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'''機甲師団'''(きこうしだん)とは、[[戦車]]部隊を中心に、戦車に随伴できるよう[[自動車]]化・機械化された[[歩兵]]部隊や[[工兵]]・[[砲兵]]・[[偵察]]・通信などの諸[[兵科]]の部隊で組織された[[師団]]のこと。現代の陸軍の主力部隊である。'''装甲師団'''(そうこう |
'''機甲師団'''(きこうしだん)とは、[[戦車]]部隊を中心に、戦車に随伴できるよう[[自動車]]化・機械化された[[歩兵]]部隊や[[工兵]]・[[砲兵]]・[[偵察]]・通信などの諸[[兵科]]の部隊で組織された[[師団]]のこと。現代の陸軍の主力部隊である。'''装甲師団'''(そうこうしだん)・'''戦車師団'''(せんしゃしだん)とも呼ばれる。(なお、装甲師団は独語 Panzer-division の訳として、慣用的に[[ドイツ軍]]部隊に対する訳語として使用されることが多い。) |
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== 機甲師団の特徴 == |
== 機甲師団の特徴 == |
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*偵察部隊:部隊に先行し、索敵・地形などの情報収集に当たる。 |
*偵察部隊:部隊に先行し、索敵・地形などの情報収集に当たる。 |
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*通信部隊:無線通信による各部隊間の連携を助ける。 |
*通信部隊:無線通信による各部隊間の連携を助ける。 |
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<!-- ここで「自動車化」と決めつけて書くべきではないと思う。「機械化」も考慮すべき。ドイツなら装甲xxの訳語が使われることが多いし--> |
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==機甲師団の誕生== |
==機甲師団の誕生== |
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大戦終了後、各国の軍人(イギリスのJ・F・C・フラー、フランスの[[シャルル・ド・ゴール]]、ドイツの[[ハインツ・グデーリアン|ハインツ・グーデリアン]]、ソ連のトハチェフスキーなど)・軍事研究家(イギリスの[[リデル・ハート]]など)が歩兵ではなく、戦車を主戦力とした部隊の構想を着想した。戦車を主力とし、歩兵をその支援にまわすことで、機動力と打撃力がある部隊が構成でき、それが軍としての理想形だと考えた。 |
大戦終了後、各国の軍人(イギリスのJ・F・C・フラー、フランスの[[シャルル・ド・ゴール]]、ドイツの[[ハインツ・グデーリアン|ハインツ・グーデリアン]]、ソ連のトハチェフスキーなど)・軍事研究家(イギリスの[[リデル・ハート]]など)が歩兵ではなく、戦車を主戦力とした部隊の構想を着想した。戦車を主力とし、歩兵をその支援にまわすことで、機動力と打撃力がある部隊が構成でき、それが軍としての理想形だと考えた。 |
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だが、フランスでは要塞[[マジノ線]]の建設に軍事費の多くを費やし、軍幹部は歩兵が軍の主力と考えたため、ド・ゴールの意見は採用されなかった。イギリス |
だが、フランスでは要塞[[マジノ線]]の建設に軍事費の多くを費やし、軍幹部は歩兵が軍の主力と考えたため、ド・ゴールの意見は採用されなかった。イギリス・ソ連での実際に行われた機甲師団の実験も、イギリスでは軍縮政策で、ソ連では[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]が「機械化は人間軽視の[[ブルジョワ]]の兵学である」として[[赤軍]]粛清の際、トハチェフスキーら機械化を進めた将校を処刑・追放したことで、頓挫してしまう。 |
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ドイツも[[ヴェルサイユ条約]]の厳しい軍事規定により、表立って実験することは不可能であったが、張りぼての戦車や「農業用トラクター」と詐称し開発された[[1号戦車|I号戦車]]を利用し、秘密裏に演習を行った。[[アドルフ・ヒトラー]]による支援もあり、機甲師団を最初に編成したのは、[[ドイツ再軍備宣言]]後の[[ドイツ国防軍]]であった。1935年10月15日に第1から第3の三個装甲師団が編成されたのが最初である。 |
ドイツも[[ヴェルサイユ条約]]の厳しい軍事規定により、表立って実験することは不可能であったが、張りぼての戦車や「農業用トラクター」と詐称し開発された[[1号戦車|I号戦車]]を利用し、秘密裏に演習を行った。[[アドルフ・ヒトラー]]による支援もあり、機甲師団を最初に編成したのは、[[ドイツ再軍備宣言]]後の[[ドイツ国防軍]]であった。1935年10月15日に第1から第3の三個装甲師団が編成されたのが最初である。 |
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しかし、戦車では後進国であったアメリカが、生産力に物を言わせて連合軍に武器供与([[レンドリース]])を本格化しはじめ、イギリスが機甲師団を増強し始めた。ソ連もアメリカ・イギリスからの武器供与だけでなく、シベリアや疎開させた工場で[[T-34]]などのドイツより優秀な戦車の大量生産を始めた。特にアメリカの戦車は、戦車単体の性能は高くないものの、その生産量は莫大であり、機械的信頼性も高かった。1942年以降、戦争は機甲師団同士の戦闘が多くなり、生産力に劣るドイツは劣勢に立たされた。 |
しかし、戦車では後進国であったアメリカが、生産力に物を言わせて連合軍に武器供与([[レンドリース]])を本格化しはじめ、イギリスが機甲師団を増強し始めた。ソ連もアメリカ・イギリスからの武器供与だけでなく、シベリアや疎開させた工場で[[T-34]]などのドイツより優秀な戦車の大量生産を始めた。特にアメリカの戦車は、戦車単体の性能は高くないものの、その生産量は莫大であり、機械的信頼性も高かった。1942年以降、戦争は機甲師団同士の戦闘が多くなり、生産力に劣るドイツは劣勢に立たされた。 |
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1942年末の、北アフリカでの[[エル・アラメインの戦い]]とソ連での[[スターリングラード攻防戦]]の大敗北以後、ドイツは防戦一方となる。もとより空軍の支援を前提としたドイツ軍の攻撃は制空権を失ったことにより、その威力を失った。欧州は制空権を失ったことによりイギリス・ソ連、さらにはアメリカ・フランス亡命政府の機甲部隊が大活躍する舞台へと一変した。 |
1942年末の、北アフリカでの[[エル・アラメインの戦い]]とソ連での[[スターリングラード攻防戦]]の大敗北以後、ドイツは防戦一方となる。もとより空軍の支援を前提としたドイツ軍の攻撃は制空権を失ったことにより、その威力を失った。欧州は制空権を失ったことによりイギリス・ソ連、さらにはアメリカ・フランス亡命政府の機甲部隊が大活躍する舞台へと一変した。 |
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==大戦中の各国機甲師団の装備・編成の変遷== |
==大戦中の各国機甲師団の装備・編成の変遷== |
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===大戦中のドイツ装甲師団の装備・編成の変遷=== |
===大戦中のドイツ装甲師団の装備・編成の変遷=== |
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「再軍備」が全く進まないうちに第二次世界大戦に突入したため、大戦中常に戦車の質・量の不足に悩まされたが、先駆国だけに各兵科を組み合わせた部隊運用の妙で健闘した。 |
「再軍備」が全く進まないうちに第二次世界大戦に突入したため、大戦中常に戦車の質・量の不足に悩まされたが、先駆国だけに各兵科を組み合わせた部隊運用の妙で健闘した。 |
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====装甲師団の誕生(1935年頃から)==== |
====装甲師団の誕生(1935年頃から)==== |
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*1935年10月15日に編成された第1から第3の三個装甲師団は、それぞれ二個戦車連隊(各二個大隊編成)からなる一個装甲旅団及び一個 |
*1935年10月15日に編成された第1から第3の三個装甲師団は、それぞれ二個戦車連隊(各二個大隊編成)からなる一個装甲旅団及び一個狙撃兵連隊と一個オートバイ狙撃兵大隊からなる一個狙撃兵旅団を基幹として編成されていた(装甲部隊に付属する自動車化された歩兵を当時のドイツ軍では狙撃兵と呼んだ)。その他の部隊として、自動車化砲兵連隊・偵察大隊・対戦車大隊等が編成に含まれていた。 |
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*更に第4装甲師団が1938年11月10日、第5装甲師団が同24日に編成された。 |
*更に第4装甲師団が1938年11月10日、第5装甲師団が同24日に編成された。 |
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*1938年には戦車部隊と自動車化された騎兵部隊と組み合わせて、準装甲師団ともいえる第1から第4の軽師団が編成された。 |
*1938年には戦車部隊と自動車化された騎兵部隊と組み合わせて、準装甲師団ともいえる第1から第4の軽師団が編成された。 |
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====[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]時(1940年頃)==== |
====[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]時(1940年頃)==== |
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*第1から第10の10個装甲師団が編成されていた。中途半端な戦力と判断された軽師団は装甲師団へと改編され姿を消していた。 |
*第1から第10の10個装甲師団が編成されていた。中途半端な戦力と判断された軽師団は装甲師団へと改編され姿を消していた。 |
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*各装甲師団の編成にはばらつきがあり、装甲旅団を持たずに1個戦車連隊+1個大隊編成の師団も存在した。第9装甲師団に至っては1個戦車連隊のみ配属されていた。 |
*各装甲師団の編成にはばらつきがあり、装甲旅団を持たずに1個戦車連隊+1個大隊編成の師団も存在した。第9装甲師団に至っては1個戦車連隊のみ配属されていた。狙撃兵旅団の編成も統一されていなかった。 |
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:*第1から第3装甲師団 - 1個装甲旅団(2個戦車連隊)・1個 |
:*第1から第3装甲師団 - 1個装甲旅団(2個戦車連隊)・1個狙撃兵旅団(1個狙撃兵連隊(3個大隊編成)・1個オートバイ狙撃兵大隊) |
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:*第4、第5、第10装甲師団 - 1個装甲旅団(2個戦車連隊)・1個 |
:*第4、第5、第10装甲師団 - 1個装甲旅団(2個戦車連隊)・1個狙撃兵旅団(2個狙撃兵連隊(各2個大隊編成)) |
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:*第6、第8装甲師団 - 1個戦車連隊+1個戦車大隊・1個 |
:*第6、第8装甲師団 - 1個戦車連隊+1個戦車大隊・1個狙撃兵旅団(1個狙撃兵連隊(3個大隊編成)・1個オートバイ狙撃兵大隊) |
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:*第7装甲師団 - 1個戦車連隊+1個戦車大隊・1個 |
:*第7装甲師団 - 1個戦車連隊+1個戦車大隊・1個狙撃兵旅団(2個狙撃兵連隊(各2個大隊編成)・1個オートバイ狙撃兵大隊) |
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:*第9装甲師団 - 1個戦車連隊・1個 |
:*第9装甲師団 - 1個戦車連隊・1個狙撃兵旅団(2個狙撃兵連隊(各2個大隊編成))・1個オートバイ狙撃兵大隊 |
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*III号戦車・IV号戦車の配備が進んだが、装甲師団の数も増えたため、新設の一部装甲師団にはIII号戦車は配備されず、35(t)戦車(第6装甲師団)・38(t)戦車(第7及び第8装甲師団)で埋め合わされた。<!---アラスで連合軍の戦車隊の攻撃を受けると、装甲の厚いイギリス[[歩兵戦車]]の前にはドイツ軍戦車は無力であることが露呈した。---> |
*III号戦車・IV号戦車の配備が進んだが、装甲師団の数も増えたため、新設の一部装甲師団にはIII号戦車は配備されず、35(t)戦車(第6装甲師団)・38(t)戦車(第7及び第8装甲師団)で埋め合わされた。<!---アラスで連合軍の戦車隊の攻撃を受けると、装甲の厚いイギリス[[歩兵戦車]]の前にはドイツ軍戦車は無力であることが露呈した。---> |
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*6個装甲師団の |
*6個装甲師団の狙撃兵連隊に直接支援火力としてI号戦車改造の自走歩兵砲が配備された。 |
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====[[バルバロッサ作戦]]時(1941年頃)==== |
====[[バルバロッサ作戦]]時(1941年頃)==== |
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*フランス戦終了後から独ソ戦開戦までに第11から第20の10個装甲師団が新たに編成された。それ以降の1941年中に第21から第24、1942年中に第25から第27装甲師団が編成された。 |
*フランス戦終了後から独ソ戦開戦までに第11から第20の10個装甲師団が新たに編成された。それ以降の1941年中に第21から第24、1942年中に第25から第27装甲師団が編成された。 |
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*装甲師団は基本的に1個戦車連隊及び |
*装甲師団は基本的に1個戦車連隊及び1個狙撃兵旅団(2個狙撃兵連隊・1個オートバイ狙撃兵大隊)を基幹として構成されるようになった。しかし戦車大隊数等各師団の編成には、まだばらつきが多かった。 |
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*III号戦車・IV号戦車の配備がさらに進んだにもかかわらず、ヒトラーの指示で装甲師団が倍増されたため、相変わらず豆戦車・軽戦車で水増しされていた。ただ、数の上ではIII号戦車が主力といえる状態にはなっていた。 |
*III号戦車・IV号戦車の配備がさらに進んだにもかかわらず、ヒトラーの指示で装甲師団が倍増されたため、相変わらず豆戦車・軽戦車で水増しされていた。ただ、数の上ではIII号戦車が主力といえる状態にはなっていた。 |
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*ソ連戦車師団は再建途上で、[[T-28]]軽戦車・[[BT快速戦車]]など旧式戦車が多く大局的には勝利したが、[[T-34]]中戦車・KV系重戦車の前には、IV号戦車でも無力であることが露呈した。 |
*ソ連戦車師団は再建途上で、[[T-28]]軽戦車・[[BT快速戦車]]など旧式戦車が多く大局的には勝利したが、[[T-34]]中戦車・KV系重戦車の前には、IV号戦車でも無力であることが露呈した。 |
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====大戦中盤(1943年頃)==== |
====大戦中盤(1943年頃)==== |
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従来に比較して定型化された1943年型と呼ばれる師団編成が規定された。2個大隊からなる1個戦車連隊及び2個装甲擲弾兵 |
従来に比較して定型化された1943年型と呼ばれる師団編成が規定された。2個大隊からなる1個戦車連隊及び2個装甲擲弾兵連隊が基幹となった(この頃からドイツ軍では歩兵のことを擲弾兵と呼ぶようになり、装甲部隊に付属する歩兵部隊は装甲擲弾兵と呼ばれるようになった)。その他の支援部隊は装甲砲兵連隊・装甲偵察大隊・戦車駆逐大隊・装甲工兵大隊・高射砲大隊等であった。ただし師団によっては一部の支援部隊を持たないケースも見られた。 |
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[[武装親衛隊]]においても名実共に装甲師団が編成されるようになった(従来は内容は装甲師団同様でも装甲擲弾兵師団と呼ばれていた)。国防軍の装甲師団と比較して、装甲擲弾兵連隊が3個大隊編成であることが主な相違点である。1943年10月22日付けで第1SS・第2SS・第3SS・第5SS・第9SS・第10SS、第12SSの装甲擲弾兵師団が装甲師団に改称されている。 |
[[武装親衛隊]]においても名実共に装甲師団が編成されるようになった(従来は内容は装甲師団同様でも装甲擲弾兵師団と呼ばれていた)。国防軍の装甲師団と比較して、装甲擲弾兵連隊が3個大隊編成であることが主な相違点である。1943年10月22日付けで第1SS・第2SS・第3SS・第5SS・第9SS・第10SS、第12SSの装甲擲弾兵師団が装甲師団に改称されている。 |
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*生産が始まった[[5号戦車|パンター戦車]]は装甲師団の主力として各戦車連隊の第1大隊に配備されることとなったが全ての師団において改編が行われたわけではなかった。III号戦車に代わって主力戦車となっていた IV号戦車は第2大隊に配備されることになった。 |
*生産が始まった[[5号戦車|パンター戦車]]は装甲師団の主力として各戦車連隊の第1大隊に配備されることとなったが全ての師団において改編が行われたわけではなかった。III号戦車に代わって主力戦車となっていた IV号戦車は第2大隊に配備されることになった。 |
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*II号戦車や38(t)などの戦車としては使用に耐えない車輌は[[自走砲]]に改造され、長砲身化された[[突撃砲]]と共に戦車駆逐部隊が組織された。III号戦車の車台は突撃砲用としてのみ生産が続けられた。 |
*II号戦車や38(t)などの戦車としては使用に耐えない車輌は[[自走砲]]に改造され、長砲身化された[[突撃砲]]と共に戦車駆逐部隊が組織された。III号戦車の車台は突撃砲用としてのみ生産が続けられた。 |
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*フンメル・ヴェスペの実用化に伴い、砲兵部隊の一部が自走砲に変わった。 |
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*ソ連軍との戦闘で大損害を受け、戦力を失っていた第22装甲師団は1943年4月6日、第27装甲師団は1943年2月9日にそれぞれ解隊された。 |
*ソ連軍との戦闘で大損害を受け、戦力を失っていた第22装甲師団は1943年4月6日、第27装甲師団は1943年2月9日にそれぞれ解隊された。 |
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*アフリカで壊滅した第21装甲師団が1943年7月15日に再編された。なお同じくアフリカで壊滅した第10装甲師団は再編されず、第15装甲師団は第15装甲擲弾兵師団として再編された。 |
*アフリカで壊滅した第21装甲師団が1943年7月15日に再編された。なお同じくアフリカで壊滅した第10装甲師団は再編されず、第15装甲師団は第15装甲擲弾兵師団として再編された。 |
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*1940年12月1日にイギリス本土にて第9機甲師団が編成された。 |
*1940年12月1日にイギリス本土にて第9機甲師団が編成された。 |
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*1941年3月9日にイギリス本土にて第11機甲師団が編成された。 |
*1941年3月9日にイギリス本土にて第11機甲師団が編成された。 |
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*リビアにてドイツ軍により |
*リビアにてドイツ軍の攻撃により師団司令部が壊滅した第2機甲師団は1941年5月10日にエジプトにて解隊された。 |
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*1941年6月17日にイギリス本土にて近衛機甲師団が編成された。 |
*1941年6月17日にイギリス本土にて近衛機甲師団が編成された。 |
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*1941年8月1日に中東にて第10機甲師団が編成された。 |
*1941年8月1日に中東にて第10機甲師団が編成された。 |
2006年1月2日 (月) 13:55時点における版
機甲師団(きこうしだん)とは、戦車部隊を中心に、戦車に随伴できるよう自動車化・機械化された歩兵部隊や工兵・砲兵・偵察・通信などの諸兵科の部隊で組織された師団のこと。現代の陸軍の主力部隊である。装甲師団(そうこうしだん)・戦車師団(せんしゃしだん)とも呼ばれる。(なお、装甲師団は独語 Panzer-division の訳として、慣用的にドイツ軍部隊に対する訳語として使用されることが多い。)
機甲師団の特徴
機甲師団の特徴は戦車部隊を主力としていることにある。他の部隊は戦車部隊を支援するためにあり、戦車の移動速度に追随するために自動車化・機械化されている。その規模、内容は、国や時期により大きく異なるが、2~4個の連隊または旅団から構成され、人員規模は1~3万人、戦車の数は数十両~数百両である。
機甲師団の各兵科の役割
- 師団司令部:前線の作戦立案・実施の指示のほか、後方の補給・医療の手配も行う。
- 戦車部隊:機甲師団の主力で、戦線を突破し、後方の拠点へ進撃する重要な役割を担う。部隊本部は長距離無線通信機で、空軍との連絡を行う。
- 歩兵部隊:戦車隊の突破口を広げ、敵陣地や都市を側面・後方から攻撃し制圧する。万が一に備え、後方の防衛も担う。
- 工兵部隊:架橋装置・渡河用ボート・地雷探知機などを装備し、部隊の迅速な前進を助ける。必要なら、前線に出て、爆薬で鉄条網やトーチカを破壊したり、携帯火器で塹壕などに潜む敵の攻撃をも行う。
- 砲兵部隊:榴弾砲は戦車隊突入前の準備射撃(前線には着弾の観測部隊がおり、砲撃指示を与える)、対空部隊は敵航空機の迎撃に当たる。
- 偵察部隊:部隊に先行し、索敵・地形などの情報収集に当たる。
- 通信部隊:無線通信による各部隊間の連携を助ける。
機甲師団の誕生
戦車の登場は第一次世界大戦中のことであり、塹壕戦突破などが主目的であった。始めは歩兵部隊の支援として、歩兵に従属する形で各車が分散される形で用いられた。
大戦終了後、各国の軍人(イギリスのJ・F・C・フラー、フランスのシャルル・ド・ゴール、ドイツのハインツ・グーデリアン、ソ連のトハチェフスキーなど)・軍事研究家(イギリスのリデル・ハートなど)が歩兵ではなく、戦車を主戦力とした部隊の構想を着想した。戦車を主力とし、歩兵をその支援にまわすことで、機動力と打撃力がある部隊が構成でき、それが軍としての理想形だと考えた。
だが、フランスでは要塞マジノ線の建設に軍事費の多くを費やし、軍幹部は歩兵が軍の主力と考えたため、ド・ゴールの意見は採用されなかった。イギリス・ソ連での実際に行われた機甲師団の実験も、イギリスでは軍縮政策で、ソ連ではスターリンが「機械化は人間軽視のブルジョワの兵学である」として赤軍粛清の際、トハチェフスキーら機械化を進めた将校を処刑・追放したことで、頓挫してしまう。
ドイツもヴェルサイユ条約の厳しい軍事規定により、表立って実験することは不可能であったが、張りぼての戦車や「農業用トラクター」と詐称し開発されたI号戦車を利用し、秘密裏に演習を行った。アドルフ・ヒトラーによる支援もあり、機甲師団を最初に編成したのは、ドイツ再軍備宣言後のドイツ国防軍であった。1935年10月15日に第1から第3の三個装甲師団が編成されたのが最初である。
第二次世界大戦における機甲師団の活躍
ドイツ機甲師団は、戦車の数ではドイツに勝るが機甲師団はほとんどない連合軍を戦車運用力の差で破った(電撃戦)。独ソ戦でも再建途上のソ連戦車師団を破った。
しかし、戦車では後進国であったアメリカが、生産力に物を言わせて連合軍に武器供与(レンドリース)を本格化しはじめ、イギリスが機甲師団を増強し始めた。ソ連もアメリカ・イギリスからの武器供与だけでなく、シベリアや疎開させた工場でT-34などのドイツより優秀な戦車の大量生産を始めた。特にアメリカの戦車は、戦車単体の性能は高くないものの、その生産量は莫大であり、機械的信頼性も高かった。1942年以降、戦争は機甲師団同士の戦闘が多くなり、生産力に劣るドイツは劣勢に立たされた。
1942年末の、北アフリカでのエル・アラメインの戦いとソ連でのスターリングラード攻防戦の大敗北以後、ドイツは防戦一方となる。もとより空軍の支援を前提としたドイツ軍の攻撃は制空権を失ったことにより、その威力を失った。欧州は制空権を失ったことによりイギリス・ソ連、さらにはアメリカ・フランス亡命政府の機甲部隊が大活躍する舞台へと一変した。
大戦中の各国機甲師団の装備・編成の変遷
大戦中のドイツ装甲師団の装備・編成の変遷
「再軍備」が全く進まないうちに第二次世界大戦に突入したため、大戦中常に戦車の質・量の不足に悩まされたが、先駆国だけに各兵科を組み合わせた部隊運用の妙で健闘した。
装甲師団の誕生(1935年頃から)
- 1935年10月15日に編成された第1から第3の三個装甲師団は、それぞれ二個戦車連隊(各二個大隊編成)からなる一個装甲旅団及び一個狙撃兵連隊と一個オートバイ狙撃兵大隊からなる一個狙撃兵旅団を基幹として編成されていた(装甲部隊に付属する自動車化された歩兵を当時のドイツ軍では狙撃兵と呼んだ)。その他の部隊として、自動車化砲兵連隊・偵察大隊・対戦車大隊等が編成に含まれていた。
- 更に第4装甲師団が1938年11月10日、第5装甲師団が同24日に編成された。
- 1938年には戦車部隊と自動車化された騎兵部隊と組み合わせて、準装甲師団ともいえる第1から第4の軽師団が編成された。
ポーランド侵攻時(1939年頃)
- 1939年4月1日に第10装甲師団が編成され、第二次世界大戦開戦時には装甲戦力として第1から第5及び第10の6個装甲師団及び第1から第4の4個軽師団が存在していた。
- 当時のドイツ軍が保有していた戦車は約3,000両。うち、中戦車であるIII号戦車は100両以下、IV号戦車も200両程度で、戦車大隊本部と4個中隊中1個中隊に優先的に配分され、残りの3個中隊は全て本来訓練用で機関銃と機関砲が主砲の豆戦車に近いI号戦車・II号戦車で構成されていた。チェコスロバキアで接収されていた35(t)・38(t)軽戦車約300両で補完された。しかし、この編成も机上の話で、1個装甲師団辺り16個中隊あるはずが、実際には12個中隊(充足率75%)しか編成できず、実際に大隊の下に置かれた中隊は3個であった。
- 質・量共に戦車隊には問題が多かったが、ポーランドの機動戦力の主力は騎兵と豆戦車であり、十分対抗できた。新戦術電撃戦も成功し、ワルシャワ周辺の要塞も陥落させるなど、大戦果を挙げた。
- 砲兵部隊の大砲は、全て牽引式であった。
ナチス・ドイツのフランス侵攻時(1940年頃)
- 第1から第10の10個装甲師団が編成されていた。中途半端な戦力と判断された軽師団は装甲師団へと改編され姿を消していた。
- 各装甲師団の編成にはばらつきがあり、装甲旅団を持たずに1個戦車連隊+1個大隊編成の師団も存在した。第9装甲師団に至っては1個戦車連隊のみ配属されていた。狙撃兵旅団の編成も統一されていなかった。
- 第1から第3装甲師団 - 1個装甲旅団(2個戦車連隊)・1個狙撃兵旅団(1個狙撃兵連隊(3個大隊編成)・1個オートバイ狙撃兵大隊)
- 第4、第5、第10装甲師団 - 1個装甲旅団(2個戦車連隊)・1個狙撃兵旅団(2個狙撃兵連隊(各2個大隊編成))
- 第6、第8装甲師団 - 1個戦車連隊+1個戦車大隊・1個狙撃兵旅団(1個狙撃兵連隊(3個大隊編成)・1個オートバイ狙撃兵大隊)
- 第7装甲師団 - 1個戦車連隊+1個戦車大隊・1個狙撃兵旅団(2個狙撃兵連隊(各2個大隊編成)・1個オートバイ狙撃兵大隊)
- 第9装甲師団 - 1個戦車連隊・1個狙撃兵旅団(2個狙撃兵連隊(各2個大隊編成))・1個オートバイ狙撃兵大隊
- III号戦車・IV号戦車の配備が進んだが、装甲師団の数も増えたため、新設の一部装甲師団にはIII号戦車は配備されず、35(t)戦車(第6装甲師団)・38(t)戦車(第7及び第8装甲師団)で埋め合わされた。
- 6個装甲師団の狙撃兵連隊に直接支援火力としてI号戦車改造の自走歩兵砲が配備された。
バルバロッサ作戦時(1941年頃)
- フランス戦終了後から独ソ戦開戦までに第11から第20の10個装甲師団が新たに編成された。それ以降の1941年中に第21から第24、1942年中に第25から第27装甲師団が編成された。
- 装甲師団は基本的に1個戦車連隊及び1個狙撃兵旅団(2個狙撃兵連隊・1個オートバイ狙撃兵大隊)を基幹として構成されるようになった。しかし戦車大隊数等各師団の編成には、まだばらつきが多かった。
- III号戦車・IV号戦車の配備がさらに進んだにもかかわらず、ヒトラーの指示で装甲師団が倍増されたため、相変わらず豆戦車・軽戦車で水増しされていた。ただ、数の上ではIII号戦車が主力といえる状態にはなっていた。
- ソ連戦車師団は再建途上で、T-28軽戦車・BT快速戦車など旧式戦車が多く大局的には勝利したが、T-34中戦車・KV系重戦車の前には、IV号戦車でも無力であることが露呈した。
北アフリカ戦線
- 「ドイツアフリカ軍団」として1個戦車連隊を中核とする第5軽師団(後に第21装甲師団へ改編)が投入され、後に第15装甲師団が投入されたが、上記の水増し装甲師団であり、内実はお粗末で、イタリア軍のアリエテ戦車師団を指揮下に置くことで補完していた
- ドイツの主戦場はあくまでソ連であり、ソ連では戦力として通用しない旧式戦車が回されてきたため、I号戦車に火炎放射器を載せるなど、現地改造が頻繁に行われた。
- チュニジアに追い詰められた後、アフリカ装甲軍に改組された。この時期に第10装甲師団が新たに送り込まれている。VI号戦車も実戦投入された。
- アフリカに送り込まれた3個装甲師団は結局チュニジアで壊滅した。
大戦中盤(1943年頃)
従来に比較して定型化された1943年型と呼ばれる師団編成が規定された。2個大隊からなる1個戦車連隊及び2個装甲擲弾兵連隊が基幹となった(この頃からドイツ軍では歩兵のことを擲弾兵と呼ぶようになり、装甲部隊に付属する歩兵部隊は装甲擲弾兵と呼ばれるようになった)。その他の支援部隊は装甲砲兵連隊・装甲偵察大隊・戦車駆逐大隊・装甲工兵大隊・高射砲大隊等であった。ただし師団によっては一部の支援部隊を持たないケースも見られた。
武装親衛隊においても名実共に装甲師団が編成されるようになった(従来は内容は装甲師団同様でも装甲擲弾兵師団と呼ばれていた)。国防軍の装甲師団と比較して、装甲擲弾兵連隊が3個大隊編成であることが主な相違点である。1943年10月22日付けで第1SS・第2SS・第3SS・第5SS・第9SS・第10SS、第12SSの装甲擲弾兵師団が装甲師団に改称されている。
陸軍一のエリート師団であるグロースドイッチュラント装甲擲弾兵師団も連隊規模の戦車部隊を装備して実質上は装甲師団となった。
空軍のヘルマン・ゲーリング師団が正式に装甲師団となった。1944年1月6日にはヘルマン・ゲーリング降下装甲師団に改名される。
- ティーガー戦車の量産が本格化したが生産数は少なく、運用上の問題もあって一部のエリート師団を除いて装甲師団の編成には含まれず、大隊規模の重戦車部隊が組織された。
- 生産が始まったパンター戦車は装甲師団の主力として各戦車連隊の第1大隊に配備されることとなったが全ての師団において改編が行われたわけではなかった。III号戦車に代わって主力戦車となっていた IV号戦車は第2大隊に配備されることになった。
- II号戦車や38(t)などの戦車としては使用に耐えない車輌は自走砲に改造され、長砲身化された突撃砲と共に戦車駆逐部隊が組織された。III号戦車の車台は突撃砲用としてのみ生産が続けられた。
- フンメル・ヴェスペの実用化に伴い、砲兵部隊の一部が自走砲に変わった。
- ソ連軍との戦闘で大損害を受け、戦力を失っていた第22装甲師団は1943年4月6日、第27装甲師団は1943年2月9日にそれぞれ解隊された。
- アフリカで壊滅した第21装甲師団が1943年7月15日に再編された。なお同じくアフリカで壊滅した第10装甲師団は再編されず、第15装甲師団は第15装甲擲弾兵師団として再編された。
- 1943年9月22日にノルウェイにてノルヴェーゲン装甲師団が編成された。
- クルスクの戦いで大損害を受けた第18装甲師団は1943年10月19日に第18砲兵師団へと改編され、姿を消した。
大戦終盤(1944年頃)
1944年型と呼ばれる編成が規定されたが1943年型と大きな相違は無い。1945年型と呼ばれる編成では従来2個戦車大隊編成だった戦車連隊が1個戦車大隊及び1個装甲擲弾兵大隊に変更された。また各支援部隊も自動車化される比率が低下し、大幅に戦力は低下した。敗戦間際にはありあわせの部隊を集成して師団に仕立てるケースも多く、規定は有名無実に近いものがあった。
- ソ連との戦車大型化合戦が続き、新重戦車ティーガーIIが投入されると共に、V号戦車・VI号戦車の駆逐戦車型も登場した。IV号戦車に改良の余地は少なく、駆逐戦車や突撃砲として完成するものも多かった。制空権を完全に失ったため対空戦車が登場した。
- 対戦車砲の不足が深刻化し、偵察部隊に対戦車砲を載せた重装甲車が配備され、装甲兵員輸送車にも対戦車砲が載せられて対戦車戦に駆り出された。
- 1944年1月には装甲教導師団が編成された。保有する4個装甲擲弾兵大隊全てが装甲兵員輸送車を装備した唯一の師団であった。
- 1944年5月に第116装甲師団が第16装甲擲弾兵師団から改編された。
- 1944年夏には第25装甲師団再編のために戦力を抽出されたノルヴェーゲン装甲師団が解隊された。
- 1944年11月27日にはフェルトヘルンハレ装甲師団が同名の装甲擲弾兵師団から改編された。
- 1945年1月1日にホルシュタイン装甲師団が編成されたが、3月30日には第18装甲擲弾兵師団の再編に使用されて消滅した。
- 1945年2月、デーベリッツ装甲師団が編成されたが22日にはシュレージェン装甲師団に改名された。3月30日には第18装甲擲弾兵師団の再編に使用されて消滅した。
- 同じく1945年2月に編成されたユーテルボーク装甲師団は26日には第16装甲師団に吸収されて消滅した。
- 1945年2~3月に第232及び第233装甲師団が同番号の予備装甲師団から改編(実質は単なる改名)された。
- 1945年3月5日に編成されたミュンヘベルク装甲師団はベルリンにて最後まで戦い、壊滅した。
- ブダペストで壊滅した第13装甲師団は1945年3月10日にフェルトヘルンハレ第2装甲師団として再編された。
- 1945年4月6日にクラウゼヴィツ装甲師団が編成された。ナチスドイツが編成した最後の装甲師団である。
大戦中のイギリス機甲師団の装備・編成の変遷
最初の機甲師団である第1機甲師団は1939年9月3日に編成された。1939年におけるイギリス機甲師団の編成は1個重機甲旅団・1個軽機甲旅団・師団支援群(砲兵連隊・自動車化歩兵大隊2個等)からなり、理論上は351輛の戦車を保有することになっていた。
- 第1機甲師団 - 第1重機甲旅団(3個連隊編成)・第2軽機甲旅団(3個連隊編成)・第1支援群
- (イギリス機甲部隊における連隊は同時期のドイツ軍における大隊とほぼ同規模)
イギリス軍は歩兵戦車・巡航戦車二分論にとりつかれ、バランスの取れた主力戦闘戦車の登場が遅れ、アメリカからの兵器供与頼みが続いた。歩兵戦車は独立戦車旅団に配備され、機甲師団や機甲旅団は巡航戦車や軽戦車を装備していた。アメリカ製中戦車は基本的に巡航戦車扱いであった。
- 1939年9月にエジプト機動師団が改編・改称され、エジプト機甲師団となった。
- 1939年12月15日にイギリス本土にて第2機甲師団が編成された。
- 1940年2月16日にエジプトにてエジプト機甲師団は第7機甲師団となった。
- 1940年9月12日にイギリス本土にて第6機甲師団が編成された。
- 1940年11月4日にイギリス本土にて第8機甲師団が編成された。
- 1940年12月1日にイギリス本土にて第9機甲師団が編成された。
- 1941年3月9日にイギリス本土にて第11機甲師団が編成された。
- リビアにてドイツ軍の攻撃により師団司令部が壊滅した第2機甲師団は1941年5月10日にエジプトにて解隊された。
- 1941年6月17日にイギリス本土にて近衛機甲師団が編成された。
- 1941年8月1日に中東にて第10機甲師団が編成された。
- 1941年11月1日にイギリス本土にて第42機甲師団が編成された。
- 1942年8月14日にイギリス本土にて第79機甲師団が編成された。
- 1943年1月1日にエジプトにて第8機甲師団は解隊された。
- 1943年10月17日にイギリス本土にて第42機甲師団は解隊された。
- 1944年6月15日にエジプトにて第10機甲師団は解隊された。
- 1944年7月31日にイギリス本土にて第9機甲師団は解隊された。
- 1945年1月11日にイタリアにて第1機甲師団は解隊された。
北アフリカ戦線(エル・アラメインの戦い以前)
ナチス・ドイツのフランス侵攻緒戦のイギリス・大陸派遣軍に機甲師団は無く、本格的に機甲師団が実戦参加したのは北アフリカの戦場からであった。フランスからの撤退時に戦車は遺棄されたため、マチルダ歩兵戦車とアメリカから供与されたスチュアート軽戦車・グラント/リー中戦車を中心に、旅団規模で運用された。マチルダは鈍足、スチュアート軽戦車は装甲・火力が不足、グラント/リー中戦車は英国戦車に欠けていた大口径砲を装備していたが、旋回砲塔ではなく車体への装備という時代遅れの構造であり、枢軸軍を破る決定打に欠けていた。
北アフリカ戦線(エル・アラメインの戦い以降)
アメリカからシャーマン中戦車の供与が始まり、イギリスも新型クルセーダー巡航戦車と新型チャーチル歩兵戦車の配備を本格化し、師団規模での運用が始まった。シャーマン中戦車はバランスの取れた傑作戦車であったが、イギリスはまだ巡航戦車と歩兵戦車の二分論にとりつかれており、中途半端な戦車を作り続けた。クルセーダーMk.IIIは三人乗りで、強力な6ポンド砲を生かしきれなかった。チャーチルMk.IIIは不整地最大速度13km/hで、装甲が厚くなったMk.VII以降ではさらに鈍足になった。
巡航戦車の主力戦車化
チャーチル歩兵戦車は終戦までイギリス製戦車の主力であり続け、歩兵戦車としては十分な性能であったが、最大速度20km/hでは、機動兵器としては落第であった。ようやく、イギリスも歩兵戦車というコンセプト自体の問題を悟り、スーパーチャーチルなど歩兵戦車の改良計画を中止し、巡航戦車の大型化による主力戦車化を進めた。巡航戦車 Mk.VIII セントー・巡航戦車 Mk.IX クロムウェルなどを経て、1944年センチュリオンとして結実した。しかし、第二次世界大戦中には量産は間に合わず、戦後イスラエルなどに供与されている。
大戦中のソ連機械化部隊・戦車部隊の装備・編成の変遷
また、ロシア戦車は良く言えば安価で実用性が高く後進国では評判がいいが、悪く言えば乗員の居住性軽視・濁ったペリスコープ・歪んだ照準器・貧弱な無線機など細部の質の低さにおいで先進国では悪評が高い。ただしこれはロシア兵に言わせれば西側戦車のほうが贅沢すぎるといったものであり、その質にたよらない物量作戦はバグラチオン作戦を頂点に、兵員の質を誇るナチス・ドイツ軍を撃退した。
戦間期の機械化部隊実験
- 資本主義国が世界大恐慌に苦しんでいた1930年代、隔絶した経済圏を持つソ連は第一次五カ年計画(1928-32)のもと順調に重工業を発展させていた。農業用トラクターの量産技術が生かされ、1930年先駆的な機械化旅団が創設された。
- 「縦深作戦理論」という、砲兵と航空機の支援の下、歩兵支援戦車が突入し、遠距離行動戦車が敵陣地(縦深)を突破、敵後方に機械化騎兵を展開し包囲すると言う、独自の戦術を編み出していた。
- しかし、スターリンにより、機械化部隊の編成を行っていたトハチェフスキー将軍・縦深作戦理論の考案者のトリアンダフィーロフ将軍・参謀として理論の完成に当たったイェゴロフ参謀総長らが粛清されたため、この実験は頓挫することとなった。
独ソ戦序盤(1941年)
- ドイツ装甲師団の成功を見たスターリンは態度を改め、1940年29個機械化軍団(2個戦車師団・1個自動車化師団で構成される予定だった)を作ることを決定した。
- しかし、独ソ戦開始時点では、戦車の充足率は60%強であり、それも大半が旧式戦車で、新型のT-34戦車は1、200両余り、KV系重戦車は600両余りであった。しかも、機械化を進めた将校の粛清で、戦車部隊運用のノウハウを持つ人材は全く育っていなかった。
- また、独ソ戦序盤におけるソ連軍の損害は非常に大きく、戦車不足であったことと大規模な戦車部隊を運用する能力が無いことを自覚したことから戦車師団の編成を断念し、既存の戦車師団も解隊された。
独ソ戦中盤(1942・43年)
- 保有戦車のほとんどを失ったソ連は、アメリカ・イギリスから兵器供与を受ける一方、戦車生産をT-34とKV-I中心に絞込み、シベリアや疎開工場で大量生産を始めた。また、ドイツの突撃砲を真似て、T-34とKV-Iの車体を用いた自走砲を作成し運用した(SU-122、SU-152、SU-85)。
- 戦車の補充を得たソ連軍は、三個戦車旅団と一個自動車化狙撃兵旅団で構成される戦車軍団を編成した。この戦車軍団は、名称こそ師団より上位の軍団であるが、規模は他国の師団よりやや小さいものだった。
- 1942年5月、半数を供与戦車で構成した約10個戦車旅団を動員して、南部戦線で反攻に出た(Cf.第2次ハリコフ攻防戦)が、まだまだ兵員も指揮官もドイツに比べ未熟であり、ドイツ軍に殲滅され、貴重な戦車戦力を失い、スターリングラード攻防戦に至るドイツの南方作戦が始まると、後退戦術をとるしかなかった。
- 兵員・指揮官の熟練度が上がり始めると、圧倒的な生産力でドイツ軍を撃破し始めた。スターリングラード包囲戦とクルスクの戦いに勝利し、以後は一方的にドイツ軍を押し捲った。
- 大型トラックが、ソ連でも数万両作成され、アメリカからも数万両供与されたが、ほとんどは膨大な補給物資を必要とする戦車師団の補給用に回され、兵員輸送車として使う余裕は無かった。随伴歩兵は戦車・自走砲の手すりに掴って移動していた。これらはタンクデサントと呼ばれた。
- 牽引砲・自走砲は共に砲兵部隊で運用された。多連装ロケット砲をトラックに載せ、遠距離から大量の爆薬をばら撒く「カチューシャ」ロケット砲車が極めて有効活用された。トラックの荷台に簡易なロケット発射台を乗せただけの物であるが、一度に発射出来る数の多さがその長所であった。命中率こそ低いものの、同時点に制圧できる面積は砲に比べて遥かに広く、ドイツ軍陣地破壊に極めて有効で、ドイツ軍に恐れられた。
独ソ戦終盤(1944・45年)
- ドイツの戦車の大型化にあわせ、T-34は砲塔と主砲を大型化したT-34-85に代わり(1990年代まで発展途上国では現役であった)、KV戦車の後継としてIS-2スターリン重戦車が投入された。自走砲も新車台の登場で大型化が進んだ(ISU系自走砲)。
- 最終盤、後のロシア戦車の特徴となる、低姿勢の半円形の砲塔を持つIS-3重戦車が配備されたがヨーロッパにおける実戦には間に合わなかったとされる。IS-3 は戦後1970年代まで東側諸国や発展途上国で使用された。
大戦中のアメリカ機甲師団の装備・編成の変遷
ドイツ軍のあげた大きな戦果に触発され、1940年6月より機甲師団の編成に着手した。7月15日付けで第1・第2の機甲師団が編成された。この時点での編成は以下のとおり。
- 第1機甲師団 - 1個機甲旅団(3個戦車連隊・機甲砲兵連隊・機甲工兵大隊)・1個機甲歩兵連隊・機甲砲兵大隊・機甲偵察大隊
- 第2機甲師団 - 1個機甲旅団(3個戦車連隊・機甲砲兵連隊)・1個機甲歩兵連隊・機甲砲兵大隊・機甲工兵大隊・機甲偵察大隊
第二次世界大戦においては重師団と呼ばれる編成(1942年編成)と軽師団と呼ばれる編成(1943年編成)の機甲師団が実戦に参加した。当初、戦車と歩兵の連携を軽視していたため戦車部隊の比率が高い編成だったが、戦訓により編成が見直された。第二次世界大戦終了まで重師団編成を維持したのは第2及び第3機甲師団のみである。第二次世界大戦終結までに第1から第14・第16・第20の16個機甲師団が編成された。
- 重師団 - 2個戦車連隊(3個大隊編成)・1個機甲歩兵連隊(3個大隊編成)が基幹、師団砲兵・機甲偵察大隊・機甲工兵大隊等が付属
- 軽師団 - 3個戦車大隊・3個機甲歩兵大隊が基幹、師団砲兵・機械化騎兵偵察大隊・機甲工兵大隊等が付属
兵器単体の性能は平凡なものの、圧倒的な生産力で、必要と考えられる兵器の機械化を進めたバランスの取れた機甲師団を作り上げた。歩兵部隊や砲兵部隊のみならず、他の支援部隊まで機械化が進み、迅速な進撃を可能としていた。また、所属部隊を入れ替えることのできる司令部組織「コンバット・コマンド」システムを採用したことにより、状況に柔軟に対応できた。さらに、充実した砲科と戦闘爆撃機による手厚い支援によって枢軸軍を圧倒した。
- 「75mm砲で十分」とするアメリカ軍の判断の甘さで、M26パーシング重戦車の投入が遅れ、ドイツのパンター・ティーガー戦車に苦しめられたが、M4中戦車の数は膨大で、M4中戦車多数で強力なドイツ軍戦車に対して複数方向から集中砲火を浴びせるという戦術が多用された。
- 自走砲では、M8やM7などが投入された。ドイツ・ソ連と比べると非力な感はあるが、数は多く、上記の戦闘爆撃機の支援もあり、戦車隊を援護した。
- 兵員輸送車も充実していた。アメリカの優秀な軍用自動車としてジープが有名である。高馬力のエンジンは、大型トラックをも牽引することが出来、輸送用・偵察用・連絡用など幅広く用いられた。
- 機械化偵察部隊は装甲車の他に、M3軽戦車やM5軽戦車を使用した。
大戦中の日本戦車師団の装備・編成の変遷
ドイツの電撃戦に影響を受け、既に太平洋戦争が始まっていたにも関わらず対ソ戦を念頭において1942年6月24日に戦車第一師団・第二師団・第三師団の編成が命令された。本土決戦に備えた第四師団は1944年7月6日に編成が命令された。理論上は二個戦車旅団(各二個連隊編成、各連隊は戦車58輛保有)・一個機動歩兵連隊(三個大隊編成)を基幹に機動砲兵連隊・師団速射砲隊・師団捜索隊・師団防空隊・師団工兵隊等から編成されることになっていたが全ての部隊が揃うことは無かった。
大戦中のその他の国の機甲師団
その他にもフランス、自由フランス、カナダ、イタリア、ハンガリー、ルーマニア、フィンランド、ブルガリア、自由ポーランドが機甲師団を保有した。
第二次大戦後の機甲師団
戦車の高性能化が進み、随伴する歩兵や砲兵も進化を遂げた。歩兵部隊は、トラックから装甲兵員輸送車に搭乗するようになり、さらには重武装の歩兵戦闘車が登場している。また、大砲についても、牽引式の大砲は減少し、自走砲化され軽度の装甲をも持つようになった。対戦車砲は対戦車ミサイルに取って代わられるなど、各兵器の武装のミサイル化が進んだ。
イスラエル軍も機甲師団を上手に運用し、何次もの中東戦争において、アラブ側の機甲師団を撃破している。
現代のアメリカ陸軍においては、歩兵師団の名称がついていても戦車の保有量が多いため、実質は機甲師団となっている。(湾岸戦争時におけるアメリカ機甲師団は6個戦車大隊・4個機械化歩兵大隊で構成、機械化歩兵師団は5個戦車大隊・5個機械化歩兵大隊で構成され、差異は少ない)湾岸戦争において、機甲師団同士の戦闘があり、アメリカ軍の機甲師団はイラクの機甲師団を壊滅させた。