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古典を中心に持ちネタの数が非常に多く、爆笑落語から人情噺まで幅も広かった。登場人物の描き別けがきわめて明瞭で聴き取りやすく、よく練られた構成も無駄なく確かで「楷書で書いたような落語」と評される。老若男女、誰にでもわかりやすく<ref name=sekiyama/>、しかも過剰な演出はしない。ラジオの寄席番組に度々出演し、その芸風から親しまれた。若い頃、第一次落語研究会の準幹部で実力派であり、旅回りの演芸一座(柳家金語楼も7歳の時、そこでデビュー)を持っていた2代目三遊亭金馬が、三遊派の分裂騒ぎで地方に旅回りに出たのに随行し、腕を磨いた。1913年にはやはり落語研究会準幹部で噺のうまさに定評があった[[朝寝坊むらく]](橋本卯三郎)が、橘家圓蔵との |
古典を中心に持ちネタの数が非常に多く、爆笑落語から人情噺まで幅も広かった。登場人物の描き別けがきわめて明瞭で聴き取りやすく、よく練られた構成も無駄なく確かで「楷書で書いたような落語」と評される。老若男女、誰にでもわかりやすく<ref name=sekiyama/>、しかも過剰な演出はしない。ラジオの寄席番組に度々出演し、その芸風から親しまれた。若い頃、第一次落語研究会の準幹部で実力派であり、旅回りの演芸一座(柳家金語楼も7歳の時、そこでデビュー)を持っていた2代目三遊亭金馬が、三遊派の分裂騒ぎで地方に旅回りに出たのに随行し、腕を磨いた。1913年にはやはり落語研究会準幹部で噺のうまさに定評があった[[朝寝坊むらく]](橋本卯三郎)が、橘家圓蔵との立花家橘之助を巡る諍いから殴打事件を起こし、名前を返上して橋本川柳(後の[[三遊亭圓馬#3代目|3代目三遊亭圓馬]])を名乗り、東京を離れ旅に出た。彼の落語に傾倒していた金馬は噺を教わりたくてこれについて行き、稽古をつけてもらいながら大阪まで随行した。同じ頃、若き日の[[桂文楽 (8代目)|8代目桂文楽]]も圓馬に稽古を付けてもらっているが、金馬は圓馬の豪快な面を、文楽は繊細な面を継承したと評される{{要出典|date=2015年12月}}。 |
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金馬は存命中、ラジオや有線放送、レコードなどを通じて老若男女問わず国民的な人気があった。それにも関わらず、読書家で故事風俗・古典にも通じた博識を煙たがられたためか、[[久保田万太郎]]やその弟子[[安藤鶴夫]]などの評論家とは不仲で、不当に低く評価された。{{要出典範囲|俳人・劇作家で評論家の久保田万太郎は、第三次落語研究会の会長にも就任したが、爆笑落語や新作落語を嫌い、落語を「鑑賞」する芸術としてみずからの高邁な価値観を押し付けようとしたところがあった。落語研究会の発起人の1人でもあった金馬を「話芸における幅と深みに欠ける」と一方的に断じ、決して評価しなかった。金馬ファンからは久保田の方が「落語を聴くセンスが根本的に欠如していたのではないか」と酷評される所以ともなっている。|date=2015年12月}} |
金馬は存命中、ラジオや有線放送、レコードなどを通じて老若男女問わず国民的な人気があった。それにも関わらず、読書家で故事風俗・古典にも通じた博識を煙たがられたためか、[[久保田万太郎]]やその弟子[[安藤鶴夫]]などの評論家とは不仲で、不当に低く評価された。{{要出典範囲|俳人・劇作家で評論家の久保田万太郎は、第三次落語研究会の会長にも就任したが、爆笑落語や新作落語を嫌い、落語を「鑑賞」する芸術としてみずからの高邁な価値観を押し付けようとしたところがあった。落語研究会の発起人の1人でもあった金馬を「話芸における幅と深みに欠ける」と一方的に断じ、決して評価しなかった。金馬ファンからは久保田の方が「落語を聴くセンスが根本的に欠如していたのではないか」と酷評される所以ともなっている。|date=2015年12月}} |
2019年5月20日 (月) 04:52時点における版
3代目 | |
1951年 | |
本名 | 加藤専太郎 |
---|---|
生年月日 | 1894年10月25日 |
没年月日 | 1964年11月8日(70歳没) |
出身地 | 日本・東京府 (現・東京都墨田区) |
死没地 | 日本・東京都 |
師匠 | 初代 三遊亭圓歌 |
名跡 | 1.三遊亭歌当(1913年 - 1915年) 2.2代目 三遊亭歌笑(1915年 - 1919年) 3.三遊亭圓洲(1919年 - 1926年) 4.3代目 三遊亭金馬(1926年 - 1964年) |
活動期間 | 1913年 - 1964年 |
所属 | 落語協会(1923年 - 1934年) 東宝名人会(1934年 - 1964年) |
主な作品 | |
「居酒屋」「茶の湯」「佃祭」「浮世床」「死神(誉れの幇間)」 | |
受賞歴 | |
1956年:第7回放送文化賞受賞 | |
3代目 三遊亭 金馬(さんゆうてい きんば、1894年10月25日 - 1964年11月8日)は東京府東京市本所(現・東京都墨田区本所)生まれの日本の落語家。家業は洋傘屋であった。大正・昭和時代に活躍した名人の一人。本名は加藤 専太郎(かとう せんたろう)[1]。出囃子は「本調子カッコ」。
初代三遊亭圓歌の門下だが、名人と呼ばれた初代柳家小せんや、橋本川柳(後の3代目三遊亭圓馬)にも多くを学んだ[1]。読書家で博学。持ちネタの幅が広く、発音や人物の描き別けが明瞭で、だれにでもわかりやすい落語に定評がある[1]。
当初は落語協会に所属、のちに東宝に所属したが、実質的にフリーであった。
人物・略歴
1894年10月25日、東京府東京市本所(現・東京都墨田区本所)に生まれる[2]。
小学校卒業後、本所林町[3]の実家を出て本所相生町[4]で経師屋をしていた伯父の元で奉公修行。近所にあった広瀬という寄席に入り浸り、はじめ講談(講釈)を志し、1912年に講談師の放牛舎桃李(放手金桃李、揚名舎桃李、2代目放牛舎桃林とも)に入門。しかし、講釈を始めると客が笑ってしまうため、噺家の方がむくといわれ、講談には見切りを付けた[2]。1913年12月、落語の三遊亭圓歌(初代)にスカウトされて入門、三遊亭歌当を名乗った[2][注釈 1]。入門して2年にも満たない大正4年、二つ目に昇進し、三遊亭歌笑(2代目)を襲名。1919年末には三遊亭圓洲に改名し、翌1920年には入門から6年、26歳で真打に昇進した。師匠と反りが合わなかったにもかかわらず、後に名人上手と呼ばれた同時代の8代目桂文楽や6代目三遊亭圓生、5代目古今亭志ん生らと比べても異例のスピード出世である。
1926年4月、31歳で3代目三遊亭金馬を襲名、1930年にはニットーレコード専属の噺家になり、以降、多くの落語をレコードに吹き込んだ。1934年には東宝の専属となり、東宝名人会の常連となるが、東宝系以外の寄席には出演しなくなった[注釈 2]。40歳であった。 1934年に小林一三によって東宝名人会が設立されたときには、実質的な専属となり、落語協会から脱退して寄席から離れた。後に東宝傘下となった神田須田町の立花には時々出たが、他の寄席には「のせもの」(客演)として出たことはあっても通常の形で出ることはなかった。1949年に立花が廃業すると、そのままでは弟子たちの修行の場が得られないため、主な弟子は自分のもとから離した。たとえば、歌笑(3代目)は落語協会に所属する弟弟子2代目三遊亭円歌に、金太郎(のちの2代目桂小南)は落語芸術協会に所属する桂小文治に預けている。小金馬(4代目三遊亭金馬)は、NHKのテレビ番組『お笑い三人組』の収録で忙殺されており、高座に上がりたくても上がることができないような状態であった。そのため当代(4代目)は、師(3代目)の存命のあいだ師とともに終始東宝名人会に所属し、寄席には出なかった。
1954年2月5日、千葉県佐倉へタナゴ釣りの帰りに総武線の線路を歩き、鉄橋を渡っているときに列車にはねられそれが元で左足を切断する。奇跡的にも一命を取りとめた金馬は放送の約束が気になっていたのか、病院の手術台で麻酔が効き始めると『野ざらし』を一席うかがう[2][注釈 3]。半年後に退院し、高座にも復帰したが釈台で足を隠しての板つきであった[2]。出と引っ込みの時は必ず緞帳(どんちょう)を下ろしており、自分の不自由な足を見せないよう心がけたが、これは自分の大好きな釣りのせいだと思われたくない、という金馬の意地でもあった。そのおかげでファンは事故後も変わらぬ金馬節を楽しむことができた。1956年、第7回のNHK放送文化賞を受賞。
1964年11月8日、肝硬変のため入院中の東京都新宿区の慶應病院で死去[5]、70歳没。
肝硬変で死ぬ直前、死を知った初代柳家小せんが、自ら新聞に死亡広告をだしたという例にならって金馬もまた死亡通知を作成した。
芸風・評価
古典を中心に持ちネタの数が非常に多く、爆笑落語から人情噺まで幅も広かった。登場人物の描き別けがきわめて明瞭で聴き取りやすく、よく練られた構成も無駄なく確かで「楷書で書いたような落語」と評される。老若男女、誰にでもわかりやすく[1]、しかも過剰な演出はしない。ラジオの寄席番組に度々出演し、その芸風から親しまれた。若い頃、第一次落語研究会の準幹部で実力派であり、旅回りの演芸一座(柳家金語楼も7歳の時、そこでデビュー)を持っていた2代目三遊亭金馬が、三遊派の分裂騒ぎで地方に旅回りに出たのに随行し、腕を磨いた。1913年にはやはり落語研究会準幹部で噺のうまさに定評があった朝寝坊むらく(橋本卯三郎)が、橘家圓蔵との立花家橘之助を巡る諍いから殴打事件を起こし、名前を返上して橋本川柳(後の3代目三遊亭圓馬)を名乗り、東京を離れ旅に出た。彼の落語に傾倒していた金馬は噺を教わりたくてこれについて行き、稽古をつけてもらいながら大阪まで随行した。同じ頃、若き日の8代目桂文楽も圓馬に稽古を付けてもらっているが、金馬は圓馬の豪快な面を、文楽は繊細な面を継承したと評される[要出典]。
金馬は存命中、ラジオや有線放送、レコードなどを通じて老若男女問わず国民的な人気があった。それにも関わらず、読書家で故事風俗・古典にも通じた博識を煙たがられたためか、久保田万太郎やその弟子安藤鶴夫などの評論家とは不仲で、不当に低く評価された。俳人・劇作家で評論家の久保田万太郎は、第三次落語研究会の会長にも就任したが、爆笑落語や新作落語を嫌い、落語を「鑑賞」する芸術としてみずからの高邁な価値観を押し付けようとしたところがあった。落語研究会の発起人の1人でもあった金馬を「話芸における幅と深みに欠ける」と一方的に断じ、決して評価しなかった。金馬ファンからは久保田の方が「落語を聴くセンスが根本的に欠如していたのではないか」と酷評される所以ともなっている。[要出典]
絶大な人気で全国に落語ファンを広げた金馬は、落語界の内部でも高く評価されていた。久保田や安藤鶴夫の影響が強かった演芸評論家の矢野誠一が1962年に精選落語会を発足させた時、参加メンバー(8代目桂文楽、8代目林家正蔵、8代目三笑亭可楽、6代目三遊亭圓生、5代目柳家小さん)を桂文楽に見せた際、文楽から「この会に、金馬さんがはいっていないのは、どういうわけのもんです?」と問われ困ったという。また、安藤鶴夫と反目していた立川談志(7代目)も金馬の「大衆的な芸」を評価しており、自身で編集した全集「席亭・談志の夢の寄席」に金馬を収録している。
古今亭志ん朝も金馬のその口調の素晴らしさを、「志ん生、金馬とこう並べると、わたしなんか好みからいくと志ん生なんですけど、本当にお手本にすべきはやはり金馬なんですね。だからたまにテープを聞いたりすると、「ああ、こういうふうにしゃべれないもんかなあ」と思いますね」と江國滋に語っている。さらに新宿末廣亭の大旦那と呼ばれた北村銀太郎は「昭和の大物」として、文楽・志ん生と並べて金馬の名を挙げている[6][注釈 4]。
人物・性格
弟子には小言が多く厳しかったが、世話好きで大の人情家であった[2]。太平洋戦争の際、東京大空襲で戦災孤児となった海老名香葉子を引き取るなどの逸話がのこっている(後述)。その一方で落語評論家などからは、場合によっては学者より詳しいその蘊蓄により煙たがられた一面を持つ。
エピソード
- 講談時代には出っ歯でギョロ目の風貌と声により客が笑ってしまうため見切りを付け早い時期に講談師になる夢を断念した。
- 師匠は三遊亭圓歌。しかし、金馬は初代圓歌の総領弟子であったのに圓歌を継がず、2代目圓歌は弟弟子が継ぎ、本人は三遊亭金馬を継いでいる。彼は師匠に博打で金を巻き上げられるなど悶着、諍いが絶えず、まったくそりが合わなかった。一方、2代目金馬は三遊派の分裂騒動に連座し三遊分派に参加したが、ごたごた続きで東京にいられなくなった。そこで自分の演芸一座を率い、「堀江六人斬り」事件で両腕を失った松川家妻吉、戸塚芸者で36貫(136kg)の大女・旭家照吉などをプロデュースしつつ、地方にドサ回りに出た。前座〜二つ目時代の彼もそこに加わり、旅で見聞を広めながら腕を磨いたのである。そうした縁もあり、1926年4月、前の年に中風を患い高座に上がらなくなった2代目は、主だった直弟子が他門に移っていたこともあり、生前でありながら彼に金馬を継がせ、自らは三遊亭金翁という隠居名を名乗った。
- 前述のように、若い頃、旅興業に出、大阪にも滞在したため知己が多く、上方落語界が5代目笑福亭松鶴と2代目桂春團治の2派に分裂した際、仲介役を買って出ている。
- 帝国芸術院(後の日本芸術院)会員で戦後は日本放送協会理事などを勤め、第三次落語研究会会長として演芸界にも絶大な影響力を誇っていた俳人・評論家の久保田万太郎は、博識で権威に媚びない金馬を毛嫌いし、エッセイの一節に、寄席で金馬一門の出演の際にはトリの金馬が出てくる前に帰ったとまで書いている。
- 自らもネタにしている通り、若いころは遊郭にもよく通った。「吉原の小川楼(揚屋町にあった庶民的価格の張見世)に、一文無しで遊ばせる女がありましてね。遊んだ明くる朝、木戸銭10銭と書いて店の者や客を集めて、あたしが居残り佐平次かなんか喋る。前の晩遊んだおアシがそっくり出て、明くる日いくらかもらって帰る(笑)。実にありがたい世の中で」と、しみじみ語っている(『随談 艶笑見聞録』)。遊びが高じて吉原角町の大見世稲本楼の高級遊女で清河という女を身請けし、山口巴(江戸町)の並びに引き手茶屋を経営させていたこともあったが、「ほかに男をこしらえて逃げちゃいました。色男じゃないってのは証明できます。」と語っている。こうした貴重な経験や風俗、古老の伝承、豊富な読書から得た蘊蓄を高座で即興で演じたことも多く、それらは「艶談楽屋帳」「変人様列伝」や「猫の災難」(古典落語「猫の災難」とは無関係の、漫談の演題である)などに収められている。
- 生き物が好きで、犬から蛙までさまざまな生き物を飼っていた。犬には「寿限無」と名付け、代々の愛犬は犬種は違えど必ずこの名前であった。金馬の著書や隋談にも何度か登場し、その際は寿限無または○代目寿限無と呼ばれている。
- 前述のようにさまざまな生き物を飼っていたが、弟子の桂小南 (2代目)が後年「師匠は生き物を顎で飼っていた」と述懐するように、その世話はほとんど内弟子に任せていた。
あだ名
- 出っ歯で頭髪が少なく、研究熱心で故事に通じた金馬は「やかんの先生」とも呼ばれていた。このネーミングはダブルミーニングであり、まず1点目に、見た目が禿頭でやかんに似ているということ、そして、もう1点は、同名の落語演目「薬缶」に出てくる知ったかぶりの先生に由来する[注釈 5])。その蘊蓄を盛り込んだ著書『浮世断語(うきよだんご)』は、芸界を描いた書籍のなかで傑作の一つといわれている。
- 楽屋うちのあだ名は「小言幸兵衛」であった[2]。弟子の桂小南が「とにかくガミガミやかましい師匠でした」と述懐しており、4代目金馬は、稽古は自分ではつけてくれないのに、よそで覚えてきた噺を目の前でやらせて「まずいねぇ」を連発していたことを述懐している。
趣味
- 趣味は釣りで、『江戸前つり師』『江戸前の釣り』など、釣りに関する著書もある。スケジュールを本業の落語より優先させ、例えば禁漁解禁日などの釣りにおける重要な日には欠かさず釣り場に現れた。その日の高座を抜いたことは言うまでもない。1954年に鉄道事故により片足を切断したが、それもきっかけは釣りであった。
- 弟子の桂南喬に釣りに同行するよう言いつけたが、南喬がミミズが苦手と言って断ったことがある[7]。これに対し、金馬はおとなしく引き下がったものの、翌日、南喬の部屋はミミズだらけになったという。金馬の悪戯であることは明白だが、金馬はとぼけて、そのことはおくびにも出さなかったという[7]。
三平・香葉子夫妻との交流
金馬の趣味は前述の通り釣りだが、お気に入りの釣竿(和竿)があり、それを作る名職人(江戸竿師)「竿忠」の娘が海老名香葉子であり、幼いころから家族ぐるみの交流があった。香葉子は、太平洋戦争の東京大空襲で一夜にして父を含む家族のほぼ全員(三兄の中根喜三郎はただ一人空襲を生き延びている)を失い、みなし子となった。竿忠の安否を気遣って焼け跡に探しに行った金馬は、生き残った香葉子を見つけ、「ウチの子におなりよ」と声をかけ、連れ帰った。
こうして香葉子は金馬の事実上の養女として育ててもらった。金馬は東宝名人会の専属であり、東宝名人会の同僚に7代目林家正蔵がいたが、その7代目正蔵の子は、のちに「爆笑王」として人気を馳せる初代林家三平であった。このような縁もあり、香葉子と初代三平が結ばれることになった。三平・香葉子夫妻を描いたテレビドラマ『林家三平ものがたり おかしな夫婦でどーもスィマセン!』(テレビ東京系・2006年8月20日で放送)にも金馬が登場し、金馬役を立川志の輔が演じた。
略年表
- 1912年、講談師の放牛舎桃李(放手金桃李、揚名舎桃李、2代目放牛舎桃林とも)に入門。
- 1913年暮れ、初代三遊亭圓歌にスカウトされ、三遊亭歌当を名乗る。
- 1916年(1917年とも)、二つ目昇進し、2代目三遊亭歌笑襲名。
- 1919年12月、三遊亭圓洲に改名。
- 1920年9月、真打に昇進。
- 1926年4月、3代目三遊亭金馬を襲名。
- 1930年、ニットーレコードの専属になり多くの落語をレコードに吹き込む。
- 1934年、東宝の専属となり、東宝名人会の常連となるが、東宝演芸場他東宝系以外の寄席には出演しなくなった。
- 1934年、成瀬巳喜男監督映画『女優と詩人』に出演。
- 1953年、日本放送協会の準専属となる。
- 1954年2月5日、釣りの帰りに列車に刎ねられ、左足先を切断。以後、高座では正座出来ずにいつも釈台を置くようになる。
- 1964年11月8日、死去。墓所は台東区永見寺。
持ちネタ
録音は戦前からSPレコードを150枚以上残し、ラジオ放送が開始されると多くのライブ録音を残した。
- 「池田大助」、「居酒屋」[2][注釈 6]、「浮世床」、「うどんや」、「蛙茶番」、「堪忍袋」、「狂歌家主」、「禁酒番屋」、「金明竹」、「くしゃみ講釈」、「孝行糖」、「高野違い」、「小言念仏」、「権兵衛狸」、「雑俳」、「三軒長屋」、「品川心中」、「死神(誉れの幇間)」、「ジャズ息子」、「たがや」、「大師の杵」、「高尾」、「高田の馬場」、「たらちね」、「茶の湯」、「付き馬」、「てれすこ」、「転失気」、「転宅」、「道灌」、「道具屋」、「唐茄子屋政談」、「佃祭」、「長屋の花見」、「二十四孝」、「錦の袈裟」、「寝床」、「花見の仇討」、「一目上り」、「雛鍔」、「万病円」、「妾馬」、「目黒のさんま」、「やかん」、「弥次郎」、「藪入り」、「夢金」、「湯屋番」、「寄合酒」他。
一門弟子
入門順に表記。3代目歌笑、2代目小南、4代目金馬、2代目文朝は大看板となった。銀馬と金太郎の間には数名の弟子がいたが廃業した。
- 三遊亭銀馬 総領弟子。素質があり期待されたものの早々に廃業
- 初代山遊亭金太郎 人気講談師5代目一龍斎貞丈の実弟。早世した。
- 3代目三遊亭歌笑
- 2代目桂小南
- 4代目三遊亭金馬
- 三遊亭金平(金馬没後は5代目柳家小さん門下に移り、柳家きん平と改名)
- 5代目はやし家林蔵(金馬没後は8代目林家正蔵(後の林家彦六)門下に移る)
- 桂南喬
他、2代目桂文朝は形式的には小南の弟子(つまり孫弟子)だが、実際は大師匠金馬のもとで修業し、英才教育が施された。
著書
- 『三遊亭金馬落語独演会』鱒書房〈名人シリーズ〉、1955年。ASIN B000JB2KAS。
- 『浮世断語』有信堂、1959年。ASIN B000JAT3LI。
- (再版)『浮世断語』旺文社〈旺文社文庫〉、1981年7月。ASIN B000J7X380。
- (再版)『浮世断語』河出書房新社〈河出文庫〉、2008年12月。ISBN 4309409369。
- 三遊亭金馬集 東大落語会編 青蛙房 1970
- 落語東京名所図絵 三代目三遊亭金馬,四代目三遊亭金馬 講談社 1976
- 古典落語 金馬・小円朝集 三遊亭金馬,三遊亭小円朝 筑摩書房 1990.3
- 『江戸前つり師:釣ってから食べるまで』徳間書店、1962年。
- (再版)『江戸前つり師:釣ってから食べるまで』徳間書店〈徳間文庫〉、1988年4月。ISBN 4195985048。
- 『江戸前の釣り』つり人社〈つり人ノベルズ〉、1992年8月。ISBN 488536213X。
- (再版)『江戸前の釣り』中央公論新社〈中公文庫〉、2013年5月。ISBN 4122057922。
その他
- 三代目三遊亭金馬全集 CD版(日本音声保存)1995.05
脚注
注釈
- ^ 「歌当」は本名の加藤をもじったものである。
- ^ 金馬が東宝専属となり寄席を離れた経緯との理由については矢野誠一の『女興行師吉本せい』が詳しい。
- ^ ある意味で不注意の誹りは免れ得ないが、当時は線路の侵入対策も現在ほど厳重には取られていなかった。また、農村部・漁村部では現在の様な道路が整備されている場所はまだ少なく、線路敷のある場所が数少ない開けたショートカットのルートである場合も珍しくなかった。
- ^ なお、北村は、圓生は同様に大物ではあるが人間的にちょっと落ちると発言している。冨田(2001)p.37
- ^ 「薬缶(やかん)」は落語界の隠語で「知識をひけらかす人」を意味している。
- ^ 森田芳光監督の映画『の・ようなもの』はこの演目が縄のれんの居酒屋で小僧が客にからかわれる噺で、肴はなにかできるかと問われた小僧が「できますものは、つゆ、はしら、タラ、こぶ、アンコウのようなもの……」と答えると「じゃあ、『(の)ようなもの』をもらおうか」と注文されることから拝借された(「映画の旅人」朝日新聞2014年10月18日)。
出典
参考文献
- 冨田均『聞書き・寄席末広―席主北村銀太郎述』平凡社〈平凡社ライブラリー〉、2001年1月。ISBN 4-582-76379-0。
- 関山和夫 著「三遊亭金馬」、小学館(編) 編『日本大百科全書』小学館〈スーパーニッポニカProfessional Win版〉、2004年2月。ISBN 4099067459。
- 『落語のいき 第2巻 食と旅噺編』小学館〈小学館DVD BOOK〉、2009年3月。ISBN 978-4-09-480382-2。