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強靭かつ柔軟な下半身のバネを効かせた、'''ガゼルパンチ'''と呼ばれる必殺ブローの発案者でもある。日本の漫画、『[[はじめの一歩]]』の主人公である幕之内一歩の必殺技の一つであるガゼルパンチの由来は、このフロイド・パターソンが実際に使っていた技からきている。
強靭かつ柔軟な下半身のバネを効かせた、'''ガゼルパンチ'''と呼ばれる必殺ブローの発案者でもある。日本の漫画、『[[はじめの一歩]]』の主人公である幕之内一歩の必殺技の一つであるガゼルパンチの由来は、このフロイド・パターソンが実際に使っていた技からきている。


ヘビー級としては小柄だったが、ピーカブー・スタイルから放たれるパンチの切れは抜群で、1960年に[[インゲマル・ヨハンソン]]を左フック一撃で失神させた試合は、今もファンの語り草となっている。
ヘビー級としては小柄だったが、それを活かしたピーカブー・スタイルから放たれるパンチの切れは抜群で、1960年に[[インゲマル・ヨハンソン]]を左フック一撃で失神させた試合は、今もファンの語り草となっている。


21歳11か月でのヘビー級王座獲得の記録は[[マイク・タイソン]]に破られるまでの最年少記録であった。なお、この両ボクサーのトレーナーは奇しくも同じ[[カス・ダマト]]である。
21歳11か月でのヘビー級王座獲得の記録は[[マイク・タイソン]]に破られるまでの最年少記録であった。なお、この両ボクサーのトレーナーは奇しくも同じ[[カス・ダマト]]である。

2016年11月24日 (木) 14:09時点における版

フロイド・パターソン
基本情報
本名 フロイド・パターソン
通称 ボクシングの紳士
階級 ヘビー級
身長 183cm
リーチ 180cm
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
誕生日 (1935-01-04) 1935年1月4日
出身地 アメリカ合衆国ノースカロライナ州
クリーヴランド郡ワコー町
死没日 (2006-05-11) 2006年5月11日(71歳没)
死没地 アメリカ合衆国ニューヨーク州
ニューヨーク市ブルックリン区
スタイル オーソドックス
プロボクシング戦績
総試合数 64
勝ち 55
KO勝ち 40
敗け 8
引き分け 1
テンプレートを表示
獲得メダル
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
男子 ボクシング
オリンピック
1952 ヘルシンキ ミドル級

フロイド・パターソンFloyd Patterson1935年1月4日 - 2006年5月11日)は、アメリカ合衆国の男性プロボクサーノースカロライナ州出身。元世界ヘビー級王者。

強靭かつ柔軟な下半身のバネを効かせた、ガゼルパンチと呼ばれる必殺ブローの発案者でもある。日本の漫画、『はじめの一歩』の主人公である幕之内一歩の必殺技の一つであるガゼルパンチの由来は、このフロイド・パターソンが実際に使っていた技からきている。

ヘビー級としては小柄だったが、それを活かしたピーカブー・スタイルから放たれるパンチの切れは抜群で、1960年にインゲマル・ヨハンソンを左フック一撃で失神させた試合は、今もファンの語り草となっている。

21歳11か月でのヘビー級王座獲得の記録はマイク・タイソンに破られるまでの最年少記録であった。なお、この両ボクサーのトレーナーは奇しくも同じカス・ダマトである。

なお、元WBC世界スーパーバンタム級&IBF世界スーパーフェザー級の2階級王者トレイシー・ハリス・パターソンは養子。

来歴

  • 1952年6月、ヘルシンキオリンピックで金メダル獲得。9月12日、プロデビュー。
  • 1956年11月30日、空位の世界ヘビー級タイトルをライトヘビー級の名王者アーチー・ムーアと争い、5ラウンドKO勝利で獲得。4度防衛。
  • 1959年6月26日、インゲマル・ヨハンソンに3ラウンドTKOで敗れ、タイトルを失う。この試合はリングマガジン アップセット・オブ・ザ・イヤーに選出された。
  • 1960年6月20日、インゲマル・ヨハンソンに5ラウンドKOで勝利し、タイトルを取り戻す。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された。同王座は2度防衛。
  • 1962年9月25日、ソニー・リストンに1ラウンドKOで敗れ、タイトルを失う。
  • 1963年7月22日、ソニー・リストンの持つ世界ヘビー級タイトルに挑戦するが、1ラウンドKOで敗れる。
  • 1965年2月1日、ジョージ・チュバロと対戦し、判定勝ち。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された。
  • 1965年11月22日、モハメド・アリの持つ世界ヘビー級タイトルに挑戦するが、12ラウンドTKOで敗れる。当時アリはネーション・オブ・イスラム入信を公表しアメリカ社会を激しく批判していた「白人の意のままにならない黒人」だった。パターソンはそれを止めるベビーフェイスとして担ぎ出された。彼もこの報道攻勢に乗せられる形で「タイトルをアメリカに戻す[1]」と発言。それを聞いたアリは失望し、憧れでもあった彼に対して「アンクルトム」と罵り、試合中もレフェリーが止めるまで決定的な強打を打たずパターソンを痛めつけ続けた。
  • 1968年9月14日、ジミー・エリスの持つ世界ヘビー級タイトルに挑戦するが、判定で敗退。
  • 1972年9月20日、モハメド・アリの持つNABFヘビー級タイトルに挑戦するが、7ラウンドTKO負け。この試合を最後に引退した。
  • 引退後はニューヨーク州アスレチックコミッションのコミッショナーを務めていたが、現役時代のダメージからアルツハイマー病を発症、妻の名前を覚えられないほどの記憶障害が原因でアスレチックコミッションを辞任した[2]

戦績

  • プロボクシング戦績: 64戦 55勝 40KO 8敗 1分

脚注

関連項目

外部リンク