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コソボ

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Косово и Метохија
Kosovë

コソボ自治州
公用語 アルバニア語セルビア語
主要都市 プリシュティナ
暫定大統領 ファトゥミル・セイディウ
暫定首相 ハシム・サチ
面積
 – 総計

10,887 km²
人口
 – 総計 (2003年)
 – 人口密度

200~220万人(推定)
185/km² (およそ)
民族
(2003年)
アルバニア人: 88%
セルビア人: 7%
その他: 5%
時間帯 UTC+1
キャリア コソボ航空

コソボ及びメトヒア自治州(セルビア語:Косово и Метохија / Kosovo i Metohijaアルバニア語:Kosovë / Kosova)、通称コソボバルカン半島中部、セルビア共和国の自治州であったが、現在は国連コソボ暫定行政ミッション(United Nations Interim Administration Mission in Kosovo:UNMIK)の暫定統治による管理下にあり、セルビア政府の実効支配はごく限られた一部の地域と一部の出先機関を除いて及んでいない。北東をセルビア、南東をマケドニア共和国、南西をアルバニア、北西をモンテネグロに囲まれている。

歴史

アルバニア人がこの地域に住むようになったのは紀元前1000年頃と言われている。アルバニア人はスラヴ人ではなく、インド・ヨーロッパ語族の中でも独立した語派を形成している。アルバニア人のルーツについては未だ分かっていない事の方が多い。

一方セルビア人がこの地域にやってきたのは7世紀頃と見られている。当時、コソボの地は東ローマ帝国の支配下にあったが、その後10世紀セルビア王国が成立すると、その領域に組み込まれた。セルビア人がこの地域について説明するとき、コソボは中世セルビア王国発祥の地であり、セルビアがオスマン帝国に敗れたコソボの戦い1389年)の場所であることなどからセルビア人にとっては「聖地」と説明される事が多い。このため後のコソボ紛争ではセルビア人は、コソボがセルビア共和国から独立して切り離されるのに反対し、問題を複雑化させる一因となった。

イスラム国家であるオスマン帝国の征服後、コソボに住んでいた正教会信徒のセルビア人は、主に宗教的な理由から、18世紀にかけてヴォイヴォディナ地方へと移住した。代わりに、イスラム教に改宗したアルバニア人が人口希薄なコソボへと移住し、コソボにおけるアルバニア人の比率が高まった。19世紀に入りアルバニア人の民族意識が高揚してくると、1878年にはコソボの都市・プリズレン民族主義者の団体・プリズレン連盟(アルバニア国民連盟)が結成され、民族運動が展開された。20世紀初頭のバルカン戦争の後、1912年アルバニアの独立が宣言されると、その国土にコソボも組み込まれた。しかし、列強が介入した1913年国境画定でコソボはアルバニア国土から削られ、近代セルビア王国に組み込まれる。

第一次世界大戦後のユーゴスラビア王国を経て、第二のユーゴとなるユーゴスラビア連邦共和国が成立すると、コソボ一帯はアルバニア人が多数を占めていたことから、1946年セルビア共和国内の自治区(コソボ・メトヒヤ自治区)とされた。これがコソボとセルビアの行政的な境となって今日に至っている。1950年代になるとコソボ独立運動が展開されるようになり、ユーゴ政府は独立運動を抑えつつ、1964年に民族分権化政策によってコソボ・メトヒヤ自治区をコソボ自治区に改称した。1968年、自治権拡大を求めるアルバニア人の暴動が発生し、1974年のユーゴ連邦の憲法改正により、コソボ自治区はコソボ自治州に昇格し自治権も連邦構成共和国並みに拡大された。しかし、アルバニア人は更なる自治権拡大を目指し、一方でコソボをセルビアの一部と見なすセルビア人の民族主義者は自治権拡大に苛立ちを強めた。この双方の利害対立が、チトー大統領の死後大きく表面化することとなる。

独立運動

端緒

1980年にセルビアから本格的に独立し自治州から「コソボ共和国」への変更を求める運動が勃発。これに反応したセルビアも民族主義派の台頭を招き、これが一連のユーゴスラビア紛争の引き金の一つとなった。1989年にはセルビアが憲法改正でコソボの自治権を大幅に縮小したため、1990年に反発したアルバニア系住民が自治州から共和国への昇格と、セルビア共和国からの分離を宣言した。これに対してセルビアは自治州政府と議会を解散させて対応したが、翌1991年コソボ自治州内のアルバニア人が住民投票を実施し、99%の圧倒的支持を得てユーゴスラビアからの独立を宣言した。ただし独立したコソボを国際的に承認したのはコソボと同じアルバニア人の国であるアルバニアのみであった。更に翌1992年には大統領選挙を実施してイブラヒム・ルゴバが大統領に着任した。一方でセルビア(新ユーゴ連邦)は当時、クロアチア紛争ボスニア紛争の最中でコソボまで対応する余裕が無く、対してコソボはルゴバが非暴力による独立運動を提唱したため、暴力的な民族紛争にまでは発展しなかった。

紛争

コソボの独立を阻止したいセルビアはクロアチア、ボスニアでの紛争の結果大量に発生したセルビア人難民の居住地としてコソボを指定した。この結果コソボの民族バランスは大きくセルビア側に崩れる事になった。これに対してルゴバの非暴力主義に対し懐疑的な意見が出されるようになり、デイトン合意によってクロアチア、ボスニア紛争が一旦落ち着いた後の90年代後半に入ると実力を持ってセルビアから独立する事を主張するコソボ解放軍(UÇK、英語名KLA)が台頭するようになった。一方隣国のアルバニアでは1997年に全国的な規模で拡大したネズミ講が破綻して社会的な混乱に陥った。このような情勢でコソボ解放軍は混乱したアルバニアに自由に出入りし、セルビア側の追っ手を撒き、戻ってくるときにはアルバニアで流失した武器やアルバニアでリクルートした兵士を連れて帰ってくることが出来た。このため翌1998年になるとセルビアとしてもコソボのゲリラ活動に対して対応をせざるを得なくなってきた。セルビアは大規模なゲリラ掃討作戦を展開しセルビア警察特殊部隊によるコソボ解放軍幹部を暗殺するなどコソボ全土に渡って武力衝突が拡大する事になった。これがコソボ紛争の始まりである。

この過程で再びセルビア側の「非人道的行為」がクローズアップされる事になり、国連EUがセルビアとコソボの間に立って調停活動を行う事になった。1999年3月からNATOが国際世論に押されてセルビアに対する大規模な空爆を実施するに至った。この空爆は約3ヶ月続き、国際社会からの圧力に対抗しきれなくなったセルビアはコソボからの撤退を開始、翌年までに全ての連邦軍を撤退させた。これによってコソボはセルビア政府からの実効支配から完全に脱することになった。代わって国連の暫定統治機構である国連コソボ暫定行政ミッション(United Nations Interim Administration Mission in Kosovo:UNMIK)の管理下に置かれる事になった。

ただし、UNMIKの管理下にありながらも、空爆後のコソボでは非アルバニア人の人権が守られているとは言えない。

地位問題

91年に行われたコソボの独立宣言を国際的に承認した国は隣国のアルバニアしか存在しない。このためコソボの独立は国際的に承認を得たものとは認識されず、あくまでも「セルビアの自治州」であるというのが国際的な建前になっている。一方で99年のコソボ紛争以降コソボがセルビアの実効支配から完全に脱しているのも事実である。従ってコソボは「独立国ではないもの、他の国の支配下にあるものでもない」という非常に微妙な地位に留め置かれている。現状で微妙な地位に置かれているコソボを将来的にどのような地位に置くか。という議論がコソボの地位に関する問題である。

詳細はコソボ地位問題を参照。

地理

政治

国連安保理決議1244により国連コソボ暫定行政ミッション(United Nations Interim Administration Mission in Kosovo:UNMIK)の暫定統治下にあり、出入国管理、国境警備も当初はUNMIKが行っていた。UNMIKの下にコソボ住民による暫定自治諸機構(Provisional Institutions of Self Gouvernment:PISG)が2001年から置かれている。

民族構成

元々コソボのアルバニア人の比率は高かったが、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終了後セルビアがコソボの分離運動を抑えるために、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争難民となったセルビア人をコソボに入植させた。これによって一時的にコソボ内のセルビア人の割合は高くなったが、逆にアルバニア人の反感を招き、本格的な紛争に発展した。結局コソボ紛争によりコソボ内のセルビア人は、約20万人がコソボ外に国内避難民として退去、紛争終了後も治安問題、就職困難などの理由で難民帰還はほとんど進んでいない。現在、セルビア人はミトロヴィツァ市北側をはじめコソボの北部に多く住んでいる他、中・南部にもセルビア人が住む居住地が飛び地状に点在している。

関連項目

外部リンク