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城東高等学校(現・[[高知中学校・高等学校|高知高等学校]])で[[1955年]]の[[夏の甲子園]]大会に出場しベスト8。卒業後は[[近畿大学]]を経て[[1960年]]に北陽高校に赴任、同時に野球部監督に就任。「'''高校野球は技術より精神力。闘志と忍耐無き者は去れ。'''」を[[モットー]]に、[[1990年]]に勇退するまで夏4回、春6回、計10回甲子園出場を果たし、[[1970年]]の[[選抜高校野球大会]]ではチームを準優勝へ導く。
城東高等学校(現・[[高知中学校・高等学校|高知高等学校]])で[[1955年]]の[[夏の甲子園]]大会に出場しベスト8。卒業後は[[近畿大学]]を経て[[1960年]]に北陽高校に赴任、同時に野球部監督に就任。「'''高校野球は技術より精神力。闘志と忍耐無き者は去れ。'''」を[[モットー]]に、[[1990年]]に勇退するまで夏4回、春6回、計10回甲子園出場を果たし、[[1970年]]の[[選抜高校野球大会]]ではチームを準優勝へ導く。


また「来る者は拒まず。」の方針で監督在任中は例年部員を200人以上抱えていたが、新1年生の顔写真をポケットアルバムに入れて顔と名前を覚えたり、選手一人一人と交換日記を行なうなどの細かい配慮のおかげか、不祥事らしい不祥事は起こさなかったそうである。他には、あの[[前田日明]]も恐れ慄いた武勇伝あるとかないとか。
また「来る者は拒まず。」の方針で監督在任中は例年部員を200人以上抱えていたが、新1年生の顔写真をポケットアルバムに入れて顔と名前を覚えたり、選手一人一人と交換日記を行なうなどの細かい配慮のおかげか、不祥事らしい不祥事は起こさなかったそうである。他には、あの[[前田日明]](卒業生)も恐れ慄いた武勇伝あるとかないとか。


==甲子園での成績==
*春:出場6回・8勝5敗・準優勝1回(1970年)
*夏:出場2回・3勝3敗
*通算:出場8回(+部長として1973年春夏1回ずつ)・11勝8敗・準優勝1回


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[尾藤公]](1979年の箕島高甲子園春夏連覇の影響で翌春、部員が急増したため、大所帯での指導法を松岡に教わった)
*[[尾藤公]]
*[[岡田彰布]]
*[[岡田彰布]]
*[[和歌山県立箕島高等学校]]
*[[和歌山県立箕島高等学校]]

2006年8月22日 (火) 06:46時点における版

松岡 英孝(まつおか ひでたか、1937年10月14日- )は、大阪北陽高等学校野球部元監督で、元ABC朝日放送高校野球解説者。高知県出身。

城東高等学校(現・高知高等学校)で1955年夏の甲子園大会に出場しベスト8。卒業後は近畿大学を経て1960年に北陽高校に赴任、同時に野球部監督に就任。「高校野球は技術より精神力。闘志と忍耐無き者は去れ。」をモットーに、1990年に勇退するまで夏4回、春6回、計10回甲子園出場を果たし、1970年選抜高校野球大会ではチームを準優勝へ導く。

また「来る者は拒まず。」の方針で監督在任中は例年部員を200人以上抱えていたが、新1年生の顔写真をポケットアルバムに入れて顔と名前を覚えたり、選手一人一人と交換日記を行なうなどの細かい配慮のおかげか、不祥事らしい不祥事は起こさなかったそうである。他には、あの前田日明(卒業生)も恐れ慄いた武勇伝があるとかないとか。

甲子園での成績

  • 春:出場6回・8勝5敗・準優勝1回(1970年)
  • 夏:出場2回・3勝3敗
  • 通算:出場8回(+部長として1973年春夏1回ずつ)・11勝8敗・準優勝1回

関連項目