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[[1971年]][[8月]]に[[中山競馬場|中山]]芝1000mの新馬戦でデビューし、2着に終わったが、2週間後の未勝利戦では1番人気に推されて初勝利を挙げる。その後は勝星を挙げることこそ出来なかったが、2着2回を含めて[[競馬場 #掲示板|掲示板]]を一度も外さなかった。最終戦の寒菊賞では5着に敗れているが、勝ったのは同期で後に[[JRA賞|年度代表馬]]にも輝く[[イシノヒカル]]だった。この頃から堅実さと頑丈さを見せていた。[[1972年]]は[[5月]]に始動して条件戦を使いまくり、クローバー賞(200万下)<ref>現在[[札幌競馬場]]で行われている同名のレースとは別。</ref>と鹿島灘特別(400万下)を制し、[[10月]]に東京で行われた[[オールカマー]]に出走。700万条件の身であったため11頭中9番人気の低評価であったが、[[ハクホオショウ]]・[[オンワードガイ]]ら有力馬を抑えて勝利し、デビュー17戦目で重賞初挑戦・初制覇となった。その後は[[カブトヤマ記念]]7着、[[愛知杯]]・[[CBC賞]]4着だった。[[1973年]]は始動戦の[[中山金杯|金杯(東)]]6着を皮切りに10連敗を喫し、掲示板に載ったのも[[金鯱賞]]・[[京成杯オータムハンデキャップ|京王杯AH]]5着の2戦だけと散々なものだった。10月の府中特別(700万下)で1番人気に応え、2着に4馬身差をつける快勝で連敗を脱出。1年ぶりの勝利でシーズン全敗を阻止。[[1974年]]は前年同様で金杯から始動し、前年の不振もあって17頭中12番人気であったが、クビ差で勝利して2年ぶりの重賞2勝目を飾った。続く[[東京新聞杯]]は11着に大敗したが、その後は安定して掲示板に載り続け、[[6月]]に[[大井競馬場|大井]]で行われた[[地方競馬招待競走|中央招待]]では[[ゴールドイーグル]]([[愛知県競馬組合|愛知]])の2着に入り、中央馬最先着となった。[[11月]]の[[目黒記念|目黒記念(秋)]]では[[カミノテシオ]]・[[スガノホマレ]]・[[イチフジイサミ]]ら強力馬を抑え、重賞3勝目を挙げた。[[1975年]]はダートのオープン戦2着と上々の滑り出しを見せ、[[アルゼンチン共和国杯]]3着の後、[[宝塚記念]]では4番人気で[[ナオキ]]の4着と健闘。夏は北海道シリーズに初めて参戦し、大雪ハンデ8着・巴賞7着の後、[[函館記念]]で[[ツキサムホマレ]]の3着に入る。連覇を狙った目黒記念では13頭中11番人気だったが、[[トウコウエルザ]]・イチフジイサミ・カミノテシオに先着。続く[[天皇賞(秋)]]は12着と大敗。さすがに「もう限界か」と思われたが、シーズン最終戦の愛知杯で6番人気ながら1馬身半離して重賞4勝目を挙げた。13戦目での勝利で結局これが最後の勝利となった。[[1976年]]は金杯から始動し、2・3週間に1走という例年以上の超ハイペースで出走を続け、春秋天皇賞や[[安田記念]]にも出走。[[2月]]に中京で行われたオープン戦2着を最後に連対からも遠ざかったが、一線級を相手に走り続けた。愛知杯5着がラストランとなり、同年をもって現役を引退。 |
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=== 引退後 === |
=== 引退後 === |
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本来なら[[種牡馬]]になってもおかしくない成績だが、サラ系という血統面で大きなハンデを背負っていたために断念。美しい馬体を活かして東京競馬場の[[誘導馬]]として[[1980年代]]後半まで活躍。その後は不明。 |
本来なら[[種牡馬]]になってもおかしくない成績だが、サラ系という血統面で大きなハンデを背負っていたために断念。美しい馬体を活かして東京競馬場の[[誘導馬]]として[[1980年代]]後半まで活躍。その後は不明。 |
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== 主な実績 == |
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* 1着 |
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** [[オールカマー]](1972年) |
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** [[中山金杯|金杯(東)]](1974年) |
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** [[目黒記念|目黒記念(秋)]](1974年) |
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** [[愛知杯]](1975年) |
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** クローバー賞(200万下)(1972年) |
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** 鹿島灘特別(400万下)(1972年) |
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** 府中特別(700万下)(1973年) |
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* 2着 |
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** [[地方競馬招待競走|中央競馬招待競走]](1974年) |
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** 3歳抽せん馬特別(400万下)(1971年) |
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** 尾花賞(100万下)(1972年) |
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** 新涼賞(400万下)(1972年) |
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** トパーズステークス(800万下)(1973年) |
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* 3着 |
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** 目黒記念(春)(1974年) |
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** [[ダイヤモンドステークス]](1974年) |
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** [[アルゼンチン共和国杯]](1975年) |
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** [[函館記念]](1975年) |
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** 目黒記念(秋)(1975年) |
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** 巴賞(オープン)(1976年) |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
2017年2月7日 (火) 00:52時点における版
イナボレス | |
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品種 | サラブレッド系種 |
性別 | 牡 |
毛色 | 栗毛 |
生誕 | 1969年5月30日 |
父 | ヘリオス |
母 | ボーレスクイン |
母の父 | カバーラップ二世 |
生国 |
日本 北海道静内郡静内町 |
生産者 | 長尾力吉 |
馬主 |
稲富稜人 (有)イナトミ |
調教師 | 大久保末吉(東京) |
競走成績 | |
生涯成績 | 76戦8勝 |
獲得賞金 | 1億5764万4000円 |
勝ち鞍 |
オールカマー(1972年) 金杯(東)(1974年) 目黒記念(秋)(1974年) 愛知杯(1975年) |
イナボレス(1969年5月30日 - ?)は、日本中央競馬会に所属していた競走馬・誘導馬。「花の47年組」の一頭で、中央競馬重賞最多出走記録保持馬[1]。
別名「走る労働者」。
経歴
純粋なサラブレッドではなく、サラブレッド系種である。父のヘリオスは重賞4勝(1960年・1961年京都記念(秋)、1960年京都盃、1961年阪神大賞典)を挙げ、1960年と1961年には2年連続で最良スプリンターに選出されたハイペリオン系のサラブレッドであったが、母のボーレスクインの母系を遡ると、江戸幕府第13代将軍・徳川家茂にフランス皇帝・ナポレオン3世が贈ったアングロアラブの高砂に辿り着く。
抽選馬であったが、当時民社党所属の衆議院議員であった稲富稜人がオーナーとなり、東京・大久保末吉[2]厩舎に入厩。
戦績
1971年8月に中山芝1000mの新馬戦でデビューし、2着に終わったが、2週間後の未勝利戦では1番人気に推されて初勝利を挙げる。その後は勝星を挙げることこそ出来なかったが、2着2回を含めて掲示板を一度も外さなかった。最終戦の寒菊賞では5着に敗れているが、勝ったのは同期で後に年度代表馬にも輝くイシノヒカルだった。この頃から堅実さと頑丈さを見せていた。1972年は5月に始動して条件戦を使いまくり、クローバー賞(200万下)[3]と鹿島灘特別(400万下)を制し、10月に東京で行われたオールカマーに出走。700万条件の身であったため11頭中9番人気の低評価であったが、ハクホオショウ・オンワードガイら有力馬を抑えて勝利し、デビュー17戦目で重賞初挑戦・初制覇となった。その後はカブトヤマ記念7着、愛知杯・CBC賞4着だった。1973年は始動戦の金杯(東)6着を皮切りに10連敗を喫し、掲示板に載ったのも金鯱賞・京王杯AH5着の2戦だけと散々なものだった。10月の府中特別(700万下)で1番人気に応え、2着に4馬身差をつける快勝で連敗を脱出。1年ぶりの勝利でシーズン全敗を阻止。1974年は前年同様で金杯から始動し、前年の不振もあって17頭中12番人気であったが、クビ差で勝利して2年ぶりの重賞2勝目を飾った。続く東京新聞杯は11着に大敗したが、その後は安定して掲示板に載り続け、6月に大井で行われた中央招待ではゴールドイーグル(愛知)の2着に入り、中央馬最先着となった。11月の目黒記念(秋)ではカミノテシオ・スガノホマレ・イチフジイサミら強力馬を抑え、重賞3勝目を挙げた。1975年はダートのオープン戦2着と上々の滑り出しを見せ、アルゼンチン共和国杯3着の後、宝塚記念では4番人気でナオキの4着と健闘。夏は北海道シリーズに初めて参戦し、大雪ハンデ8着・巴賞7着の後、函館記念でツキサムホマレの3着に入る。連覇を狙った目黒記念では13頭中11番人気だったが、トウコウエルザ・イチフジイサミ・カミノテシオに先着。続く天皇賞(秋)は12着と大敗。さすがに「もう限界か」と思われたが、シーズン最終戦の愛知杯で6番人気ながら1馬身半離して重賞4勝目を挙げた。13戦目での勝利で結局これが最後の勝利となった。1976年は金杯から始動し、2・3週間に1走という例年以上の超ハイペースで出走を続け、春秋天皇賞や安田記念にも出走。2月に中京で行われたオープン戦2着を最後に連対からも遠ざかったが、一線級を相手に走り続けた。愛知杯5着がラストランとなり、同年をもって現役を引退。
引退後
本来なら種牡馬になってもおかしくない成績だが、サラ系という血統面で大きなハンデを背負っていたために断念。美しい馬体を活かして東京競馬場の誘導馬として1980年代後半まで活躍。その後は不明。
参考文献
- 荒井和生『競馬陽炎座 - 時代の真ん中を走れなかった馬たち』(日本短波放送、1996年)ISBN 978-4931367067