「朝田静夫」の版間の差分
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退官後、政府の特殊会社だった日本航空に天下り、専務、副社長を経て、[[1971年]]社長に就任。日航機のニューヨーク乗り入れ、日ソ、日中の路線開設交渉に手腕を発揮したが、[[1972年]]には[[日本航空ニューデリー墜落事故]]、[[日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故]]、[[1973年]]には[[ドバイ事件]]、[[1974年]]には羽田発那覇行きジャンボ機の乗っ取り事件、[[1977年]]には[[ダッカ日航機ハイジャック事件]]が起き、安全管理体制の再構築も迫られた。[[1981年]]社長を退任し、相談役となる。 |
退官後、政府の特殊会社だった日本航空に天下り、専務、副社長を経て、[[1971年]]社長に就任。[[オイルショック]]の難局を乗り切り、日航機のニューヨーク乗り入れ、日ソ、日中の路線開設交渉に手腕を発揮したが、[[1972年]]には[[日本航空ニューデリー墜落事故]]、[[日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故]]、[[1973年]]には[[ドバイ事件]]、[[1974年]]には羽田発那覇行きジャンボ機の乗っ取り事件、[[1977年]]には[[ダッカ日航機ハイジャック事件]]が起き、安全管理体制の再構築も迫られた。[[1981年]]社長を退任し、相談役となる<ref name=":0" />。 |
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日本航空協会会長、国際交通博覧会協会会長など多数の公職を歴任。50年越しの趣味であった囲碁は六段の腕前で、[[日本棋院]]の理事長、総裁を務めた<ref name=":0" />。人当たりは良いが、芯は強く、頭の回転が早いことから「カミソリ」と呼ばれた。[[高天原山|御巣鷹の尾根]]での[[日本航空123便墜落事故]]を主題にした[[山崎豊子]]の小説「[[沈まぬ太陽]]」に登場するワンマン経営者「小暮社長」のモデルともいわれる。 |
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2019年6月5日 (水) 13:22時点における版
朝田 静夫(あさだ しずお、1911年10月13日 - 1996年11月8日)は、元運輸事務次官および元日本航空社長。大阪府大阪市出身[1]。
来歴・人物
生野中学、旧制浪速高校を経て、東京大学法学部を卒業し、逓信省(総務省、日本郵政の前身)に入省。戦後の省庁再編で運輸省に移り、官房長、海運局長を経て、事務方トップの事務次官に就任。海運業界再編などを手掛けた。
退官後、政府の特殊会社だった日本航空に天下り、専務、副社長を経て、1971年社長に就任。オイルショックの難局を乗り切り、日航機のニューヨーク乗り入れ、日ソ、日中の路線開設交渉に手腕を発揮したが、1972年には日本航空ニューデリー墜落事故、日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故、1973年にはドバイ事件、1974年には羽田発那覇行きジャンボ機の乗っ取り事件、1977年にはダッカ日航機ハイジャック事件が起き、安全管理体制の再構築も迫られた。1981年社長を退任し、相談役となる[1]。
日本航空協会会長、国際交通博覧会協会会長など多数の公職を歴任。50年越しの趣味であった囲碁は六段の腕前で、日本棋院の理事長、総裁を務めた[1]。人当たりは良いが、芯は強く、頭の回転が早いことから「カミソリ」と呼ばれた。御巣鷹の尾根での日本航空123便墜落事故を主題にした山崎豊子の小説「沈まぬ太陽」に登場するワンマン経営者「小暮社長」のモデルともいわれる。
1996年11月8日死去。享年85。
丸紅社長の朝田照男は長男(第3子)。
演じた俳優
- 鶴見辰吾(『沈まぬ太陽』、2016年)
脚注
- ^ a b c “朝田 静夫(アサダ シズオ)とは”. コトバンク. 2019年6月5日閲覧。
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