「フロイド・パターソン」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
来歴に追記。 |
→来歴: モハメド・アリとの再戦に追記。 |
||
44行目: | 44行目: | ||
* 1965年11月22日、[[モハメド・アリ]]の持つ世界ヘビー級タイトルに挑戦するが、12ラウンドTKOで敗れる。当時アリは[[ネーション・オブ・イスラム]]入信を公表しアメリカ社会を激しく批判していた「白人の意のままにならない黒人」だった。アリは駆け出し時代から世話になっていたパターソンを「ウサギ」「アンクル・トム」と罵倒したため、彼も「モハメド・アリ」の名を拒絶し「クレイ」と呼び続けた。後年、アリはパターソンに謝罪している。1967年に両者は再戦にサインするも、アリの徴兵拒否によるボクシングライセンスの剥奪で、試合は実現しなかった。 |
* 1965年11月22日、[[モハメド・アリ]]の持つ世界ヘビー級タイトルに挑戦するが、12ラウンドTKOで敗れる。当時アリは[[ネーション・オブ・イスラム]]入信を公表しアメリカ社会を激しく批判していた「白人の意のままにならない黒人」だった。アリは駆け出し時代から世話になっていたパターソンを「ウサギ」「アンクル・トム」と罵倒したため、彼も「モハメド・アリ」の名を拒絶し「クレイ」と呼び続けた。後年、アリはパターソンに謝罪している。1967年に両者は再戦にサインするも、アリの徴兵拒否によるボクシングライセンスの剥奪で、試合は実現しなかった。 |
||
* [[1968年]]9月14日、[[ジミー・エリス]]の持つ世界ヘビー級タイトルに挑戦し、内容で3度目の王座を獲得したかに見られたが、この試合には公式ジャッジがおらず、レフェリーのハロルド・バランの判定により判定負けとされ、3度目の王座返り咲きはならなかった。バランはエリスのマネージャーに買収されており、これは後年バラン自身が直接パターソンに告白している。 |
* [[1968年]]9月14日、[[ジミー・エリス]]の持つ世界ヘビー級タイトルに挑戦し、内容で3度目の王座を獲得したかに見られたが、この試合には公式ジャッジがおらず、レフェリーのハロルド・バランの判定により判定負けとされ、3度目の王座返り咲きはならなかった。バランはエリスのマネージャーに買収されており、これは後年バラン自身が直接パターソンに告白している。 |
||
* [[1972年]]9月20日、モハメド・アリと再戦。優勢に試合を進めるも目をカットし、第8ラウンド開始をレフェリーが許さなかった。試合後にリング上で、アリは3試合後の再戦を約束するが、アリが[[ケン・ノートン]]に敗れて負傷したために3戦目は実現せず、パターソンは引退声明を出さなかったがこれが |
* [[1972年]]9月20日、[[NABF]]北米ヘビー級王者となっていたモハメド・アリと再戦。優勢に試合を進めるも目をカットし、第8ラウンド開始をレフェリーが許さなかった。試合後にリング上で、アリは3試合後の再戦を約束するが、アリが[[ケン・ノートン]]に敗れて負傷したために3戦目は実現せず、パターソンは引退声明を出さなかったがこれが現役最後の試合となった。 |
||
* アリは自身が対戦した中で最もスキルがあったのはパターソンだと公言していた。 |
* アリは自身が対戦した中で最もスキルがあったのはパターソンだと公言していた。 |
||
* 引退後はニューヨーク州アスレチックコミッションのコミッショナーを務めていた。 |
* 引退後はニューヨーク州アスレチックコミッションのコミッショナーを務めていた。 |
2021年5月13日 (木) 09:32時点における版
基本情報 | |
---|---|
本名 | フロイド・パターソン |
通称 | ボクシングの紳士 |
階級 | ヘビー級 |
身長 | 183cm |
リーチ | 180cm |
国籍 | アメリカ合衆国 |
誕生日 | 1935年1月4日 |
出身地 |
アメリカ合衆国、ノースカロライナ州 クリーヴランド郡、ワコー町 |
死没日 | 2006年5月11日(71歳没) |
死没地 |
アメリカ合衆国、ニューヨーク州 ニューヨーク市、ブルックリン区 |
スタイル | オーソドックス |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 64 |
勝ち | 55 |
KO勝ち | 40 |
敗け | 8 |
引き分け | 1 |
獲得メダル | ||
---|---|---|
アメリカ合衆国 | ||
男子 ボクシング | ||
オリンピック | ||
金 | 1952 ヘルシンキ | ミドル級 |
フロイド・パターソン(Floyd Patterson、1935年1月4日 - 2006年5月11日)は、アメリカ合衆国の男性プロボクサー。ノースカロライナ州出身。元世界ヘビー級王者。
強靭かつ柔軟な下半身のバネを効かせた、ガゼルパンチと呼ばれる必殺ブローの発案者でもある。日本の漫画、『はじめの一歩』の主人公である幕之内一歩の必殺技の一つであるガゼルパンチの由来は、このフロイド・パターソンが実際に使っていた技からきている。
ヘビー級としては小柄だったが、それを活かしたピーカブー・スタイルから放たれるパンチの切れは抜群で、1960年にインゲマル・ヨハンソンを左フック一撃で失神させた試合は、今もファンの語り草となっている。
なお、元WBC世界スーパーバンタム級&IBF世界スーパーフェザー級の2階級王者トレイシー・ハリス・パターソンは養子。
来歴
- 1952年6月、ヘルシンキオリンピックで金メダル獲得。9月12日、プロデビュー。
- 1956年11月30日、空位の世界ヘビー級タイトルをライトヘビー級の名王者アーチー・ムーアと争い、5ラウンドKO勝利で獲得。4度防衛。
- 1959年6月26日、インゲマル・ヨハンソンに3ラウンドTKOで敗れ、タイトルを失う。この試合はリングマガジン アップセット・オブ・ザ・イヤーに選出された。
- 1960年6月20日、インゲマル・ヨハンソンに5ラウンドKOで勝利し、タイトルを取り戻す。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された。同王座は2度防衛。
- 1962年9月25日、ソニー・リストンに1ラウンドKOで敗れ、タイトルを失う。
- 1963年7月22日、ソニー・リストンの持つ世界ヘビー級タイトルに挑戦するが、1ラウンドKOで敗れる。
- 1965年2月1日、ジョージ・シュバロと対戦し、判定勝ち。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された。
- 1965年11月22日、モハメド・アリの持つ世界ヘビー級タイトルに挑戦するが、12ラウンドTKOで敗れる。当時アリはネーション・オブ・イスラム入信を公表しアメリカ社会を激しく批判していた「白人の意のままにならない黒人」だった。アリは駆け出し時代から世話になっていたパターソンを「ウサギ」「アンクル・トム」と罵倒したため、彼も「モハメド・アリ」の名を拒絶し「クレイ」と呼び続けた。後年、アリはパターソンに謝罪している。1967年に両者は再戦にサインするも、アリの徴兵拒否によるボクシングライセンスの剥奪で、試合は実現しなかった。
- 1968年9月14日、ジミー・エリスの持つ世界ヘビー級タイトルに挑戦し、内容で3度目の王座を獲得したかに見られたが、この試合には公式ジャッジがおらず、レフェリーのハロルド・バランの判定により判定負けとされ、3度目の王座返り咲きはならなかった。バランはエリスのマネージャーに買収されており、これは後年バラン自身が直接パターソンに告白している。
- 1972年9月20日、NABF北米ヘビー級王者となっていたモハメド・アリと再戦。優勢に試合を進めるも目をカットし、第8ラウンド開始をレフェリーが許さなかった。試合後にリング上で、アリは3試合後の再戦を約束するが、アリがケン・ノートンに敗れて負傷したために3戦目は実現せず、パターソンは引退声明を出さなかったがこれが現役最後の試合となった。
- アリは自身が対戦した中で最もスキルがあったのはパターソンだと公言していた。
- 引退後はニューヨーク州アスレチックコミッションのコミッショナーを務めていた。
戦績
- プロボクシング戦績: 64戦 55勝 40KO 8敗 1分
脚注
関連項目
- 男子ボクサー一覧
- オリンピックのボクシング競技・メダリスト一覧
- 世界ボクシング協会(NBA/WBA)世界王者一覧
- 国際ボクシング名誉の殿堂博物館
- 世界ボクシング殿堂
- リングマガジン ファイター・オブ・ザ・イヤー - 2度選出(1956年、1960年)
- ピート・ラデマッハー
- カス・ダマト