コンテンツにスキップ

「八田知紀」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
出典・脚注の追加。{{要出典}}{{脚注の不足}}
25行目: 25行目:
| 特記事項 =
| 特記事項 =
}}
}}
'''八田 知紀'''(はった とものり、[[1799年]][[10月13日]]([[寛政]]11年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]])- [[1873年]]([[明治]]6年)[[9月2日]])は、[[幕末]]に活躍した[[国学|国学者]]、[[歌人]]、[[薩摩藩|薩摩]][[藩士]]である。号は桃岡。通称は喜左衛門。幼名は彦太郎。
'''八田 知紀'''(はった とものり、[[1799年]][[10月13日]]([[寛政]]11年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]])- [[1873年]]([[明治]]6年)[[9月2日]]<ref name=":0">{{Cite|和書|ref=harv|title=日本古典文学大辞典第5巻|author=日本古典文学大辞典編集委員会|date=1984-10|publisher=岩波書店|pages=89}}</ref>)は、[[幕末]]に活躍した[[国学|国学者]]、[[歌人]]、[[薩摩藩|薩摩]][[藩士]]である。号は桃岡<ref name=":0" />。通称は喜左衛門<ref name=":0" />。幼名は彦太郎<ref name=":0" />


== 経歴・人物 ==
== 経歴・人物 ==
同じ薩摩藩士であった[[八田知直]]の子として[[薩摩国]][[鹿児島郡]]鹿児島近在[[西田 (鹿児島市)|西田村]](現在の[[鹿児島市]][[常盤 (鹿児島市)|常盤二丁目]])に生まれる<ref>{{cite web|url=http://kagoshima.digital-museum.jp/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=44015&data_id=10000165|title=八田知紀誕生地|publisher=鹿児島市|accessdate=2020-10-11}}</ref>。
同じ薩摩藩士であった[[八田知直]]の子として[[薩摩国]][[鹿児島郡]]鹿児島近在[[西田 (鹿児島市)|西田村]](現在の[[鹿児島市]][[常盤 (鹿児島市)|常盤二丁目]])に生まれる<ref>{{cite web|url=http://kagoshima.digital-museum.jp/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=44015&data_id=10000165|title=八田知紀誕生地|publisher=鹿児島市|accessdate=2020-10-11}}</ref>。1825年(文政8年)京都藩邸勤務を望んで[[上洛]]<ref name=":0" />。翌年から[[香川景樹]]の指導を受け<ref name=":0" />、1830年(天保元年)に山田清安を介して正式に入門<ref name=":0" />。同時期に活躍し、同じ景樹の門人であった[[熊谷直好]]と共に[[桂園派]]の二高弟と称された{{要出典|date=2022-07}}。1845年(弘化)2年、直好と歌論に関する論争を行った<ref name=":0" />。


1863年(文久3年)[[郁姫]]の入輿伴って[[近衛家]]に仕え<ref name=":0" />勤王運動に関わった。[[明治維新]]後、神祇省と文部省を兼務し、1871年(明治4年)宮内省に出仕した<ref name=":0" />。翌年[[歌道御用掛]]を命じられ<ref name=":0" />、宮廷歌人として活躍した<ref name=":0" />。門下に[[高崎正風]]、[[渋谷国安]]、[[原田豊秋]]、[[税所敦子]]、[[黒田清綱]]等がいる<ref name=":0" />
後に[[上洛]]し、京都藩に仕え[[香川景樹]]の門人となり、[[和歌]]及び国学を学ぶ。同時期に活躍し、同じ景樹の門人であった[[熊谷直好]]と共に、[[桂園派]]の二高弟と称され幕末の動乱期の和歌の著作に携わった。

その後、[[郁姫]]のより[[近衛家]]の側用人となり、[[明治維新|維新]]後には[[宮内省]]雇われ、[[歌道御用掛]]に赴任した。門下に[[高崎正風]]、[[渋谷国安]]、[[原田豊秋]]、[[税所敦子]]、[[黒田清綱]]等がいる。


1903年(明治36年)贈[[従五位]]<ref>田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.19</ref>。
1903年(明治36年)贈[[従五位]]<ref>田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.19</ref>。
45行目: 43行目:
* 『千代の古道』
* 『千代の古道』


以上のうち、歌論の二つは師匠の景樹から学んだ説に影響して刊行された。
以上のうち、歌論の二つは師匠の景樹から学んだ説に影響して刊行された{{要出典|date=2022-07}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
52行目: 50行目:


== 出典 ==
== 出典 ==
{{脚注の不足|section=1|date=2022-07}}
* デジタル版 日本人名大辞典+Plus([[講談社]])『[https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E7%94%B0%E7%9F%A5%E7%B4%80-14774 八田知紀]』- [[コトバンク]]
* デジタル版 日本人名大辞典+Plus([[講談社]])『[https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E7%94%B0%E7%9F%A5%E7%B4%80-14774 八田知紀]』- [[コトバンク]]
* 朝日日本歴史人物事典([[朝日新聞出版]])『[https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E7%94%B0%E7%9F%A5%E7%B4%80-14774 八田知紀]』- コトバンク
* 朝日日本歴史人物事典([[朝日新聞出版]])『[https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E7%94%B0%E7%9F%A5%E7%B4%80-14774 八田知紀]』- コトバンク

2022年7月31日 (日) 14:22時点における版

 
八田 知紀
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 寛政11年9月15日1799年10月13日
死没 (1873-09-02) 1873年9月2日(73歳没)
改名 彦太郎→知紀
別名 (号)桃岡、(通称)喜左衛門
墓所 青山墓地東京都港区南青山
官位従五位
主君 島津斉興斉彬忠義
薩摩藩士
氏族 八田氏
父母 父:八田知直
テンプレートを表示

八田 知紀(はった とものり、1799年10月13日寛政11年9月15日)- 1873年明治6年)9月2日[1])は、幕末に活躍した国学者歌人薩摩藩士である。号は桃岡[1]。通称は喜左衛門[1]。幼名は彦太郎[1]

経歴・人物

同じ薩摩藩士であった八田知直の子として薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(現在の鹿児島市常盤二丁目)に生まれる[2]。1825年(文政8年)京都藩邸勤務を望んで上洛[1]。翌年から香川景樹の指導を受け[1]、1830年(天保元年)に山田清安を介して正式に入門[1]。同時期に活躍し、同じ景樹の門人であった熊谷直好と共に桂園派の二高弟と称された[要出典]。1845年(弘化)2年、直好と歌論に関する論争を行った[1]

1863年(文久3年)郁姫の入輿に伴って近衛家に仕え[1]、勤王運動に関わった。明治維新後、神祇省と文部省を兼務し、1871年(明治4年)宮内省に出仕した[1]。翌年歌道御用掛を命じられ[1]、宮廷歌人として活躍した[1]。門下に高崎正風渋谷国安原田豊秋税所敦子黒田清綱等がいる[1]

1903年(明治36年)贈従五位[3]

主な著作物

家集

  • 『志能布久佐(しのぶ草)』
  • 『都島集』

歌論

  • 『しらべの直路』
  • 『千代の古道』

以上のうち、歌論の二つは師匠の景樹から学んだ説に影響して刊行された[要出典]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第5巻』岩波書店、1984年10月、89頁。 
  2. ^ 八田知紀誕生地”. 鹿児島市. 2020年10月11日閲覧。
  3. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.19

出典