コンテンツにスキップ

「八田知紀」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
新しいページ: 「'''八田 知紀'''(はった とものり、1799年10月13日寛政11年9月15日)- 1873年明治6年…」
 
編集の要約なし
30行目: 30行目:
* 美術人名辞典([[思文閣出版|思文閣]])『[https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E7%94%B0%E7%9F%A5%E7%B4%80-14774 八田知紀]』- [[コトバンク]]
* 美術人名辞典([[思文閣出版|思文閣]])『[https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E7%94%B0%E7%9F%A5%E7%B4%80-14774 八田知紀]』- [[コトバンク]]


[[Category:江戸時代の歌人]]
[[Category:国学者]]
[[Category:国学者]]
[[Category:薩摩藩士]]
[[Category:薩摩藩士]]
36行目: 35行目:
[[Category:1873年没]]
[[Category:1873年没]]
{{DEFAULTSORT:はつた とものり}}
{{DEFAULTSORT:はつた とものり}}
[[Category:19世紀の歌人]]

2020年3月7日 (土) 12:46時点における版

八田 知紀(はった とものり、1799年10月13日寛政11年9月15日)- 1873年明治6年)9月2日)は、幕末に活躍した国学者歌人薩摩藩士である。号は桃岡。通称は喜左衛門。幼名は彦太郎。

経歴・人物

同じ薩摩藩士であった八田知直の子として生まれる。

後に上洛し、京都藩に仕え香川景樹の門人となり、和歌及び国学を学ぶ。同時期に活躍し、同じ景樹の門人であった熊谷直好と共に、桂園派の二高弟と称され幕末の動乱期の和歌の著作に携わった。

その後、郁姫の命により近衛家の側用人となり、維新後には宮内省に雇われ、歌道御用掛に赴任した。門下に高崎正風渋谷国安原田豊秋税所敦子黒田清綱等がいる。

主な著作物

家集

  • 『志能布久佐(しのぶ草)』
  • 『都島集』

歌論

  • 『しらべの直路』
  • 『千代の古道』

以上のうち、歌論の二つは師匠の景樹から学んだ説に影響して刊行された。

出典