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'''齋藤 悠輔'''(さいとう ゆうすけ、[[1892年]]([[明治]]25年)[[5月21日]] -
'''齋藤 悠輔'''(さいとう ゆうすけ、[[1892年]]([[明治]]25年)[[5月21日]] -
[[1981年]]([[昭和]]56年)[[3月26日]])は、[[日本]]の[[最高裁判所判事]]。栄典・称号は、[[正三位]]・[[勲一等]][[瑞宝章]]・[[温海町]][[名誉町民]](後の[[鶴岡市]][[名誉市民]])。[[山形県]][[西田川郡]][[温海町]](後の[[鶴岡市]])出身。三男は元東京高裁判事の齋藤昭、孫は行政書士の齋藤光宏
[[1981年]]([[昭和]]56年)[[3月26日]])は、[[日本]]の[[最高裁判所判事]]。栄典・称号は、[[正三位]]・[[勲一等]][[瑞宝章]]・[[温海町]][[名誉町民]](後の[[鶴岡市]][[名誉市民]])。[[山形県]][[西田川郡]][[温海町]](後の[[鶴岡市]])出身。


== 略歴 ==
== 略歴 ==

2022年5月8日 (日) 07:32時点における版

齋藤 悠輔(さいとう ゆうすけ、1892年明治25年)5月21日 - 1981年昭和56年)3月26日)は、日本最高裁判所判事。栄典・称号は、正三位勲一等瑞宝章温海町名誉町民(後の鶴岡市名誉市民)。山形県西田川郡温海町(後の鶴岡市)出身。

略歴

尊属傷害致死に関する大法廷判決

1950年10月11日に最高裁で言い渡された尊属傷害致死被告事件(昭和25年(あ)第292号)の判決において、刑の加重規定を合憲とした多数意見に反対する真野毅穂積重遠の両裁判官に対し、「民主主義の美名の下にその実得手勝手な我儘を基底として国辱的な曲学阿世の論を展開するもので読むに堪えない」などと攻撃し、その激しい言葉づかいゆえ裁判官訴追委員会の調査が行われたが、1951年7月21日に不訴追となった[1]。後に、第二東京弁護士会広報委員長が真野に「齋藤先生と灰皿を投げ合って論争したというのは本当ですか?」と聞くと、真野は「そんなことはしない。六法全書を投げ合ったんだよ」と答えたという[2]

定年退官後の1973年4月に最高裁大法廷が尊属殺重罰規定について違憲判決を出した際は、「判決の批判はしたくない。けれど、これでは親孝行しなくてもいい、というような風潮に世の中がなるだろうと思う」と述べた[3]

著作物

著書
  • 『刑事実例問題集』(1934年)
訳著書
  • 『刑事事件集』ヤーメス・ゴールドシユミツト:著(1932年)

脚注

  1. ^ 夏樹静子『裁判百年史ものがたり』 文藝春秋、2010年3月、183頁
  2. ^ 第二東京弁護士会/山田勝利 「我が師・真野毅先生」2007年3月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。
  3. ^ 野村二郎「最高裁全裁判官」(三省堂)38頁

出典・参考文献

外部リンク