コンテンツにスキップ

「大和型戦艦」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
West (会話 | 投稿記録)
一部大和 (戦艦)から転載
138行目: 138行目:
大和型戦艦の機密保持は後年語られているように非常に徹底している(詳細は各艦の項目参照)。建造の工員達は徹底的な身元調査の上機密を漏らさないことを約束させられた。艦の設計図は、持ち帰らないことを徹底させ、保管は二重の金庫にしまうほどであった。
大和型戦艦の機密保持は後年語られているように非常に徹底している(詳細は各艦の項目参照)。建造の工員達は徹底的な身元調査の上機密を漏らさないことを約束させられた。艦の設計図は、持ち帰らないことを徹底させ、保管は二重の金庫にしまうほどであった。


また、46センチ砲の機密るため設計図「九四式40センチ砲」と記載された他、砲塔一式輸送のためだけにそれ専用の艦「[[樫野 (給兵艦)|樫野]]」を建造したほどである。
また、主砲が46センチ砲であること隠匿するために制式名称を「九四式四十糎砲」と、砲塔一式輸送のためだけにそれ専用の艦「[[樫野 (給兵艦)|樫野]]」を建造したほどである。


完成後も秘密徹底の方針は貫かれた。大和型乗員は自分が何という艦に配属になったかは漏らさないことを徹底されていた(他の艦ではそれほど徹底されていない)。そのため、アメリカ軍は「大和型」の存在を確認してはいたが、(有名なところでは)搭載砲は40センチと判断しているなど詳細は終戦までつかめなかった。
完成後も秘密徹底の方針は貫かれた。大和型乗員は自分が何という艦に配属になったかは漏らさないことを徹底されていた(他の艦ではそれほど徹底されていない)。そのため、アメリカ軍は「大和型」の存在を確認してはいたが、(有名なところでは)搭載砲は40.6センチと判断しているなど詳細は終戦までつかめなかった。
<br style="clear:both;"/>
<br style="clear:both;"/>



2006年1月8日 (日) 05:35時点における版

同型艦概要
同型艦: 大和武蔵信濃・111号艦
竣工: 1941年12月16日(大和)
1942年8月5日(武蔵)
1944年11月19日(信濃)
開戦後建造中止、解体(111号艦)
沈没: 1945年4月7日(大和)
1944年10月24日(武蔵)
1944年11月29日(信濃)
性能諸元
排水量: 65,000 トン
全長: 263.0m
全幅: 38.9m
主機: 蒸気タービン4基4軸150,000馬力
最大速: 約27.3ノット
航続距離: 16ノットで10,000(実測)
乗員: 約2,300名
兵装: 3連装45口径46cm砲3基
3連装60口径15.5cm砲4基
40口径12.7cm連装高角砲6基
25mm3連装機銃8基
13mm連装機銃2基
カタパルト2基
零式水上偵察機・零式水上観測機他、最大7機
装甲: 舷側 410mm
甲板 200mm
主砲防盾 600mm
(数値はいずれも最大)

大和型戦艦(やまとがたせんかん)は、大日本帝国海軍(以下海軍)が建造した戦艦の艦級。海軍が建造した戦艦の最高傑作として知られ、現在に到るまでこれを超える排水量を持つ戦艦は建造されていない。

その勇姿と一番艦大和の悲劇的な最期への郷愁や憧れからか、数々の映画、アニメ・漫画や、プラモデルなどで幅広い年代によく知られている。特に『宇宙戦艦ヤマト』は知名度の上昇や一般化に大きな役割を担った。今でこそ「大和」は日本国民に最も知られる軍艦と言っても過言ではないが、太平洋戦争中は軍事機密に護られ、一般国民には存在自体がほとんど知られていなかった。当時の国民には「長門型戦艦」の長門陸奥が海軍の中心として知られていた。

概要

ワシントン海軍軍縮条約明けに際し、艦艇数で勝る米英を質で凌ぐため、第三次補充計画の際に海軍の持てる建艦技術の粋を集めて建造された。当時欧米諸国(特にアメリカ)はワシントン海軍軍縮条約で規定された35,000t前後の戦艦を建造していたが、これらの国の保有艦の搭載砲を大きく引き離す46cm砲を装備した結果、一番艦大和は基準排水量65,000tの世界最大の戦艦として建造された。大艦巨砲主義の最高傑作の一つといわれている。海軍は戦艦に対し日本各地の旧国名をその名としたが、「大和」とは奈良県の旧国名(大和)というばかりでなく、「日本」を象徴する意味合いもあったと思われる。大和型は、まさに海軍の願いの象徴であった。すなわち、「わが身に迫るいかなる敵の攻撃にも耐えて永遠に沈まず、日本に仇なすいかなる敵をも撃砕する」という願いである。同様の命名として扶桑がある。

主要諸元

船体形状

  • 球状艦首(バルバス・バウ)を日本の戦艦では初めて採用した。
    球状艦首は艦(船)体が水を押しのける時に出来る波と球状艦首が作った波が相互に干渉して、造波抵抗を減衰させる装置である。これを採用した事で、有効馬力で速力27kt時で8.2%程度の抵抗を減らし、排水量換算で約300t、水線長で3m艦体を短くする効果を得た。
    同時期に設計された翔鶴型空母と大きさでかなり異なるが、これは翔鶴型が34ノット、大和型が27ノットにおいて造波抵抗が最小になるよう最適化されているためである。
  • 主副舵の構成
    通常の2枚舵は平行に設置されているが、これでは戦艦ビスマルクのように魚雷1本を被雷しても操舵不能に陥る可能性がある。これを避けるため、当初は舵の1枚を艦首に装備する案(実験結果は不良)もあったが、結局艦の中心線上に前後に15mの間隔を開けて主舵と副舵を設置した。
    両舵を同時に使用した成績は良好であった。しかし、副舵だけで旋回は可能だが、大和型の惰力は予想以上に大きく、旋回する艦を直進に戻すことができず、副舵だけでは操艦は不能であった。対応策が考えられたが、開戦により対処はされなかった。
  • 運動性能
    大和型は巨大でずんぐりした船体からは想像もつかない程良好な運動性能を発揮した。その旋回性能は重巡洋艦並みだったといわれている。マリアナ沖海戦レイテ沖海戦、呉軍港空襲で大和は米軍機の投下する魚雷、爆弾の多くをかわす事に成功している。ただしこれほどの大きな艦では舵をきってから実際に回頭を始めるまで数十秒必要であり、回頭すると速力は急激に落ちる。
  • 最上甲板
    最上甲板を真横から見ると、第一主砲塔前を底とするなだらかな波型をしているのが見てとれる(いわゆる「大和坂」)。これは艦上構造物で最も重量のある砲塔の位置を下げ、艦首部に大きなシア(甲板の反り)をつけることで、艦の重心を降下と良好な凌波性という相反する性質を上手く両立させるためである。

主砲

  • 口径46cmの世界最大の三連装主砲3基9門を搭載(ただし秘匿のため40センチと呼称)。
    これは、ワシントン海軍軍縮条約で大日本帝国海軍の主力艦の保有数が対米英比6割に抑えられたため、量より質を重視した海軍が、アウトレンジ戦法を採用するために開発した砲である。パナマ運河の往来に艦艇の幅を制限されたアメリカ海軍は、構造的に40センチ超砲を搭載しつつ装甲のバランスをとれた艦艇を建造できず、大和型はそれらに対して破壊力・射程共に圧倒的優位に立てると期待された。すなわち、アイオワ級などの米戦艦が装備する40.6cm砲の射程距離が約38kmであるのに対して、46センチ砲の最大射程は約42kmで、初速780m/秒(2,808km/h)で発射される。つまり理論上は、敵艦が射撃を開始する前から一方的に攻撃をしかけて、敵艦隊を撃滅することができるのである。
    大和型は敵戦艦に向けて主砲を発射したことはないが、もし艦隊決戦になった場合、当時のいかなる戦艦をもただの一弾の命中弾により撃沈若しくは大破させる事が出来たといわれている。しかし、地球の外周を4万km、艦橋の高さを40mとして計算すると、艦橋から目視で確認できる水平線までの距離は22.6kmであり、実際の天候等を考えると有効射程距離は15km~20km程度であったという説もある。
  • 九一式徹甲弾
    帝国海軍の秘密兵器。敵艦の手前で海中に落下した場合でも魚雷のように海中を直進し、敵艦に当たるようにできている。これは未成戦艦土佐を使った実験により偶然発見された水中弾効果を利用したものである。
  • 巨大な冷却機とそれを利用した冷蔵庫
    大和型はその巨砲相応に巨大な弾庫、火薬庫を持つため、その冷却用に大出力の冷却機を搭載していたが、この余力を使用して冷蔵庫や艦内空調設備を動かしている(兵員あたりの居住面積の広さと相まって、また、太平洋戦争において主要な戦闘に参加できないにも拘らず他艦に比べよりよい居住性を誇っていたことから、「大和ホテル」や「武蔵屋旅館」と呼ばれていた)。

副砲

  • 口径15.5cmの三連装砲を(完成当初は)前後の主砲後部位置に1基づつと左右煙突脇に1基づつ、計4基12門が装備され、うち9門を片舷に指向できる配置となっていた。
    この副砲は条約型巡洋艦、駆逐艦などの突撃に対処するためのものだが、対空射撃には有効とは言い難く、副砲を全廃して両用砲に転換したノースカロライナ級やキングジョージV世級の方が設計に先進性があった。
    戦局が航空戦に傾倒するに及んで左右の二・三番副砲塔は撤去され、12.7cm連装高角砲6基に取り替えられた。大和型の艤装改良は幾度も行われているが、最も外観が変化したのはこの左右副砲の撤去前と撤去後といえる。
    しかし、主砲塔直後に配置された副砲は大和型の防御の一大欠点でもある。副砲塔は弾片防御程度の装甲しか施されておらず、爆弾や大角度の落下砲弾がここに命中した場合、砲爆弾は容易に副砲弾庫に達して炸裂し、これが直ちに主砲弾火薬庫を誘爆させて轟沈する可能性を秘めていた。手直し程度の改善はあったものの、この欠点は最後まで解消されなかった。あきらかに両舷への指向が可能という利点にこだわりすぎた設計のまずさであった。
  • 性能
    軽巡洋艦最上重巡洋艦に改装される際に撤去された主砲を流用した砲であるが、戦艦の副砲としては世界最大で破壊力・射程共に最高であった。対空射撃も一応可能。
    注)よく「砲塔を流用」と書かれているがこれは間違いで、砲塔そのものは大和型用に新造されている。

爆風対策

46cm主砲発砲時の風圧は、艦上にいる人間や搭載する航空機に対し甚大な被害を与えると予想され、その対策が実施された。

  • シェルター付き高角砲、機関砲。
  • 艦載艇の設置場所として、甲板上を避け、艦内に通船格納庫を設けた。
  • カタパルトと航空機格納庫。
大和型戦艦は主砲発砲時の爆風対策として、英・独・仏の戦艦と同様に航空機格納庫を有し、6から7機の水上機が搭載可能だった。

防御

  • 集中防御
    大和型戦艦は一般には空前の巨大な戦艦というイメージが濃いが、技術的洗練度が非常に高いため、世界最大の装備と防御力を持つわりには小さく作られた艦である。
    八八艦隊の主要艦の設計者である平賀造船官の防禦思想を受け継ぎ、重要防禦区画(ヴァイタルパート)をできるだけ小さくするという基本理念で設計されている。これはアメリカのサウスダコタ級やフランスのダンケルク級と同じ設計思想で、横から見たシルエットは前者に、内部構造は後者にかなり似ている。その設計思想によりヴァイタルパートは全長の60%に抑制され、防御の冗長化を回避している。重要防禦区画の防御力は自身の46cm砲に耐え得るものとされた。
    米国のアイオワ級、モンタナ級(未成)、英国のヴァンガードなどは推進軸4軸のうち内側と外側の各2軸に対応する機関室とタービンを各々前後に分離するシフト配置を採用し、大被害を受けた時にも航海能力を失わないように配慮されている。そのため少し間を置いた直立二本煙突を有し、その周囲に巨大な艦上構造物が積み上げられており、視認性、被弾率、小型軽量化という点では一歩譲る。また、マレー沖海戦プリンス・オブ・ウェールズのように内側推進軸にダメージを負った場合、長大な推進軸にそって大量の浸水が発生する事もあるため、この両者の構想のどちらが優位であるかは、おおいに議論のあるところである。
  • 水中防御
    日本海軍は水中弾の効果を重視していた。このため水面下に至るまで装甲板を伸ばした。これは米国の新型戦艦も同様であるが、大和型ではさらに主砲下部にまで装甲を及ぼした。艦底での水中爆発に対処したのである。但し、これは一方で魚雷に対する無防御区画の範囲を広げた結果ともなり、米国と水中防御の思想と比べた時、一長一短あると指摘されている。
    水中弾を含め対弾防御を重視した大和型の集中防御の設計は、結果的に米空軍の集中的な魚雷攻撃によってその弱点をつかれた。もっとも10本以上に及ぶ多数の被雷は設計の想定外であった。但し、この件に関しては水密鋼管を艦首部艦尾部の倉庫に充填することが建造にもかかわった大和艦長より進言されたが、艦政本部は予算と資材がないという理由で採用しなかった。
    また1943年に大和が敵潜の魚雷を受けた時、予想外の大量浸水をみた。直後の原因調査で舷側装甲板の継手構造に設計上の問題があると判明した。大和に関しては補強工事が行われたと言われるが、武蔵に関しては確実に行われていない。戦後、米国の調査団は大和型の徹底的な解剖を試みたが、この点に関しては「大和型のアキレス腱」と言われている。


  • 予備浮力
  • 装甲
    大和型戦艦の船体は、舷側上部410mmVH甲鉄、舷側下部50mm~200mmNVNC甲鉄、甲板200mmMNC甲鉄で覆われていた。また砲塔は最大640mmVH甲鉄で覆われている。当時の軍艦としてはもっとも強固ものである。
    VH甲鉄は長門型まで用いられてきたクルップ式浸炭(炭和)甲鉄(KC)にかわって採用されたもので、炭素ではなく窒素を使って甲鉄の表面を硬化させている。浸炭甲鉄より撃力に対して優れているとされ、ヴィッカース式硬化甲鉄の頭文字をとってVHと呼ばれる。
  • 集合煙突の採用
    前述の小型化成功の一因には、煙突を傾斜させて一本にまとめた集合煙突の採用がある。
    もっとも、集合煙突は排煙能力が低く、艦に強制排煙装置を設置しなければならなかったため、日本とフランス海軍以外はあまり採用には熱心でなかった。
  • 水線下甲鉄の採用
    従来水線下は砲弾による損害の少ない部分と言われてきたが、未成戦艦土佐を使った実験により砲弾による水線下の被害が大きいことが予想された。そこで大和型は、重要部分の通常の水線甲鉄の下に50mm~200mmの装甲を艦底まで実装している。
  • 煙路防御
    蜂の巣状に8mmの穴をあけた厚さ38cmの蜂の巣装甲板を煙突内部、装甲甲板の高さに設置することで、それまで不可能とされた煙路の防御を可能にした。
    注)煙突の装甲化自体は世界的に長門型と同世代の戦艦から行われている。
  • 独特な機関配置
    各ボイラーが1基ずつ防水区画を持つという、他に例をみない独特の配置をしている。これは一つの罐が損害を被っても、他の罐に損害をあたえないために一基一室としたためである。

その他

  • 建造費は当時の価格で1億3780万円。現在の価値で東海道新幹線の建設金額にほぼ等しいとされる。
  • 木甲板
    当時の一般的艦艇と同じく、海水に浸っても腐りにくいチーク材が使用された。
  • ディーゼル機関の搭載も当初計画されてはいたが、当時の技術力では失敗例(給油艦剣埼など)が多く、信頼性も薄いことから回避された。
  • 艦内に消火用の炭酸ガスを利用したラムネの製造設備があった。

46センチ砲

大和型の46センチ砲弾。靖国神社にて展示

大和型最大の特徴と言える46センチ砲は、完成に至るまで海軍の要求や海外の情報から様々な案が検討されている。

主砲配置

巨砲配置に際し様々な案が検討された。大別すると

  • ネルソン級戦艦のような前方集中配置
  • 従来通りの連装による前後配置
  • アメリカ戦艦のような三連装配置

の三種類である。

前方集中の場合、装甲を集中配置できて重量的に有利と考えられたが、実際は前方に重量物が集中するため艦のバランスが取りにくい上、後方射撃時に艦橋にダメージを与えたネルソン級の報告もあり廃案となった。連装では、重量バランスが良くなる代わりに1基ごとの必要装甲を持たせた場合、重量が3連装より重くなるとの報告がありこれも破棄された。最終的に3連装3基9門となった。

主砲口径

搭載砲を45口径砲(砲身の長さが口径の45倍)とするか50口径砲(同50倍)とするかでも議論がされている。単純に言って、口径を大きくする(砲身を長くする)ほど砲弾の初速は大きくなり射程や威力が増すこととなる。しかし、当時の日本には50口径の砲身を作る設備がない上に砲塔の重量増加を招くため、45口径で砲撃力は十分と判断されて50口径は廃案となった。

パナマ運河

海軍には新戦艦に45口径46センチ砲を搭載させる案の他に、40センチ砲搭載案もあった。46センチ砲と決定したのは、アメリカ軍が40センチ砲搭載艦を建造することを察知した結果と共に、パナマ運河が影響を与えている。

アメリカは太平洋大西洋という二つの大洋に挟まれているが、軍艦建造の造船所は大西洋側に集中しており、建造された新造艦は通常パナマ運河を通って太平洋側に出る。そのため、艦幅をパナマ運河を通行可能な寸法である110フィート以内に納めなければならなかった。その制約下で46センチ砲を建造した場合、9門搭載の艦で最大排水量5万トンで23ノット、10門で6万トン。40センチ砲で5万トンで33ノットと大和型より劣る戦艦になると海軍は試算し、その結果から現在の大和型の設計が許可されることとなった。

機密保持

艤装中の大和

大和型戦艦の機密保持は後年語られているように非常に徹底している(詳細は各艦の項目参照)。建造の工員達は徹底的な身元調査の上機密を漏らさないことを約束させられた。艦の設計図は、持ち帰らないことを徹底させ、保管は二重の金庫にしまうほどであった。

また、主砲が46センチ砲であることを隠匿するために制式名称を「九四式四十糎砲」とし、砲塔一式輸送のためだけにそれ専用の艦「樫野」を建造したほどである。

完成後も秘密徹底の方針は貫かれた。大和型乗員は自分が何という艦に配属になったかは漏らさないことを徹底されていた(他の艦ではそれほど徹底されていない)。そのため、アメリカ軍は「大和型」の存在を確認してはいたが、(有名なところでは)搭載砲は40.6センチと判断しているなど詳細は終戦までつかめなかった。

同型艦

同型艦は大和武蔵。続く第四次補充計画で110号艦、111号艦建造が決定する。110号・111号艦は過大と判断された舷側装甲厚、甲板装甲厚を減じ、その重量で艦底を三重化しているため、準同型艦として扱われる。なお110号艦は太平洋戦争開戦と共に完成を断念され、ドックを空けるための工事中に計画変更となり航空母艦信濃となり、111号艦(紀伊もしくは尾張との名称と言われている)は開戦と共に建造中止・解体となる。また、更に防御などを改良した797号艦(改大和型戦艦)や主砲を50cm連装砲塔に変更した798号艦、799号艦(超大和型戦艦)も計画されたが、起工には至っていない。

略歴

太平洋戦争時には既に戦争における世界のセオリーは確実に航空機主体の戦術に移っており(このため源田実ピラミッド万里の長城と共に三大無用の長物と批判した)、その力を十分発揮できるような運用はなされなかった。大和型の初陣はミッドウェー海戦であるが、これも旗艦として機動部隊の遙か後方を進撃したのみであり、そのため空母全滅の電文を受けただけだった。

続くガダルカナル島をめぐるソロモン海戦において、アメリカ軍は新鋭戦艦であったノースカロライナ戦艦を始めとするありとあらゆる軍艦を投入したのに比べ、海軍は高速ではあるが旧式の「金剛型戦艦」のみを投入し、新鋭戦艦たる大和型は温存された。大きな艦体の豪華さや寝台を装備していること(その他艦艇は、もっぱら居住区にはハンモックだった)、および冷蔵庫を利用できることによる備蓄食糧の多彩さ・豊富さや完備された冷暖房設備を誇る大和と武蔵は、ソロモン海で激戦が繰り広げられている最中にも泊地から動かない様を揶揄して、他の艦の乗組員からは「大和ホテル」「武蔵旅館」と呼ばれた。なお、この頃になると、米海軍ではレーダー射撃が実用可能な水準になっていたが、日本海軍ではレーダー技術が遅れていたため、大和型の主砲を最大限に生かせるレーダー射撃はまだ開発されていなかった。

大和型戦艦による砲撃が初めておこなわれたのはマリアナ沖海戦での対空防御のための弾幕であり、続くレイテ沖海戦でも対空防御のための砲撃をおこなったが、その海戦で武蔵は撃沈された。その後発生したサマール沖海戦で護衛空母に対しおこなった砲撃が、大和型が敵艦に対しおこなった最初で最後の砲撃である。

レイテ沖海戦の翌月、空母として竣工した信濃も、回送のための航海途中潜水艦の雷撃によりわずか10日という短い生涯を遂げる。

残った大和も、最後には天一号作戦に投入され撃沈されてしまう。建造当初には想定されていなかった航空機による攻撃の前に大艦巨砲はもろくも崩れ去り、大和と武蔵はその圧倒的な主砲の威力を十分に発揮することなく、太平洋の底に眠ることになった。

大和型の誤解

ここでは大和型について言われる俗説のうち、誤解または正確ではないものについて記す。

46センチ砲について

大和型は、「世界で最初に46センチ砲を搭載した」と一般では言われているが、それは正確ではない。大和搭載以前にも、イギリス海軍は46センチ単装2基搭載で装甲無しという沿岸砲撃用巡洋艦フューリアスを建造している。また、試作のみで言えば、アメリカはダニエルズ・プラン時46センチ砲を試作している。世界最大の艦載砲というのも正しくはなく、八八艦隊計画時48センチ砲を試作・試射までおこなっている。

最大速力

一般的には27ノット程度が定説であるが、艦首のバルバス・バウ等により29ノットまで出せたとの説もある。これは、かつていくつかのテレビ番組で大和搭乗員がそう語ったほか、『真相・戦艦大和ノ最期』でも定説以上の速度が記載されている。

当時は全てが機密であり、新造時の長門型も22ノット程度、改装後の金剛型が26ノット(実際は長門で26.5ノット、金剛型が30ノット)と喧伝された。また、ビスマルクの一般的な速力は29ノットと言われるが、機関過負荷120~128パーセントで30.8ノットを出したほか、武蔵が機関過負荷値166,520馬力で28.1ノットを出している。また、日本の軍艦は燃料・弾薬・水・食糧などの消耗物資を満載した状態で出撃し、一定距離を航海して戦闘に入る直前を想定した状態(いわゆる公試排水量)で出せる最大速力をカタログデータとするが、物資の搭載量が少なければこれより大きな速度を出せる事はいうまでもない。駆逐艦島風は公試試験の際、燃料・水等を2/3ではなく半分しか搭載せず出した数値である40ノットが最高値となっており、大和型の29ノットがこれと同じ状態の数値である可能性もある。

造船技術

「大和型が戦後の日本の造船技術の発展に寄与した」と言われるが、これも正確とはいえない。大和型が当時の造船技術の粋を集めて建造されたのは事実だが、その建造方法は従来通りであり現代に通じるところはあまりない。現在に通じる溶接によるブロック工法は戦時量産の輸送船や海防艦などに多数使用されており、これらが基礎となったという方が正しい。

ただし、「大和型は船体を鋲打ちで建造された」というのも正確とはいえない。主要防御部はともかく、そのほかの部分は一部溶接を使用されており、全く使用されていないわけではない。

竣工時期

一番艦大和の竣工が開戦8日後であることから、「海軍は大和の完成を待って開戦を決意した」とも言われるがこれは全くの誤解である。当時の12月8日(日本時間)は月齢19日で真珠湾攻撃に最適であったこと、その日は日曜日で艦隊が停泊している可能性が最も高かったから選ばれたのであり、むしろ大和の竣工が開戦に合わせて繰り上げられたのが真相である。

関連項目

参考文献

外部リンク