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ルーキーイヤーの{{by|2003年}}[[3月30日]]の[[中日ドラゴンズ]]戦でプロ初先発したが2回5失点でKOされて敗戦投手となったが、[[4月25日]]の[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]戦の先発でプロ初勝利を挙げた。[[5月10日]]の中日戦ではプロ初完投勝利を挙げ、[[7月29日]]の同戦では初完封勝利を挙げた。最終的にリリーフ陣が崩壊した現状もあり、7完投、リーグ最多の2完封を記録してシーズン10勝を挙げ、[[規定投球回]]にも到達した。[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]に選ばれた。 |
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しかし翌{{by|2004年}}は[[2年目のジンクス]]に陥り思うように成績が伸びず、シーズン途中から一時[[リリーフ|抑え]]を任された。最終的に7勝8敗5[[セーブ]]・防御率5.03と不本意な成績で終わった。 |
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⚫ | {{by|2009年}}は開幕先発ローテーション枠争いに敗れ、2軍スタートとなった。8月のローテーションの谷間でようやくシーズン初登板・初先発のチャンスを得たが、3回途中3失点でKOされ2軍降格となった。その後1軍登板機会が得られぬままシーズンを終えた。2軍では先発の軸として活躍し、リーグ最多勝(9勝)、最多奪三振(94個)の二冠となったが、防御率は4.05と奮わなかった。同年[[12月4日]]、[[高木康成]]との[[トレード|交換トレード]]で[[オリックス・バファローズ]]へ移籍した<ref>[http://www.buffaloes.co.jp/news/detail/878.html トレード成立のお知らせ]</ref>。 |
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=== オリックス時代 === |
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{{by|2010年}}はオープン戦で好投し、開幕ローテーション入りを果たした。[[3月28日]]の[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]戦で8回途中1失点で2008年7月27日以来となる609日ぶりの移籍後初勝利を挙げた。[[5月22日]]の阪神戦から5連勝を記録。6月は29日の[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]戦で、新人時代の2003年以来となる7年ぶりの完封勝利記録するなど4勝0敗の活躍で6月の[[月間MVP_(日本プロ野球)|月間MVP]]を獲得する。7月31日の勝利で9勝目を挙げたが、8月6日の[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦で9回2死まで無失点ながら、そこから3失点を喫して敗戦投手になると、この試合から5試合は、自身が登板している間の味方打線の援護が5試合で僅か計2点しかなく、なかなか白星がつかなかった。9月8日のロッテ戦で2失点完投勝利をあげ、3年ぶりの二桁勝利を達成。最終的に防御率3点台も記録したが、好不調の波が激しく12敗を記録し与四球数はリーグ2位、暴投と与死球数はリーグ最多と制球を乱す試合も多かった、また援護率はパリーグでワースト2位の3.71となかなか打線の援護に恵まれなかった。一方で被本塁打は9本と少なかった。また、ロッテ戦では4勝4敗、交流戦では3勝1敗とまずまずの成績を残した一方で、西武戦では5戦4敗、防御率7.01と非常に相性が悪かった。 |
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{{by|2011年}}は[[東日本大震災]]の影響で延期されて実施の[[4月12日]]に[[大阪ドーム]]での[[開幕戦]]で自身初の[[開幕投手]]を務め、02年[[全日本大学野球選手権大会]]決勝や[[2003年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|2003年のオールスターゲーム]]第1戦同様に[[早稲田大学野球部]]出身のホークスの大黒柱[[和田毅]]と投げ合い9回0/3を自責点1。だが、12球団の開幕投手で唯一勝利がなく5月4日に登録抹消となった。その後、5月14日に1軍登録され、その日の[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]戦([[函館市千代台公園野球場]])に先発したが、2回1死から本塁打と連打で8失点で降板。[[セ・パ交流戦]]の阪急ブレーブスユニフォーム復刻試合の5月20日の対[[広島東洋カープ|広島]]戦で7回1失点で相手の7番[[指名打者]][[今村猛]]の[[犠打|犠牲バント]]も無難に処理しシーズン初白星を挙げたが、その後は先発で結果を残せず、7月11日の対西武戦で4回9安打6失点で2軍落ちした。その直後帰阪する道中の[[新横浜駅]]で偶然にも巨人時代のコーチである[[鹿取義隆]]に遭遇し、「ツーシームやチェンジアップを覚えたら?」と助言を受け、ツーシームを習得する<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/16/kiji/K20120416003057130.html 木佐貫 鹿取氏とばったり 新横浜駅での立ち話が復調のきっかけ]</ref>。その後昇格し、閉幕間際の10月15日の対日本ハム戦で、6回無失点の好投で漸く2勝目をあげた。シーズンを通しては、2勝7敗、防御率4.60と不本意な成績に終わった。 |
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{{by|2012年}}はシーズン初登板となった4月8日の対楽天戦で4安打完封勝利をあげると、4月15日は一昨年かなり苦手にしていた西武相手に7回途中1失点の好投で、連勝スタートとなった。ところが、4月22日の対日本ハム戦で9回1失点の完投負けを喫したのを皮切りに打線の援護に恵まれず白星から遠ざかる。6月6日の対ヤクルト戦で一塁ベースカバーに入った際に、左太もも裏肉離れを発症して翌日 |
{{by|2012年}}はシーズン初登板となった4月8日の対楽天戦で4安打完封勝利をあげると、4月15日は一昨年かなり苦手にしていた西武相手に7回途中1失点の好投で、連勝スタートとなった。ところが、4月22日の対日本ハム戦で9回1失点の完投負けを喫したのを皮切りに打線の援護に恵まれず白星から遠ざかる。6月6日の対ヤクルト戦で一塁ベースカバーに入った際に、左太もも裏肉離れを発症して翌日1軍登録抹消。リハビリに努めていたある日、娘に「パパはどうして、昼間から家にいるの?」と尋ねられて戸惑い、その時に同僚の[[寺原隼人]]が「僕らは好きな野球をやっていればそれでいいかもしれないけれど、娘たちには肩身の狭い思いをさせられない」と発言したのを思い出して発奮し<ref>{{cite news |title=オリックス逆襲のキーマン、木佐貫洋を変えた“一言”。~寺原がくれた、復調のきっかけ~ |newspaper=NUMBER Web |date=2012-08-17 |url=http://number.bunshun.jp/articles/-/263937 |accessdate=2012-10-10}}</ref>、7月13日に再登録されると、3試合の救援登板を経て、オールスター明けに2試合連続完投勝利を挙げた。その後も先発投手としてシーズン終了までローテーションを守り抜き、防御率2.60、[[クオリティ・スタート|QS]]率66.7%と先発投手としての責務を果たしたものの、<!-- [[援護率]]2.49の数値が示すように -->力投しても味方打線の援護に乏しい試合が多く、5勝9敗に終わった。契約更改では、2.60だった[[防御率]]が評価され1200万円増の6200万円で更改した。 |
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{{by|2013年}}[[1月25日]]に[[糸井嘉男]]・[[八木智哉]]との交換トレードで[[赤田将吾]]・[[大引啓次]]と共に[[北海道日本ハムファイターズ]]へ移籍した<ref>{{Cite web|url=http://www.npb.or.jp/players/2012pn_traded2.html|title=トレード(2012年度シーズン終了後 ~ )|date=2013-01-25|accessdate=2013-01-30}}</ref>。 |
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=== 日本ハム時代 === |
=== 日本ハム時代 === |
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同年[[5月20日]]の巨人戦では7回を1失点で勝利投手となり、史上12人目の全球団([[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]を除く12球団)からの勝利を達成した<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20130520-OHT1T00119.htm 【日本ハム】木佐貫、史上12人目の前12球団勝利]</ref>。なお、この[[試合]]では高校時代に投げ合った巨人[[先発投手|先発]]の杉内に投げ勝ち、1998年夏の甲子園の鹿児島県大会決勝戦決勝で投げ負けて以来、約15年ぶりの投げ合いを制している<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/21/kiji/K20130521005848740.html 同じ年、同じ鹿児島の高校出身…木佐貫 杉内に16年越しリベンジ] - スポニチ Sponichi Annex 野球 2013年6月21日閲覧。</ref><ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/144897/ 杉内に勝った!木佐貫“青春のリベンジ”] - 東スポWeb – 東京スポーツ新聞社 2013年6月21日閲覧。</ref>。同年シーズン終了まで先発ローテーションの一角を担い、2桁勝利には届かなかったものの、最終的には[[ブライアン・ウルフ]]と並んでチームトップタイとなる9勝をマークした。 |
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{{by|2014年}}には |
{{by|2014年}}には春季キャンプ中に[[インフルエンザ]]へ感染。この年は若手投手の台頭で5試合しか登板できず、1勝3敗でシーズンを終えた。 |
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{{by|2015年}}にはシーズン終盤まで1軍での登板機会がなく、[[イースタン・リーグ]]公式戦でも16試合の登板で0勝6敗、防御率7.67という成績に終わった<ref name=retire>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/1545778.html 日本ハム木佐貫引退発表「お立ち台の景色忘れない」]日刊スポーツ - 2015年9月29日</ref>。[[9月18日]]に、翌年の戦力構想から外れていることが判明。他球団での現役続行の可能性などを熟慮した<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/1540432.html 日本ハム木佐貫来季構想外、1軍登板なし引退も視野]日刊スポーツ - 2015年9月19日</ref>結果、[[9月29日|同月29日]]にこの年限りで現役を引退することを表明した<ref>[http://www.fighters.co.jp/news/detail/5726.html ニュース | 木佐貫投手が現役引退を表明] | 北海道日本ハムファイターズ - 2015年9月29日</ref>。翌[[9月30日|30日]]には、この年初めての出場選手登録<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/1546239.html 日本ハムが木佐貫、矢野、高浜を登録]日刊スポーツ - 2015年9月30日</ref>を経て、対[[千葉ロッテマリーンズ|千葉ロッテ]]戦([[札幌ドーム]])の5回表に1イニング限定で登板。2奪三振を含む三者凡退という内容で、現役生活を締めくくった。11月27日付で、[[日本野球機構]](NPB)から[[引退|任意引退選手]]として公示<ref>[http://www.npb.or.jp/players/2015pn_retired.html 2015年度 任意引退選手] - 2015年11月28日閲覧</ref>。 |
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===現役引退後=== |
===現役引退後=== |
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[[2016年]]からは、[[スカウト]]として巨人に復帰 |
[[2016年]]からは、[[スカウト]]として巨人に復帰した<ref>[http://www.hochi.co.jp/giants/20151212-OHT1T50168.html 【巨人】木佐貫、引退即スカウト転身!由伸監督支える]スポーツ報知 - 2015年12月12日</ref>。 |
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== プレースタイル == |
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2003年に自己最速152km/hを計測した<ref>{{cite news|url=http://www.joqr.co.jp/homerun/tatujin/index3.html#11|title=将市:進化する新人|publisher=文化放送ホームランナイター|date=2003-06-18|accessdate=2015-12-23}}</ref>。 |
2003年に自己最速152km/hを計測した<ref>{{cite news|url=http://www.joqr.co.jp/homerun/tatujin/index3.html#11|title=将市:進化する新人|publisher=文化放送ホームランナイター|date=2003-06-18|accessdate=2015-12-23}}</ref>。 |
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現役時代は2ケタ勝利を3度挙げる活躍を見せたが翌年は不本意な成績で終わっており、2年以上続けて活躍することができなかった。 |
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== 人物 == |
== 人物 == |
2016年6月23日 (木) 06:22時点における版
オリックス時代 (2012年3月16日、明治神宮野球場にて) | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 鹿児島県川内市(現:薩摩川内市) |
生年月日 | 1980年5月17日(44歳) |
身長 体重 |
188 cm 84 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 2002年 自由獲得枠[1] |
初出場 | 2003年3月30日 |
最終出場 | 2015年9月30日(引退試合) |
年俸 | 6,500万円(2015年) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
五輪 | 2003年(アジア予選) |
この表について
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木佐貫 洋(きさぬき ひろし、1980年5月17日[1] - )は、鹿児島県川内市(現在の薩摩川内市)出身の元プロ野球選手(投手)である。
経歴
プロ入り前
川内市川内南中学校では軟式野球部に所属。川内高校では3年時の1998年、鹿児島県春季高校野球大会にて杉内俊哉を擁する鹿児島実業を破り優勝。夏の全国高等学校野球選手権鹿児島大会決勝では鹿児島実業に1-3で惜敗。甲子園出場を逃した[2]。卒業後は亜細亜大学に進学。東都大学リーグ通算31試合登板、12勝8敗、防御率1.80、225奪三振。4年生時は2季連続で最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインの三冠受賞。第1回世界大学野球選手権日本代表にも選出された[1]。
2002年のドラフト会議で読売ジャイアンツに自由獲得枠で入団[1]。
巨人時代
ルーキーイヤーの2003年3月30日の中日ドラゴンズ戦でプロ初先発したが2回5失点でKOされて敗戦投手となったが、4月25日の横浜ベイスターズ戦の先発でプロ初勝利を挙げた。5月10日の中日戦ではプロ初完投勝利を挙げ、7月29日の同戦では初完封勝利を挙げた。最終的にリリーフ陣が崩壊した現状もあり、7完投、リーグ最多の2完封を記録してシーズン10勝を挙げ、規定投球回にも到達した。新人王に選ばれた。
しかし翌2004年は2年目のジンクスに陥り思うように成績が伸びず、シーズン途中から一時抑えを任された。最終的に7勝8敗5セーブ・防御率5.03と不本意な成績で終わった。
2005年7月に右肩甲骨下の手術を行った。この影響でこの年は抑えを任されたこともあったが定着できず14試合の登板に留まり0勝1敗5セーブ・防御率3.95の不本意な成績で終わった。
2006年1月に二岡智宏とともに奄美大島での小久保裕紀・斉藤和巳の自主トレに同行。6月19日のオリックス戦で約1年ぶりに1軍登録され2年ぶりに先発するも3失点で敗戦投手になった。合計3度先発のチャンスを与えられるが、いずれも序盤にKOされてしまい0勝3敗でシーズンを終え、2年連続未勝利という結果に終わった。
2007年は主力投手であった上原浩治・ジェレミー・パウエルが故障で出遅れたため開幕1軍入りを果たし、自己最高となる12勝(9敗)・防御率3.09を記録した。内海哲也・高橋尚成とともに一年を通してローテーションを守った。
2008年は開幕から低迷するチームの中で好投し、4月で3勝をあげ敗戦による「8イニング完投」ながら2004年以来となる完投も記録した。しかし5月から調子を崩し、7日の阪神戦では3回途中金本知憲への頭部死球で危険球退場となってしまった。以後、短いイニングで降板する試合が続き8月に1軍登録を抹消。そのままシーズンを終え、14試合の登板に終わって6勝に留まりチームはリーグ連覇、CS初制覇を果たしたがポストシーズンでは出番がなかった。前半戦の貢献を主張するが認められず年俸減で更改した。年末会田有志などの成長株がドミニカウィンターリーグに派遣されることを受け、本人の希望でドミニカへ渡った。
2009年は開幕先発ローテーション枠争いに敗れ、2軍スタートとなった。8月のローテーションの谷間でようやくシーズン初登板・初先発のチャンスを得たが、3回途中3失点でKOされ2軍降格となった。その後1軍登板機会が得られぬままシーズンを終えた。2軍では先発の軸として活躍し、リーグ最多勝(9勝)、最多奪三振(94個)の二冠となったが、防御率は4.05と奮わなかった。同年12月4日、高木康成との交換トレードでオリックス・バファローズへ移籍した[3]。
オリックス時代
2010年はオープン戦で好投し、開幕ローテーション入りを果たした。3月28日のソフトバンク戦で8回途中1失点で2008年7月27日以来となる609日ぶりの移籍後初勝利を挙げた。5月22日の阪神戦から5連勝を記録。6月は29日の楽天戦で、新人時代の2003年以来となる7年ぶりの完封勝利記録するなど4勝0敗の活躍で6月の月間MVPを獲得する。7月31日の勝利で9勝目を挙げたが、8月6日のロッテ戦で9回2死まで無失点ながら、そこから3失点を喫して敗戦投手になると、この試合から5試合は、自身が登板している間の味方打線の援護が5試合で僅か計2点しかなく、なかなか白星がつかなかった。9月8日のロッテ戦で2失点完投勝利をあげ、3年ぶりの二桁勝利を達成。最終的に防御率3点台も記録したが、好不調の波が激しく12敗を記録し与四球数はリーグ2位、暴投と与死球数はリーグ最多と制球を乱す試合も多かった、また援護率はパリーグでワースト2位の3.71となかなか打線の援護に恵まれなかった。一方で被本塁打は9本と少なかった。また、ロッテ戦では4勝4敗、交流戦では3勝1敗とまずまずの成績を残した一方で、西武戦では5戦4敗、防御率7.01と非常に相性が悪かった。
2011年は東日本大震災の影響で延期されて実施の4月12日に大阪ドームでの開幕戦で自身初の開幕投手を務め、02年全日本大学野球選手権大会決勝や2003年のオールスターゲーム第1戦同様に早稲田大学野球部出身のホークスの大黒柱和田毅と投げ合い9回0/3を自責点1。だが、12球団の開幕投手で唯一勝利がなく5月4日に登録抹消となった。その後、5月14日に1軍登録され、その日の日本ハム戦(函館市千代台公園野球場)に先発したが、2回1死から本塁打と連打で8失点で降板。セ・パ交流戦の阪急ブレーブスユニフォーム復刻試合の5月20日の対広島戦で7回1失点で相手の7番指名打者今村猛の犠牲バントも無難に処理しシーズン初白星を挙げたが、その後は先発で結果を残せず、7月11日の対西武戦で4回9安打6失点で2軍落ちした。その直後帰阪する道中の新横浜駅で偶然にも巨人時代のコーチである鹿取義隆に遭遇し、「ツーシームやチェンジアップを覚えたら?」と助言を受け、ツーシームを習得する[4]。その後昇格し、閉幕間際の10月15日の対日本ハム戦で、6回無失点の好投で漸く2勝目をあげた。シーズンを通しては、2勝7敗、防御率4.60と不本意な成績に終わった。
2012年はシーズン初登板となった4月8日の対楽天戦で4安打完封勝利をあげると、4月15日は一昨年かなり苦手にしていた西武相手に7回途中1失点の好投で、連勝スタートとなった。ところが、4月22日の対日本ハム戦で9回1失点の完投負けを喫したのを皮切りに打線の援護に恵まれず白星から遠ざかる。6月6日の対ヤクルト戦で一塁ベースカバーに入った際に、左太もも裏肉離れを発症して翌日1軍登録抹消。リハビリに努めていたある日、娘に「パパはどうして、昼間から家にいるの?」と尋ねられて戸惑い、その時に同僚の寺原隼人が「僕らは好きな野球をやっていればそれでいいかもしれないけれど、娘たちには肩身の狭い思いをさせられない」と発言したのを思い出して発奮し[5]、7月13日に再登録されると、3試合の救援登板を経て、オールスター明けに2試合連続完投勝利を挙げた。その後も先発投手としてシーズン終了までローテーションを守り抜き、防御率2.60、QS率66.7%と先発投手としての責務を果たしたものの、力投しても味方打線の援護に乏しい試合が多く、5勝9敗に終わった。契約更改では、2.60だった防御率が評価され1200万円増の6200万円で更改した。
2013年1月25日に糸井嘉男・八木智哉との交換トレードで赤田将吾・大引啓次と共に北海道日本ハムファイターズへ移籍した[6]。
日本ハム時代
同年5月20日の巨人戦では7回を1失点で勝利投手となり、史上12人目の全球団(近鉄を除く12球団)からの勝利を達成した[7]。なお、この試合では高校時代に投げ合った巨人先発の杉内に投げ勝ち、1998年夏の甲子園の鹿児島県大会決勝戦決勝で投げ負けて以来、約15年ぶりの投げ合いを制している[8][9]。同年シーズン終了まで先発ローテーションの一角を担い、2桁勝利には届かなかったものの、最終的にはブライアン・ウルフと並んでチームトップタイとなる9勝をマークした。
2014年には春季キャンプ中にインフルエンザへ感染。この年は若手投手の台頭で5試合しか登板できず、1勝3敗でシーズンを終えた。
2015年にはシーズン終盤まで1軍での登板機会がなく、イースタン・リーグ公式戦でも16試合の登板で0勝6敗、防御率7.67という成績に終わった[10]。9月18日に、翌年の戦力構想から外れていることが判明。他球団での現役続行の可能性などを熟慮した[11]結果、同月29日にこの年限りで現役を引退することを表明した[12]。翌30日には、この年初めての出場選手登録[13]を経て、対千葉ロッテ戦(札幌ドーム)の5回表に1イニング限定で登板。2奪三振を含む三者凡退という内容で、現役生活を締めくくった。11月27日付で、日本野球機構(NPB)から任意引退選手として公示[14]。
現役引退後
プレースタイル
2003年に自己最速152km/hを計測した[16]。
現役時代は2ケタ勝利を3度挙げる活躍を見せたが翌年は不本意な成績で終わっており、2年以上続けて活躍することができなかった。
人物
この選手の人物像に関する文献や情報源が必要です。 (2011年12月) |
地元薩摩川内市内には「木佐貫ロード」(距離約1.7km)なるものが存在する。そこは木佐貫本人が中学・高校時代にトレーニングをした場所であり、同選手の活躍と更なる人材輩出を願って、地元市民団体によって名づけられた。
登板時のBGMは入団してからずっとヴァン・ヘイレンの『JUMP』を使用している。打席に入るときはHOTEI & Charの『Stereo Castar』。
当時低迷していた巨人投手陣の再建を期待され招聘された尾花高夫投手コーチが実際に巨人の若手投手の投球を目にした際、「ソフトバンクを超える投手陣を作れる」とコメントしたが、特に木佐貫は「潜在能力は斉藤和巳クラス」と、そのポテンシャルが絶賛された。
2007年から背番号は21から41に変更した。原監督からは「巨人のトム・シーバーになってほしい」という期待のあらわれと、復活して欲しいという意味がこめられているものとみられる(巨人の41番は、かつての斎藤雅樹が着けていた番号でもある)。
几帳面な性格で日記を書く際には、文字を一定の間隔を空けて書くことがテレビ番組で紹介されたことがある。日記を書くことになったきっかけは、リハビリ中に当時巨人のチームリーダーの1人だった小久保裕紀に「苦しいときの記録を残しておけ」とすすめられたという。
いつでも謙虚で、前向きな姿勢がファンから慕われている。コーチからの助言を聞くときはもちろん、取材などでも直立不動と、生真面目な選手である。練習にも極めて熱心である。
ルーキーイヤーの2003年には、大学から同期で広島東洋カープの永川勝浩投手と、シーズン最後まで新人王争いを演じた。本人曰く、大雑把な性格だったが、亜細亜大に入ってから変わったと話している。
苦手なバッターは「赤星さんや井端さんのようなしつこいバッター」だが、質問に答えてから「ウチの大学の教えを実行しているひと(亜細亜大学の先輩)」と気が付いた。
2008年5月7日の阪神タイガース戦で金本知憲の頭部死球を与えた翌8日、試合前の練習中に本人のもとへ駆け寄って頭を下げて謝罪した。「また思い切り投げてこいよ。気にするなよ、大丈夫だから、と言われました」と、笑顔で対応した金本の気遣いに感謝していた。
歴史学に優れており、ズームイン!!サタデー内のコーナー『プロ野球熱ケツ情報』では、出題されたテーマにまつわる歴史上の人物について語ることが多い。
趣味は地図を持ちながらの街歩き。外出先のオープンテラスからラジオに電話出演したことがある[17]。シーズン中に遠征する際には、趣味と実用を兼ねて、必ず遠征先の地図を自前で持参するという。[18]
木佐貫が現役選手として在籍した時期の巨人は2008年の日本シリーズや2009年の日本シリーズに出場したが、木佐貫自身は登板機会を回避した。
高木康成との交換トレードが成立した際に、かねてから親交の深かった岡田彰布と原辰徳の間柄で成立した友情トレードであり、岡田を信頼した上でのトレードであったと言われた。また、清武英利は幹部候補生として修業に出す気持ちと語っており、将来的には巨人に復帰することも示唆していた[19]。
同じシーズンオフにオリックスへ移籍し、後に同時に日本ハムへ移籍した赤田将吾とは同郷(鹿児島県出身)同学年で、中学校時代に対戦している(結果は、当時投手だった赤田の1安打完封勝ち)。
巨人時代から、移動中などサインができない状況でファンに配る目的で、自身のベースボールカードに直筆サインを入れたものを持ち歩いている。サイン入れは遠征時などの空き時間を利用して行っており、1枚1枚に通し番号を入れた上に100円ショップで購入した小袋に入れるという几帳面さ。球団支給分では足りず自腹でカードを追加購入してまで配布を続けており、2012年には年間で約4000枚を配ったという[20]。
鉄道ファン
プロ野球界随一の鉄道ファン[21]。いわゆる撮り鉄ではなく、乗り鉄で、球場への移動に電車を利用することもある[22]。なお、鉄道路線図を眺めるのも好きとのこと[22]。また、阪急電鉄の車両の座席の高級感や手ざわりを気に入っているとも言う[23]。
2011年3月に全線開通した九州新幹線の宣伝活動にも意欲を燃やしていた[24][25]。因みに、2004年の部分開通時には出身地・川内駅で一日駅長を務めた。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2003 | 巨人 | 25 | 25 | 7 | 2 | 3 | 10 | 7 | 0 | -- | .588 | 736 | 175.0 | 168 | 18 | 44 | 3 | 7 | 180 | 6 | 1 | 74 | 65 | 3.34 | 1.21 |
2004 | 31 | 21 | 2 | 0 | 0 | 7 | 8 | 5 | -- | .467 | 643 | 139.2 | 168 | 20 | 50 | 3 | 11 | 154 | 1 | 0 | 92 | 78 | 5.03 | 1.56 | |
2005 | 14 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 0 | .000 | 56 | 13.2 | 13 | 1 | 3 | 0 | 0 | 17 | 0 | 0 | 6 | 6 | 3.95 | 1.17 | |
2006 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | .000 | 54 | 10.1 | 24 | 3 | 2 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 11 | 11 | 9.58 | 2.52 | |
2007 | 26 | 25 | 0 | 0 | 0 | 12 | 9 | 0 | 0 | .571 | 613 | 148.2 | 144 | 17 | 35 | 3 | 0 | 131 | 1 | 0 | 60 | 51 | 3.09 | 1.20 | |
2008 | 14 | 14 | 1 | 0 | 0 | 6 | 5 | 0 | 0 | .545 | 318 | 74.0 | 87 | 15 | 19 | 0 | 1 | 53 | 3 | 0 | 36 | 34 | 4.14 | 1.43 | |
2009 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 12 | 2.2 | 4 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 | 3 | 10.13 | 1.50 | |
2010 | オリックス | 28 | 28 | 4 | 1 | 0 | 10 | 12 | 0 | 0 | .455 | 767 | 174.1 | 174 | 9 | 71 | 0 | 13 | 140 | 11 | 1 | 85 | 77 | 3.98 | 1.41 |
2011 | 19 | 12 | 0 | 0 | 0 | 2 | 7 | 0 | 0 | .222 | 322 | 72.1 | 86 | 5 | 22 | 1 | 2 | 60 | 4 | 0 | 42 | 37 | 4.60 | 1.49 | |
2012 | 24 | 21 | 5 | 1 | 1 | 5 | 9 | 0 | 0 | .357 | 628 | 152.1 | 138 | 8 | 42 | 1 | 3 | 96 | 5 | 0 | 47 | 44 | 2.60 | 1.18 | |
2013 | 日本ハム | 24 | 24 | 2 | 1 | 1 | 9 | 8 | 0 | 0 | .529 | 620 | 145.0 | 141 | 10 | 50 | 1 | 5 | 95 | 8 | 0 | 64 | 59 | 3.66 | 1.32 |
2014 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | 0 | .250 | 115 | 26.0 | 29 | 1 | 7 | 0 | 0 | 21 | 1 | 0 | 12 | 9 | 3.12 | 1.38 | |
2015 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | 3 | 1.0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.00 | |
通算:13年 | 215 | 179 | 21 | 5 | 5 | 62 | 72 | 10 | 0 | .463 | 4887 | 1135.0 | 1176 | 109 | 345 | 12 | 42 | 958 | 40 | 2 | 532 | 474 | 3.76 | 1.34 |
- 2015年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
記録
この選手の記録に関する文献や情報源が必要です。 (2013年6月) |
- 投手記録
- 初登板・初先発:2003年3月30日、対中日ドラゴンズ3回戦(東京ドーム)、2回5失点で敗戦投手
- 初奪三振:同上、1回表に福留孝介から空振り三振
- 初勝利・初先発勝利:2003年4月25日、対横浜ベイスターズ3回戦(横浜スタジアム)、7回3失点
- 初完投勝利:2003年5月10日、対中日ドラゴンズ8回戦(東京ドーム)、9回2失点
- 初完封勝利:2003年7月29日、対中日ドラゴンズ18回戦(東京ドーム)
- 初セーブ:2004年7月4日、対広島東洋カープ18回戦(広島市民球場)、7回裏に4番手で救援登板・完了、3回2失点
- 1000投球回数:2013年5月8日、対東北楽天ゴールデンイーグルス7回戦(札幌ドーム)、5回表2死目にケイシー・マギーを左飛で打ち取り達成 ※史上332人目
- 打撃記録
- 初安打:2003年4月25日、対横浜ベイスターズ3回戦(横浜スタジアム)、3回表にクリス・ホルトから右前安打
- 初打点:2004年7月8日、対横浜ベイスターズ16回戦(東京ドーム)、3回裏に吉川輝昭から右越適時二塁打
- その他の記録
背番号
- 21 (2003年 - 2006年)
- 41 (2007年 - 2009年)
- 12 (2010年 - 2012年)
- 29 (2013年 - 2015年)
脚注
- ^ a b c d e f g 『プロ野球カラー名鑑 2008』ベースボール・マガジン社、2008年、16頁。ISBN 978-4-583-61526-4。
- ^ 鹿児島県大会はこの年まで準々決勝と準決勝の間に休養日がなく、日程の関係上、杉内は準決勝と決勝の2連投だったが、木佐貫は準々決勝から3日連続登板。準決勝は雨によりナイターゲームとなった為、翌日の決勝に疲労を残していた。鹿児島実業は1日の休養が有った。これを受けて県大会の日程に問題有りとされ、後に日程が見直される発端となった。
- ^ トレード成立のお知らせ
- ^ 木佐貫 鹿取氏とばったり 新横浜駅での立ち話が復調のきっかけ
- ^ “オリックス逆襲のキーマン、木佐貫洋を変えた“一言”。~寺原がくれた、復調のきっかけ~”. NUMBER Web. (2012年8月17日) 2012年10月10日閲覧。
- ^ “トレード(2012年度シーズン終了後 ~ )” (2013年1月25日). 2013年1月30日閲覧。
- ^ 【日本ハム】木佐貫、史上12人目の前12球団勝利
- ^ 同じ年、同じ鹿児島の高校出身…木佐貫 杉内に16年越しリベンジ - スポニチ Sponichi Annex 野球 2013年6月21日閲覧。
- ^ 杉内に勝った!木佐貫“青春のリベンジ” - 東スポWeb – 東京スポーツ新聞社 2013年6月21日閲覧。
- ^ 日本ハム木佐貫引退発表「お立ち台の景色忘れない」日刊スポーツ - 2015年9月29日
- ^ 日本ハム木佐貫来季構想外、1軍登板なし引退も視野日刊スポーツ - 2015年9月19日
- ^ ニュース | 木佐貫投手が現役引退を表明 | 北海道日本ハムファイターズ - 2015年9月29日
- ^ 日本ハムが木佐貫、矢野、高浜を登録日刊スポーツ - 2015年9月30日
- ^ 2015年度 任意引退選手 - 2015年11月28日閲覧
- ^ 【巨人】木佐貫、引退即スカウト転身!由伸監督支えるスポーツ報知 - 2015年12月12日
- ^ “将市:進化する新人”. 文化放送ホームランナイター. (2003年6月18日) 2015年12月23日閲覧。
- ^ 8月2日放送 お電話のゲストに木佐貫洋投手にご出演頂きました!
- ^ 前述『MBSたびぐみ』に出演した際の発言より
- ^ Bs木佐貫、誕生!球団待望の「右先発投手」獲得
- ^ 移籍初白星 ハム木佐貫の深イイ話とは… - 日刊スポーツ・2013年4月5日
- ^ “15勝を目指す鉄道マニア”. 週刊ベースボールONLINE. 週刊ベースボール. 2014年12月12日閲覧。
- ^ a b “「乗り鉄」日本ハム木佐貫の新連載開始”. 日刊スポーツ. (2013年7月5日) 2014年12月12日閲覧。
- ^ デイリースポーツ 2010年12月13日付記事「木佐貫、公認「九州新幹線宣伝マン」に」
- ^ 木佐貫、九州新幹線“投げる宣伝マン”だ デイリースポーツ 2010年10月26日 [リンク切れ]
- ^ Bs木佐貫「1日駅長でも」神戸-鹿児島が来年開通 スポーツニッポン 2010年10月26日
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 木佐貫洋 - NPB.jp 日本野球機構