カッセルは、ドイツ諸邦の中で最もスウェーデンに忠実な同盟者であった。ヴィルヘルム5世、そして1637年にヴィルヘルム5世が死んだ後摂政となった未亡人アマーリエ・エリーザベト(Amalie Elisabeth von Hanau-Münzenberg)は、プロテスタントの大義とそれを擁護するフランス、スウェーデンを支持し、ヘッセン=カッセルをカトリックの皇帝軍に占領されながらも、軍隊を保持して数多くの要塞で防戦を行った。ヘッセン=マールブルク方伯領の問題にも介入、ヘッセン=ダルムシュタット方伯ゲオルク2世とヘッセン戦争を起こし、1648年に改めてヘッセン=マールブルク方伯領を分割、獲得した。
1730年から1751年の間、方伯フリードリヒ1世がスウェーデン王位にあったため、ヘッセン=カッセルとスウェーデンは人的同君連合の関係にあった。フリードリヒ1世は治世中スウェーデンにいたため、ヘッセン=カッセルを実際に統治していたのは弟の摂政ヴィルヘルム8世であった。
ドイツ諸侯が他の諸侯に自分の軍隊を貸与することは一般的な慣習だったにもかかわらず、17・18世紀のヘッセン=カッセル方伯は自分の軍隊を傭兵として貸し出すことで悪名を高くした。18世紀を通じ、ヘッセン=カッセルの人口の7%以上が軍務に就いていた。ヘッセン=カッセル方伯の軍隊は他のヨーロッパ諸国の傭兵市場の供給源となっていた。方伯フリードリヒ2世は、義理の甥にあたるイギリス王ジョージ3世にアメリカ独立戦争に投入するためのヘッセン=カッセル傭兵軍を貸し出したことで有名である。このためアメリカ人はイギリス政府に雇われたドイツ人傭兵たちを「ヘシアン(Hessian)」 (en) と呼ぶようになった。フリードリヒ2世はイギリス政府に傭兵を貸与して得た報酬で豪勢な暮らしを送った。
17世紀中、分割相続制の伝統を維持するヘッセン=カッセルには領邦内にいくつかの分領が成立したが、これらの分領は独立した領邦ではなかった。
- ヘッセン=ローテンブルク (en)
- ヘッセン=ヴァンフリート (en)
- ヘッセン=フィリップスタール(Hessen-Philippsthal)
- ヘッセン=フィリップスタール=バルヒフェルト(Hessen-Philippsthal-Barchfeld)
こうした分領は相続人が絶えると、本家のヘッセン=カッセル方伯領に回収された。しかしヘッセン選帝侯領の消滅する1866年まで存続した分領も存在した。
1803年のドイツ領邦の陪臣化に伴ってドイツ諸国家が再編されていく中で、ヘッセン=カッセル方伯はヘッセン選帝侯に昇格し、時の方伯ヴィルヘルム9世は選帝侯ヴィルヘルム1世となった。新しく成立した選帝侯領は「クーアヘッセン(Kurhessen)」の呼び名で知られたが、一般的には以前の呼称であるヘッセン=カッセルで呼ばれていた。
1806年、ヴィルヘルム1世はプロイセン王国を支援した罰としてナポレオンに領国を没収され、カッセルはナポレオンの末弟ジェローム・ボナパルトが統治する新国家ヴェストファーレン王国の首都になった。ヴィルヘルム1世はナポレオンが失脚した1813年には復位することができた。この時には既に神聖ローマ帝国が消滅していたが、ヴィルヘルム1世は選帝侯の称号のままで通し、ヘッセン大公の称号を得た分家筋のヘッセン=ダルムシュタット方伯の下位に甘んじた。1815年以後、ヘッセン選帝侯領はドイツ連邦に参加した。
ヘッセン選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は普墺戦争で敗者のオーストリア帝国の側につき、ヘッセン選帝侯領は1866年にプロイセンに併合された。ヘッセン選帝侯領は同時にプロイセンに併合されたナッサウ公国、フランクフルト自由市とともにプロイセン領ヘッセン=ナッサウ県を構成した。
1918年、ヘッセン=カッセル方伯家の一員でドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の義弟であるヘッセン=ルンペンハイム家(Hessen-Rumpenheim)のフリードリヒ・カールは、親独的なフィンランド政府の下でフィンランド王に選出されたが、実際に統治することは叶わなかった。
同じ1918年、ドイツの共和制移行に伴ってヘッセン=カッセルはプロイセン自由州となった。1944年から1945年の短い期間、ナチス・ドイツ政府はプロイセン州を細かく分割し、旧ヘッセン=カッセル地域をクーアヘッセン県 (en) としていた。1946年より、ヘッセン=カッセルはドイツ連邦共和国のヘッセン州の一部になった。
1968年にヘッセン=ダルムシュタット家が断絶すると、ヘッセン=カッセル家家長はヘッセン家全体の家長となった。
ヘッセン=カッセル方伯
- ヴィルヘルム4世(在位:1568年 - 1592年)
- モーリッツ(在位:1592年 - 1627年)
- ヴィルヘルム5世(在位:1627年 - 1637年)
- ヴィルヘルム6世(在位:1637年 - 1663年)
- ヴィルヘルム7世(在位:1663年 - 1670年)
- カール(在位:1670年 - 1730年)
- フリードリヒ1世(在位:1730年 - 1751年、スウェーデン王フレドリク1世)
- ヴィルヘルム8世(在位:1751年 - 1760年)
- フリードリヒ2世(在位:1760年 - 1785年)
- ヴィルヘルム9世(在位:1785年 - 1821年、1803年よりヘッセン選帝侯フリードリヒ1世)