コンテンツにスキップ

「蔦文也」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
8行目: 8行目:
[[1980年]]頃から、芯を少々外していても筋力があれば打球を飛ばせる金属バットの特性を最大限に生かすため、筋力トレーニングを積極的に行い「やまびこ打線」というニックネームがついた強力打線で、以後の高校野球のスタイルをも変えてしまった。チームも[[1982年]]夏、[[1983年]]春と連覇し、名実ともに黄金時代を迎える。当時の池田高校は、類まれなる強さと、蔦監督のキャラクターもあり、高校野球史上屈指の人気校であった。
[[1980年]]頃から、芯を少々外していても筋力があれば打球を飛ばせる金属バットの特性を最大限に生かすため、筋力トレーニングを積極的に行い「やまびこ打線」というニックネームがついた強力打線で、以後の高校野球のスタイルをも変えてしまった。チームも[[1982年]]夏、[[1983年]]春と連覇し、名実ともに黄金時代を迎える。当時の池田高校は、類まれなる強さと、蔦監督のキャラクターもあり、高校野球史上屈指の人気校であった。


監督として甲子園に春夏通算14回(代理監督での出場を含めると15回)出場し、37勝(歴代3位)、優勝3回、準優勝2回という素晴らしい成績を残すも、蔦68歳・監督就任40年目の[[1992年]]に勇退した。同年7月には「池田町名誉町民第1号」に選ばれた。その後の数年間、野球部の顧問を務めていたが、体調を崩し入退院を繰り返していた。そして[[2001年]][[4月28日]]に[[肺がん]]のため[[池田町 (徳島県)|池田町]]内の[[病院]]で死去した。享年77。蔦の自宅は今も[[四国旅客鉄道|JR]][[阿波池田駅]]の近くに残っている。
監督として甲子園に春夏通算14回(岡田康志コーチが指揮を代理した1991年夏を含めると15回)出場し、37勝、優勝3回、準優勝2回という素晴らしい成績を残すも、蔦68歳・監督就任40年目の[[1992年]]に勇退した。同年7月には「池田町名誉町民第1号」に選ばれた。その後の数年間、野球部の顧問を務めていたが、体調を崩し入退院を繰り返していた。そして[[2001年]][[4月28日]]に[[肺がん]]のため[[池田町 (徳島県)|池田町]]内の[[病院]]で死去した。享年77。蔦の自宅は今も[[四国旅客鉄道|JR]][[阿波池田駅]]の近くに残っている。


==プロ時代の成績==
==プロ時代の成績==

2006年8月22日 (火) 10:29時点における版

蔦 文也(つた ふみや、1923年8月28日 - 2001年4月28日)は、東急フライヤーズの元投手であり、また徳島県立池田高等学校野球部の元監督

略歴

1923年8月28日に徳島県徳島市で生まれ、旧家の一人息子として裕福に育った。徳島県立商業学校に進学し、1939年一塁手として)、1940年の春・に(投手として)甲子園に出場した。徳島商業卒業後、同志社大学経済学部に入学し野球部に所属するが、学徒出陣で太平洋戦争に出征。戦争から復員後、1950年東急フライヤーズに投手として入団したが、わずか1年で退団し帰郷した。故郷・徳島に戻った彼に対する風当たりは強かった。雇ってくれる職場が無く焦燥感にかられていたが、あるとき池田高校野球部で指導者を探しているという話を耳にした。

こうして首尾よく1951年から池田高校に社会科教諭として赴任することができた蔦であるが、彼の授業はいつも本題そっちのけで専ら野球の話でもちきりだった。翌1952年から同校の野球部監督に就任。しかし当時の野球部には、戦後の物不足の影響によりボール3個とバット2本だけしかなかった。28歳の蔦に対して不安と焦りが襲い掛かる中、野球部監督としてまた一教師として試練の日々がはじまった。長い間母校・徳商の厚い壁に跳ね返され続けたが、20年が過ぎた1971年夏、ついに甲子園初出場を果たした。1974年春には、「さわやかイレブン」と呼ばれたわずか11人の部員で準優勝。1979年夏にも箕島高校に惜敗したものの準優勝。

1980年頃から、芯を少々外していても筋力があれば打球を飛ばせる金属バットの特性を最大限に生かすため、筋力トレーニングを積極的に行い「やまびこ打線」というニックネームがついた強力打線で、以後の高校野球のスタイルをも変えてしまった。チームも1982年夏、1983年春と連覇し、名実ともに黄金時代を迎える。当時の池田高校は、類まれなる強さと、蔦監督のキャラクターもあり、高校野球史上屈指の人気校であった。

監督として甲子園に春夏通算14回(岡田康志コーチが指揮を代理した1991年夏を含めると15回)出場し、37勝、優勝3回、準優勝2回という素晴らしい成績を残すも、蔦68歳・監督就任40年目の1992年に勇退した。同年7月には「池田町名誉町民第1号」に選ばれた。その後の数年間、野球部の顧問を務めていたが、体調を崩し入退院を繰り返していた。そして2001年4月28日肺がんのため池田町内の病院で死去した。享年77。蔦の自宅は今もJR阿波池田駅の近くに残っている。

プロ時代の成績

年度 チーム 背番号 試合 完投 勝利 敗戦 セーブ 投球回 安打 四球 三振 防御率
1950 東急 16 5 0 0 1 10 21 8 3 11.70

甲子園での成績

  • 春:出場7回・21勝5敗・優勝2回(1983年、1986年)・準優勝2回(1974年)
  • 夏:出場7回・16勝6敗・優勝1回(1982年)・準優勝1回(1979年)
  • 通算:出場14回・37勝11敗(勝利数は2006年夏現在、歴代6位)・優勝3回・準優勝2回

攻めダルマと酒

鋭い打球が自慢のパワー野球で、対戦相手を次々にねじ伏せた池高野球。その攻撃力から蔦は「攻めダルマ」と畏れられていた。その愛称から強気な性格が連想されるが、実際の蔦はものすごく臆病な性格で、初めて甲子園に出場するまでは3点リードされていても「もうダメじゃ。帰り支度や」と試合を捨てることもあったという。またの力を借りて臆病な性格を隠す傾向も見られ(蔦は「ワシから野球と酒を取ったら何も残らん」とも公言していた)、池田町界隈では泥酔した蔦の姿がよく見かけられたという。また蔦が酒飲みであったことは池田町ばかりか三好郡内でも有名だった。

蔦語録

  • 「そんなことやったら、いつまでたっても徳商に勝てんぞ」 - 甲子園初出場以前の口癖
  • 「山間の町の子供たちに一度でいいから大海を見せてやりたかったんじゃ」 - 1971年夏、甲子園初出場時。この言葉は校門横の石碑にも刻まれている。
  • 「さわやかでも何でもない。ワシのしごきがきついけん、ついていけんようになっただけじゃ。」 - 1974年春(さわやかイレブンで準優勝時)
  • 「甲子園はいっぺん味をしめると忘れられへん。ワシは池田に骨を埋めるつもりじゃ。私学は制約が多いし、他県にもよう出ていかんし…」 - 1982年夏(初の全国制覇のとき)
  • 「ワシはバントとかコツコツ当てていく野球は嫌いなんじゃ。野球に理屈はいらん。思い切り、のびのび打ったらええんじゃ」 - 1982年
  • 「ワシがノックバットを離すときは監督を辞める時。ワシは死ぬまで離さんぞ」 - 1987年

その他

蔦が東急フライヤーズに在籍した年の同僚に塩瀬盛道がいた。塩瀬がプロ野球史に残る「公式戦唯一の打席で初球をホームラン」という記録を作った試合(1950年5月11日大映スターズ戦)では塩瀬の後に登板している。後年、高校野球の監督として有名になってからこの試合のことを聞かれたが、よく覚えていないという返事であった。

関連項目