パジリク古墳群
パジリク遺跡ないし、パジリク古墳群(-こふんぐん)とは、ロシア連邦、南シベリアのアルタイ地方中央付近、ボリショイ・ウラガン河岸にある墳墓(クルガン)群。大型円墳5基、小型円墳9基からなり、1929年にM.P.グリャズノフとS.I.ルデンコ、47-49年にS.I.ルデンコによって大型円墳5基を含む8基の墳墓が発掘調査された。大型墳は、墳丘の直径24~47m、高さは2~4mの積石塚でその地下に深さ4~5mで広さ50㎡ほどの長方形の墓壙を掘り、内部に1.2~1.5m、広さ8~18㎡の墓室を造っている。墓室はカラマツ材の丸太を校倉状に組んで二重壁の木槨とし、内部に径1mのカラマツの丸太を刳り貫いた長さ3~5mの木棺と副葬品を納める。木槨の天井の上には、馬具を着けた去勢馬が7~14頭葬られており、大型墳のうち1基から馬車が出土した。さらにそのうえに白樺樹皮、潅木の枝、丸太が敷かれ、土を被せて石が積まれているという構造である。高地で寒冷な気候とクルガンの特別な構造のために、盗掘を受けてはいたものの、造営直後から永久凍結の状態になって、棺内の遺体をはじめ他の条件では腐敗しやすい馬の遺体、あるいはフェルト、織物、皮革、木などの有機物を材料とする遺物も良好に保存されていた。遺物には、土器や金属製品、木、織物、皮革などを材料とする衣服、生活用具、輸送用具、装身具などがみられた。紋様で特に多いのはスキタイ独特の動物意匠の図文で各種植物文も多く見られる。この遺物に見られる文化の担い手については、議論があり、ルデンコ、M.I.アルタモノフは、イラン系のサカ族で、中国史料でいう月氏であるとしているが、江上波夫らは月氏にしては、北方でありすぎるとしてこれを認めていない。実際の被葬者は、東枕で、墳墓中に男女一組の合葬とするのを原則としたこと、男性は170cm以上、女性は150cm以上と長身で、短頭、毛髪は剛直毛ではなくやわらかで栗色やブロンドがあり、人類学の分類でコーカソイド(ヨーロッパ人種)に属すると思われるが、モンゴロイドの混血がある可能性もあると考えられている。遺体は、脳と内臓、筋肉を除去してミイラとして納めている。男子のうち2号墳で発見された1体には、両手と胸背部及び右足に四足獣や怪獣、魚などを表現した黒色の刺青がある。副葬品には、現存最古の西アジア産の精巧な毛織物、中国産の絹織物、西方のスキタイ文化の系譜に連なる動物文様で飾った遺物は、タイガ地帯とステップ地帯との境界付近を連ねた当時の東西交流の盛んな実態を示す貴重な資料となるものが多い。発掘調査担当者は、期元前5世紀と考えたが、紀元前3、同2世紀説もある。放射性炭素年代測定では、紀元前400±140年の測定値が出ている。また墓室用木材を年輪年代法で検証したところ、大形墳5基は、前後48年という短期間に構築されたことが判明している。