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「キャンベラ (ケント級重巡洋艦)」の版間の差分

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=== 沈没 ===
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2021年12月28日 (火) 21:25時点における版


1942年に撮影された「キャンベラ(HMAS Canberra)」
艦歴
発注 1924年
起工 1925年9月9日
進水 1927年5月31日
就役 1928年7月9日
その後 1942年8月9日戦没
退役
性能諸元
排水量 基準:9,850トン
満載:13,450トン
全長 192.02m
179.8m(水線長)
全幅 20.8m
吃水 4.9m
機関 アドミラリティ式重油専焼三胴型水管缶8基+
パーソンズギヤードタービン4基4軸推進
最大出力 80,000hp
最大速力 31,5ノット
航続距離 12ノット/13,300海里
31.5ノット/3,150海里
燃料 重油:3,400トン
乗員 679~700名
兵装 竣工時:
アームストロング Mark VIII 20.3 cm(50口径)連装砲4基
アームストロング Mark V 10.2 cm(45口径)単装高角砲4基
オチキス 4.7cm(43口径)単装機砲2基
ヴィッカーズ 4cm(39口径)単装ポンポン砲4基
53.3cm水上魚雷発射管四連装2基
1939年:
アームストロング Mark VIII 20.3 cm(50口径)連装砲4基(1945年:3基)
アームストロング Mark V 10.2 cm(45口径)単装高角砲4基&連装高角砲2基
ヴィッカーズ 4 cm(39口径)八連装ポンポン砲2基
ボフォース 4cm(56口径)機関砲12基
エリコンFF 2cm(76口径)機関砲14丁
53.3cm水上魚雷発射管四連装2基)
装甲 舷側:25mm(1939年:140mm)(水線面主装甲)、63.5mm(機関区隔壁)
甲板:35mm(水平面)
主砲塔:51mm(前盾)、38mm(後盾)
主砲バーベット部:25mm
主砲弾薬庫:25~110mm(壁面)
航空兵装 水上機1~2機
カタパルト1基
モットー For the King, the Law, and the People

キャンベラ (HMAS Canberra, D33) は、オーストラリア海軍が保有した重巡洋艦[注釈 1]。 艦名はオーストラリアの首都であるキャンベラに因む。 イギリス海軍1924年度海軍整備計画の一環としてケント級のうち2隻がオーストラリア海軍向けに建造され、本艦はその内の1隻である。姉妹艦はオーストラリア (HMAS Australia, D84) [注釈 2]

概要

第一次世界大戦終結後、ワシントン海軍軍縮条約が締結されて海軍休日 (Naval Holiday) がはじまり、英連邦オーストラリア自治領政府は巡洋戦艦オーストラリア (HMAS Australia) を自沈処分にせざるを得なかった[3]大日本帝国仮想敵国とするオーストラリア海軍が保有していた巡洋艦は旧式艦ばかりで、同政府は宗主国イギリスに代艦を要求する[4]。そこでイギリス海軍のケント級重巡2隻をオーストラリア政府の予算で建造することになった[4]。これが重巡オーストラリア (HMAS Australia, D84) とキャンベラ (HMAS Canberra, D33) である[4]

キャンベラを含むケント級は艦隊戦闘よりも個艦での遺外任務(植民地間のシーレーン保護など)を主念頭に置いて設計されたために[5]、条約に定められた排水量内で必要最小限の武装と、防御能力と引き換えにした高い凌波性・航続距離・居住性を実現していた[6][注釈 3]

1939年(昭和14年)9月に第二次世界大戦がはじまると、キャンベラはタスマン海インド洋で哨戒任務や船団護衛任務をおこない、枢軸国ドイツ海軍イタリア王立海軍)および枢軸陣営仮装巡洋艦[8]封鎖突破船 (Blockade runner) を相手に戦果をあげた[4]

太平洋戦争突入後の1942年(昭和17年)8月8日深夜から8月9日未明にかけて第一次ソロモン海戦で、キャンベラは日本海軍第八艦隊司令長官三川軍一中将が指揮する外南洋部隊と交戦、重巡洋艦部隊の砲撃を受けて大破、航行不能となる[9]9日昼間、総員退去のあと連合軍駆逐艦の砲雷撃により自沈した[4]。沈没した本艦の代艦として、イギリスは重巡シュロップシャー (HMS Shropshire, 73) をオーストラリア海軍に貸与した[10][注釈 4]

艦形

限度枠いっぱいの基準排水量9,700トン台の船体は乾舷の高い平甲板型船体とし、艦首側面形状は凌波性能を高めるために2段の強いフレア(反り返り)が付けられていた。艦首甲板上には20.3cm砲を連装砲塔に収めて背負い式配置で2基、2番主砲塔の基部から上部構造物は始まり、その上に箱を積み重ねたような形状の操舵艦橋の背後には後方に傾斜した単脚式の前部マストが立つ。船体中央部には等間隔に並んだ3本煙突が立つが、2番煙突のみ太かった。煙突の周囲は艦載艇置き場となっており、舷側に設けられた2本1組のボート・ダビッドが片舷に3組ずつ計6組で運用された。3番煙突の後方に露天の後部見張所と単脚式の後部マストが立ち、3番主砲塔の基部で上部構造物は終了し、甲板一段分下がって後部甲板上に4番主砲塔が配置された。船体舷側部には復元性と水雷防御として広範囲にバルジが装着されていた。

艦歴

戦間期

重巡洋艦キャンベラはスコットランドクライドバンクジョン・ブラウン社1925年(大正14年)9月9日に起工、1927年(昭和2年)5月31日にマリー王女の手で進水し[12]1928年(昭和3年)7月9日に竣工した。1929年(昭和4年)1月25日オーストラリア西オーストラリア州フリーマントルに到着。

1930年代にシドニー港で撮影されたキャンベラ。

1931年(昭和6年)9月、ニューカレドニアフィジーを訪問した。1932年(昭和7年)と1937年中国艦隊 (China Station) に所属した。またニュージーランドを3回訪れた(オーストラリア海軍の歴史英語版)。

第二次世界大戦前、イギリスは英連邦の各国に対し、新たに軽巡洋艦を貸与した[注釈 5]ニュージーランド戦隊ニュージーランド海軍)には軽巡リアンダー (HMNZS Leander) やアキリーズ (HMNZS Achilles) が所属する[14]。オーストラリア艦隊は、しばしば同邦の艦隊と行動を共にした[注釈 5]。 1939年(昭和14年)8月、本艦と軽巡シドニー (HMAS Sydney) は東南アジアの蘭印シンガポール方面を巡航した[注釈 5]

第二次世界大戦

第二次世界大戦開戦時、オーストラリア海軍の主力艦[15]、重巡2隻(オーストラリア[注釈 2]、キャンベラ[注釈 1])、軽巡4隻(パースホバートシドニーアデレード)であった[3][注釈 6]。 1939年(昭和14年)9月1日の開戦から9ヶ月間、キャンベラはオーストラリア周辺やタスマン海で護衛任務に従事していた[4]

1940年(昭和15年)にはドイツ仮装巡洋艦アトランティス (Atlantis)、ペンギン (Pinguin) の捜索に当たった。同年6月、軽巡パース初代艦長を務めていたハロルド・ファーンコーム大佐が[注釈 5]、キャンベラ艦長を命じられている。

1941年(昭和16年)2月、US9船団フリーマントルからコロンボまで護衛。コロンボには2月20日に到着し、護衛を軽巡洋艦リアンダー (HMS Leander)と交代してキャンベラはモルディブへ向かった。2月22日、キャンベラはインド洋で通商破壊を行っていたドイツ軍装甲艦ポケット戦艦アドミラル・シェーア (Admiral Scheer) を捜索するよう命じられた[17]。イギリス空母ハーミーズ (HMS Hermes, 95) とキャンベラ他何隻かの艦艇が捜索に当たったが[注釈 7]、シェーアは逃げ切った[19]。2月26日、英海軍はシェーアの捜索を中止した。キャンベラはセーシェルヴィクトリアで燃料補給を行った後、3月2日にリアンダーと合流し、通商破壊艦の捜索に当たった。

3月4日、キャンベラは2隻の船を発見した。それは貨客船コーブルク (Coburg) とKetty Brovigであった。コーブルクはドイツの通商破壊艦に対する補給を行う船で、Ketty Brovigはドイツの仮装巡洋艦アトランティスに捕獲されたノルウェーのタンカーであった。キャンベラはコーブルクに対して砲撃を行い、コーブルクは沈没した。また、コーブルクとは別方向に逃走したKetty Brovigはキャンベラの搭載機によって停船させられ、最後はキャンベラの砲撃で沈められた。 1941年の残りの期間、キャンベラはインド洋で船団護衛を行っていた。

太平洋戦争

1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争開戦直後、アメリカ海軍の重巡洋艦ペンサコーラ (USS Pensacola, CA-24) の名を冠したペンサコーラ船団英語版が東南アジアに向かっており、英連邦巡洋艦3隻(重巡キャンベラ、軽巡パースアキリーズ)が増強された。12月中旬、フィジー諸島スバでペンサコーラ船団に合流し、クレース少将はキャンベラに将旗を掲げる。12月22日、ペンサコーラ船団はオーストラリア大陸東海岸のブリスベンに到着した。シドニーに移動後、英連邦巡洋艦(重巡オーストラリア、キャンベラ、軽巡パース、アキリーズ)はパプアニューギニアの要所ポートモレスビーに向かう輸送船団の護衛をおこなう。1942年(昭和17年)1月3日、連合軍輸送船団はポートモレスビーに到着した。

次の任務は、シンガポールにむかう軍隊輸送船アクィタニア (RMS Aquitania) の護衛だった。いわゆる屑鉄戦隊の駆逐艦ヴァンパイア (HMAS Vampire, D68) と共に、シンガポール行き輸送船団の護衛をおこなった。

2月から5月にかけて、キャンベラはシドニー港で修理を行った。この間、2月12日に新編されたANZAC戦隊に所属している。第44任務部隊英語版 (Task Force 44) に所属して5月から6月にかけて珊瑚海における攻勢に参加(珊瑚海海戦)。5月31日、日本海軍の特殊潜航艇甲標的3基がシドニー湾奇襲する特殊潜航艇によるシドニー港攻撃)。シドニー港に停泊していた本艦や軽巡アデレード (HMAS Adelaide) 、アメリカ重巡洋艦シカゴ (USS Chicago, CA-29) は無事だったが、宿泊船1隻が沈没し、オランダ潜水艦1隻が損傷した。

6月中旬、新艦長としてフランク・ゲティング (Frank Edmund Getting) 大佐が着任する。 8月初旬、キャンベラはウォッチタワー作戦にともなうガダルカナル島およびツラギ島フロリダ諸島)攻略作戦に参加する。世界大戦開戦時以降、オーストラリア海軍はパース級軽巡洋艦 (Perth class light cruser) のシドニー (HMAS Sydney,D48) とパース (HMAS Perth,D29) を失っていた[20][21]

沈没

海戦から一夜明け、炎上するキャンベラから乗組員を救助する米駆逐艦パターソン[22]。重巡シカゴからの撮影[23]
第一次ソロモン海戦後、大破炎上し右舷に傾斜するキャンベラ。手前の米駆逐艦はブルーパターソン

日本軍の攻勢がミッドウェー海戦で頓挫したあと、オーストラリア海軍の大型巡洋艦3隻(オーストラリア、キャンベラ、ホバート)は、アメリカ軍が発動したウォッチタワー作戦に従事した[24]。 英国海軍豪州艦隊司令長官ビクター・クラッチレー少将[注釈 8]はオーストラリアに将旗を掲げていた[24]。 上陸作戦全体を、第61任務部隊司令官フランク・J・フレッチャー中将が指揮する空母機動部隊[27](空母サラトガエンタープライズワスプ、戦艦ノースカロライナ、巡洋艦6、駆逐艦16)が支援していた[28][29]

フィジー諸島での予行演習の後[30]ターナー少将が指揮する連合軍上陸部隊は、1942年(昭和17年)8月7日フロリダ諸島ツラギ島ガダルカナル島に上陸作戦を敢行した[31]フロリダ諸島の戦い[32]。キャンベラを含む部隊はツラギ島に向かった[33]

これに対しニューブリテン島ラバウルを発進した日本海軍基地航空部隊一式陸上攻撃機九九式艦上爆撃機が、揚陸作業中の連合軍輸送船団に空襲をおこなう[34][注釈 9]。輸送船団と護衛艦艇は自分達の対空砲火と、米軍機動部隊から飛来したF4F ワイルドキャットで応戦した[37]。キャンベラも主砲や機銃で対空戦闘をおこなう[38]。連合軍側は、駆逐艦マグフォード (USS Mugford, DD-389) が小破した[38]

護衛艦隊司令官のクラッチレー提督は夜間警戒のため、指揮下艦艇をいくつかのグループにわけてルンガ泊地に配置した[39][40]。日本軍が侵入してくる可能性が一番たかいサボ島南側の水路を、クラッチレー提督直率の南方部隊[41](豪州重巡オーストラリア、豪州重巡キャンベラ、米重巡シカゴ、米駆逐艦バグリー、米駆逐艦パターソン)が警戒した[26][注釈 10]。 日本軍の水上部隊は出現せず、何事もなく夜が明けた[43]

8月8日、連合軍上陸部隊は再びラバウル航空隊の空襲を受けた[44]。連合軍各艦は猛烈な対空砲火を浴びせ、日本軍攻撃機は大損害をうけた[注釈 11]。キャンベラも対空戦闘で何機かを撃墜した[46]。 だが連合軍側も若干の被害をうける[注釈 12]。さらに連日の対空戦で連合軍側は多数の戦闘機を失い、空母3隻と新鋭戦艦1隻を擁する第61任務部隊(フレッチャー提督)は、上陸部隊の掩護を打ち切って撤退を開始した[26][29]

日没後、ターナー提督は、洋上のクラッチレー提督と、ガ島陸上のヴァンデグリフト将軍を、総旗艦マッコーリー (USS McCawley, APA-4) に呼び出した[48]。クラッチレー提督(旗艦オーストラリア、艦長ファーンコーム大佐)は哨戒区を離れて輸送船団停泊地に向かった[26]。クラッチレー提督は南方部隊の指揮を重巡シカゴ (USS Chicago, CA-29) 艦長ハワード・ボード大佐に委ねる[49]。ところが各指揮官や艦長間でクラッチレー提督の意図が理解されず、オーストラリアが去ったあとの南方部隊は、豪州重巡キャンベラ、米重巡シカゴ、駆逐艦パターソン (USS Patterson, DD-392)、バッグレイ (USS Bagley, DD-386) という編成で[注釈 13]ガダルカナル島とサボ島の間で哨戒を行っていた[51][52]。そして総旗艦マッコーリーでの会議を終えたクラッチレー提督は自身の旗艦オーストラリアに戻ると[53]、輸送船団と駆逐艦部隊に護られて停泊し続けた[54][55]

この夜、第八艦隊司令長官三川軍一中将が率いる外南洋部隊(通称“三川艦隊”)は連合軍の哨戒網を潜り抜け[56]鉄底海峡に突入し[注釈 14]夜戦で連合軍の南方部隊と北方部隊に大打撃を与えた[注釈 15]

キャンベラでは乗組員の大半が連日の対空戦闘や戦闘配置で疲れ切っていた[59]。艦長も見張り指揮官の少尉に指揮を委ねて、私室に退いていた[12]。日本軍の水上偵察機が照明弾を投下してから間もなく、外南洋部隊の砲雷撃が南方部隊(キャンベラ、シカゴ、パターソン、バッグレー)に襲いかかる[60]。キャンベラはレーダーを装備していたが、外南洋部隊を捕捉できなかった[12]。パターソンからの警報や、敵艦の砲撃を視認して戦闘配置がとられ、艦長や幹部が艦橋に集まった[12]。そこに直撃弾があり、大多数の幹部が戦死した[61]。艦長は右足を潰される重傷を負った[60]。艦が被った被害も深刻で、中央部への被弾で機関が故障し航行不能となる[61]。魚雷2本がキャンベラの艦首に命中したとの記録があるが[62][63]、海底のキャンベラの艦首は原形をとどめていた。キャンベラの被害は、主に砲弾によるものだった[64]。なお航行能力を失ったキャンベラが外南洋部隊の隊列に接近したため、三川艦隊の単縦陣は二つのグループ(鳥海、青葉、加古、衣笠)(古鷹、天龍、夕張)に分離した[64]

外南洋部隊が去ったあと、右舷に傾斜して航行不能となったキャンベラに駆逐艦パターソンとブルーが接近して、消火作業と負傷者の収容を開始した[65]8月9日午前4時30分頃、キャンベラとパターソンに「敵艦」が接近し砲弾を発射してきたので、パターソンは主砲で反撃した[66]。双方の命中弾が出ないうちに「敵艦」が艦首を失った重巡シカゴであることが判明し、パターソンはキャンベラの救援を再開する[67]。続いて駆逐艦ブルー (USS Blue,DD-387) も到着して救援に加わった[68]

午前5時、ターナー提督は「6時30分までにガダルカナル島沖から離脱せよ、無理ならば自沈せよ」と命じた[65]。キャンベラはすぐに沈没しそうにはなかったが機関復旧の目途がたたず、キャンベラの自沈処理が決まる[69]。 駆逐艦セルフリッジ (USS Selfridge,DD-357) が5インチ砲弾263発と魚雷4本を発射したが「この頑固な貴婦人」は降伏を拒んだ[69]。午前7時30分からは駆逐艦エレット (USS Ellet,DD-398) も作業に加わり[70]、止めの魚雷を発射した[69]。キャンベラは右舷に転覆したあと艦首から沈んでいった[71]。キャンベラは、オーストラリア海軍が第二次世界大戦で喪失した最大の艦である[72]


第一次ソロモン海戦で、キャンベラは戦死者85名(米軍士官1名を含む)、負傷者55名を出した[58]。ゲティング艦長は駆逐艦に収容されたあと、容体が悪化して死亡した[71]。 イギリスは、本艦の代艦としてロンドン級重巡洋艦シュロップシャー (HMS Shropshire, 73) をオーストラリア海軍に供与した[10][注釈 4]。 アメリカ海軍は、ピッツバーグ (Pittsburgh) という艦名を予定して建造していたボルチモア級重巡洋艦キャンベラ (USS Canberra, CA-70) と命名した[注釈 16]

1992年になり、海洋調査学者ロバート・D・バラードのチームが鉄底海峡でキャンベラを発見した[74]。海底のキャンベラは比較的原形を保ったまま正位置で着底しており、四基の主砲は破損しているものの、いまだ左舷に向けられている[75]。キャンベラの付近には、第三次ソロモン海戦で沈んだ駆逐艦ラフィー (USS Laffey, DD-459) の残骸も横たわっている[76]

出典

  1. ^ a b 一等巡洋艦 “カンベラ Canberra[1] 全要目{排水量9,850噸 速力31.5節 備砲20糎砲8門 10糎高角砲4門 魚雷發射管8門 起工1925年6月 竣工1928年6月 建造所ゼー・ブラウン造船所} これは“オーストラリア Australiaと同じく濠洲海軍に属するもので、以上の外に兵装として、3ポンド砲4門と其他の小砲16門を有す。これ等小砲と稱するものは大型機關銃その他を指すもので、主として航空機防禦用と沿岸警備用のものとに分れてゐる。搭載飛行機は2臺でカタパルト1基を装備してゐる。/全速力で2,300浬の行動半經を有し又經濟速力11節乃至14節にては10,400浬の行動半經を有すと云はれる。燃料は云ふまでもなく重油で搭載總量3,400噸である。31.5節の全速力に要する軸馬力は80,000馬力である。
  2. ^ a b 一等巡洋艦 “オーストラリア Australia[2] 全要目{排水量9,870噸 速力31.5節 備砲20糎砲8門 10糎高角砲4門 魚雷發射管8門(53糎水上4聯装) 起工1925年4月 竣工1928年4月 建造所ゼー・ブラウン造船所} 以上の外の細要目は次頁の“カンベラ號”と同じであり、“カンベラ號”と共に濠洲海軍の二重鎭である。/尚英國海軍には稍舊式には属するけれども“エフインガム Effingham”主要目 ― 排水量9,770噸、速力30.5節、19糎砲7門、10糎高角砲3門、魚雷發射管5門。“フロピシャ― Frobisher”主要目 ― 排水量9,880噸、速力30.5節。備砲19糎砲6門、10糎高角砲2門、魚雷發射管6門。“ホーキンス Hawkins”主要目 ― 排水量9,800噸、速力29.5節の外すべて“フロピシヤー”と同じ。/“ヴインデイクテイヴ Vindictive”主要目 ― 排水量9,996噸、速力30節、外“ホーキンス”に同じ。この4隻がある。
  3. ^ 一等巡洋艦 “ケント Kent[7] 全要目{排水量9,850噸 速力31.5節 備砲20糎砲8門 10糎高角砲6門 魚雷發射管8門(水上53糎) 起工1924年11月 竣工1928年2月 建造所チヤタム海軍工廠} 同型艦“バーウイツク Berwiek” “コーンウオール Cornwall” “カンバーランド Cumberland” “サフオーク Suffolk
    全長192.01米、幅20.82米、平均吃水4.88米、機關軸馬力は80,000馬力である。世界に誇る植民地との通商保護等のために巡洋艦は英國にとつて甚だ重大性を帶びてゐる。從つて速力もやゝ劣つて、その代り航續力と居住性を増してゐると考へられるのである。そして大戰艦隊の偵察戰隊としての不足は高速巡洋艦と無數の二等巡洋艦をもつて補つてゐる。14節にて實に10,400浬の行動半徑を有し、航續力にかけては世界の巡洋艦を抜んでゝゐる。前檣も比較的にいへば低いが、航空機を搭載し對空兵装を有する等巡洋艦としての必須装備はすべて備はつてゐる。
  4. ^ a b 軍事評論家の伊藤正徳は著書『連合艦隊の栄光』において、「サボ島海戦で豪州の大巡キャンベラが沈没したので、英国は軽巡リーンダー号を供出した。リーンダー号はニュージーランドの虎の子の軍艦であった。」と記述している[11]
  5. ^ a b c d 各自治領の海軍▲濠洲海軍[13](略)七月十日英國軍艦アンフィオンは改名して濠洲軍艦パースとなり、濠洲海軍大佐H・B・ファーンコンペ氏が艦長となつた。因みに此の人は濠洲海軍ばかりにゐて此の位置に達した最初の人である。同艦は六月二十五日に英本國を出發して濠洲に向ひ、途次世界博覧會々場たる紐育に立寄り、八月十六日同地出港、シドニーに回航した。(中略)三月に至り巡洋艦アデレードは近代化艤装後、就役したが、油専焼罐に改造された。同艦は十一箇年も豫備艦であつたのである。英國海軍の新西蘭派遣支隊旗艦リアンダー(准司令官J・W・リヴェツト・カルナック)は、四月及び五月に亙る一箇月の巡航に於て濠洲艦隊と行動を共にした。八月には軍艦キャンベラ及シドニー蘭領印度及び新嘉坡を巡航した。(略)英國軍艦アチレスは三箇月に亙り新西蘭派遣支隊に勤務したことのある艦で、一時英國に歸つてゐたが、一月に再び前任務に就くことゝなつた。新艦長としてはW・E・パーリー大佐が任命せられた。同艦は一月二十一日に新西蘭に向つて本國を發し、五月八日にオークランドに到着した。/ 准司令官J・W・リヴェツト・カルナックの旗艦リアンダーは四月及び五月に亙り一箇月間、濠洲艦隊に合して訓練を行つた。(以下略)
  6. ^ 二等巡洋艦 “アンフイオン Amphion[16] 全要目{排水量7,040噸 速力32.5節 備砲 15.5糎砲8門 10糎高角砲4門 魚雷發射管(53糎)8門 起工1933年6月 竣工1936年6月 建造所ポーツマス海軍工廠} これが新時代の英國7,000噸級輕巡の勇姿である。前檣は極端にかたまつて殆ど箱型である。この型がどうやら英國新輕巡の通有タイプになりさうであるが、國によつて夫々違つてゐるのも興深い。尤も艦型よりも實力こそ問題であるが、近代的射撃装置の完備した輕巡15糎砲の齋射は怖るべきもので、仰角また自由自在である。長さ161.5米、幅17.3米、平均吃水4.62米、軸馬力72,000馬力。アポロ Apollo “シドニー Sidney(これは濠洲海軍へ渡された)の姉妹艦がある。
  7. ^ 英連邦の巡洋艦(キャンベラ、ケープタウンシュロップシャーエメラルドホーキンズグラスゴー)など[18]
  8. ^ クラッチレーは歴戦の軍人で、第二次世界大戦開戦時の戦艦ウォースパイト艦長として戦果をあげた[25]。1942年(昭和17年)6月1日付で少将に昇進した[25]。オーストラリア兵は「オールド・ゴート・ウィスカー」(年取った山羊ひげ)と渾名した[26]
  9. ^ ラバウル航空隊の第一波攻撃隊:一式陸攻27、零戦18/陸攻7、零戦2喪失[35]。第二波攻撃隊:九九艦爆 9/撃墜2、行方不明4、不時着3[36]。連合軍は戦闘機11、艦爆1を喪失[37]
  10. ^ オーストラリア海軍の軽巡ホバートは、スコット提督が指揮する東方部隊(軽巡サンフアン、軽巡ホバート、駆逐艦モンセン、駆逐艦ブキャナン)に所属していた[42]
  11. ^ 一式陸攻23、零戦15/陸攻18未帰還、被弾5、零戦1自爆[45]
  12. ^ 駆逐艦ジャービス (USS Jarvis, DD-393) が大破し、輸送船ジョージ・F・エリオット (USS George F. Elliott,AP-13) が被弾炎上して放棄された[47]
  13. ^ 南方部隊には駆逐艦ブルー (USS Blue,DD-387) も所属するが[50]、同艦は駆逐艦ラルフタルボット (USS Ralph Talbot, DD-390) と共にサボ島西側でパトロールをおこなっていた[40]
  14. ^ 三川艦隊[57]:重巡鳥海(第八艦隊旗艦)、重巡青葉(第六戦隊、司令官五藤存知少将)、重巡衣笠、重巡古鷹、重巡加古、軽巡天龍(第十八戦隊、司令官松山光治少将)、軽巡夕張、駆逐艦夕凪[55]
  15. ^ 連合軍側の夜戦被害一覧[58]:沈没(重巡クインシーヴィンセンスアストリア、キャンベラ)、損傷(重巡シカゴ、駆逐艦ラルフタルボット、駆逐艦パターソン)。
  16. ^ 重巡キャンベラ (USS Canberra, CA-70) は、1941年(昭和16年)9月3日起工、1943年(昭和18年)4月19日進水、同年10月14日就役[73]。1944年(昭和19年)10月の台湾沖航空戦で大破、太平洋戦争後はミサイル巡洋艦になった。

脚注

  1. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 85(原本152-153頁)一等巡洋艦カンベラ
  2. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 84(原本150-151頁)一等巡洋艦オーストラリア
  3. ^ a b イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 40a-42コラム(1)英連邦諸国の巡洋艦/■オーストラリア海軍
  4. ^ a b c d e f イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 40c.
  5. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, pp. 91–92異色の条約型重巡
  6. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 34–35(イギリス海軍)ケント級重巡洋艦 カウンティ級第1群/航洋性・居住性が評価された英条約型重巡の第一例
  7. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 81(原本144-145頁)一等巡洋艦ケント
  8. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 105–106コラム(4)仮装巡洋艦
  9. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 39a(沈没寸前のキャンベラ写真と解説)
  10. ^ a b イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 36–37(イギリス海軍)ロンドン級/ドーセットシャー級重巡洋艦 カウンティ級第2群/第3群
  11. ^ 連合艦隊の栄光 1974, pp. 239–241軽巡リーンダー号を大破
  12. ^ a b c d サボ島沖海戦 1988, p. 140.
  13. ^ ブラッセー海軍年鑑 1940, p. 20原本23-25頁
  14. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 40b-42コラム(1)英連邦諸国の巡洋艦/■ニュージーランド海軍
  15. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, pp. 106–108オーストラリア軽巡「パース」
  16. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 86(原本154-155頁)二等巡洋艦アンフイオン
  17. ^ ヒトラーの戦艦 2002, pp. 195–197インド洋の〈シェーア〉
  18. ^ ヒトラーの戦艦 2002, p. 197.
  19. ^ ヒトラーの戦艦 2002, pp. 198–199英巡洋艦の追跡をかわす
  20. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 41.
  21. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, p. 114.
  22. ^ #太平洋戦争p.171 山川出版社
  23. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 39b(炎上するキャンベラ写真と解説)
  24. ^ a b サボ島沖海戦 1988, p. 72.
  25. ^ a b サボ島沖海戦 1988, pp. 86–88.
  26. ^ a b c d バラード、悲劇の海 1994, p. 46.
  27. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 90.
  28. ^ バラード、悲劇の海 1994, p. 26.
  29. ^ a b サボ島沖海戦 1988, pp. 108–112.
  30. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 85.
  31. ^ サボ島沖海戦 1988, pp. 92–94ガダルカナル上陸の日
  32. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 438–439ガダルカナル島及びツラギ上陸
  33. ^ バラード、悲劇の海 1994, p. 27.
  34. ^ バラード、悲劇の海 1994, p. 28.
  35. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, pp. 93–94.
  36. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 94.
  37. ^ a b サボ島沖海戦 1988, p. 95.
  38. ^ a b バラード、悲劇の海 1994, p. 35.
  39. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 96.
  40. ^ a b バラード、悲劇の海 1994, p. 47a(連合軍部隊配置図)
  41. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 97.
  42. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 314付録〈東方部隊〉
  43. ^ サボ島沖海戦 1988, pp. 100–101.
  44. ^ バラード、悲劇の海 1994, p. 42.
  45. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 96.
  46. ^ バラード、悲劇の海 1994, p. 45.
  47. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 102.
  48. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 113.
  49. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 122.
  50. ^ サボ島沖海戦 1988, pp. 312–313サボ島沖海戦における連合軍掩護部隊勢力〈南方部隊〉
  51. ^ サボ島沖海戦 1988, pp. 96–99.
  52. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 133.
  53. ^ 連合艦隊の栄光 1974, pp. 46–48急報にも敵の旗艦は戻らない
  54. ^ バラード、悲劇の海 1994, p. 49.
  55. ^ a b サボ島沖海戦 1988, pp. 12–13サボ島沖海戦図
  56. ^ バラード、悲劇の海 1994, p. 52.
  57. ^ サボ島沖海戦 1988, pp. 311–312付録〈サボ島沖海戦における日本軍勢力〉
  58. ^ a b サボ島沖海戦 1988, p. 306付録〈サボ島沖海戦(1942年8月9日)における日米両軍死傷者数〉
  59. ^ バラード、悲劇の海 1994, p. 50.
  60. ^ a b バラード、悲劇の海 1994, p. 53.
  61. ^ a b サボ島沖海戦 1988, p. 141.
  62. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 139.
  63. ^ 連合艦隊の栄光 1974, pp. 43–45まず大巡二隻を血祭り
  64. ^ a b バラード、悲劇の海 1994, p. 55.
  65. ^ a b サボ島沖海戦 1988, p. 233.
  66. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 234.
  67. ^ バラード、悲劇の海 1994, p. 64.
  68. ^ バラード、悲劇の海 1994, p. 65.
  69. ^ a b c バラード、悲劇の海 1994, p. 66.
  70. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 236.
  71. ^ a b バラード、悲劇の海 1994, p. 67.
  72. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 38(キャンベラ写真解説)
  73. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 63–64(アメリカ海軍)ボルチモア級重巡洋艦
  74. ^ バラード、悲劇の海 1994, p. 74.
  75. ^ バラード、悲劇の海 1994, pp. 80–83(海底のキャンベラ挿絵および解説)
  76. ^ バラード、ガダルカナル 1994, pp. 200–201アイアン・ボトム・サウンドの海底の戦跡

参考文献

  • 伊藤正徳「第一章 サボ島海戦の完勝」『連合艦隊の栄光』角川書店〈角川文庫〉、1974年7月。 
  • 奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学習研究社〈学研M文庫〉、2001年3月(原著1992年)。ISBN 4-05-901045-6 
  • 木俣滋郎『連合軍艦艇撃沈す 日本海軍が沈めた艦船21隻の航跡』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2013年8月。ISBN 978-4-7698-2794-8 
    • (7)イギリス重巡洋艦「エクゼター」/(8)オーストラリア軽巡洋艦「パース」
  • エドウィン・グレイ 著、都島惟男 訳『ヒトラーの戦艦 ドイツ戦艦7隻の栄光と悲劇』光人社〈光人社NF文庫〉、2002年4月。ISBN 4-7698-2341-X 
  • R・F・ニューカム著、田中至訳『サボ島沖海戦 米軍史上最大の敗北』光人社〈光人社NF文庫〉、1998年4月(原著1963年)。ISBN 4-7698-2192-1 
  • ロバート・D・バラード 著、川中覺 監訳『THE LOST SHIPS OF GUADALCANAL ガダルカナル 悲劇の海に眠る艦船』同朋舎出版、1994年1月。ISBN 4-8104-1720-4 
  • 本吉隆(著)、田村紀雄、吉原幹也(図版)「イギリスの巡洋艦」『第二次世界大戦 世界の巡洋艦 完全ガイド』イカロス出版株式会社、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0627-3 
  • 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館

関連項目

外部リンク