コンテンツにスキップ

清水雅広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Sasa21 (会話 | 投稿記録) による 2024年6月28日 (金) 19:41個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (レース戦歴: 83-89)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

清水 雅広
1989年日本GPにて
レースでの経歴
ロードレース世界選手権
活動期間1987年 - 1992年
初レース1987年 250cc 日本GP
最終レース1992年 250cc 南アフリカGP
チームホンダ
出走回数 勝利数 表彰台 PP FL 総ポイント
73 0 9 1 0 497

清水 雅広: Masahiro Shimizu, しみず まさひろ、1964年11月22日 - )は、神奈川県藤沢市出身の元モーターサイクルロードレースライダー。1987年全日本ロードレース選手権250ccクラスチャンピオン1988年から5年間ロードレース世界選手権フル参戦[1]1992年に雅広から雅浩に改名(後に雅広に戻す)。

活動経歴

全日本時代

1982年、高校3年生でレースデビュー。1984年、全日本ロードレース選手権国際B級125ccのチャンピオンを獲得。

1985年、国際A級に昇格し、激戦の250ccクラスにステップアップ(テクニカルスポーツ関東からのエントリー)。プライベーターながら最終戦鈴鹿でA級初優勝を飾る。

1986年、引き続きテクニカルスポーツ関東から250㏄クラスにエントリー。序盤戦はホンダ・RS250に乗っていたが、ホンダワークスの250ccエースであった小林大の調子が振るわなかった事もあり、ホンダは複数のトップクラスプライベーターにワークスマシンNSR250の貸与を開始。清水もその一人に選ばれ、第4戦筑波からNSR250を供給され、3勝をマーク。全日本最終戦日本GP(鈴鹿)では世界GPで4度のチャンピオン経験を持つアントン・マンクと2位を巡り大バトルを繰り広げる。最終ラップに転倒を喫するも、更に評価が高まる。

1987年、ホンダワークスHRCの契約ライダーとなり、チームメイトの小林大とともに青いストライプの味の素TERRAカラー[2]のNSR250を駆る。世界GPデビュー戦となった開幕戦日本GP(鈴鹿)ではポールポジションを獲得。全日本では出場11戦中優勝7回・2位3回[3]と圧倒的な速さをみせ、第10戦で早々とチャンピオンを決定。前年の清水のようにシーズン途中からワークスYZR250を手に入れた3歳年下の本間利彦の挑戦も退けた。チャンピオン決定後は全日本を欠場し、世界GPの南米ラウンド2戦に遠征。最終戦アルゼンチンGPでは予選2位からトップ争いを展開し、3位表彰台に立つ。ベテランの多い250ccクラスの猛者たちに交じり、海外初挑戦ながら堂々とバトルを演じた。

世界GP挑戦

1988年、味の素TERRAのスポンサーを受け、ワークスライダーとして世界GP250ccクラスへフル参戦を開始する。しかし、開幕直前のテストで右手首を骨折し序盤2戦を欠場。しかもその間に清水の代役でアメリカGP(ラグナ・セカ)に出場したジム・フィリスが優勝を果たしてしまうという皮肉な世界へのスタートとなった。復帰2戦目のExpo92GPヘレス)で2位表彰台を獲得、ベルギーGP(スパ)でもトップを猛追するが転倒。速さでは周囲に引けをとらないがリタイア・ノーポイントが続き、それ以降は走りを変える事も含めて世界GPの壁に突き当たる。清水本人はレース誌インタビュー等で「速く走る能力自体はそんなに差を感じないが、速いマシンに的確にセッティングする能力が足りない[要出典]」という主旨のコメントを話していた。

フル参戦2年目の1989年、前年からのスランプがなかなか解消されなかったが、第6戦ドイツGP(ホッケンハイム)で突如トップ争いに加わり3位表彰台。チェコスロバキアGP(ブルノ)でも快走し、終盤トップに浮上するも、初優勝目前の最終ラップ・ゴールライン上でラインハルト・ロスに並ばれ、わずか1/1000秒差で2位となり優勝を逃す。最終戦ブラジルGP(ゴイアニア)でもホンダ勢最上位で2位入賞。4度の表彰台・年間ランキング6位で終える。最終戦後帰国し、SUGOでのTBCビッグロードレースと筑波でのMFJグランプリに参戦。MFJグランプリでは岡田忠之とトップ争いの末敗れ2位。優勝した岡田は全日本チャンピオン獲得となり、GPライダー清水との直接対決で勝った事は岡田にとって大きな自信となるターニングポイントとなった。

1990年は最高位2位。トップ争いに加わるレースは度々あり、表彰台獲得はするものの、勝てそうでなかなか勝てないというのはこの年も変わらず。

1991年、1987年から続いていた味の素TERRAレーシングからの参戦ではなくなり、ホンダワークスカラーのマシンで参戦[4]。ヘルメットのカラーリングも一新する。転倒ノーポイントの多い前年までの反省から、堅実なレース運びをすることが多くなり、安定感が増したと評価される一方で、表彰台に手の届かない地味なレースが多くなった。シーズンランキングがほぼ確定した最終戦マレーシアGPでは久しぶりに攻撃的なライディングを披露したが、3位走行中に転倒し、結果的には表彰台に一度も登らない初めてのシーズンとなってしまった。年間ランキングは自身過去最高を記録。

1992年、ホンダワークスHRCからのエントリーではなくなり、自らのチームを組織しサテライトチームとしてワークスマシンNSR250の貸与を受けるという形のエントリーとなった。走ることだけを考えていればよかったこれまでのシーズンと違い、スポンサー探しから自らの足で行わねばならない状況は、清水にとっては苛酷なものであった。前年上田昇を支援したヒーロースポーツをメインスポンサーとして獲得できたが、資金的には決して楽ではなく、清水はそれまでの貯金をすべてこのシーズンの参戦で使い果たしたと後に語っている。スペアカー(Tカー)がないため、一機しかないエンジンにトラブルが生じ、予選の大半をピットで過ごすことを強いられることもあった。

反面、パーツテスト等ワークスライダーとしての種種の責務から解放されたことで、パドックで見る清水は前年までと比べて明らかにリラックスしていたとも言われている。他のワークスマシンを駆るライダーに比べ、不利な条件での参戦ではあったが健闘し、第4戦スペインGPでは一時トップに立つ活躍を見せた。このレースでは、清水を含む2位争いの集団から終盤に抜け出したピエール・フランチェスコ・キリが、チェッカーフラッグ1周前なのにゴールと勘違いし、ガッツポーズしながらスローダウンしてしまうという珍事があり、清水は3位表彰台を獲得した。しかし、資金難によるパーツ不足もあいまって成績は中盤から下降線を描き、結果的にランキング9位でシーズンを終える。シーズン終了後になっても翌年の参戦計画がなかなか発表されず、レース雑誌には翌年は500ccにステップアップするのでは?という記事が出たりもしたが、結局この1992年が清水のレーサーとしての最後のシーズンとなった。

清水はレースデビューからわずか5年、22歳の若さで国内最速の域に達しながら、その5年後、28歳で静かに表舞台から去った。片山敬済以来の世界チャンピオンを期待していたファンは、世界で1勝することがどれだけ大変な事なのか、という事を思い知る事となった。平忠彦八代俊二・清水ら日本人ワークスライダーが期待に応えられなかった一方、1990年代に入ると世界GPに対する日本人の「距離感」が劇的に変化する時期を迎える。1991年には125ccクラスの上田昇坂田和人若井伸之らプライベーターが世界に飛び出して活躍し始める。1993年には250ccクラスに原田哲也、岡田忠之、青木宣篤がフルエントリーし、原田に至っては開幕戦優勝をふくめて3勝を挙げ、その年の世界チャンピオン獲得まで成し遂げた。

レース戦績

  • 1982年 - レースデビュー。
  • 1983年 - 全日本ロードレース選手権ノービス125ccランキング4位
  • 1984年 - 全日本ロードレース選手権国際B級125ccチャンピオン
  • 1985年 - 全日本ロードレース選手権国際A級250ccランキング4位(ホンダ・RS250R、ゼッケン72)
  • 1986年 - 全日本ロードレース選手権国際A級250ccランキング3位
  • 1987年 - 全日本ロードレース選手権国際A級250ccチャンピオン(AJINOMOTOホンダ TERRAレーシング、ホンダ・NSR250)
ロードレース世界選手権GP250ランキング13位(スポット参戦)
  • 1988年 - ロードレース世界選手権250ccランキング10位(AJINOMOTOホンダ TERRAレーシング、ホンダ・NSR250)
  • 1989年 - ロードレース世界選手権250ccランキング6位(AJINOMOTOホンダ TERRAレーシング、ホンダ・NSR250)
  • 1990年 - ロードレース世界選手権250ccランキング7位(AJINOMOTOホンダ TERRAレーシング、ホンダ・NSR250)
  • 1991年 - ロードレース世界選手権250ccランキング5位(ホンダ・NSR250)
  • 1992年 - ロードレース世界選手権250ccランキング9位(ホンダ・NSR250)

エピソード

  • 海が近い環境だった事から、オートバイに乗る以前はサーフィンに熱中していた。
  • 高校生の時、当時の人気テレビ番組『びっくり日本新記録』(日本テレビ系列)「水上ドラム缶ロデオ」競技に出場し、趣味のサーフィンの技術を活かして優勝したことがある。
  • コーナーを曲がるときに身体と一緒に頭もバンクする独特のハングオフフォームで知られた(平衡感覚を保つため、身体を傾けても頭部は地面と水平にするのが普通)。
  • 筑波サーキットではコースレイアウト特性もあるが、最高峰クラスである500ccマシンよりも速いラップタイムを叩き出す事もあった。S字区間では第1ヘアピンへのアプローチに備えて、身体を起こしながらバイクを寝かす「逆ハングオン」のライディングフォームをとっていた。[要出典]

レース戦歴

全日本ロードレース選手権

チーム マシン 区分 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位 ポイント
1983年 テクニカルスポーツ関東 ホンダ・RS125 ノービス 125cc TSU
SUZ
TSU
2
SUG
SUZ
TSU
2
SUG
4
SUZ
1
4位 50
1984年 ホンダ・RS125 国際B級 125cc TSU
2
SUG
2
SUZ
Ret
TSU
1
SUG
2
SUZ
2
TSU
1
SUG
Ret
SUZ
1
TSU
3
1位 146
1985年 ホンダ・RS250R 国際A級 250cc TSU
11
SUZ
11
TSU
SUG
10
SUZ
TSU
9
SUG
6
TSU
C
SUG
3
SUZ
1
4位 71
1986年 ホンダ・RS250R TSU
C
SUG
Ret
SUZ
Ret
3位 64
ホンダ・NSR250 TSU
1
SUG
1
TSU
Ret
TSU
1
SUG
12
SUZ
Ret
1987年 味の素ホンダ・レーシング ホンダ・NSR250 TSU
1
SUZ
2
TSU
1
SUG
2
SUZ
1
TSU
1
SUG
1
TSU
1
SUG
2
SUZ TSU
1
1位 194
1988年 ホンダ・NSR250 SUZ
2
TSU NIS TSU SUZ TSU SUG SEN SUG SUZ SUG TSU 24位 17
1989年 ホンダ・NSR250 SUZ NIS SUG TSU SUZ SUZ SUG SUZ SEN SUG TSU
2
21位 20
  • 太字はポールポジション。

ロードレース世界選手権

1969年から1987年までのポイントシステム

順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
ポイント 15 12 10 8 6 5 4 3 2 1

1988年から1992年までのポイントシステム

順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
ポイント 20 17 15 13 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1

(key) (太字ポールポジション斜体ファステストラップ

クラス チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 ポイント 順位 勝利数
1987年 250cc ホンダ JPN
4
ESP
-
GER
-
NAT
-
AUT
-
YUG
-
NED
-
FRA
-
GBR
-
SWE
-
CZE
-
RSM
-
POR
-
BRA
9
ARG
3
20 13位 0
1988年 250cc ホンダ JPN
-
USA
-
ESP
5
EXP
2
NAT
4
GER
NC
AUT
6
NED
NC
BEL
NC
YUG
NC
FRA
NC
GBR
9
SWE
NC
CZE
13
BRA
9
68 10位 0
1989年 250cc ホンダ JPN
13
AUS
14
USA
10
ESP
7
NAT
11
GER
3
AUT
10
YUG
-
NED
11
BEL
9
FRA
7
GBR
3
SWE
NC
CZE
2
BRA
2
116 6位 0
1990年 250cc ホンダ JPN
NC
USA
11
ESP
NC
NAT
8
GER
6
AUT
NC
YUG
12
NED
4
BEL
9
FRA
4
GBR
2
SWE
3
CZE
NC
HUN
NC
AUS
8
100 7位 0
1991年 250cc ホンダ JPN
8
AUS
NC
USA
5
ESP
4
ITA
7
GER
5
AUT
6
EUR
6
NED
6
FRA
6
GBR
4
RSM
4
CZE
4
VDM
5
MAL
NC
142 5位 0
1992年 250cc ホンダ JPN
NC
AUS
NC
MAL
8
ESP
3
ITA
8
EUR
NC
GER
5
NED
5
HUN
4
FRA
NC
GBR
9
BRA
13
RSA
11
46 9位 0

脚注

  1. ^ Masahiro Shimizu career statistics at MotoGP.com
  2. ^ 味の素が1983年から販売したアイソトニックドリンク。1987年よりホンダワークスをサポートし、TERRAカラーのレーサーレプリカも発売された。世界GPでは銀色のカラーリング(通称・銀テラ)を使用した。
  3. ^ 勝てなかったのは雨絡みの鈴鹿の2レース(第1戦・第3戦)とヤマハのジョン・コシンスキーがスポット参戦した菅生の2レース(第5戦・第8戦)。
  4. ^ ただし、マシンやスーツには味の素のロゴも見え、スポンサード自体は規模を縮小しつつも継続していた模様。
タイトル
先代
片山信二
全日本選手権250cc チャンピオン
1987
次代
本間利彦